前回に引き続き。1971年1月22日号の「朝日ジャーナル」に掲載された「総合生協への道-都下鶴川団地からの報告―」という記事の後半を掲載する。
前半は、公団分譲住宅の欠陥問題への取り組みから深夜バスボイコット運動までの経過が報告されていた。

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【特集・71 市民運動の重層化 総合生協への道 -都下鶴川団地からの報告― 中村幸安】(朝日ジャーナル1971.1.22)(後半)

<自治会活動から自主参加運動へ>
 巨大な<壁>の一部を破壊したからといって、<壁>は1枚ではなかった。従来、公共料金値上げ反対運動は無数に展開されてきた。しかし、どの反対運動をとってみても、「署名」「アンケート」「請願」のサイクルで収斂するのが常だったのと比較し、われわれは代替手段を住民自らの手によって提起したことが特徴であるといえよう。しかも、自家用車の無償提供から「共同所有車」の購入をはかり、「深夜バス反対者」が共同で自家用車を所有することに発展したのである。
 しかしこの共同所有車を購入する過程で、「自治会」なるものの清算と位置づけをはからねばならなかった。自治会がきわめて日常的な通勤者の足の確保のために、「共有財産」をもつことを「多数派」できめていいものかどうかということは、自治会にとって大問題であった。われわれは、これを自治会活動の限界と読み「自動車クラブ」(共同所有者による組織)なる組織を結成した。このことによって、鶴川団地に現在3つある自治会の枠を越えて、新たなる組織を自主参加のかたちでかちとることになったのである。この日を境に、自治会は「鶴川自動車クラブ」を支援するか、しないかという立場に追いやられ、鶴川自動車クラブを主体的に担っている鶴川団地東地区自治会は、全面的に支援することを自治委員会で決定したのに対し、社会党協会派のイデオロギーによって固められている賃貸団地の鶴川団地自治会常任委員会は「尊重する」という立場しか表明しきれていないのである。
 しかし、鶴川自動車クラブの会員の6割強は何と鶴川団地自治会の会員であることをわれわれは見ておかねばならないだろう。われわれの運動は、代替手段を共有するということを契機に自治会の従来の枠を突破り、新たなる段階に入ったということができる。この契機は、自然発生的に全般的な物価値上げ攻勢に対する防衛組織としての「生活協同組合の結成」に向かうことは必然であった。
 牛乳供給、鶏卵供給、食品雑貨の共同購入、野菜の「夕市」を自治会の事業部として実施し、月額200万円強の供給高をあげるに至ったのは70年9月の段階からである。しかも生協設立に向けての努力は、丁目、自治会の枠を乗越えて、各地区住民の自主参加により東地区自治会を中心として展開された。
 しかし、これが従来の「生協」ならば何も今さらとりたてていう必要はないだろうが、われわれが射程に置いている生協は「車の両輪論」(生協運動の内容を業務と運動という2側面で捉え、この調和によって生協が発展するという無媒介的、機械論的理論)を超克した位相において思考し実践しているが故に有意味なのである。強いて類似した生協をあげるならば、大阪府連の生協とそれにかかわる関西大学生協の運動、九州では東部生協をはじめ地域化に実績をあげている九州大学生協の運動があるだろう。ここで使用する「われわれ」は既に使用してきた「われわれ」とその内容が違うことを明確にしておかねばならない。「深夜バス」ボイコットのための共同所有車の運転には、明治大学生協の従業員及び明治大学全学評議会の学生が住民の運転士と共に運動を共有化し、もし明大生協の協力が得られなかったならば、われわれ鶴川の住民もここまで運動を維持し発展させることは不可能であっただろう。
 しかも、この協力は単に心情的なものではなく、数年前から明大生協が検討を加え、総代会で決定までしていた「生協のさらなる発展は地域化へ」というスローガンの実践形態をわれわれ鶴川住民の運動の中に見たからにほかならない。もはや、「われわれ」という語を「鶴川びと」の代名詞として使用することはできないというのはかかる意味内容からである。われわれは、運動論的にも組織論的にも、従来の「生協」の枠にとどまって「生協」を展望することはできない。

<ゲリラ的組織拡大論>
「ゲリラ的組織拡大論」とわれわれの組織論とは、こうである。タマ生協の事業内容と事業目的は定款や事業計画書に明示されているとおりである。この事業を目的に沿って遂行し生協の防衛をはかろうとする者が組合員なのであって、組合員の生活を守るのが組合の、<本部>なのではない。したがって辺鄙な地域にあっても定款に明示された<地域内>ならば、10世帯(原則)が班を形成して、自らの生活を防衛してもらうことを考えてもらうことになる。
 たとえば、辺鄙なところであるから、雑貨品については、<三か月分>の共同購入をするとか、<本部>から配送してもらったのでは経費がかさむから、だれかの自家用車を出して商品を運ぶとかすることによって、無店舗方式が実体化し、われわれはそのことによって、共有財産としてコミュニティの場を形成することがより近くなると考えるのである。<班>の要求を表現しよう。そして、自らの班の生活の防衛と発展のための「生協」を考えることが必要である。
 学生諸君がこの間、好んで使った社会総体の帝国主義的再編という言葉の内容は、職住分離→各個別問題→コミュニケーションの分解→市民社会の24時間管理とイデオロギー支配というルーチンによって表象できる。現代日本資本主義の根本矛盾を「賃労働と資本」の問題としてとらえつつも、この根本矛盾を反映したものとして管理社会の基本矛盾を「職住分離」としてとらえるならば、われわれは、生産拠点における矛盾の階級的止揚をはかる一方、この「職住分離」の矛盾に刃を向けなければならない。しかも、その運動の構造は、まさに管理化社会のルーチンを逆撫でするものにほかならない。
 個別問題の問い詰め→コミュニケーションの活性化→新しい住民組織→イデオロギーの創出→「労働を基礎とする」諸機能組織の統合と総合化…がそれである。
 筆者は、本誌69年12月7日号「状況は<不明不暗か>」で明大全学評のことに触れ、全学評は<点>としての大学・地域を線に発展せしめ、その線を地域化という<面>に拡大していくことを目標としていると説いた。あれから1年、明大生協は神奈川大生協を設立しタマ生協を設立し、桜美林大生協の設立に援助を送り、文字通り多摩ニュータウンの<核>になりつつある。
 明大助手共闘を中心とする園芸研究者集団は鶴川六丁目の植樹の管理を一手に担い切り、団地の自主管理に向けてその一翼を担っている。決してわれわれの行動は勇ましくないし革命的ではない。しかし、生産点一点主義・バガボン的政治中枢への進撃という戦術極左に陥り、社会総体の帝国主義的再編に何等なすところを知らない既成政党、とりわけ既成左翼に対しわれわれ住民は、生活者の運動をもってその質を超克するであろう。

<新しいコミュニティーの創造へ>
1月6日の「朝日新聞」社説は「6年前の大学紛争に対する政治の対応も含めて、最近の政治には、そうした機能喪失が著しい。いま政治が姿勢の立てなおしを怠るならば、本来議会制民主主義を補完するはずの住民運動は、政治否定の直接行動主義にひらすら傾斜してゆくであろう。発火点となる問題が、いたるところに充満しているからである」と述べ、住民運動を議会制民主主義の補完物と規定しているが、われわれは住民運動を議会制民主主義の終焉からはじまると認識している。多くの活動家や研究者は九州へ静岡へ足尾銅山へ、そして三里塚へ≪出張≫する。しかし<私>の住んでいる『生活環境』も『状況』も。<三里塚>と同じなのです。とにかく、自らの存立する<職場>で、自らの存立する<居住区>で固有の運動を創造し、この分断されている<職><住>における根源的矛盾を<統一的>に展開することが必要なのです。<連帯>という<言語>のもつ内実は<実践主体>がそれぞれ固有の運動を所有し、<共通の敵>に当たることであって、<指示><支援>を表明することではない筈です。
 1969年の蒲田、新宿における<自警団>の登場は、われわれの運動の欠陥の反映としてあったといわねばならない。われわれが創造する<自警団>は生活過程を通して明確化していく「階級性と政治性」をふまえた国家権力に対する<自警団>であり、われわれはそれを「コミュニティ」と表現している。
 「生協」それ自体が目的なのではない。目的はコミュニティの創造にある。「生協」それ自体は「集団的な資本家による企業」という相対的矛盾を内包した存在であり、ブルジョア社会の矛盾として発生し、発生基盤を否定しつつそれに依拠している存在である。したがって、「生協」には、国家独占資本のもとでの国家的「価格体系」のメカニズムの中で「商業利潤を分けあう」という従来の生協の捉え方を、「生協事業の限界性」として捉えておかねばならない。
 しかし、だからといって「生協」の存在意義が薄れるものではなく、生協は組合員の即目的な要求を満たすという改良の成果を「自主的な組織」でもって志向するときにのみ「財」としての<コミュニティ構成員の意識>を残すことになる。この「協同意識の形成」を抜きにした「生協」は何等住民と隔絶した関係にある公設市場と変わらないのである。
(なかむらゆきやす・タマ生協設立発起人会代表)

以上、2週に渡り「朝日ジャーナル」に掲載された「総合生協への道-都下鶴川団地からの報告―」を掲載した。
最後に、先週の記事の冒頭にも引用したが、筆者の中村幸安氏が2002年に明大の講師を退官された時に配布された資料の中から、今回の記事に関係する部分を引用する。

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「私が目指しているのは、共同体論の実践課程としての『コミニティー作り』にあった。
これは、都市型コミニティーにほかならない。
勝手に団地という名の巣箱を作っておきながら、主要動線と団地の間の交通機関が計画されていない『陸の孤島政策』を批判してきたが、私たちは、明大生協の支援と学生の支援を得て、消費物資の共同購入を都市型コミニティーの核を、共同三原則においたテーゼを打ち上げた。共同消費・共同購入・共同分配がそれである。
そして、テーゼにのっとり大学を解放すべく、千葉大農学部の生産物を共同購入して、町田市鶴川地区の住民に供給したし、明大農学部を社会に解放すべく、住民の援農を組み込んだ学・住一体の運動体の創造に取り組んだ。それらの実験資料を基に、50 万人都市を人為的に作り替える『タマ生協』をタマニュータウンのど真ん中に作った。
そして、遂に、この運動が、バスという準公共料金の深夜分の値上げという民間運送業者の要求を鵜呑みにした運輸行政に対して『われわれは自分で自分の足を守る』というスローガンの元に、鶴川駅から鶴川団地へ、聖跡桜丘駅から永山団地まで、町田駅から山崎団地までというぐあいに、署名運動型から自立型運動へとその方向性を転換する事になる。
我が団地の欠陥問題が一段落した頃から、私は『欠陥住宅の専門家』と言われるようになり、請われるままに原稿を書き、マスメデイアに顔を出すことになった。」

(終)