今年は1967年10月8日の第一次羽田闘争から49年目である。49年目の10月8日、10・8山﨑博昭プロジェクト主催の羽田・弁天橋での献花の集いに行ってきた。

49年前は快晴だったとのことだが、この日はあいにくの雨。

集合場所は京浜急行空港線「天空橋」駅の改札である。駅に着いた時には、すでに十数人の参加者が集まっていたが、集合時間までに約30名となった。


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「天空橋」駅の改札は地下にあるので、エスカレーターを上って地上に出るとポツポツと雨は降っているが、傘を差さなくても何とかなる程度の雨だった。

このまま小雨程度の雨でいてくれればと思いながら天空橋を渡る。


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天空橋を渡りながら弁天橋の方を眺めると、遠くに弁天橋の鳥居が見える。



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川沿いを歩いていくと弁天橋が見えてきた。1年ぶりである。



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弁天橋の欄干のところから羽田空港に通じる橋の写真を撮る。


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弁天橋を渡って鳥居の前の広場に着くと献花の集いが始まった。

集いの前に、全員で1分間の黙祷を行った。



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広場から見た羽田沖の眺めである。

沖合からはカモメの鳴き声が聞こえてきた。



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献花の集いの司会は10・8山﨑博昭プロジェクトの発起人である辻恵氏である。

(弁天橋の上から警官が一人、こちらを監視していた)

辻恵(司会)「今日は10月8日。来年の50周年に向けて、お集まりいただいた皆さまからいろいろな思いを語っていただこうと思います。」



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最初にプロジェクトの発起人代表として山崎建夫氏から挨拶があった。

(以下、各発言者の発言要旨を掲載します。)



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山﨑建夫(発起人代表)

「今日はこんなにたくさん集まっていただいてありがとうございます。賛同人も増えて感謝しております。来年の50周年を皆さんと一緒に迎えたいと思います。よろしくお願いします。」

 

次に1967年10月8日に弁天橋で闘った方からの発言があった。


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K氏「僕は山﨑博昭君と一緒に、空港に行こうとする隊列ではなく、向こうからくる機動隊を追い返す隊列に配置された。高校の時から何十回とデモに行っていたが、我々の動きで機動隊が撤退していくのを始めて見たので、すごいことになっていると思った。

我々は防衛ラインを担当させられていたが、攻めていく方が気になって何回も振り向いた。山﨑君は隣にいた。山﨑君は『行きたい、行きたい』と何回も繰り返していたが、一人で行ってしまった。」

 

次にプロジェクトの発起人であり、10月8日の闘いをきっかけに、「10・8羽田救援会」を立ち上げ、その後の救援運動の中心となって活動した水戸喜世子さんから発言があった。



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水戸喜世子(発起人)

「今の話を聞いて、実は私の夫も当日参加していたんですね。私は小さい子供たちと、夜明けまで帰ってくるのを待っていて、夫は明け方に洋服が血まみれになって『やったぞー』と言って帰ってきた。山﨑君の死を聞いて、吉川勇一さんや羽仁五郎さんに電話をかけて、抗議声明を出そうという話が出てきました。本当に、いまだかってないくらい広範な人たちの共感を得た闘いだと思います。

今度のプロジェクトもあと1年です。皆さんのおかげて着々と進んできて、もう一歩ということろまで来ました。関西でも展示会と講演会があります。東京からちょっと遠いですが、関西でもたくさんの方に来ていただいて、今一度、若い人の中に、この闘いの意味が広がっていくといいなと思っています。」

 

辻恵(司会)「10月19日から24日まで、京都精華大学で展示会があります。10月21日の夜には大学で山本義隆さんに講演をしていただきます。また、11月26日には大阪で山﨑君と京大で同級生だった上野千鶴子さんに話をしていただきます。」

 

次に、当時の遺族の代理人の弁護士だった小長井良浩氏から発言があった。


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小長井良浩(発起人)

「私は学生事件の弁護はやっていなかった。労働事件をやっていた。ところが、弁天橋の闘争で学生が亡くなっているので誰か紹介してくれという話が来た。休みの日だったので誰にも連絡が取れず、亡くなっているなら自分が行かなくてはならないと決心して、これに参加しました。

誰かが言わなければ事実が間違って虚偽が伝わってしまう。車を運転していた日大の中村君も大変な被害者だったので、山﨑君とともに今度の記念誌に書かせていただこうと思っています。」

 

雨が強くなってきた。

最後に発起人の一人である佐々木幹郎氏から挨拶があった。


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佐々木幹郎(発起人)

「山﨑博昭と高校2年生の時に同級生、高校3年生の時にマルクス主義研究会で一緒でした。10・8当日は私は大阪にいて参加できなかった。山﨑君が死んだということをきっかけに追悼詩を出してから、あっという間に半世紀が経ちました。

ここの景観はどんどん変わっていきますが、弁天橋のこの地で、毎年、山﨑のことを思い出すのはとても意味のあることだと思います。

今日の午後の発起人・賛同人会議で、記念碑をどこに建立することに決まったのか具体的な報告をします。また、会計報告そして来年に向けて何をするのか、ベトナム戦争証跡博物館の企画がどのように進んでいるのかという報告もさせていただきます。2014年にプロジェクトが発足した時は、ここまで大きくなるとは思っていませんでした。着実に根を広げ、賛同人の方々も増えてきました。あと2~3年あればもっと大きな動きにできるという思いがあります。また来年もここで集まりましょう。ありがとうございました。」

 

辻「来年は2017年10月8日、日曜日にここで四たび、このような形で黙祷と献花の集いを開催する予定でおりますので、是非、皆様方も来年もお越いただければと思います。

本日はどうもありがとうございます。」(拍手)

 

献花の集いは終了。

雨が少し小降りになったので、弁天橋を背景に全員で記念撮影。



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これが献花です。

参加者が持ってきた花も並んでいます。



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記念撮影終了とともに雨が強くなってきたので、全員で献花の場所に移動。

献花は山﨑建夫氏が持って、献花場所に供えた。


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献花場所に供えられた献花です。


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来年はいよいよ50周年。

来年の10月8日は秋晴れであってもらいたいと思う。

 

(終)

 

【お知らせ その1】

10・8山﨑博昭プロジェクトでは、2017年1月にベトナム・ホーチミン市のベトナム戦争証跡博物館で「日本のベトナム反戦闘争の記録」展を開催するため、クラウドファンディングを始めました。

今まで、プロジェクトの事業を進めるために、賛同人を募集し、賛同人の方からは賛同金をいただいていますが、この賛同金は、趣意書に書いてあるモニュメントの建立と記念誌発行のためのものであり、新たな企画であるベトナム戦争証跡博物館における展示の費用は含まれていません。

このベトナム戦争証跡博物館での展示にあたっては、資料の翻訳、資料のベトナムへの輸送、展示準備のためのプロジェクト代表者等のベトナムへの渡航費用など、かなりの費用が見込まれます。

そのため、今回、ベトナム戦争証跡博物館での展示のためのクラウドファンディングを始めたものです。

 クラウドファンディングの目標額まであともう少しです。クラウドファンディングの詳細は下記のアドレスからご覧いただくとともに、是非とも多くの方のご協力をお願いいたします。

 

【クラウドファンディングのページへGO!!】

https://readyfor.jp/projects/AntiVietnamWarMovement

 

ご協力をいただいた方には、お礼として、発起人である山本義隆氏の著書「私の1960年代」(要望に応じて自筆サイン入りも可)などを用意しています。

 

【お知らせ その2】

10・8山﨑博昭プロジェクトでは、6月に東京で開催した「ベトナム反戦闘争とその時代展」を京都で開催します。今回は、東京展示会よりも更に規模を拡大した展示となりますので、関西在住の方々の来場をお待ちしております。

 

◎山本義隆監修「ベトナム反戦闘争とその時代─108山﨑博昭追悼」展◎

期日:20161019()24() 10:0018:00

会場:京都精華大学ギャラリーフロール (京都市左京区岩倉木野町137)


1960年代から70年代の日本のベトナム反戦闘争を記録写真と資料でふりかえる展覧会を開催します。写真家の北井一夫さんの協力を得て、108第一次羽田闘争の弁天橋の連続記録写真を初公開します。展示期間中、展示会場で毎日上映会を行います。

 

主催:108山﨑博昭プロジェクト/協力:60年代研究会(代表・山本義隆)

入場無料

 

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