イメージ 1
(No322-1の続きです)
(写真は「前進」より転載:1969.4.28沖縄闘争)

<69年3月 京大闘争支援>
今度は3月に京大で始まった。
私は中核派の部隊の一員として夜10時頃東京を出て、京都まで夜行列車で行った。朝6時頃、京都に着いて京大闘争の支援で、学内封鎖の後、街頭闘争で官憲と激しくやりあった。翌日戻ってきた。

(参考)【毎日新聞 1969.3.2】
『<機動隊、京大構内に出動 あすの入試に備え先制 全共闘系学生と衝突>
この日京大周辺に集まった反日共系学生は京大生400人、京都府下の他の大学生、府高連の高校生500人、このほか府外からの外人部隊500人の計1,400人(京都府警調べ)。外人部隊の内訳は東大、日大、明大の3大学の180人をはじめ、中大27人、東海大20人、九州大7人、北大7人など。
このうち1,000人は午後二時前行動を起こし、校内をジグザグデモ、一部学生が時計台前で「入試粉砕総決起集会」を開いた。この間応援の外人部隊はゲバ棒、鉄パイプをふりかざして荒れ狂い、正門など3つの門を占拠、出入り口封鎖戦術をとった。(中略)
<東一条に“解放区”>
午後9時45分、学生たちはデモに移り、構内を行進した後、北門から百万遍交差点へ出て東大路通りを南下した。しかし、東一条交差点で機動隊が蹴散らしにかかったため、再び激しく投石、見物の群衆も含め約2,000人で東大路通りはいっぱいになった。デモ隊は投石を続けながら機動隊を追いかけ、巻き込まれた見物の市民数人がけがをした。(中略)11時過ぎには全共闘学生らはさらに百万遍から南約50メートルの地点にもバリケードをつくりはじめた。東一条から同バリケードまでの間、約300メートルの東大路は“解放区”となった。(後略)』

<69.4.28沖縄闘争>
4月は4・28沖縄闘争に参加した。
この時に我々は新橋に行って、首相官邸になだれ込もうとしたんです。虎の門の首相官邸の近くの高架道に上って、それから降りた記憶があるんです。機動隊に追われて、7~8メートルの高いところから飛び降りた記憶があるんです。道路上に落ちて、そこから逃げたんです。銀座でやっていて、あそこまで行っているんです。

(参考)【朝日新聞 1969.4.29】
『<「沖縄デー」東京中心に荒れる 新幹線や国電がマヒ 学生・警官 新橋―銀座で衝突>
(前略)前夜から都内10大学に泊まっていた反代々木系学生は、学内で集会やデモを続けたのち、午後3時半ごろから一斉に行動を開始した。
午後4時ごろ、まず赤ヘルメットの学生約200人が世田谷区代沢の佐藤総理私邸に押し掛け、催涙性の粉末が入ったビンを邸内に投げ込んだ。首相は鎌倉から帰ってきた直後で、私邸を護衛していた北沢署の警官約100人がガス弾を発射して規制、機動隊約300人がかけつけ学生を追い払った。
また国電御茶ノ水駅付近の明大、中大などの集まっていた学生は、午後3時半ごろから道路にバリケードを築いて「解放区」を作ろうとはかり、警官隊と衝突、東京医科歯科大病院にたてこもっていた学生数百人も、デモを組んで都心方面に向かおうとし、警官隊とぶつかった。警官隊はガス弾で規制し、同地区の交通は一時完全にマヒした。この衝突で学生数十人が逮捕された。
また、これより前、国電品川駅にも反代々木系学生約150人が押しかけ、京浜東北線が一時ストップ。国電新橋駅にも4時ごろ学生が集まり、警官隊とぶつかった。
世田谷署上馬交番や神田署神保町交番にも学生が押しかけ、交番をこわすなどの騒ぎが続いた。
新橋駅に集まった学生たちは、駅構内で新幹線の架線をこわそうとするなど、不穏な動きを続け、さらに同駅から霞が関方面に突っ込むおそれが強まったため、警視庁が午後6時
15分に規制を開始した。新橋、有楽町の両方面から線路上に追い詰め学生を多数逮捕したが、学生は火炎ビンや投石で抵抗した。さらに東京交通会館前など数か所に看板や道路標識でバリケードを築き、鍛冶橋交番や駐車中の乗用車2台に放火するなど、東京駅から有楽町一帯は深夜まで騒然とした空気だった。
また、渋谷駅でも学生が警察のジープをこわす事件があり、夜10時すぎにも代々木公園の大会に参加し、恵比寿までのデモに加わった反戦青年委の青年約千人が、デモの解散後、渋谷に引返して、渋谷署中通交番に投石する騒ぎがあった。』

(No322-3に続く)