昨年5月28日、「ベ平連」の元事務局長、吉川勇一氏が逝去された。No390で吉川氏を追悼して、「週刊アンポ」第1号に掲載された「市民運動入門」という吉川氏の記事を掲載したが、この記事は連載記事なので、吉川氏の追悼特集シリーズとして、定期的に掲載することにした。
今回は「週刊アンポ」第8号に掲載された「市民運動入門」第8回を掲載する。

この「週刊アンポ」は、「ベ平連」の小田実氏が編集人となって、1969年11月に発行された。1969年11月17日に第1号発行(1969年6月15日発行の0号というのがあった)。以降、1970年6月上旬の第15号まで発行されている。

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【市民運動入門 第8回 個人の自発性と個人主義 吉川勇一】
   ベ平連はよく個人原理ということをいう。市民運動一般がそれを重視する。私はそれを自主性、自発性のことだと理解していた。
 このことはイデオロギーとしての個人主義ではないし、またもちろん、自分勝手、他人のことは一切知らずという無責任な態度のことでもない。ありとあらゆる機会にいったり書いたりしているのだが、ベ平連にしても、いわゆる市民運動にしても、異なる思想や立場をもつ人びととの共同の行動の場なのであるから、そこに一定の世界観・社会観を求めてはならないのであるし、あるはずがないのである。
 それなのに、市民運動を「市民主義」などとまず規定し、「積極的な世界観・社会観をその基礎にもっていさえしない」といって批判したり、さらにそれでも何かあるのではないかと探しまわったすえ、「個人主義(およびその現代的ヴァリアントとしての主我主義)こそが市民主義のイデオロギーの基礎に横たわていると言える」などと断定してそれを非難している人が相変わらずいる。(半田秀男論文・芝田進牛編著「現代日本のラディカリズム」所収)
 市民運動を「市民主義」「個人主義」にもとづくものと規定し、「人間の社会的闘争を階級闘争として見、階級闘争を創造的なー歴史を発展させるーものとして見る見方への道は閉ざされて」いる(同書225ページ)というにいたっては現実の運動とまったくかけはなれている。反戦市民運動がたどってきた軌跡をみてみればその中の一人ひとりにとって、自主的・自発的に現実の社会に存するさまざまな問題にとり組み、行動をおこすことによって、個々の問題をつないでいる諸関係を認識し、さらに全体的な構造、階級関係の把握にいたる過程でそれはあったし、あることは明らかあろう。
 ただ、市民運動は大衆運動であり、決してある特定のイデオロギーや階級意識を参加者に前提として要求したり、あるいは注入することをあらかじめ意図するものではない。こんなことはまったくの自明のことであり、今さらいうのは恥ずかしくなるくらいだ。

<組織者としての責任>
 個人の自主性、自発性ということが個人主義や自分勝手ということではない以上、運動の中での他の人びととの関係が当然考慮され、自分の行動の選択がそれとの関連で律せられてくるということである。
 行動がある。集会でも、デモでも、ビラまきでもいい、自分一人だけでゆくのではなく、人をさそう。さそえば、そこでは自分と、自分がさそった相手との関係が生じ、それが自分の行動に影響を与えるはずである。単に一人で個人的に参加した場合とは違った新しい状況が生まれているのだ。自分以外の人を行動にさそうということは、組織者になるということだともいえる。
 十年前の60年安保闘争の中で、このことはすでに指摘されている。
 市民デモに対する右翼の攻撃があったことと関連して、荒瀬豊氏はこう書いている。
 「抗議行動が、直接的暴力にさらされる恐れがないほどに市民のがわが局面の主導権を握っているときには、それがあらゆる市民を結集するゆとりのある示威集団となることは当然でもあり、またのぞましい。しかし権力のがわからの無制限の反撃が予想されるときには、抗議行動の成員は戦闘にたえられぬ人に危害がおよぶことを、最初から避けていなければならない。市民の行動を組織し、ひろげ、ふかめようとするものには、つねにきびしい状況判断が要求される。鶴見和子は、この1ケ月のあいだ『声なき声の会』のある父親がとった行動を紹介している。彼は、6月4日までのデモのときには、子どもをつれて抗議に参加していた。しかし、6月11日以降は、局面の緊張を考慮して子どもを連れないでデモに行っている。(「子どもとアンポ」『作文と教育』8月号)この父親の行動をささえているものは、自分が連れてくる立場にある子どもに対する責任である。そこにはすでに、すべての組織者に要求される義務が、きびしく問いつめられ、実行されている。参加者が同時に指導者としての義務を感じ、指導者なき集団にやがて到達する芽が、ここにはあった。」(日高六郎編「1960年5月19日」岩波新書)
 自主的に、自発的に行動に参加するということは、決して自分一人の個人的満足のためではないのだから、他の人びとを誘って一人でも多くその行動に加わるよう求めるのは当然であって、そしてそのことは「組織者としての義務」の自覚にみちびくのであり、それが、前回に書いたような「6・15方式」を成立させる基礎にあるのである。
(つづく)

【お知らせ】
次週はお盆休みです。ブログとホームページの更新はお休みします。
次回は8月19日(金)の予定です。