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(No331-2の続きです)
(写真は1978年のボブディラン来日公演のパンフレットより)

10 牛 次郎・37(劇画家)(代表作「包丁人味平」「釘師サブヤン」)

「終わっちゃう時、どんな終わり方をするのかというのがすごく興味あるね。例えば、ビートルズがああいう解散の仕方したでしょ、プレスリーが死んだとか、ジェームス・ディーンは一番カッコイイ死に方をしたけど、ボブ・ディランはどうやって終わってくれるのか、終わりに興味があるね。
3つ終わりを見てきたから、4つ目の終わりやっぱり見たいね。」

11 立木義浩・40(写真家)

「早い時間にボーンと山を散歩なさった方だから、何かやぱり傲慢なところが当然出てくる訳でしょ。傲慢な部分というのは、写真屋さんというか、映像の分野の人が一番興味を持つ、小説も同じだろうけども、欠陥人間の方がむしろ興味を我々としてはいだく訳じゃないですか。写真というのは、たった1枚の写真でベトナムの戦争が終わったりとか、それから筑豊の子どもたちが幸せになったりとかそういうことはない訳ですよ。たかだか写真じゃないかというところから出発しないと、写真が面白くならないからね。」

12 つかこうへい・29(劇作家)

「嫌いでもないけどね。喫茶店のコーヒー飲んでいる時の音楽だったらいいけどね。それ以上にシャシャリ出られるとさ、オイオイちょっとちょっと、という感じになるけどね。芝居はさ、どこか戦争に賛成しましょうじゃなけりゃ芝居になんない訳だからね。
でもいいよな、戦争反対って言っててさ、金儲けできるんだからな。羨ましいよ、俺は。」

13 加藤哲郎・36(プレイボーイ編集デスク)

村上「結構、僕自身、ディランを知れば知るほど、どんどん醒めて行く部分がある訳。それはディランに関してでなくても、何かに醒めていくんだよね。」

加藤「そうね。割とこう醒める時期でしょ。ディランも醒めている、ディランがもう今はラブを歌ったり、平和、ピースだとか小市民的な歌をものすごく歌っている訳じゃない。
カーター大統領が選挙のコピーに使うぐらいの受け入れられ方というのは、キャパが違う訳でね・・・」

14 女性

「今度離婚するんでしょ?女の人一人を幸せにできなくて、世界が変わるとか、時代が変わるとか、言う資格があるのかな・・・」

「激しい雨が降る」が流れる
<字幕>
世代がディランを作り ディランが世代を作った(ニューヨーク・タイムス)
コトバという武器でわたしは抵抗し すばやくツバをはく(ボブ・ディラン1963)
愛しかない それが世界を動かしている(ボブ・ディラン1968)
私の友人“ディラン”を聴くと時代がどう動いているかよくわかる(カーター大統領)

15 高石ともや・37(フォークシンガー)(最もボブディランの影響をうけた歌手の一人。60年代後半「受験生ブルース」など数々のメッセージ・ソングを発表し、フォーク運動のリーダーとして活躍。現在、福井県納田庄村の廃校に住み、農作業のかたわらフォーク活動を続けている。)

高石「去年の7月から住んでいるんだけど、十字で仕切ってね、広すぎるから、ここが理科室なんですよ。理科室跡は水が出てくるんです。昔、災害の後って、水害の後とか、みじめなイメージがあった訳、よそうかなと思ったけど、やってみたらそれほどでもなくて。
要するにジョン・バエズとボブ・ディランと僕と、同じ歳だという意識があるんですよ。リサイタルを半年後にやる時にそれを考えたんですね。ジョン・バエズだったら俺だったら銭を払うと思う、五百円なら五百円。ボブ・ディランでも払うと思う。まだ出たばっかりの高石ともやに、皆が何を期待してお金を払うだろうかと思う訳。というのは、ボブ・ディランが、僕が25歳で始めるまでにやったことという、そのハンディキャップはあるからね。そのハンディキャップをずっとやってきた。ボブ・ディランが自分で自分の歌を唄う前にブルースやったり、オールドタイムやったり、いろんな人を訪ねたり、その育みが日本というか、僕らのフォークになかった。その状況が日本にないのがものすごく寂しくてね。で、60年代の終わりからここに来たというのは、それをやりたくて、結局資料調査で、ここだったら食いつなげるでしょ、長いこと。」

村上「今日、新幹線で京都で降りましてね、高石さんのところに行くって言ってハイヤーに乗ったんです。なかなか着かないんです。運転手の人が猪が出るとか・・。高石ともやという人はこんな山の中で何をするつもりなんだろう、大人がギター1本で何かするというのはどういうことなんだろう、それを絶対聴いてやろうと思って来たんですよ、ここに。馬鹿だから、あいつ(高石ともやの息子)とキャッチボールしていると何か染まっちゃうんですよ、空気に。」

高石「ハッハッハッ」

(No331-4に続く)