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(No328-2の続きです)

ぼくはこの愛旗を会場入り口付近で掲げるがほとんどの労働者は赤一色のためその文字には気付かない。が、一人二人と気がつき始めると「なんだ女湯とは?あーあれは浴場組合の旗だ」と・・・。
なるほど、自分たちの組織に直結させようということなのである。
しかし、歩いているうちに、組織形態によって「バカヤロー、イヤガラセだ!」とか「ナンセンス!」とか罵声が飛んでくる。まさに「ナンセンス」の一言をやっているのだから一人ホクソ笑むのだが・・。
中にはドット笑う労組もある。組織の人間は当然、敵か味方かを識別しなくてはならない。が、これは敵か味方かと判断にまよう。赤旗という味方の色に「女湯」という文字の解釈をどうするかである。
先ほど「浴場組合の旗」と言った労組はトンチがきく。しかし深く考えれば浴場組合は「労組」ではない。経営者の連合である。しかしメーデーが「闘争」から「祭典」へと変貌していく以上、この一本の奇妙な赤旗がパロディにもなり得ないで同化していく方が恐ろしい。
「女湯」の文字は別にわいせつな意味にはとられないだろう。銭湯に行く人にとってはごく日常的な文字である。しかし、一つのイデオロギーによる集団において、この日常的文字の「表現」は何を意味できるだろうか。ひとつの「表現の自由」が「統一と団結」を乱す行為ととられるのか、多様化した表現の一つとして受け入れられるのか、銭湯の「男湯」につかりながら、しばし考えこむのである。』

秋山祐徳太子は1960年代の前衛芸術運動の渦中にいた方である。60年代の前衛芸術運動の「すさまじさ」を伝える文章も掲載されているので見てみよう。

【ビタミン・アート ウンチング・ハプニング 「魔弾の射手」】(引用)
『上野の本牧亭といえば、講談、落語など芸人さんにとっては神聖な場所、いわば聖域である。ここで大儀式大会をやるという。ゼロ次元、告陰、ビタミン・アートなどが会場で行うというものである。ぼくはワクワクしながら見にいった。このころはまだぼくもこのグループとの交流はなかった。
儀式はまさに狂喜乱舞である。ゼロ次元の加藤好弘氏などは自分の幼い男の子を背負い、チンドン屋の伴奏よろしく猛り狂っている。もちろん全裸である。モヒカン刈りをした幼い男の子が上下に激しくゆれる。泣き出すかと思ったら、むしろ一緒に調子を合わせるように動いている。さすがに親子である。加藤氏のオ○○チンの真黒な陰毛と幼な子のモヒカン刈りとの調和がすごくエロチックに見える。このままでいけば親子の断絶はありえないだろう。
「ビタミン・アート」は別に製薬会社の美術愛好会ではない。小山哲生氏が考えた芸術行為である。(中略)この小山氏、少しでもビタミンがみとめられるものならばなんでも食べてしまう。TVなどで、犬の首輪を自分の首に巻いて地にはいずりながらニンジンとかキャベツとかをパクパク食べてしまったり、女性の股の間からたれ下がるウインナー・ソーセージをかじったりしてみせるのだが、あまりグロテスクなので抗議の電話が殺到したというからものすごい。
その小山哲生氏、例のとおりバケツにリンゴを持って登場したので、リンゴでもかじるのだろうと思っていたら、突然お尻をまくるとバケツの中にウンチをし始めた。その臭いとともに、黄色い端整な物体はこの日のために蓄積されていたらしく見事に排泄されていく。
野糞をするのさえあたりを気にするあまり、なかなか脱糞できないときもあるくらいなのに、人前でこれだけ出せるというのは並たいていの神経ではない。場内はア然としている。
ひょっとすると彼は我々にビタミン(肥やし)を与えていたのかもしれない。臭いはすみずみまで行きわたって、女の子などは鼻にハンカチを当てている。それでも外に逃げ出すものはいない。儀式に対して儀礼ということだろう。しかし、視覚から臭覚まで刺激するとは大したのもである。と・・、次の瞬間、手にしたリンゴにそのウンチをなすりつけると場内に投げこんだ。一気に張りつめた静寂をうち破り、場内は大混乱、リンゴが次から次へと魔弾なく放りこまれると、観客は脱兎のごとく逃げ惑う。魔弾の射手は勝ちほこったように冷静に行為を進行させていく。(後略)』

この「通俗的芸術論」(写真)には、この他にもいろいろなエピソードがちりばめられている。「面白い!」の一言に尽きる本である。ネットの古本サイトでも手に入るので、興味のある方はお買い求めいただきたい。