以前、重信房子さんを支える会(関西)が発行していた「さわさわ」という冊子があった(写真)。この冊子に、重信さんが「はたちの時代」という文章を寄稿し、連載していた。「はたちの時代」は、重信さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章であるが、「さわさわ」の休刊にともない、連載も中断されていた。
この度、「さわさわ」に掲載された部分と、未発表の部分を含めて、「1960年代と私」というタイトルで私のブログで公開することになった。
目次を付けたが、文章量が多いので、第一部の各章ごとに公開していく予定である。
今回は、第一部第四章である。

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(「さわさわ」)

【1960年代と私*目次 重信房子】
第一部 はたちの時代
第1章 「はたちの時代」の前史として (2015.7.31掲載済)
1 私のうまれてきた時代
2 就職するということ 1964年 18歳
3 新入社員大学をめざす
第2章 1965年大学入学(19歳) (2015.10.23掲載済)
1 1965年という時代
2 大学入学
3 65年 御茶ノ水
第3章 大学時代─65年(19~20歳)(2016.1.22掲載済)
1 大学生活
2 雄弁部
3 婚約
4 デモ
5 はじめての学生大会
第4章 明大学費値上げ反対闘争(今回掲載)
1 当時の環境
2 66年 学費値上げの情報
3 66年「7・2協定」
4 学費値上げ反対闘争に向けた準備
第5章 値上げ反対!ストライキへ
1 スト権確立・バリケード──昼間部の闘い──
2 二部(夜間部)秋の闘いへ
3 学生大会に向けて対策準備
4 学費闘争方針をめぐる学生大会
5 日共執行部否決 対案採択
第6章 大学当局との対決へ
1 バリケードの中の闘い
2 大学当局との闘い
3 学費値上げ正式決定
4 裏工作
5 対立から妥協への模索
6 最後の交渉─機動隊導入
第7章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書 2・2協定
2 覚書をめぐる学生たちの動き

(以降、第2部、第3部執筆予定。)

【1960年代と私 第一部第四章】
四.明治大学学費値上げ反対闘争一一66年~67年-
1)当時の環境
1965年秋から66年秋へかけての私は、大学生活やその社会の内容をまだよく知らないままに「希望にみちた学生」として二十歳を謳歌していました。早大には友人がいたり、ネール記念杯の雄弁大会も早大の大隈講堂だったこともあり、早大に行くことが何度もありました。「早稲田大学は学ぶものすべてに門戸開放で、門がない大学なんだよ」と友人が案内してくれた校内をきょろきょろ見まわすと、明大の数倍の数の大きな立て看板があちこちにあります。アジテーションやデモありの、騒然とした大学だという印象を受けました。65年当時の早大は、学費値上げ反対闘争の真っ最中だったのです。「あれが大口議長だよ」と友人に言われてみると、体育会系のような若者が、ハンドマイクでアジっていました。まわりには立っている人も座って聞いている人も、そのまわりを横切る人もいて、バラバラでのびやかな雰囲気だったように記憶しています。でも、後で聞くと、早大は党派間のゲバルトが激しくて、のちに大口議長も暴力の犠牲者のー人となったようです。
学費値上げ反対闘争は、その前に慶応大学でも始まっていたようでしたが、私が知るのは早大闘争からです。学費値上げ反対闘争は、社会的・客観的なさまざまな要素をもって慶応・早稲田から全国へ広がっていきました。当時の経済成長路線は、アメリカ流の大量生産・大量消費へと向かう上昇過程にありました。生産手段の更新をもって本格的に産業構造の「革新」を始めていました。そして、それに見合った「期待される人間像」や産業にふさわしい教育再編・管理統制を求めた文部省の指示がありました。大学は、戦後の新しい教育を求めて出発しながら、私学は慢性的赤字だったようです。「社会的要請にみあった大学」という名目で国の助成金も、いわゆる「ひもつき」で大学の管理が強化され、「産学共同路線」に向かって進みました。「真理の探求」は二の次で、大量生産大学化と、学費値上げによって経営を立て直そうとする動きと重なります。
学生運動においては、60年安保闘争を闘ったブントは“四分五裂”し、「安保が潰れるか、ブントが潰れるか」といわれた停滞期を脱して、新しい流れが形成されていました。大管法やベトナム戦争に反対する国際的な動き、また日韓条約反対、アジア再侵略を懸念しての日本の戦争責任を問う動きなどです。
こうした新しい流れに乗って、これまで活動してきた反日共系の学生が、都学連からさらに全学連結成へと、学生運動を再統一していく動きの中に、明治の学費闘争がありました。全学連再建と、明治の学費闘争は不可分な関係にあったのだと、歴史的にとらえ返すことが出来ます。このとき再建された全学連を中心として、今後進むべき道を明大学費闘争の中で問われたといっても過言ではありません。「革命を目指す」党派と「自治を基盤とした学生運動」が相対的別個の運動方向を持ちうるか否かが、明大闘争の中で問われていたのです。言い換えれば、党派政治に学生運動が収斂されてしまうか否かの分かれ目に、明大学費闘争があったということもできるでしょう。
当時の明治大学は、一部(昼間部)2万5000人、二部(夜間部)1万人の計3万5000人の学生が学んでいました。神田駿河台、生田、和泉と三地域に校舎は離れていましたが、二部は神田駿河台にありました。私は1年生の秋か2年生のはじめ頃から、二部サークル連合の「研究部連合会」(略称研連)の執行部にいました。この研連に所属するサークルは、幾つあったか思い出せませんが、20ほどあったと思います。働きながら集い、研究したり趣味を深めたりする「研究部」(サークル)です。その連合体の執行部にいたのです。
この研連は各学部自治会同様の自治会の位置にあり、その上に全学自治会として、学苑会中央執行委員会がありました。学苑会は1年に1~2回、6月と11月ころ学生大会を開き、総括と今後の活動、予算、人事案を示し、その信任を問います。各学部と研連の大会はそれぞれが別個に開かれます。全学大会の代議員は各クラス代議員が一票の権利をもつように、サークルも一票の権利をもって参加します。
当時は、文学部と政経学部の自治会執行部が反日共系で、学苑会全体は日共系でした。そのため、全学生大会では、いつも日共系が勝利しています。そこで政経学部と文学部はボイコットしたりしていました。日共系はボイコットに対抗して「政経学部自治会民主化委員会」、「文学部自治会民主化委員会」をつくって、全学大会への参加を呼びかけます。文学部史学科の私のクラスでは、65年の学生大会では、クラス決議で大会にはオブザーバーとして参加し、様子をみると決めていました。ところが、クラスの民青のある人が勝手に代議員席に座っており、クラスのほとんどは日共系の「ずる」に怒りました。同時にこれまでも大会がズサンに運営されていたということが分ってきました。私は真面目に活動して学生を味方につけ多数派工作をすれば、日共に負けるはずはないと思ったものです。
研連も「日共系」と目されていました。 研連は日共系の学苑会中執を認め、党派的なことに興味もなく、そうした動きをしなかったからです。研連執行部は、各サークルの円滑な運営と助成金や学生会費の総額から、予算折衝を行なって、各サークルに配分すること、大学祭や各サークルの行事の支援などが主な活動です。もちろん二部の学生は、当時の政治情況から、みな政治意識はしっかり持っていても、党派的なセクト主義的動向には興味を示さないというところでした。
私は1年生の学生大会の経験から、3年くらいかけてきちんと真面目な自治会活動をすれば、学苑会執行部も反日共系が掌握することは可能だろうと思いました。ただ、政経や文学部自治会では、そういうことを現実計画として考えたり行動したりする学生がいず、自分たちの自治会を民主化しようと介入する日共との争いで精―杯でした。私は日共系のあきれた学生大会を現認して以降、研連から変革を求めれば、必ずどの学部にも声を届けることが出来るので、やってみようと思ったわけです。大学の雄弁会も一度やってわかったし、学生大会をひっくり返すことに熱中する正義も、やりがいあると思いました。クラスの友人に話すと「君、オールスター戦の野球やゲーム感覚みたいに言うねえ」と驚かれました。でも正義の実現の一つと真剣だったのです。そこで、自分の所属する文学研究部に、私を研連執行部に派遣するよう推薦してほしいと、言いました。確か、まだ1年生かこれから2年生になるところで、誰もやりたがらない研連の執行部をやるという奇特さは、数十人の部員から、不思議に見られたでしょう。ことに政治意識は十分にあっても文学的表現を模索するサークルだったので、幹事長(研究部の長を当時、幹事長と呼んでいた)はびっくりしていました。
数日後、幹事会の話し合いで、本人が主体的にやりたいなら、部として推薦しようということになったと、推薦を決めてくれました。そして、研連大会を経て、65年11月(か66年初め)くらいに、研連の執行部の副事務長に入ったわけです。その後事務長になりました。各サークルの 意見や希望、トラブルを集約し、対処する役割です。
研連は、党派的な自治会より健全で、活動の領域が広くありました。教育研は教師になりたい学生の研究機関のようだし、政治研は社会党系の学生の集まりともいえ、マックス・ウェーバー、ルソーから基礎的な学習会をやっていました。近代経済研はケインズ政策を研究していました。社会科学研には日共系のマルクス主義者が多くいました。他に空手部やジャズ、軽音楽、演劇部、文学研、雄弁部、地理研、歴史研、法学研など多岐にわたります。というようなわけで、各研究部には、やる気のある自主的な人びとが集まっています。
みな一様に授業と勤労の合間の貴重な時間を注いで真剣に活動し、各学部を越えてサークル活動に参加しています。それだけに、研連執行部の訴える企画や要請に、多くが参加します。日共学苑会執行部もとても友好的でした。
研連に入ってわかったのですが、反日共系から「日共の牙城」とか「民青のいいなりの研連」と聞いていたのですが、そんなこともありませんでした。研連執行部も、社会科学研究部と民主主義科学研究部など日共の牙城といわれるサークルから研連執行部に来ていた人は民青のしっかりした人でしたが、それ以外はそうではなかたのです。反日共系の人びとのやりかたの幼稚さで、結局「敵」としてしまっていただけでした。それに、研究部の中には、職場で社会党系や協会派系の組合運動をやっている人も多く、「日共系執行部」の学苑会には別段かかわらないという学生もいました。
掘り起こせば、いろんな人がいました。夜学研も夜間大学の向上を都レベル、全国レベルで、どう行なっていくかなど研究している、真面目な良識派の人びとが多くいました。執行部に加わった新米の私は、夜学研や政治研、雄弁会やジャズ、軽音楽研などの仲間と、夜間大学での研究活動の条件の拡充(予算・場の確保・昼間部との調整)などに楽しみながら、尽力しました。
66年には新築になった学生会館が開館しました。3階には学苑会(二部)、学生会(一部)、文化部連合会(文連一部)、研連の各執行部室が割り当てられました。日共系の学苑会、ブント系の学生会も文連も、3階に一緒です。研連は文連と連携しやすいこともあり、大学祭(駿台祭)の準備が盛大に行なわれました。この年はまた、大学が創立85周年(明治法律学校)の記念行事を大規模に企画していました。 一方で、学費値上げの話が出てきました。
65年から学生部長の任にあたられた宮崎繁樹先生の「雲乱れ飛ぶ」などを資料に参照にしながら、当時は知り得なかった事情なども含めて現在から捉え返してみたいと思います。この著作「雲乱れ飛ぶ」は2003年10月21日に発行されました。私家版限定200部です。余談ですが、この本に先立って明大の当時の学生自治会(一部)の米田隆介、大内義男、斎藤克彦氏らが明大学費闘争の記録を残そうと、宮崎先生を含めてその作業に入りました。2003年4月26日には、当時の明大記念館のあとに建てられたリバティータワーの演習室で、明大学費闘争のシンポジウムも開催されて、活発な討議が行なわれたそうです。しかし、執筆の過程で、斎藤克彦氏らと宮崎先生との見解が相入れず、また原稿が集まらず、本とはならなかったようです。そこで、宮崎先生は当時の学生部長としての立場から、「雲乱れ飛ぶ 明大学園紛争」を執筆、自家出版され、米田隆介さんが「明治大学費闘争資料集」としてまとめました。米田さんの労作には、学生側の生の資料と学費闘争に参加した人びとの経験談が載っています。私も獄中から参加して一文を寄せています。それらを参考にしながら当時を現時点で、俯瞰的にとらえながら明大学費闘争をふりかえってみます。

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(明大記念館:72年入学案内より)

2)66年 学費値上げの情報 
明大の理事会は、財政状況の悪化にもかかわらず、長年なんらの対策をたてずにきました。学費値上げも考えても実行せず、財政悪化は慢性化していたようです。理事長は第3代日本弁護士連合会会長、日本国際法律学連絡協会会長の弁護士・長野国助。総長は武田孟、学長は小出廉治で、比較的民主的な考えを持つ方でした。小出学長は、自ら60年安保当時、学生に国会へのデモを呼びかけて、大学をロックアウトし、紫紺の校旗を掲げたデモの先頭に立った人として知られていました。
宮崎先生の著書によると、65年の教職員の新年会で、武田総長は学費値上げを考慮せざるをえない時機にきていると言明されたそうです。「1965年の5月24日に昭和41年からの値上げ方針を理事会で決定したが、早大紛争におじけづいたのか、11月20日になって『値上げ断念』を表明したのだった。その為、昭和42年度は、どうしても、値上げせざるをえない状況に、大学側は追いつめられていたのであった」(『雲乱れ飛ぶ 明治大学園紛争』宮崎繁樹著)と記されています。 
65 年に学生部長に就任した宮崎先生は、小出学長に、「授業料値上げ問題について」という文章を提出したと記しています。その文章で、早大の反対闘争を教訓として、対処を諮る必要がある点を述べています。真の大学をめざすために、現状よい研究者の不足による学問の危機、負債にあえぐ財政の危機、政治的に中立たりえない大学の自治の危機、この3つの危機を解決するために一丸となるべきと宮崎新学生部長は訴えています。また、学費値上げのときを迎える学生部長として、66年には「護民官として」と立場を表明しています。「ローマにおいて政府から任命されつつも、民衆のために尽力した『護民宮』のように学生部長は職制上大学の機関ではあるが、学生を真に守る『護民宮』として行動しようと心に誓ったのだった」(同)と当時の心境をのべています。
学生の側は、66年の4月以降、新年度からの学費値上げが噂されており、一部学生会中執、二部学苑会中執とも、理事会に対して学費値上げをどう考えているのか、の打診を行なうようになりました。 「6月17日に学苑会(夜間部学生自治会)から、18日に学生会(昼間部学生自治会)から、それぞれ、学費値上げ経理内容公開を求め大学理事会に『団交』の申入れがあった。同月24日に、大学側と学生側との第1回話合いが持たれた。それはその10日ほど前、学外の『駿台荘』で理事会が開かれたらしいとの噂を学生側がキャッチしたからだった」(同)と、書かれています。
当時の和泉校舎の学生会のビラには、以下のようにかかれています。「学費値上げ決定か。六・二二大衆団交を勝ちとろう。 理事会は学生と話合いを! 全和泉の学友諸君!去る15日、理事会は一方的に学生の前に授業料値上げの決定を提出してきた。この授業料問題は、諸君が、充分承知のように、現在の日本の大学の最大の矛盾としてあり、その典型的なものとして、早大闘争があることは、理事会のみならず、学校関係者は、充分知っているはずである。そして、現在の明治大学においては、その矛盾を解決しようとする姿勢すら学校側には、見えず、ただ単に、他大学より遅れて値上げするのだから云々一一という形で、この授業料値上げの本質を隠蔽し、現在の段階においても、完全に学生を無視している。(中略)我々は授業料値上げには、絶対反対であり、反対しなければならない。なぜなら、この学費値上げが、大学のあらゆる矛盾の集中的な表現であり、具体的には、マスプロ教育の、あるいは、産学協同路線の方向の追及の発端であることは、明確であり、我々学生を商品として、単なる物として、機械的人間として、位置づけようとするものなのである。 学友諸君!真の大学とは何なのだろうか。それは、理事者達によって作られうるものであろうか。もはや、我々自身の手でしか大学の矛盾は解決できない時期にきているのだ!学生会中執、法、商、政経、経営、文、各学部、学生会」(「明治大学費闘争資料集」より) 
こうしたビラが、和泉校舎でも、神田駿河台校舎でも撒かれ始めました。 社会主義学生同盟明治大学支部が発行した『コミニズム』号外1966年6月23日号には「学費値上げは阻止せよ!阻止闘争の巨大な前進に向けて、歴史的な闘いの先頭に立とう!」と、訴えています。
その中で早大闘争の総括的視点として(I)早大闘争は、遂に大浜から、阿部に理事会指導部が交代したのを契機に終息過程に入り23日、全学授業再開によって、現象的には、事実上終わろうとしたと言える。(中略)闘争は、陣地織と街頭織との有機的結合も、決して民族主義的になしえないし、なしてはならない。個別資本(ないしは理事会)と、国家権力の一体化に対抗する我々の力量は、総学生の、それでなければならない。早大闘争の敗北的事態にいたった原因のーつは、全学共の民族主義的対応によるところが極めて大きい。もちろんこの場合、学生の意識及び、情勢の推移を考慮しない訳にはいかないが、問題は、いかに総学生の運動へと、意識的に指導するかであり、かかる指導の放棄に結果する敗北の原因こそ徹底的に暴露されなければならないのだ。(II)民青批判。早大闘争において「穏健派」と呼ばれブルジョアジーから事態収拾のもっとも頼りになる部隊として期待されたのが、民青である。かれらは個別資本(ないしは理事会)との闘いを回避し、反米・諸要求貫徹に闘争を解消し、党派的闘争に学内闘争を従属化し、埋没させ、闘いを意識的に分断した。また彼らは、戦術的方針として、圧倒的大衆から、支援されたストライキに対して、学内の秩序を破壊すると称して公然と反対し、利敵行為を行なったのである(中略)明大においても、早大民青の、あの犯罪的な役割を、明大民青は、再び演じようとしているのだ。彼らを闘いの戦列から追放せよ!」(同資料)と主張しました。 
この時代は、全共闘運動のような、少数派による占拠、自主管理、異議申し立ての時代ではありません。今から思うと、実に貴重なことなのですが、第一に「総学生」を対象として、徹底して民主主義のルールにのっとって学生自治会を運営していました。民主的な多数派工作がとても重要でした。抗議にも秩序がありました。第二に、早大闘争の敗北をまのあたりにした時代にあったことです。右翼による暴力、民青によるストライキの解除、国家警察権力の当局との一体となった自治への介入などなど、「次は明治だ!」と、ひしひしとした思いがありました。第三に日共民青との闘いです。当時の学生運動は、共産党の分裂(58年の共産主義者同盟の分裂のみならず国際派との分裂に続いて、中国派とも当時日共は党内闘争がはじまっていた)を反映していました。そのために、路線的にも日共系と反日共系では鋭く対立していました。日共の反米闘争に収斂していくあり方に対して、反日共は反独占の日本資本主義との闘争を中心にとらえるべきという考えに基づいて、日共の要求闘争(国庫補助や諸要求)を闘争の回避と批判しました。また国庫補助運動を教授会と共同して政府、文部省に行なうべき、という方針にも反対していました。もっと根本的な、日本資本主義の帝国主義的再編にともなう学校教育行政、そのものを問う中で、学費値上げ阻止闘争を位置づけて闘うべきだという違いがありました。
当時、一部は反日共系のブント・社学同が学生会中執を握っており、二部学苑会高橋中執は日共民青系が握っていました。そのため、両者の足並はそろっていませんでした。二部政経学部執行部はML派や中核派系やノンポリ、文学部はML派系とノンポリの反日共、研連執行部には日共系もノンポリなどもいました。 研連は法、商学部同様、日共系学苑会を正規の中執と、認めていたのです。

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(明大駿河台校舎9号館前中庭:72年入学案内より)

3)66年「7・2協定」
 学費闘争が具体的になりつつある6月ころから、徐々に上記のような一部と二部の執行部の路線の対立も顕著になっていきます。6月29日付の文学部学生委員総会の討論資料「レジュメ」には、次のように記されています。「学費値上げ何故反対するのか? 経営者の言う「私学の危機」とは何か?私学の会計は、御存知のように経常部と臨時部に分かれている。経常部(給料・研究費・図書費…等々)臨時部(建築費・借入金返済…等々)、いわば経常部は、我々学生・教職員に還元される部分であり、臨時部は、建築費など学園建設計画のための設備投資に使われる。現在「赤字」といわれるのは、この臨時部の予算であり、この設備投資は、我々学生・教授等、いや、大学教育を考慮に入れた計画ではなく、単に学生定員をふやす(もうける)ためであり、この設備投資で建てられた建物は、彼ら経営者の財産になるのだ。これで、生じた赤字を学生におおいかぶせるのが、理事会だ。・私学は、いかなる方向にあるのか。私たちが、この春以来闘った「大学設置基準」改悪、そして「教免法」改悪の闘いが、いかに学費値上げと関連しているのか。・現時点において何をなすべきか。この間は、私たちは、理事会に団交を申し込んできたが、理事会の、『決定していない段階において、学生と話し合いの必要を認めない』という不誠実な態度によって、団交は拒否されつづけている。私達は、このような理事会の態度を弾劾すべく、6月30日の、常勤理事会、7月4日のオール理事会で、学費値上げ決定阻止の闘いを組むことが、今、必要だと考える。一方、クラスにおいて、「学費値上」反対のクラス討論をより徹底させよう。」(同資料)
こうした流れの中で、学生と学長の間で、夏休み前に確約書が交わされました。これは「7.2協定」と呼ばれ、明大学費闘争の出発点となりました。「確約書 本年6月24日と、7月2日の2回にわたり大学当局と学生会は、昭和42年度の学費問題について話合ったが、本7月2日に至りこの問題について次の確約をみた。 確約一、昭和41年9月以降大学当局と、学生会の両者は、昭和42年度の学費問題について話合う。尚、この話合いの前提として、昭和42年度の学費値上げについては、値上げするという基本方針決定以前に話合い、事情によっては、昭和42年度の学費は、値上げされない場合もある。昭和41年7月2日(法人理事会を代表として明治大学学長小出康二、 明治大学学生会中央執行委員会 委員長中沢満正)」
ところが、7月7日付の明治大学新聞には、法人理事会は6月13日に駿台荘で、「かねて法人企画室でまとめていた資料をもとに学費改訂の具体的対策に着手。翌14日第一会議室で、教員出身常勤理事を中心に、学内、特に学生に大きな影響を持つ教員対策を協議、翌15日、学部長会議に全役員が出席して、学費改訂を伏線として、法人の経営・財政実情の資料を配布した」という記事が掲載されました。このことは、学生に対して確約した内容と違っており、大学当局が、二枚舌をつかっていることを暴露しました。
学生側は抗議し、不信をもちました。7月24日、理事会は教職員に「本学財政の現状について」という小冊子を配布したのだそうです。宮崎学生部長は当時を次のように述べています。「現在明治大学の経常部予算収支は、赤字である。昭和41年度授業料収入は約15億9200万円で、収入総額の62.4%をしめ、その他の入学金2億8500万円、試験料3億1800万円、その他の収入、1億7000万円を加えても23億6500万円にしかならず、25億5000万円にのぼる必要経費をまかなうことは出来ない。支出の76.4%は、人件費、19億6500万円、研究・教育経費は11.6%の2億9500万円、その他一般経費は、11.5%の2億9300万円というのであった。明言はしていないものの、常識的には、学費値上げが必要であることを窺わせた。建築等にかかわる臨時部予算においても、借入金が収入の40.6%にあたる4億2800万円、学費が19%の2億という危機的状況であった。学生が負担する授業料、入学金、施設費の総額を昭和41年度の他大学と比較してみると、文科系について、慶応義塾大学49万円、早稲田大学42万円、立教大学45万円、同志社大学39万円に対して、明治大学は27万円であった。理科系についても慶応義塾大学69万5千円、早稲田大学68万6千円から71万円、立教大学61万円から67万円、同志社大学55万円に対して明治大学は40万4千円から41万2千円であった。(「雲乱れ飛ぶ」より)

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(明大駿河台校舎空撮:72年入学案内より)

4) 学費値上げ反対闘争にむけた準備
 こうして、一部も、二部も、夏休み明けには、学費闘争を必然と考えた体制づくりに入りました。私たち研連は、8月、明治大学信濃寮での研連合宿を行ないました。その中で、学費値上げ問題を問う分科会を特別にもって、討論を行なうこととしました。日共系・反日共系の論争の場を提供しながら、次の闘いに向けた準備にかかりました。当時、政治研究部の顧問は田口富久治教授であったので、彼にも、合宿の参加をお願いしました。二部の学生たちが時間をとれる時期は限られており、合宿は貴重です。その中で、教育研を中心とした教育問題やベトナム反戦闘争、中国の評価、大学の自治などいろいろのシンポジウムを組みましたが、メインは学費闘争関連でした。 
この合宿での論戦をふまえて、研連としての学費闘争に対する方針を固めることになっていたので、私は政経学部や文学部の中核派の人やML派にも参加を求めました。日共系は社研を中心に準備して来ていました。彼らは、反米独立闘争に基づいて国会で、日共の多数派形成のための選挙支持を拡大する日共の当時の路線に沿って、国庫補助要求をすることを主張しました。そして、ストライキは全学投票にかけるべきだ、と主張していました。
反日共系の側は、日帝は既に復活しており、独占資本が自己の利益のために日米安保を求めて、海外進出を進めており、こうした帝国主義的再編の教育行政の中に値上げ問題があると主張していました。そして、総学生との連携第一で、昼間部とも共通した闘いを組むことを主張し論争になっていました。
両者が白熱してやりあっていたときに、田口教授が反日共系の学生に向って、「それじゃあ君らは、大学で革命をやろうといってるんだね?!ハッハッハ!」と、大笑いをしたので、みな一瞬沈黙しました。なぜなら、政研では、田口先生は日共の御用学者じゃないからと参加してもらったのに、この発言で社研の民青が勢いづいてしまったからです。今から考えると当然の、田口教授の指摘なのですが、反日共系の学生は「なんだ、田口は。日共と同じじやないか…」などと憤慨していました。 こんな討議を経て、夏休みを終えたのです。
研連執行部はこの合宿で、反日共系的な考え、ことに一部と二部のストライキ方針が連ったら、二部がストライキを排除するような方針を採るべきではないという考えを固めていきました。また全学投票は無責任であるから、これまで通りの学生大会による決定を求めることにしました。
 夏休みあけの9月から、全学、学費値上反対闘争の情宜活動を広げ、活発な討議が行なわれていました。 一方で、全学連再建準備結成大会が進みました。学生部長の宮崎教授の「雲乱れ飛ぶ」を参考にしながら、全学連再建準備大会の状況を要約すると、以下のようなものだったようです。
9月に入って学生会中執委員長から10月8日、9日の両日、神田記念館講堂において、全国自治会代表者会議(全学連再建準備会結成大会)を開催したいとの願い出をうけて、宮崎学生部長は、記念館の使用を許可しました。ところが、9月22日に清水谷公園においてベトナム反戦集会(全学連第一次全国統一行動)が開催された際に、全学連再建派とそれに反対する革マル派との間で大乱闘が起こり、多数の負傷者を出し、早大でも乱闘内ゲバが起こったので、当然、明大記念館での混乱も予想されました。そこで、学生部長は、学生側から混乱を起こさない旨の確約書をとり、学生部総動員で警戒にあたります。
第一日目は、午前6時から26大学、56自治(会)が、この大会に参加。正門付近に社学同系学生、2号館前に社青同系学生、通用門付近に中核派学生300人くらいが座り込み、棍棒を旗に包んで数個所におき、ヘルメット着用もみられたとのこと。7時半ごろに早稲田大学から革マル派学生150人ほどが出発したとの情報が入ると、棍棒を持ち出し、小石や瓦を集めて闘う体制に。
学生部長としては8時半に授業が始まるので、正門を開くことを通告。その間にも早大、中大から革マルの動きが伝えられる。15時に学校側の警備の間をぬって、革マル派学生200人が構内に入りこんで、全学連再建大会中の記念館前で、ジグザグデモを行なった。学校側は、記念館内の学生に手を出さぬよう呼びかけ、革マル派学生には構内から退去を求めて、学生部長以下身体を張って、機動隊は大学に入れないよう監視していたようです。
革マル派系学生は、 40分ほどのデモンストレーションをして、機動隊に囲まれながら早稲田に戻ったとのこと。2日目の10月9日も午前5時半から、主催者側の全学連再建派の学生が何百人も集まり、各々ジグザグデモを行なって、気勢をあげながたが、2日目は襲撃もなかったらしい。
私は明治の学生とともに、この光景を見学していました。(もしかして、以下の私の記憶は、一日だけあったやはり明大記念館の12月18日の、全学連再建大会本大会の記憶とごちゃごちゃになって混同しているかもしれません。12月再建本大会は、記録では、35大学・178自治会参加です。)壇上には事前の党派間の話合いで決まった議長団がおり、自派の演説がはじまると、ワっと、拍手して「異議なし!」と騒ぎ、他党派の演説を野次ったりしていました。自治会単位の全学連再建大会のはずが、党派集会の競合そのものでした。乱闘になると後方に陣取ったML派の畠山さんが群を抜いたすばやさで、群がる人の肩などを踏み越えて、小競り合いを制していました。
記念館には1000人弱が集まっていました。自治会数はブント系が一番多かったのですが、動員数では中核派が最大勢力でした。こうして、自治会数を多く押さえて、全学連再建の主導権を握ったブントと、革マル派との党派闘争から全学連再建に積極的に役割を果たした中核派を中心に、競合した関係のまま全学連の再建が方針化されました。解放派をふくめて三派全学連と呼ばれますが、ML派、第四インター、青年インターなど自治会を掌握していない党派も加わっていました。
前年の日韓闘争国会デモでもリーダーシップを発揮していた斎藤さんは、都学連の委員長として、後にこの全学連の委員長として活躍しています。彼と明大社学同は、全国に範を示すような闘争として、明大学費値上反対闘争に立ち向かおうとしていたと思います。明大のためのみならず明大学費闘争は全学連を社会的に認知させるため、ひいてはブントのための闘いでもあったでしょう。9月に共産同統一委員会とマル戦派が合同して、第二次ブントを結成して初めての大きな活動が、この全学連再建準備会結成大会でした。こうした背景を背負って明大学費闘争が始まります。

(つづく)

【お知らせ 1
来週のブログとホームページの更新は、10・8山崎博昭プロジェクト6月イベント準備作業のためお休みします。次回は6月10日(金)です。

【お知らせ 2】
10・8山崎博昭プロジェクトでは、6月に以下の講演会を開催します。多くの方の参加をお待ちしています。是非、お申込みください。
◎10・8山﨑博昭プロジェクト第4回東京講演会◎
戦争に反対する講演と音楽の夕べ
日時:2016年6月11日(土)  18:30開場、19:00開演
会場:文京区不忍通りふれあい館(東京都文京区根津2-20-7 電話03-3822-0040)
第1部/講演:「市民が戦争と闘った時代」
講師:和田春樹(元大泉市民の集い代表。歴史家。東京大学名誉教授)
第2部/音楽ライブ「明日」
出演:詩と音楽のコラボレーション集団VOICE SPACE
   小林沙羅(ソプラノ)、小田朋美(ピアノ・ボーカル)、豊田耕三(アイリッシュ・フルート)、関口将史(チェロ) http://voicespace.wix.com/voicespace
(注:東京芸術大学音楽学部の学生、院生、卒業生を中心とした現代詩を研究する音楽グループ。2004年に発足。)
参加費:¥1000 
主催:10・8山﨑博昭プロジェクト
お問い合わせ・予約:E-mail: monument108@gmail.com

◎山本義隆監修「ベトナム反戦闘争とその時代─10・8山﨑博昭追悼」展◎
期日:2016年6月7日(火)~12日(日) 11:00~19:00(土日は18:00まで)
会場:ギャラリーTEN (東京都台東区谷中2-4-2  電話03- 3821-1490)
1960年代から70年代の日本のベトナム反戦闘争を記録写真と資料でふりかえる展覧会を開催します。写真家の北井一夫さんの協力を得て、10・8第一次羽田闘争の弁天橋の連続記録写真を初公開します。

主催:10・8山﨑博昭プロジェクト/協力:60年代研究会(代表・山本義隆)
入場無料

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