私も関わっている「10・8山﨑博昭プロジェクト」では、プロジェクトの目標の一つとして、ベトナムのホーチミン市にあるベトナム戦争証跡博物館での、1960年代を中心とした、日本におけるベトナム反戦闘争の記録の展示に向けて準備を進めている。
博物館での展示については正式な決定ではないが、来年(2017年)初頭に、博物館での企画展示を実現するため、現在、山本義隆さんを中心とするチームで関係者への聞き取りや写真、ビラ、旗などの現物、冊子などの資料蒐集を進めているところである。
プロジェクトでは、このベトナムでの展示に先がけて、今年の6月中旬に文京区のギャラリーで、集まった資料や写真の展示を行う予定である。

日本におけるベトナム反戦闘争の歴史を語る上で、ベ平連(ベトナムに平和を市民連合)の活動を抜きに語ることはできない。
そんなこともあり、今回のブログでは、「週刊アンポ」No12に掲載された記事を掲載する。

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当時、あまり知られていなかった、ベ平連による反基地・米軍解体活動の記事である。
この記事に出てくる大泉反戦放送局とは、「大泉市民の集い」が埼玉県・朝霞の米軍基地「キャンプ・ドレイク」で行っていた「基地よ出て行け放送局」の通称である。基地の金網越しに携帯マイクで英語で呼びかける「放送局」である。
大泉反戦放送局の活動は、週刊アンポNo1の記事によると「教師、学生、牧師、青年労働者、集まった有志がかわるがわるマイクを持ってアナウンサー役をつとめる。よびかけ、反戦運動関係のニュース、天気予報。そして、テープに用意した反戦フォーク・ソングや、来日したアメリカのブラック・パンサーやSDSの活動家にとくにふきこんでもらったという兵士への反戦と戦闘拒否をすすめるメッセージなどを、ひきりなしに流していく」こんな様子だったとのこと。
今回の記事は、大泉反戦放送局が、放送ではなく、ビラを米軍基地内に投げ入れるという行動を行ったことのレポートである。

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【レポート こちらRCMG大泉反戦放送局です 週刊アンポNo12  1970.4.20】
<反戦放送局“ビラ爆弾”を投下>
「ゴミをこっちに入れるな やい、やめろったら」と白人兵が叫ぶ。「そうよ戦争大好きよ。ベトナムの奴らは糞ったれさ、殺してあたりめえよ」とわめきちらしていた兵士である。彼の背後には7、8人の白人兵がいて、そのうちのひとりはライフル掃射のまねをしている。埼玉県朝霞市にある米軍野戦病院での反戦放送の一風景である。今年の3月15日。“戦争大好きよ”といった米兵は“ゴミ”と呼んだけれど、ゴミではないレッキとしたビラである。これまでもいろんな新兵器を、ない知恵をしぼってつくってきたけれど、ビラ爆弾のことをきき、われわれなりに工夫して、つくりあげた苦心の“ゴミ”なのだ。学生のS君がとくに熱心にせっせと原稿を切った。
ワラ半紙を16等分した白やピンクの弾丸には、朝霞反戦放送局(レディオ・キャンプ・マスト・ゴー、アサカ)の基調もしくは、コマーシャルが、さまざまなレタリングで書いてある。
「反戦・叛軍のために団結して起ちあがれ」「人間として行動せよ」「われわれに支援・連帯の備えあり」「安保粉砕」「すべての権力を人民に」「虐殺を止めろ」「反戦GI新聞を読もう」「帝国主義打倒」「人種差別をなくせ」「戦争の陣営を去って平和の陣営に加われ」などの16種。
ビラは4,50枚まとめてセロテープで束ねる。2センチほどは紙にする。ヒモをつけ、投げヒモを引っぱれば、紙の部分が切れーつまり信管―爆発するというわけだ。投げるのに熱中したのは労働者のS氏である。高さ3メートルの鉄条網をこして、70メートル近く離れた病舎にまでビラの束を投げるのはむずかしい。軟式のボールでも、70メートルとばせれば、かなりの腕前だろう。これまでの最高飛行距離は30メートルというところか。失敗すると、われわれの頭上に爆弾が落ちる。みんなで拾って束ねなおす。向こう側ではMP氏が拾っている。“互いに見合わす顔と顔”ということもある。
朝霞反戦放送局は昨年の6月1日に開局した。王子でも何回か行われ、11月に横浜の岸根陸軍野戦病院で開局、今年に入って、3月21日、山口県岩国の海兵隊基地でも“レディオ・フリー・イワクニ”が開局した。他でもいくつかの局が準備中だ。「反戦放送局は全国ネットワークになりつつある」と、われわれは朝霞でいってきたのだが、いまや完全に誇大報道ではなくなった。朝霞とくらべものにならない強い反応をくり返していた岸根では、病院閉鎖というひとつの勝利を手にした。このまえ会ったとき、岸根放送局員は「岸根闘争勝利」といった。どう控え目にみても、去年の11月から毎週土曜日、激しい弾圧化、粘り強く、激しく、それに米兵の強い反応と支援でつづけられてきた岸根反戦放送は、病院閉鎖の一因である。

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<「GIイエス」「MPノー」>
朝霞では昨年の11月から、毎週日曜日。11時ないし11時半から2時間近くやってきた。MPの規制は厳しさを増しているが、米兵たちの反応は、賛否とも強くなってきている。最初に書いた3月15日のこと。一方には、好戦的な白人兵の一団が狂ったかのように異を唱えた。「こっちへ入ってきやがれ」-日本語で言う「表へ出ろ」と同じである。他方、これと反対に、われわれはあいつらとちがう、と身振りと言葉で表現する、白人1人をまじえた黒人兵の一団があった。そのうちの3人はビラ爆弾を拾いながら、MPの規制をはねのけて鉄条網のそばへきた。握手。3人はこもごもに語った。「放送つづけておくれよ」「いいぞいいぞ」「われわれは闘うぞ」。
どうも手に負えないと判断したMPが上官をつれてきた。1人を連れ去ろうとする。われわれは「釈放しろ」と抗議したが(これで4度目だ、こういう情景は)残った2人は病舎の戸口で抗議の座り込みをおこなった。こうした強い抗議の直接行動は朝霞でははじめてのことである。

<反戦MP出現>
 ビラを“ゴミ”と考える兵士は他にもいて、ごていねいに拾い集め、きれいに燃やされるということもあったが、妙な効果もあった。われわれが“反戦MP”とあだ名を付けたMP氏は職務上ビラを拾うふりをしながら近づいてきて、話をしたがるのだ。(彼と半年ほどまえ、町で会ったことがあるけれど「君たちのいうことに賛成だ」というMPなのだ)「このまえつかまった兵士はどんな罰をうけたか」「いや別に罰はうけなかったよ」とか、「ここの営倉にはいま何人入っているのか」「ここには営倉はないよ」などというやりとりができたのである(3月22日)。彼はある国からの移民であることも語り、われわれはその国の言葉で、その国の“人民万歳”と叫んだ。
 ビラ爆弾は3月8日から始めた。朝霞警察署員がきて、こういった。「あんたたちには表現の自由があるんだからさ、何をいおうと何時間やろうと、こっちは文句はいわないよ。でもさ、ものを投げるのだけはやめにしてくんないか。憲兵隊がうるさいのよ。誤解されてさ、ゴタゴタがおきるとお互い迷惑だからさ。そこんとこわかって下さいよ」ビラはものではないというのがわれわれの理解である。また、よしんば”ゴミ“であっても、それこそ”ゴミは天下のまわりもの“である。百歩ゆずって考えても、おいてあったビラ、こちらの頭上にあったビラを”カミカゼ“が吹いて、米兵のもとに運んでくれたこともある。その風については”当局は一切関知しない“
 朝霞でも米兵内部にグループ単位の亀裂が深まっている。そしてその一方はわれわれと結びついている。
(清水知久)(注:当時日本女子大助教授)

(終)