「週刊アンポ」で読む1969-70年シリーズの5回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、「週刊アンポ」第6号に掲載された「高校生のひろば」の中から鳥取県立由良育英高校からの報告を掲載する。

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【由良育英高校における不当処分撤回闘争 週刊アンポNo6  1970.1.26発行】
 県立由良育英高校は、鳥取県の中部、大栄町にある普通高校です。この学校で11月の初め、文部省見解が出された直後に不当な処分が出されました。今もまだ、撤回闘争は続けられていますが、その中間報告をしたいと思います。
 10月28日、3人の生徒が学校をサボッて上京しました。3人はそれまでデモに出たなどの理由でしばしば学校側から注意を受けていました。家庭でも、そのことで口論が絶えず、とうとう、飛び出してしまったのです。
 11月7日、3人が帰郷し、父兄同伴で登校しました。3人は学校をサボッたことを反省していること、東京では政治活動をしなかったこと、などを言いました。学校側はそれに対して、その日の授業に出席しないように指示しました。しかし、3人は、出席できないという理由はないとして、出席しました。
 ちょうどその日、PTAの役員会が開かれました。その場で学校側は、「一部生徒の政治活動と学校側の指導要項」というパンフレットを配布しました。その中には、3人の上京を、はっきりと、政治活動のために上京した、として扱ってありました。このパンフレットは教頭が印刷したものでした。このデタラメなパンフレットのおかげで、PTAの役員たちは、「3人を退学させろ」と言ったようです。
 11月12日、3人に、無期停学の処分が出されました。驚いた3人の父兄は、直ちに校長に抗議しました。
 あくる日、30人の生徒が、校長に処分理由の説明を求めました。学校側はそれに対して、処分理由は、8日間の怠学行為だ、と言いました。また、PTAに配布したパンフレットはまちがいだったと認めました。しかし、教頭が「PTAの役員会では退学という声が多かったが、校長先生は人格のある方で、無期停学に決まった」と言ったため、生徒はカンカンになりました。PTAの役員会での声はデタラメな印刷物で作られたものだったからです。

<コロモの下から出たヨロイ>
 このあたりから、3人の処分は活動家に対する不当な政治的処分だということが、あらわれてきたのです。
 11月17日、日本海新聞社が、処分問題を取材に来ました。すると学校側は、あわてて職員会を開き、3人の処分を解除しました。この処分は、世間に知られると困るようなものだったのです。処分を解いた理由は、3人が十分に反省しているから、ということでした。しかし3人は学校の不当な処分に腹を立てて、反省文も書いていなかった。一人だけは書いていたが、その文には学校を批判する内容だけが書いてあった。停学中、一度も先生に会っていないものもいた。
 あくる日、日本海新聞にこの記事がのると、他の新聞社も取材に来ました。そのころ、あるPTA役員は、彼らと話し合って、処分が不当だということを理解してくれました。しかし、その後、PTA役員は、問題をうやむやにしたままでことを荒立てないように努めたのです。
 このころ、3人のうち1人、O君の家に、「おまえら家族が由良育英高校をこわしてしまう。脳天を割ってやる」という内容の、脅迫電話がかかってきた。かけた者は、少し酒に酔っているようでした。
 11月20日、代議員会で、この処分問題について臨時生徒総会を開くことを決定しました。大多数の生徒にも、これがただ単なるいましめのための処分でないことがわかってきたのです。
 11月22日、学校側は職員会で、生徒総会を開かせないことを決定しました。学校は、問題をもみ消そうとしたのです。
 11月24日、一部の学生の手によって、学校の決定に対する抗議集会が計画されました。しかし、急なことでもあり、わずか4、5クラスの生徒にしか、それを知らせることができず、場所もあいまいでした。それにもかかわらず、約50名の参加者があり、処分の実態を知らせることができました。同時に、代議員会で、生徒総会を開くことが再確認されました。しかし、その後も、学校は生徒総会の開催を許しませんでした。
 11月29日、島根県内の高校生の組織である、「島根県高校生共闘会議」としては、由良の問題は高校生全体の問題であるとして、大栄町由良で集会を開き由良育英高校までデモをしました。この集会に対しても、学校側は、裏工作をして集会場を借りられないようにしたのです。僕たちは、やっと借りることのできた農家の倉庫の2階で集会をひらき、約40名でデモ行進をしました。これに対して、由良の教師は、学校の入り口にピケを張ることしかできませんでした。(写真)

<生徒総会で処分の白紙撤回を求める決議をする>
 12月15日、無為無策の生徒会執行部に業をにやした7人の生徒が、ハンストに突入しました。あわてた学校側は、生徒総会を開かせることを約束しました。7人はその日の夕方には、要求を勝ち取って、ハンストを解除しました。
 12月19日、待望の生徒総会が開かれ、不当処分の実態を全校生徒に知らせることができました。その結果、処分を不当として白紙撤回を求める決議がなされました。
 その後、学校の態度は、まだ決まっていません。しかし、本当の闘争は、今始まったところだと思います。今回の処分は、東大闘争の発端となった不当処分のミニュチュア版といえるでしょう。
 今や、生徒管理に失敗した哀れな校長は、ご飯がのどを通らず、ビスケットばかり食べているそうです。もう、生徒を押さえつけることはできません。今後のなりゆきを見守ってください。
(鳥取県中部高共闘 T)


以上、「週刊アンポNo6」に掲載された記事である。
ブログ記事に関連して、ホームページに高校闘争のアジビラ2枚を掲載した。
福島県立磐城高校と福島県立磐城女子高校である。

明大全共闘・学館闘争・文連

このアジビラ見ただけでは、どういう闘争だったのかわからないので、2012年に発行された「高校紛争1969-70 闘争の歴史と証言」(中央新書:小林哲夫著)から引用する。

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『磐城高校
三里塚闘争とは、千葉県三里塚・芝山地区に建設を予定された成田空港に対する、地元農民の反対運動をいう。1966年に着工してまもなく、新左翼党派が地元農民を支援するようになった。71年9月16日には反対派による火炎ビン、投石、鉄パイプなどの襲撃で機動隊3人が死亡している。その地名から、東峰十字路事件と呼ばれる。
 71年12月4日。福島県立磐城高校では、教員60人が校内に張られたテントを次々と引き倒していく。テントにしがみつく生徒をかかえこみ、校門まで運び出した。校庭に怒号、悲鳴が響いた。
 きっかけは、9月16日の三里塚闘争に生徒5人が参加したことである。学校はこの5人に1週間から10日間の停学処分を科した。しかし、処分を受けた生徒のうち数人は登校し、処分撤回を求める集会。デモを行った。
 学校側はリーダー格の生徒(以下、リーダー)に無期停学を言い渡す。この間、全学闘争委員会(全学闘)が結成された。11月、全学闘の生徒は校内にテントを張ってハンストを行う。12月4日には校長室に乱入して大衆団交を求めた。しかし、学校はハンストを続ける生徒を退去させた。全学闘のビラは12月4日の様子をこう伝える。テントに「しがみつく生徒を蹴り上げ大勢でテントもろとも引き上げ校門までかかえこんで投げ落とすという暴挙を、信じられない程やってのけた」。
 12月6日、学校はリーダーを「正当な理由のない無断欠勤」で退学処分にした。
 リーダーはすぐに、「無断欠勤」は事実誤認、政治的思想弾圧、教員の職権乱用であるとして、福島地方裁判所に処分の撤回を求める訴訟を起こし、学校長を告訴した。72年5月、福島地裁は訴えを却下する。その理由の中には、「三里塚闘争に参加したことが欠席という所為の中に含まれているとしても、それをもって、欠席を正当化するものと認められない」(『判例時報』677)とのくだりがあった。三里塚闘争は学校が禁止している政治活動なので、正当な理由にならない、ということだ。79年に仙台高裁は福島地裁の一審判決を支持、最高裁は書類審査で却下した。
 なお、12月4日のできごとについて、福島地裁は判決理由で「学校側は実力でテントを撤去し、これにしがみつく原告らを校門外に排除した」と言及している。全学闘のビラに記された「暴挙」について、多くの生徒が目撃している。こうしたことが学校に対する不信に結びつき、これまで政治に関心がなかった生徒も運動に関わっていった。(中略)なお、退学になったリーダーは、現在いわき市議会議員を務めており、反原発運動に取り組んでいる。』

【お知らせ その1】
10・8山﨑博昭プロジェクトでは、2017年1月にベトナム・ホーチミン市のベトナム戦争証跡博物館で「日本のベトナム反戦闘争の記録」展を開催するため、クラウドファンディングを始めました。
今まで、プロジェクトの事業を進めるために、賛同人を募集し、賛同人の方からは賛同金をいただいていますが、この賛同金は、趣意書に書いてあるモニュメントの建立と記念誌発行のためのものであり、新たな企画であるベトナム戦争証跡博物館における展示の費用は含まれていません。
このベトナム戦争証跡博物館での展示にあたっては、資料の翻訳、資料のベトナムへの輸送、展示準備のためのプロジェクト代表者等のベトナムへの渡航費用など、かなりの費用が見込まれます。
そのため、今回、ベトナム戦争証跡博物館での展示のためのクラウドファンディングを始めたものです。
 クラウドファンディングの詳細は下記のアドレスからご覧いただくとともに、是非とも多くの方のご協力をお願いいたします。

【クラウドファンディングのページへGO!!】

ご協力をいただいた方には、お礼として、発起人である山本義隆氏の著書「私の1960年代」(要望に応じて自筆サイン入りも可)などを用意しています。

【お知らせ その2】
来週のブログとホームページの更新はお休みです。
次回は9月16日(金)の予定です。