今回は「朝日ジャーナルで読む1970年代」シリーズの2回目。
朝日ジャーナル1973年6月29日号に掲載された、日大全共闘書記長だった田村正敏氏の記事である。

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【朝日ジャーナル1973年6月29日号】
にんげん(最終回) 「全共闘運動」を問い直そうとする 田村正敏さん

『アパートの自室の本棚。マルクス、レーニン、毛沢東などの著書のわきに「大西郷全集」全三巻がならんでいた。さらに、吉田松陰、高杉晋作、坂本竜馬など明治維新の志士たちの伝記。「やはり西郷隆盛に一番強くひかれますね。彼は大衆の持つエネルギーを非常によく知っていたと思いますよ。闘争をやっていたころは毛沢東に強くひかれていたんですけどね」。運動に挫折した若者にしばしば見られる「土着の思想」への回帰なのだろうか。
田村正敏君。26歳。もと日大全共闘書記長である。全共闘議長だった秋田明大君とともに5年前の日大闘争を“指導”した一人だ。その彼がこの5月、もとの仲間といっしょに「無尽」という雑誌を出した。全96ページ。秋田君と詩人の秋山清氏との対談のほか、田村君ら、もと“闘士”たちが寄稿した論文・随筆で埋まっている。テーマはいずれも「68年闘争」である。一冊300円。地味な本だが、意外な反響を呼んだ。初版三千部の大半がすでに売れた。かって闘争に加わった人たちだけでなく、広く若い世代にも反響を呼び、「版元」の田村君のところへはすでに100通近い手紙が来ている。
創刊の弁は「そろそろ風化し始めたでしょう。日大闘争の記憶も。そこでもう一度、掘起し、全共闘運動とは何であったかと改めて問い直したいんです。新しい出発のためにも」。直接のきっかけになったのは昨年の連合赤軍事件だったという。「全共闘運動は、ああはならなかったと思うけれど、それにしても、彼らとどこかで交差する部分があったかもしれない、という恐れみたいな気持ちがありましてね」。
この気持ちが日大闘争を改めて整理し、分析してみようという行動のバネになった。仲間といっしょに昔よくあった無尽講にならってカネを出し合い、無尽出版会をつくった。今年二月のことだ。
「鋳物の町」として知られる埼玉県川口市で育ち、いまも川口市内に住む。もともと東京の下町が延びていったような土地柄だ。そのせいか彼の持つ雰囲気も著しく下町風である。「短気でおっちょこちょいなのが欠点」と彼を知る人はいう。
「男っぽさ」へのあこがれもある。玄関の壁に高倉健が日本刀を抜いているポスターがあった。日大全共闘の最大の敵だった故古田重二良会頭についても、「彼はすくなくとも男だった。悪いやつだったけれども」と形容する。一種の“敬意”をこめて。
11ケ月に及ぶ拘置所生活、拘置所では同房者からいろいろなことを教わった。ドロボウの入り方、ブルーフィルムを作るコツ・・・。婦女暴行犯とも親友になる。気さくなところが好かれたらしい。「目からウロコが落ちるようで、いい勉強になった」。釈放後、業界紙の校正係、トラック助手などを転々、転職に次ぐ転職で1ケ月に5種類もの名刺を作ったこともある。生活にもまれ、厳しい現実にいやおうなしに直面する日々。「苦しかったですね。しかし、同時に、これまでの自分はなにか大切なことを忘れていた、という気持ちがし始めた。あの闘争を通じて、自分の見たこと、知ったこと、考えたことを一つ一つ語り、思い出してゆく作業が、その忘れていたことをさぐりあてる糸口になりそうな気がして」。
「無尽」の出版がその作業というわけだが、この仕事は彼のいう“風化”との競争かもしれない。5月末、田村君たちは、4年ぶりに日大文理学部を訪れた。「無尽」を後輩たちに売りつけるつもりだったが、売れたのは結局37部だけ。
しかもそのうち20部はかっての「敵」である大学当局のお買い上げ。当局側はどうやら、「敵を知る」ためにまとめて買ってくれたらしい。「本に興味がないならまだしも、日大闘争ってなんですか、と真顔で聞く学生がいたのにはまいったな」。が、彼のかってのバリケード仲間の中にも、こんな声があることは事実だ。
「ボクらが5年前、たたかったとき、60年安保のことなんか全然知らなかった。今の学生が68年闘争のことを知らなくても当然じゃないか。昔のことにいつまでもこだわるのはナンセンスだ」
「気がついたら、全共闘の書記長に押し上げられていた。状況の方が個人の意志より先行していたんだな」と田村君はしみじみという。彼の肩にはいまもあの挫折した巨大な闘争の重荷がずっしりとのしかかっているようだ。』

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(「無尽」創刊号 日大全共闘農獣医学部闘争委員会HPより転載)
(終)