2015年11月7日(土)、10・8山﨑博昭プロジェクトの初めての大阪講演会「大阪発 アカンで、日本!-理工系にとっての戦争―」が開催された。
今回は、その講演会の概要を掲載する。

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私も当日、事務局の一員として大阪に向かった。大阪に行くのは10年ぶりくらいだろうか。講演会の会場は地下鉄「本町」駅の近くの御堂会館・南館5階ホールである。

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会場の定員は210名であるが、定員を大幅に超える約260名の方が参加した。椅子に座れない参加者は会場の外にまであふれ、演壇の後ろに「演壇占拠!」と言いながら座り込む参加者もいた。会場は超満員であったが、参加者は熱心に講演に聞き入った。

講演会の冒頭、発起人を代表して山﨑建夫氏(山﨑博昭兄)から「賛同人および賛同金に協力して欲しい」との挨拶があった。

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続いて、発起人の水戸喜世子さん(十・八羽田救援会)から、講演会の前半の講師である山本義隆氏(科学史家・元東大全共闘議長)について「沈黙の40年間に考えられたこと、学ばれたことを、今、私たちに示して共有され、しようとしています。本当にありがたいことです」と紹介があった。

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山本氏は大阪出身なので、会場参加者からの「お帰り」コールの中、「日本の科学技術―理工系にとっての戦争」というタイトルで講演が始まった。

【「日本の科学技術―理工系にとっての戦争」 山本義隆】(講演概要)
「このタイトルで言う科学技術は、近代のヨーロッパで出来た自然科学です。この自然科学に基礎づけられたあるいは導きだされた技術であって、近代社会の発展に寄与した技術ということで科学技術を語っています。」
「日本における科学技術は3つのことで特徴づけられています。一つは科学と技術が一体となって入ってきたということ。もう一つは、それが軍事偏重だったこと。三つ目は権力のイニシアチブで科学技術の勉強も含めて進められたことです。」

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「西洋では科学と技術は元々別のものであって、科学技術というものは存在していなかった。科学というのは純粋に言葉の学問であって、実際に実験して測定してという発想は全く無い。他方、技術というのはアカデミズムとは全く縁のない職人の世界で培われてきた。理屈ではなく経験の蓄積です。16世紀になって初めて職人の世界で培われた知識を活字によって表せるようになった。アカデミズムの世界でも、それが自然科学の研究にとって有効なのではないかということで、17世紀の科学革命が起こった。18世紀に広がって行って、19世紀になって逆に科学の新しい法則や知見が、新しい技術の開発や改良に役立つのではないかということが分かってきて、そこで初めて科学技術が出来た。
まさにそのタイミングで日本は黒船により科学技術に遭遇した。日本では科学と技術を一つのものとして受け入れた。もう一つ言うと、西洋では科学技術、蒸気機関は元々民生用の技術であって軍事とは関係なかった。日本ではいきなり蒸気機関を軍事力として見た。決定的な違いがある。日本は初めから政府のイニシアチブで科学技術を進める。科学と技術が一体となっている、軍事偏重である、政府のイニシアチブでやっている、これは日本の科学技術の非常に大きな特徴であり、その後の科学技術の在り方をある意味で規定していったと思う。」
「軍事における科学の重要性が出てきたのが第一次世界大戦。科学技術の力というのは戦争を左右する。普段からそれを育成していかなければいけない、と改めて認識させられたことで日本における科学研究が強力に進められることになった。」
「それに対して学者はどう対応したか。研究費があれば喜んでそれに飛びつく。左翼も同じ対応をしている。戦争中は学者は権力の科学技術政策の豊かな研究費と、権力の研究体制の合理化、近代化の中にのめり込んで行った。科学こそ戦争を勝利に導くということに学者も左翼も全部協力していく。」
「戦争で敗北した時にどういう反省をしたかというと、戦争を始めたことを反省する訳でもなければ責任を追及する訳でもなく、科学力が不足していたと。
戦後になって、これからは民主主義の世の中だとなると、今まで戦争のために科学が大事だと言っていた連中が、同じように民主国家日本の建設には科学が大事なんだと言う訳です。」

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「戦争中に総動員体制を敷いた官僚たちは、人脈も組織もイデオロギーもそのまま残った。
戦争中の総動員体制の中で、アジアへの軍事侵略を支えていた、アジアの諸国に対する優越感と排外主義ナショナリズムの思想が官僚の中にそのまま残った。
50年半ばに日本が原子力政策を進めていく上で潜在的核武装路線を唱えたが、戦前の全ての産業能力は潜在的軍事力であるという発想そのままなんです。
50年代に日本の資本主義が復活していく中で、改めて総力戦体制を作って行く。それが日本の高度成長を進めた。戦前の殖産興業・富国強兵というのが、そのまま高度成長・国際競争に置き換えられただけであった。」
「戦後一時期、民主化運動だと言っていた科学者は、60年代の高度成長の過程で理工系ブームが起こってくると、見事に体制の中に取り込まれていく」
「戦前の総動員体制というのは命を権力に預けて下さいということを意味していた訳で、それが戦後の総力戦体制としての高度成長の過程で軍事力は使わないけれども、経済戦争に乗り込んでいく。ある程度の犠牲はやむを得ないということで、公害病に苦しむ患者や開発で土地を追われた人たちを見捨てて行った。高度成長の総力戦体制は戦前と同じで、基本的に戦前ほど手荒ではないけれども、場合によっては命を国に預けてください、ということをやってきた。」
「今、アジアの国との経済格差を利用して経済的支配権を拡大していくという路線がもはやできにくくなっている。そうすると、アジアの人たちに対する優越感を伴った列強主義ナショナリズムというのは、もっとグロテスクな形の排外主義に転化する可能性がある。すでに始まっている。家電製品や自動車で商売できなくなったら何に手を出すかといったら、原発であり武器です。
武器を輸出するということは、武器は常に最先端でなければならない。武器輸出で外国と競争するには常に最先端の武器をつくらなければいけない。また、実戦で役に立つという保証がなければならない。ということは、武器輸出が存在するためにはどこかで戦争しなければならない。武器を最先端にするということは、大学の研究機関の協力が必要になってくる。」

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「明治以降の日本の科学技術は常に上からのイニシアチブでかつ軍事的なものを重視してきた。日本の科学者は、今、軍事研究でと言わたらコロッといってしまう。軍事研究に動員されていくという非常に際どいところにきている。
日本の科学技術というのは、初めから現在に至るまで、西洋と決定的な違いは、軍事偏重として育て上げられてきたことと、権力のイニシアチブで科学技術は実は育成されてきたということ。それが改めて日本の自然科学の研究の脆弱な体質、権力的な体質が今また問われる時が来ていると思います。」

休憩を挟んで、講演会に協賛している大阪自由大学の池田知隆氏から、講演会の後半の講師である白井聡氏(政治学者・京都清華大学専任講師)について「日本の戦後社会の在り方に鋭くメスを入れてこれらた。現代政治の分析においては若手第一の論客である」との紹介があった。

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白井氏の「ネオリベラリズムと反知性主義」というタイトルの講演が始まった。

【「ネオリベラリズムと反知性主義」 白井 聡】(講演概要)
「山本先生の本を読んだ感想として、日本の科学技術というものが、その発端からして軍事と骨がらみだったということに関し、認識を新たにしました。
『和魂洋才』と言う言葉に日本の近代のの特殊性が現れていると思います。『洋才』の『才』は言い換えればテクノロジー。『和魂』の『魂』はソウルであるとかハートを意味する。本来ならば近代的な科学の出どころは全てはソウル、ハートから来ているが、近代の日本人はそれを分離できるように考えざるを得なかった。本来分離できないものを、テクノロジーの方だけを取り入れることが出来ると思ってしまった。その弊害が大きいということを、今再び痛感せざるを得ない情勢に立ち合っていると思います。」

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「戦後、科学者や技術者の戦争責任は追及されなかった。その贖罪として一つは科学技術の研究発展を軍事転用してはならないということが一定程度根付いたと思う。技術というものがいい使い方もできるが、人を殺すという使い方もできるので警戒しなければいけないという常識が根付いていたと思う。もう一つは戦争中に発展した科学技術を戦後の経済発展に役立てて行くということ。それによって戦争に加担してしまった罪をあがなっていったと推測します。」
「戦後70年経って記憶の風化が進んでいく。科学者や技術者たちも記憶の風化のために歯止めがきかなくなる、そういう情勢が着々と進みつつある。それに対してどう対抗していくのか。それは容易な事ではない。時代状況がネオリベラリズムと反知性主義に侵されているので、そう簡単にこれに抵抗できるものではない。安易で空疎な希望を語るより、しっかりと問題の根源を捉えて、次世代の足場になる何かを残すべきではないかと考えます。」

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「ネオリベラリズムというのは競争至上主義であると言われているが、これは表看板であって、公正な競争を謳いながら、実は国家と資本の腐敗した癒着であり、結託であるという定義が下される場合が多い。特に、資本主義の経済成長が成熟した国々にどこにでも現れいる。」
「ネオリベラリズムというものが単に政治経済的な現象ではなくて、人々の感性とか物の考え方、意識というものに対して非常に大きい影響力を持つ、ある種の新しい文化段階なのだと捉えるべきではないか。人々の感性や物の考え方が既にネオリベラリズム化しているため、ネオリベラリズムを規制することができないということが生じている。
ネオリベラリズムが人間の心ないしは精神に持ち込む影響の核心には、ニヒリズムがあると思っている。ニヒリズムがどこから来たかというと、止めどない消費社会における消費主義が隅々まで行き渡った時に、その社会は同時にとてつもない強度の高いニヒリズムに覆われているのではないかと考えるようになった。」
「今の状況を知る気もない、変わらなければどうしようもないという状況であるこが分からない人たちがいる。どうしてこのようになるのか、これはある種の消費主義だと推測します。自分が何かをする、そうすると自動的にそれに対する結果が出て来て、ああ良かったとなるのが当たり前で、世の中が変わって欲しいと言えば世の中が変わってくれる、そんな事はない訳ですが、お買いもの感覚でしか世の中を捉えられない。何か動いてみたところで結果がでるかどうか分からないというものには取り組めない。消費者のスタンスで言うと賢い消費者になる。こうなってしまったのは何なんだろう?」
「今、2015年安保と言われているが、1960年安保の時と比較してみた。今年もいろいろなことが言われたが、60年安保の時もそっくり同じことが言われていた。
60年安保の時も安保問題は外交問題ではなくて内政問題であることが語られていた。55年間たっても進歩ゼロという事実に向き合わざるを得なかった。
谷川雁は『60年安保は人は出てきたが疑似市民運動だからダメだ。疑似市民運動はそれを動かしているのはニヒリズムにすぎないからだ』という言い方をしている。
谷川雁は、ニヒリズムがダメではなくて、中途半端なニヒリズムはダメだ、問題はニヒリズムの強度であるということを言っている。吉本隆明は、『声なき声』と言われる政治的に全く無関心な大衆が、全学連主流派を支持していたと言っている。
天下がひっくり返ろうが、政治の世界で何が起ころうがそんなことはどうでもいいと考える大衆はある意味でニヒリストといえる。
谷川、吉本の議論は、強度の高いニヒリズムに日本の社会のポジティブな担い手を見出そうとしていた。当時の戦後民主主義者たちは、60年安保で出てきたエネルギーをしっかり維持してやっていけば、より良い民主主義社会になると言っていたが、それは破たんした。当時の情勢判断としては谷川、吉本の言っていることは的確な何かを含んでいたと思う。」
「強度の高いニヒリズムに依拠できるのだろうか?1983年頃の敦賀市長の原発を巡る有名なスピーチがある。『50年後、100年後に生まれてくる子供が皆かたわになっても、それはそれでしょうがない。原発はお金が天から降ってくるようなものだから原発はやった方がいい』という言葉で締めくくられている。金、金、金という話です。
ニヒリズムは何ですかといったら、この講演を読みなさいと言いたい。そう考えると、谷川雁や吉本隆明が言っていた、ニヒリズムに対するポジティブな物の見方は大変甘かったのではないかと思う。高度成長の中で頭をもたげてきたニヒリズムはもっと恐ろしいものではないか。それは今日のネオリベラリズムとどこかで繋がっていると思う。日本では消費主義として生まれたニヒリズムが巨大なものになっているのではないか。」

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「もう一つの論題である反知性主義について、ネオリベラリズムとどう繋がるのか?反知性主義は簡単に定義できない。いいものなのか悪いものであるのかも簡単に定義できない。
カンボジアのポルポト派支配は反知性主義の極限みたいなもの。
今日の反知性主義で一つ指摘できるのは、知識人とかアカデミズムと一般大衆が対立するという構図で反知性主義の歴史が展開してきたが、今起こっていることは、反知性主義の批判の対象であったアカデミズムや知識人の世界が反知性主義に覆われているということです。」
「否定的なものに耐えられない、否定的なものはないことにしようというのが現代における反知性主義の特徴なのではないか。そのことと、ニヒリズムがどう関係しているのか。
ニヒリズムは信仰を持っています。それは無限に続く科学の発展だったのではないか。それによって消費生活が豊かになって行くはずだというのが現代的なニヒリズムの信仰だと思う。」
「私たちは価値の混乱した世界に生きている。それはどこから始まったのか。科学技術を進化させたものは戦争に他ならなかった。私たちの生活そのものが過去の戦争によって蓄積された技術によって支えられているということを認めざるを得ない。
マルクス・レーニン主義の思想は労働者階級に奉仕する科学技術を標榜したが、技術の持つ両義性を克服できなかったと思う。
私たちは何を心して考えるべきなのか?大きく言えばニヒリズムの克服であるが、少なくとも今言えることは、新しい科学技術のあり方を社会そのものが試行していかなければいけないということが言えると思う。戦争こそが技術発展の最も効率のよい優れた契機となるという状態から、どうやって私たちは脱することができるのかということが、今の課題だろうと思います。そのことを忘れる時、消費社会のニヒリズムが世の中を覆い尽くすことになる。だいぶ覆い尽くされていることは間違いないのですが、何とかこの現状を正確に認識して、認識するところからしか、そこから脱却するヒントというものは見えてこないと思います。」

講演終了後、当日参加した9名の発起人、山﨑建夫、北本修二、佐々木幹郎、辻惠、三田誠広、山本義隆、道浦母都子、水戸喜世子、山中幸男の各氏から挨拶があった。

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挨拶の中で、プロジェクトへの賛同とカンパの要請が行なわれ、10万円を超えるカンパが集まった。また、会場で賛同人の申込みをされる方もいた。
最後は大阪講演会の実行委員長である道浦母都子さん(歌人)から閉会の挨拶があった。

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「1967年10月8日に亡くなった山﨑さんの魂と、今、みんなが心の拠り所になって欲しいと願っている山本義隆さんの魂と、この2つの魂が交叉するような場所を、是非、大阪でやりたいと思いました。是非、大阪でやっていただきたいとお願いしたところ、山本さんが快く返事をしていただき、今日に至りました。今日は沢山の方が来ていただきまして、みなさんが本当に真剣に聞いてくださったということを、心から感謝しております。
これからも沢山宿題があります。どうぞ今日の熱気と同じように私たち山﨑プロジェクトにご一緒に参加くださいまして、賛同人になって協力下さいますようお願いいたします。」

10・8山﨑博昭プロジェクトの初の大阪講演会は大成功で終了した。
山本義隆氏と白井聡氏の講演の詳細は、後日、ブログに掲載する予定である。

【お知らせ】
来週のブログとホームページの更新はお休みします。
次回は11月27日(金)です。