「週刊アンポ」で読む1969-70年シリーズの7回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、「週刊アンポ」第12号に掲載された都立青山高校闘争のその後である。前回のブログの続編として読んでいただきたい。

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【上昇志向を喪失した彼らはいま 週刊アンポNo12  1970.4.20発行】
昨年秋の全国高校学園闘争から7ケ月あまり、各校とも一応平穏に新学期をむかえた。
 昨年の闘争主体であった当時の3年生は、ほとんどが卒業してしまい、現在は各校とも新3年生を中心にして活動を行っている。
 昨秋の闘争の火付け役ともいうべき、東京青山高校でも、全共闘の大部分を占めていた3年生がほとんど卒業したため、現在は、新3年生を中心とした新生全共闘がいわゆるシコシコ型の闘争を行っている。
 しかし、現在の彼らには昨秋のようないきいきとした姿は見られない。顔を合わせるたびに、「疲れた、疲れた」を連発する彼ら、彼らにとって昨秋の闘争とはいったい何だったのだろうか。彼らはこれからどのように生きてゆくのか。
 「高校生のひろば」では、“上昇志向を喪失”したといわれる彼らのその後を、青山高校の場合をみながら、4-6月闘争を目前にひかえた今、あえて追ってみたい。

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「闘争?僕にとって闘争とは何だったんだろう。自己の確認だったのだろうか。」
 卒業していった全共闘のN君は闘争をふりかえってこう語っている。
「僕たちの闘いは原点を求めての闘いだったのかもしれない。」
一学友の処分問題に単を発した青山高校闘争の中で、“原点”を求めて闘っていた彼らに対して、当然多くの弾圧、障害がのしかかってきた。
 彼らの闘いは、処分撤回、教師弾劾などと同時に、いかに生きるかの闘いでもあった。彼らは全生徒に、全教師に、そして自分自身にその問いをつきつけた。 
 数ヵ月あまりにわたる闘争の中で彼らは多くのものを得、また多くのものを失った。
 「教師との断絶は前から感じていましたし、『教師なんてあんなものだ』と思っていましたが、闘争の過程で特に校長なんかとの断絶を感じました。それは、結局卒業するまでついてきちゃって、クラスの謝恩会にも全共闘メンバーだけ呼ばれませんでした。
 やはり、ちょっとさびしいですが友だちなんてあんなものかもしれませんね」と語るS君の表情は心なしかどこかさびしそうだった。
 「バリケードは一個の“理想社会”だったなんて思わないけれど・・・。3年間の高校生活の中でそれだけが頭に残っていることは確かだ。でも、僕の場合、それが単なる想い出としてしかないような気がして・・・。そりゃあ、たしかに楽しかったかもしれない。でも、今の僕にはむなしさばかりが残ってしまった。」
 こう語るY君は。今はずっと土方仕事をしているが、彼は仕事をやっている時が一番楽しいという。

<その後なにがどうかわったか>
 これら全共闘のメンバーたちは、現在はほとんどばらばらになっているが、ときどきふらりと学校を訪れる。そして、校内をちらっとのぞいては前のボーリング場へと消える。
 彼らのほとんどは現在働いている。
 職場は土方からトラック運転手、自動車セールスマン、雑誌記者まで多種多様だが、主に肉体労働者が多い。
 「何とか夢中になりたい。」と異口同音に語る彼らは闘争のことをあまり話したがらない。
 一般生徒、シンパ層は、闘争をどうみているのだろうか。
 シンパと自己規定するIさんは「全共闘の闘いを見て、あらためて自分自身を考えるようになった。私自身も途中から参加したが、それは自分に対する反撥からだと思う。」と言っている。
 青山高校は闘争によって何がかわったのだろうか。
 4月からまた新しい校長が赴任した。教師も、例年の倍以上いれかわっている。また、カリキュラム編成にも変更があり、選択科目の中に独語、仏語、中国語(うち中国語と独語は希望者が少ないためとりやめになった)が新しく加わった。
 しかし、本質的には何も変わっていない。
 それよりも、新二、三年生の中で転校していく生徒が例年にくらべて非常に多いことに注目したい。
 その中のひとりS君は転校の理由を次のように語っている。
 「闘争の中で、いろいろ考えなければならないと思った。1年間ゆっくり考えたい。」
 転校生徒の大部分はたしかに、「青山では勉強できない。」という理由かもしれない。しかし、それらの中に多くのシンパ層がいることも事実である。
 これは何を意味しているのだろうか。
 彼らにできる唯一のプロテストなのかもしれない。

 <彼らはこれから>
 卒業していった全共闘メンバーはこれからどう生きてゆくのだろうか。
 T君はこう語る。
 「なるようになるだろう。その場、その場で思ったとおりに生きてゆく。赤軍のハイジャックにしても、なりゆきでそうなっていたら一緒にやっていたかもしれない。主体性なんかないと思う。すべて状況が設定されて、その中で人間はその状況にあった過去のデータのもとに生きてゆくのだと思う。」
 またN君も「闘争をへて未来への展望がなくなったのは事実だ。これからは、できる限り平凡に、めだたないように生きてゆきたい。僕たちの闘争は正しかったとは信じているけど。」と語っている。
 青高闘争は、いろいろなものを奪い去り、いろいろなものを残した。
 それをどういかすかは、闘争を体験したひとりひとりに課せられた今後の課題だろう。青高闘争とは何であったのか。その問いに対する答えは、何年かのちにでてくるものかもしれない。
 全精力をだしきってしまった彼らは、今年も“何かに夢中になろうとして”どこかをさまよっているのかもしれない。

【高校生戦線 70】
●3月21、22日、全国反帝高評結成大会が東京で開かれ、全国から400名あまりの高校生が集まった。
 大会では、68年9月市岡高校始業式粉砕闘争以後の、昨年秋の全国高校闘争、北高処分粉砕闘争などの総括を中心とした基調報告が行われ、全国中央執行委員会が確立された。
 また、4月―6月闘争を圧倒的に闘うことを確認して2日間の大会を終えた。
●3月25、26日、反戦高協全国大会が、32都道府県、1,600名の高校生を集めて東京の法政大学で開かれた。
 大会では、70年代闘争における高校生の任務、特に労働者、学生、高校生を3本の柱として、高校生の闘いを位置づけることなどを確認した
 また、4・28沖縄奪還デーを全国高校一斉ゼネストで闘うことを圧倒的に確認し、新議長に木村君(青山高)、副議長に太田君(泉尾高)を選出して大会を終えた。
●3月27、28日、全闘高連活動者会議が、全国から30名あまりの代表者が集まって、大阪で行われた。
 会議では、秋期決戦の総括と4-6月闘争の方針などが話し合われ、特に反帝高校戦線の組織化を進めてゆくことを確認した。
●3月30日、反戦高連全国大会が東京麻布公会堂で、24都道府県、100校、約700名の高校生が集まって開かれた。
 大会では、69年闘争の総括、70年闘争の展望などが討議され、反戦高協などプチブル急進主義者の破産に対する明確な対決、4・28沖縄デー拠点高ストライキなどを確認し、新議長に大高君(戸山高)を選出した。
●昨年秋、全校投票によって1ケ月の全学ストライキを貫徹した、大阪府東淀川高校では、3月の卒業式闘争を100名のボイコットで、演壇占拠などでかちとり、現在また4月以降の闘争をめざして学内闘争を闘っている。
 その他、市岡高、高津高、住吉高、春日丘高、清水谷高、夕陽ケ丘高、茨木高、阪南高、池田高などでも卒業式闘争を闘い抜き、全大阪高共闘を中心として。4・28をめざし、現在各校で学内闘争を闘っている。
(終)

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は2月3日(金)に更新予定です。