先週に引き続き、昨年の12月6日に明大紫紺館(旧小川町校舎)で開かれた「土屋源太郎さんを支援する集い」の報告である。


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今回は「集い」の後半、明大学生運動60年を振り返り、4名の方から発言があったが、その発言の要約を掲載する。

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【K氏(1966年明大学費闘争で全学闘副委員長)発言(要約)】
「僕らが大学に入った頃に擬制の終焉ということがよく言われた。よく意味が分からなかったが、戦後民主主義の擬制の終焉とは何を言っているのか、1年の頃、吉本隆明なんて難しくてよく分からなかった。
我々は学費闘争の中でもポツダム自治会の終焉ということを言った。ポツダム自治会は自然に無くなったのか、人為的に崩壊させられたのか、その転換点になったのが明大学費闘争ではなかったのかと思っている。
自分個人としては1人1票制の大衆組織というのは崩壊させてはいけないと今でも思っている。学生会は1人1票ですから、形式はその後続きますが、実際は学費闘争で崩壊した。学費闘争が始まる前、あるいは渦中で学内のヘゲモニー争いが当然ある訳で、大学当局内部のヘゲモニー争い、あと、学生戦線の内部のヘゲモニー争い、これは明大社学同、統一ブントが明治を完全支配していたけれど、三派全学連を作ってくる過程で、それぞれの党派が少数ですが明治にいた訳で、これが介入してくる。それから、明大社学同の内部のヘゲモニー争いもあっただろうと思う。
それから三派全学連の委員長に斉藤さんがなった訳ですけれども、旧学館のトイレで、ある党派の政治局員が『明治みたいな私立大学で何で全学連委員長を出すんだ』と発言したのを聞いた。これが実際のところではないかと思った。帝国大学の残滓はこういう運動にもあるんだと、つくづく思った。党派同士の争いの中に、帝国大学的な学生運動支配の一端を垣間見るような気がして、斎藤さんが委員長になっても容易ならざることが起きるのではないかと思った。
それから、学費闘争とは一体何だったのか。私は和泉地区闘争員会の委員長ですし全学の副委員長をやっていたが、私も含めて豊かな学生はいなかった。ですから出発点は、単純な生活擁護闘争だったんだろうと思う。そういう素朴な生活擁護闘争の中に党派性を持ち込むとどういうことになっていくのか。明大学費闘争は正にそれだった。党派性がかなり強力に持ち込まれた。その中で明大社学同としてどういう対応をしていくのか。明大闘争の山場は2・2協定とよく言われるが、僕は2・2協定だと思っていない。記念館の体育会がいるところへ突撃した時が学費闘争の極限の瞬間だったと思っている。突撃する方針を出したのは各党派の学対部長の合同会議で、あるブントの政治局員が私に指示した。記念館に突撃すべしということになるが、その背景には2つあったと思う。
一つは、単に右派体育会系学生に対する我々の暴力的な反対行動だった、あるいは怯えだったのかもしれない。しかし、もっと大きな怯えは、記念館に突撃する1週間くらい前から駿河台が崩壊していく。和泉地区闘から見れば、駿河台が何で簡単に崩壊するのかと思ったが、要するに大学側から卒業できないと言われる。4年生は卒業できないと次の展望が出ない。就職が待っている、生活が待っている、ということで駿河台が崩れてくる。
自分たちの運動が崩れる、体育会が妨害している、これを暴力的に粉砕すればいいという単純な論理なのかと思っていたが、どうもそうではない気がする。記念館に突撃した後、大学院団交が行われた。私も張り切って総長に恫喝をかけて、学費値上げは白紙撤回、それから学生は処分しないことを瞬間的に約束させた。協定文を書こうということになって、協定文を作る用意をしていると、応援団が飛んできて、記念館から学生が引き上げていると言う。それで総長は、約束は無かったことにしようということで全てが無かったことになった。それで大学院の1階に降りてきた時の風景が全てだと思っている。大学院の1階に降りてきた時に、民青の諸君はボス交反対と叫んでいる。それから右派系の人たちも叫んでいる。三派系の人たちも叫んでいる。大学院団交で全学闘と明大社学同が完全勝利をしてしまったら、困る人たちがいたのではないかと思った。完全勝利をされてしまったら、少なくとも三派全学連の中におけるヘゲモニーと、明治大学の中におけるヘゲモニーが握れないと思う人たち、この人たちは反対をした。そういう流れの中で、おそらく記念館突撃も計画されたのではないかと思う。
記念館に行く前に3つか4つの流れがあったと思うが、妥協を探る動き自体は確かにあった。妥協を探る一つの流れが、大内君が2・2協定を結んでいく人たちだが、記念館突撃から大学院団交を経た後の2・2協定は、ただの2・2協定でしかない。ところが、2・2協定があったからこそ、その後の明大学生運動が残ったという極めて皮肉な現象が起きる。私も短期間だが、2・2協定反対の運動の先頭に立つ訳だが、記念館突撃から大学院団交の中での敗北が一切隠れて、矛先が2・2協定に向かった。自分としては、そのことによって明大の運動が残ったのではないかと思っている。明大の学費闘争が終わった結果、三派全学連の中で、統一ブントあるいは明大社学同を除く他の党派は全部利益を得ている。
半世紀経って私が学んだことは、鉄砲玉をやってはいけない。僕は明治の学生運動が終わって少し労働運動もやったが、自分も鉄砲玉にならない、人も鉄砲玉にしないということでやってきた。あとは、兵隊のいない大将はただの裸の王様、しかし、大将のいない兵隊は烏合の衆だということも学んだ。
以上、学費闘争について簡単に報告させていただきました。」

引続き、60年代後半から70年代前半の全共闘運動の時代について、生田から2名の方が発言した。以下、要約を掲載する。

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【S氏発言(要約)】
「私は学費闘争が終わった67年の入学です。工学部です。当時の大きな課題は70年安保闘争ないしはベトナム反戦運動だったと思います。私の次の年代の人たちは、卒業するまでに一度も試験をしたことがないという年代です。私の世代は学費闘争の敗北を背負って入った世代ですが、学生会としての再建ということが出てきます。私が一番大きな衝撃を受けたのは、10・8羽田闘争です。これから全共闘運動は大きく政治的な課題に向かって進んで行った時代ではないかと思います。
当時、社学同自体も分裂してく中で、戦旗派と叛旗派、情況派という目に見えない動きがありまして、赤軍派との対決もありました。ただ、私自身は直接そういう党派闘争には関わりを持ってこなかった。工業化学科闘争委員会を作ってキャップを務めていました。どういう訳か、学生時代はブントから全く声がかかりませんでした。卒業してから誘いを受けまして、生協で6年間勤めました。その当時は激しい党派闘争がありました。
私は生まれた娘が重い障がいを背負ってしまって、東京に居られなくなってしまった。完全介護が必要で、今でも7人がかりで介護しています。そういう中で長野に帰らざるを得なくなり、生田に10年いたんですけれども、長野に帰りました。     
長野に帰って私立学校に5年ほど勤めました。ただ、娘のことがあり、障がい者が抱えている課題について活動しなくてはならないだろうということで、表向きは日本青年奉仕協会のボランティア活動ということで10年ほど活動しました。その後、10年間リタイアしまして、長野市から標高千メートルの飯綱高原で隠遁生活に入りました。それから今の活動に入っています。今は約9町歩の自然農法の農地があります。農業生産法人を作っています。
一つの目的として日本の農業を何とか再生したいというのがありまして、工学部でしたが、農学部で微生物学、地質学、気象学などを勉強しました。農業に非常に大きな魅力を感じていましたので、長野に帰った時に、何とか農業をやろうと決意しました。
今は公益財団法人「いのちの森文化財団」で5つの事業をやっています。30人ほどのメンバーがいますがほぼ全員が精神障がい者の方です。この20年で約500名を社会復帰させるために一緒に生活して社会に復帰させていく活動をしているんですが、最近は症状が重たい子が多いです。今の日本の精神科医療は極めてお粗末、本当の治療をしていないのが現状なんです。私の活動のベースになっているのは、生田での10年間の活動だと思います。土屋さんとKさんのお話を聞いて、私たちの中に息づいている明大魂みたいなものがどこかにあるような気がします。」

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【W氏発言(要約)】
「私は69年に工学部に入学しました。私の年代は高校生時代に羽田の10・8だとか、防衛庁闘争だとか、東大闘争を見ていて、大学に行ったら学生運動をやるんだと、それで入った人間が結構いるんです。僕もその類で、入学の日に、ストライキの集会をやっていて、中村幸安さんが元気のいいアジテーションをしていまして、これしかないと改めて思いました。次の日にSさんがクラスオルグに来た時に、僕やりますと言って、そのままずっと学生運動をやってきた。僕は授業に出る気もしないし、卒業式も全くないので、僕が取った単位は10単位。授業は自治会の委員を決めるような時しか出ない、6月からストライキでしたからほとんど授業に出ない。農学部の人たちは真面目だったので、OやKさんなんかは8年かかって卒業しています。2・3年で辞めてしまうか、あるいは8年かかって卒業するかでした。僕は毎日毎日活動していました。
生田は篠田さんと中村幸安さんの2人の巨頭がいて、その中でバランスを取りながら僕らが活動をやっていた。工学部も農学部も委員長は4年生だったが、学費闘争の関係で名ばかり委員長で、ほとんど学生運動はやらない。主要には1・2年生が活動をやっていた。4年生は顔を出すけど遠巻きにしていた。だから大学に入ったと同時に全面に出されて、その後すぐブント内の党派闘争がありまして、生田は生田ナショナリズムみたいなものがあって情況派に行った。毎日、活動と内ゲバということです。連戦連敗です。1年の時は訳も分からないのに赤軍派との内ゲバに連れていかれたり、ML派との内ゲバに動員されて行きました。中大の寮に行った時は怖かった。上からブロックが落ちてきてヘルメットが割れた。翌日に明大の校舎に入って逮捕されました。
大学は毎日行って泊まって、中身の濃い学園生活を送っていたけれど、2年2ケ月しか大学にいなかった。幸いHさんたちが地域生協を作るということがあったので、食い扶持を見つけられた。生協もそんなに長くやるつもりはなかったんだけれども、ずっと続けてやらせてもらった。
いろんなところで生田の活動家の人たちが地域活動をやっていて、皆と一緒にやってきたことが今日に生かされているのかなと思っています。
今、ヘイトスピーチ反対の『のりこえネット』というのをやっています。それと同時に『ソウル宣言の会』というものを起ち上げて活動しています。」

最後に、二部からH氏から発言があった。以下、要約を掲載する。

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【H氏(1969年全二部共闘会議議長)発言(要約)】
「二部の文学部自治会に在籍していましたHです。私が入学したのが1966年、明治の学費闘争が起こった年でした。その時から学生運動にのめり込んで、その後、67年10・8羽田闘争とか佐世保闘争とか王子野戦病院闘争とか、さまざまな街頭闘争に参加してきました。
考えてみますと、当時の学生運動は、一つにはそれぞれの学園内部の矛盾と、もう一つ大きな背景としてあったのは、ベトナム戦争に対する立場の表明、ベトナム戦争に反対する行動だったんだろうと思います。そういうものを経ながら、当時、僕らはある未来みたいなものを夢見て形作ろうとしていたんじゃないかなと思います。ですから、社会主義学生同盟ですとか、私はML派でしたけれども、そういう組織に加盟することによって未来を夢見ていたんじゃないかと思います。
当時、思っていた未来と、現在迎えている現実とが一致していたのか、一致していなければどれだけズレているのか、ということを最近ちょくちょく思うことがあります。それだけの長い時間を経て、私たちが何を作って来たのか、振り返りながら考えます。答えはまだ出ていません。
それから、夢を壊す出来事を、僕らは一方で随分作って来たんじゃないのか。その象徴的な事件が連合赤軍の仲間殺し。あの事件は、当時の学生運動に関わった人たちに内在していた、どうしようもない部分だったのではないかと思います。セクト争いが暴力沙汰になり、暴力沙汰が最後に殺人沙汰になっていくというあり方が、当時僕らが社会主義や共産主義を望んだりした、夢の中で作ろうとした社会とどれだけ一致していたのか、ズレていたのか、こんなことをこの歳になってなお考え続けているところです。
そんなことを考えながら、この近くでお好み焼き店をやっています。」

以上、土屋源太郎さんからの報告と、4名の方からの発言が終り、懇親会に移った。「土屋源太郎さんを支援する集い」の締めは、明大の校歌とインター斉唱。歌唱指導は柳家三壽さん。

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二次会はH氏がやっている近くの「お好み焼き」店へ。ここでも夜遅くまで懇親を深めた。
今回のような明大学生運動に関わった方々が一堂に会する「集い」は、Y・R氏も言っていたように、これが最後かもしれない。しかし、大掛かりな会合は難しいとしても、小規模ながら定期的に開催している「明大土曜会」がある。
「明大土曜会」は明大関係者が中心ではあるが、他大学の方や、学生運動に関わりのない方、若い方も参加して情報交換など活動を行っている。
偶数月の第一土曜日の午後2時からH氏の「お好み焼き」店で開催しているので、「集い」に参加した方も参加しなかった方も、明大以外の方も顔を出してもらいたいと思う。

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(終)