このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)を紹介しているが、この日誌の中では、差入れされた本への感想(書評)も「読んだ本」というコーナーに掲載されている。
このコーナーは、「日誌」の中の読んだ本への記述をオリーブの樹編集室が抜萃したものである。今回は、「オリーブの樹」123号に掲載された中から2冊の本の感想(書評)を紹介する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

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【原発は滅びゆく恐竜である】
『原発は滅びゆく恐竜である』(水戸巌著 緑風出版)を読み終えたところです。
こんなに深く胸に残る本は稀です。本のタイトルは、原子核物理学者であり、まだ原子力発電が素晴らしいと言われていた初期から原子力発電の危機を訴えて来た著者の言葉から付けられたものです。この本は、涙なしには読めません。水戸巌という著者がどんな人だったのか、その人柄が語られる度に、涙があふれてしまいます。
「はじめに」は、小出裕章さんの文です。まず、本の構成を目次から示すと、「反原発入門」という第1章では、原子力発電はどうしてだめなのか? 17の質問に答えるスタイルで、原発の基本的問題を説明し、第2章では、「スリーマイル島とチェルノブイリの原発事故から何を学ぶか」を語り、日本の原発が同じ危険にあること、「3・11フクシマ」を明確に予測しています。1979年から1986年にも! 第3章は「原子力―その闘いのための論理―」で、危険性を解明し、「原子力発電は永久の負債だ」「原発は原水爆時代と工業文明礼讃時代の終末を飾る恐竜である」と喝破し、「う~んと唸りたくなるほど、水戸さんらしく、また原子力の本質を余すところなく捉えた表現だと思う」と小出裕章さん。第4章は「東海原発裁判講演記録」と各章編まれています。「あとがき」は、後藤政志さんで、70年代80年代に構築した水戸巌さんの論理がいかに「フクシマ」の危険に言及していたのか、その論理の鋭さ、正しさを原子炉設計にかかわった者として、自分も含めて、科学技術的に解説しています。
 この本は原発に対する明快な圧倒的な論理を学習できるばかりではありません。その後に、「水戸巌に捧ぐ」とさまざまの方の惜別の追悼文、そして最後に「発刊に寄せて――水戸巌と息子たち」夫人の水戸喜世子さんが「特別寄稿」しています。この本は一個人がこれほど誠実に生き、闘い続けたのか、そして突然の息子二人(二人とも父のように生きようと京大、阪大で物理学などを研究する学生だった)と共に、剣岳で消息を絶った水戸さんの人柄がくっきりと浮かび上がってくる本なのです。この本の著者に対する他の人々の深い思いが胸を衝き、この本を深いものにしています。そういう意味では、この本は、「はじめに」の小出さんの文、そして水戸喜世子さんの「特別寄稿」をまず読んでから、じっくりと原発に関する内容に触れ、学習するのがよいと思います。
「はじめに」で小出さんは、当時、東大原子核研究所の助教授だった水戸さんについて、出会いをこんな風に記しています。
「私自身は、1970年秋から東北電力女川原子力発電所に対する反対運動に参加していた。女川でぼろぼろの長屋を借りて、ビラを書き、海沿いに連なる小さな集落を回って、ビラを配って歩いた。(中略。そんな中で、女川から原子力発電所まで、淡水を送る工事が行われるようになり、座り込んで数名の仲間が逮捕された。)自分たちの行為が正当なものであることを示そうと『略式起訴』を拒否し、原子力発電の是非を問うための正式な裁判を受けることにした。国を相手の裁判に協力してくれる学者、専門家はほとんど居なかったが、水戸さんは快くその裁判の証人になってくれた。小さな田舎の集落で開かれる小さな集会にも来てくれ、住民たちに原子力発電の危険性を話してくれた。東北大学で開いた学生相手の講演会にも来てくれた。それも貧乏学生だった差し出すほんのわずかの謝礼も受け取らない人だった。」
「私に原子力のことを教えてくれた人はたくさんいる。……しかし、私が恩師と呼ぶ人は片手で数えるほどしかいない。その一人が水戸さんである」と記されている。
追悼の文や小出さんの文も「水戸さんを慕う何よりの理由は、水戸さんが誰よりも優しい人だったからである」。権力には決して屈しない一方、「社会的に弱い立場の人たちに徹底的に優しかった」と述べています。
その水戸さんがチェルノブイリ事故の86年の暮れに剣岳で消息を絶った様子は、夫人の喜世子さんの淡々と記された文をぜひ読んでほしいです。水戸さんに対する脅迫の電話が頻発する中で、安全な子育てのために、東京と大阪に離れて暮らさざるを得なかったご家族。巌さんと同じような人柄の喜世子さんは、3人の不明の捜索によって他の友人たちや人々が二次、三次災害を起こすことがないかと気遣いなから死を確認していった様子は、涙涙で読みました。なんとすばらしい愛情で結ばれたご家族だったのだろう。反原発の人々の多くが体験しているように、脅かしに抗して父の信念と共に生きた息子、妻たち。死の現場もなんだか不可解もあったのですね。87年にアラブで水戸さん遭難を知った時、「謀殺されたのでは?!」と訊ねたほどです。私のまわりには「謀略」や「暗殺」がうごめいている地下戦争の地で、水戸さんの死をなんだか一つにつなげて考えてしまったためです。どれほど当時の時代の要の人だったか、知る人ぞ知る人でしたから。
私の知る水戸さんは60年代の反戦反体制運動に対する厳しい弾圧、逮捕、拘留に対して救援の手を差し伸べ、ご夫妻で「救援連絡センター」を創設した水戸さんです。あの頃大量逮捕と拘留も2泊3泊から23日拘留に変わり始めた時です。警察に留置された学生たちの歯ブラシやタオルの差し入れ、弁護士の接見派遣と「救援連絡センター」が活動し始めたのは巌さんと事務局として身を粉にして闘った喜世子さんの努力からです。私も69年秋、初めて逮捕され、「救援連絡センター」の恩恵を受けた一人です。また、当時の党派の「内ゲバ」で救援ができなくなるのを憂慮し、反弾圧で権力に対して闘う者を差別しない原則を築いたのも水戸夫妻です。また、リッダ闘争支援岡本公三さんの軍事法廷で一人裁かれる岡本さんに対して、庄司弁護士は駆けつけてくださったのに、イスラエルは入国を拒否し、飛行機から降りることも許しませんでした。この時のことを後に庄司先生から聞き、水戸さんらの不屈の尽力に驚き感謝したものです。この本には、そうした水戸さんの「反弾圧戦線」での闘いには触れていませんが、是非「水戸巌さんの生き方」として喜世子さんに「特別寄稿」に記された内容をさらに一冊上枠してほしいと思います。
本の装丁がまたすばらしいです。喜世子さんを父、兄弟の死後、生き支えてきた娘さんの装丁でしょうか。(4月6日)』


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【戦後左翼たちの誕生と衰退・10人からの聞き取り】
『戦後左翼たちの誕生と衰退・10人からの聞き取り』(川上徹著・同時代社)を読みました。
著者は1940年生まれ。60年に日本共産党に入党。64年から66年まで全学連(民青系)委員長。その後90年に共産党を離党した人です。この著者が委員長の時代、私たちは明大二部学苑会の高橋事務局(民青系)から、学費闘争をめぐって学苑会を66年に私たちの側に( 新左翼系に)変えたのを思いつつ読みました。
帯に「戦後新・旧左翼にフロント、解放派、第4インター、ブント赤軍派、中核派、社会主義協会、共産党など、かつては所属し、あるいは現在も所属している10人。彼らはそれぞれの道を歩んできた。自らを振り返りつつ衰えの時代を共に考えた」と記されています。今の「危ない時代」の始まりを予感し、「多くの人が一種の喪失感を味わっている時期、10人への聞き取りを行っていった」著者。「ほぼ完全に左翼と名のつくものは日本現代史の舞台から消え、衰勢に歯止めがきかなくなったのには根拠があり、それが何なのか? 権力によって打倒されたのか、それとも左翼自身が抱える内的要因によってなのか。とにかく私が左翼(日本共産党)であったころ、対立しあっていた人々が衰勢の中で今何を考えているのか、感情でも反省でもいい、語れる範囲で聞いておきたいと考えた。」
もう一つの主眼として、一人ひとりの左翼の「誕生」、つまり「なぜその道を選んだのか」、「損得」ぬきのファイティングポーズをとったのか、その飛躍の実相を記録したい。それは時代の息吹が刻印されているはずだという問題意識です。かつての「日共」の著者が、違った党派の人と向き合い、誠実に時代と一人ひとりの若者の姿を描こうとしているものです。
登場する人々は本名で当時の自分を率直に語っていて、同時代を生きた私には多く身につまされ、また共感し、立ち止まって考えるところがありました。ことに「何故その道を選んだのか?」どの人も、友人や家族、環境の変化や出会いの中できっかけができ、正義や良心の命ずるままにふみだしていきます。敵権力に対する革命の実現の希望と共に、義理や人情、葛藤、様々な思いに駆られまた飲み込んで生きてきたのだな……。読みやすく心に届くのは、ここに登場する方々が、かつての“党”を背負わずに、“個人”として自らの革命参加の関わりを述べておられるからです。実に素朴で志に燃えた初心が、どの人からも伝わります。それが当時の時代の中で良心にかられた多くの若者たち(私も)共通のものであることに気付きます。こうした個々の謙虚な心情を大切にしていたら党派の傲慢な過ちも少なかっただろうなあ……。衰亡の根拠は、党の「無謬性」に価値を置いて、「無謬性」「唯一性」を争い、現実を変える力を社会から学びえなかったからだと思います。個々の良心は、党の「無謬性」や「指導」の観念に収奪されてしまったのでしょうか。
10人の聞き取りの一人である水谷さんを例に触れておきたいです。私と同年の水谷さんの父は、敗戦の8月、皇居前で同志12人と共に自決したとのことです。「母が身重の時に死んだわけです。子供が生まれることを知りながらなぜ? というのがぼくの長い間の疑問でした。」母親は、自らを戦争の犠牲者として納得できない怒りを秘めて、母一人子一人の戦後の出発を強いられたのです。母親は小学校の教師となり、日教組の組合員でもあった中で水谷さんを育てたと、自分史を語っています。早稲田大学雄弁会で左翼に初めて会い、その傲慢さに驚き、しかしあらゆる権威に対する批判精神を見た気がして、これまで自分を育てた文化を卒業したとのこと。さらに革マル非革マルの対立にカルチャーショック。中核派を選び取っていく中で、早大学費闘争を闘い無期停学に。「なぜ中核だったのかと問われれば、そこに中核派があったからとしか言いようがない。」そして、水谷さんは79年から革協同政治局員として活動し、2006年に離党。著者は、「中核派を辞めるに至った事情経緯やその過程で、水谷自身が味わった苦渋なども正直に語ってくれた」と記しているが、それらはこの本には記録されていない。
 インタビューを受けたお連れ合いのけい子さんの切実な問題意識も読みごたえがありましたが、やはり紙面の足りなさでしょうか、もっと知りたい。「ぼくが指導部にいて多くの党員や関係者にかけた恥多き誤りや迷惑について、きちんと自己批判し謝罪しなければならないと思っています」と水谷さんは語っています。水谷さん、水谷さんの生きてきた歴史を率直に語り記録することは、きっと多くの旧友や未知の方々に教訓を伝えることになると思います。
友人小嵐さんをインタビュアーに、出生の時からの物語を一冊にしたためてほしいと思っています。
(4月19日)』


【お知らせ  映画「革命の子どもたち」7月5日より上映中!】
2010年に作成され、アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭などで上映されてきた映画「革命の子どもたち」が7月5日(土)よりテアトル新宿で上映されています。

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<朝日新聞記事 2014.7.4 朝刊>
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詳細は以下のサイトでご覧ください。
重信メイさんのトークショーも開催されます。

革命の子どもたち公式サイト

<映画パンフレットより>
「1968年、学生たちによる革命運動のうねりのなか女性革命家として名を馳せた重信房子とウルリケ・マインホフ。
ベトナム戦争で行なわれた虐殺に戦慄した彼女たちは、世界革命による資本主義勢力の打倒を目指し、それぞれ日本赤軍とドイツ赤軍を率いて活動した。
本作はふたりの娘である作家兼ジャーナリストの重信メイとベティーナ・ロールが、母親である房子とウルリケの人生をたどり、現代史において、最も悪名高きテロリストと呼ばれた彼女たちの生き様を独自の視点から探ってゆく。
母親たちが身を隠すなか、ある時はともに逃走し、誘拐されるなど、メイとベティーナは過酷な幼年期を過ごし、壮絶な人生を生きてきた。
再び民主主義の危機が叫ばれるなか、彼女たちは自身の母親たちが目指した革命に向き合う。 彼女たちは何のために戦い、我々は彼女たちから何を学んだのか?

若松孝二監督が公開を熱望した、 
最後の遺言とも言えるドキュメンタリーが遂に公開! 
これまで非公開であった革命軍のキャンプ風景が初めて明かされる!
東京、ベイルート、ヨルダン、ドイツにて撮影された本作は、1968年当時の貴重なニュース映像や、二人に接した人たちのコメントを交え、テロリストと呼ばれた母親の素顔とその娘たちの生き方を重層的に、そして現代が失った変革を恐れぬ勇気を象徴的に描き出した。
監督はアイルランドの気鋭ドキュメンタリスト、シェーン・オサリバンが務め、ヨーロッパ各地でセンセーションを巻き起こした。
国籍や名前を変えて生きなければならなかった房子の娘であるメイは、その苦悩と母への想いを涙ながらにカメラに向って語る。
革命家であり母親でもある彼女たちの生き方、また革命家の娘として生きた子どもたちの人生は、“幸福な社会”とは何かを、私たちに激しく問いかけてくるであろう。」