明大全共闘クロニクル(年代記)1970年6月の続きである。今回は70年安保闘争の月、1970年6月14日、15日である。
1969年6月の明大全共闘結成当初は代表者会議などが開催され、それなりに「全学共闘会議」という形をとっていたが、同年7月のブント内の内ゲバ(関東派と赤軍派)以降、明大全共闘の主流派であったブント内部の分裂、70年安保闘争をめぐるML派、反帝学生評議会など党派間の対立、内ゲバなどがあり、1970年に入る頃には、明大全共闘は事実上崩壊していた。党派主導の全共闘の宿命である。
そのような状況もあり、私は、69年後半から学外のデモや集会には、高校の仲間を中心としたグループで参加するようになった。6月のデモもそのグループでの参加だった。
6月14日のデモは途中から雨が降り出しズブ濡れになった記憶がある。

1970年6月14日と15日の記事が明治大学新聞に載っているので見てみよう。
【70年代闘争の第一歩踏み出す “新左翼”最大の動員 雨にぬれ、壮大なデモを展開  明治大学新聞 1970.6.18】
『6月安保闘争の前半のヤマ場、6・14、15は雨に濡れた。代々木公園は14日、新左翼の労働者、学生、市民が大結集し、これまでの最高の動員を記録した。見渡す限りのヘルメット、人の波。各セクトの旗。さまざまな市民団体のプラカードが公園を埋め尽くした。NON-「壮大なNON!」の雄たけびが日比谷公園まで雨を衝いて、響き渡った。
 翌日の15日には、3ケ所で樺美智子さんの追悼集会が催された他、池袋で反帝学評、フロント系学生がゲリラ行動を起こした。群衆を巻き込んだ闘いは、渋谷ハチ公前のビル、商店街で夜遅くまで「安保粉砕・闘争勝利」のシュプレヒコールが絶えなかった。

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<6・14>
 全国全共闘、全国県反戦、六月行動委など新左翼陣は「インドシナ反戦、反安保・沖縄闘争のための6・14大共同行動」を渋谷・代々木公園で開いた。
 この集会に先がけ午後1時半ごろ、武闘を叫んでいたML派は新宿から国電原宿駅に向かい、火炎ビン、鉄パイプで武装、駅近くで機動隊と衝突した。火炎ビンと投石で対抗したが、100人以上が逮捕された。
 代々木公園では、昨年の6・15統一集会を上回る7万2千人、新左翼としては最大の動員をみせた。また、革マル派も参加した。「共同行動」としては、まとまりがなく、あちこちで内ゲバが発生したが、さまざまな市民団体、プラカードも目につき、6月闘争前半の壮大な広がりをつくりあげた。
 集会は午後3時前に開始され、6月行動委員会、全国全共闘、全国反戦が、実力闘争の展開と個別闘争の結合を強力におし進めようと訴え、決意表明を行った。さらに樺美智子さんの母、光子さん、小西元自衛隊員などが挨拶、最後に長崎県反戦の反戦宣言を拍手で採択、インターの大合唱で終了した。
 統一集会の後、午後4時前デモ行進に移り、青山通りー赤坂見附―霞が関―日比谷公園のコースを激しい雨に打たれ、ずぶぬれになりながら、ダイナミックなデモンストレーションを展開した。
 デモの途中でも、ML派は火炎ビン、鉄パイプで機動隊と対抗した。国会前の霞が関ランプでは、装甲車が議事堂への道をシャットアウト。この装甲車に反帝学評の学生が“挑戦”。車の屋根によじのぼったりタイヤの空気を抜いたりして気勢をあげた。
 また、社共系団体も全国で17ケ所、1万7百人が集会を開いた。

<6・15>
 60年安保闘争において、国会に突入した学生と機動隊が衝突した事件で、樺美智子さんが殺されてから10年目の命日にあたる15日、全国各地で追悼集会やデモが行われた。東京では6・15実行委が日比谷野音で「6・15樺美智子追悼労学市民統一集会」を開いたのをはじめ、反日共系各派、市民団体ら合わせて30近くの集会やデモが行われた。
 一方、一部のセクトが、渋谷駅周辺で街頭武装闘争を展開したため、同駅周辺は夜半まで混乱が続き、200名以上が公務執行妨害などで逮捕された。
 日比谷野音の統一集会は、中核系学生、反戦青年委などを中心として午後7時から開かれ、樺さんに1分間の黙祷をささげた後、200名ほどが国会南通用門まで追悼献花デモを行った。
 また、この中核派のカンパニア闘争と対比をなして、反帝学評、フロントらのセクトは渋谷駅周辺でゲリラ的に道玄坂上交番を襲撃、火炎ビンや石を長手機動隊と衝突した。まもなく、渋谷・宮下公園で集会を開いていた全共闘系学生ら数百人がこの知らせを聞きつけてかけつけ、群衆と一緒になって、追いつ追われつの“ゲリラ闘争”を繰り返したため、降りしきる雨の中、夜遅くまで混乱が続き催涙ガス弾が発射された。
 また8時頃、渋谷区役所前、山手通り、東大教養部裏門前などのはバリケードが築かれたことから交通は一時ストップされ、機動隊との攻防戦が行われたが、まもなく排除された』。

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【渦巻く反安保の叫び  明治大学新聞 1970.6.18】
<全てが反安保に向け 6・14ルポ>
『70年6月、この間、反安保戦線は、分裂に分裂を重ねるとともに、「反安保」から「反体制」へと、その闘争の質を深化させてきた。しかし、一方において「安保」は昨秋の佐藤訪米の際の「日米共同声明」によって、改訂期の6月を待たずして、すでに、自動延長の道は敷かれていたのである。
 6月14日、そんな遺恨を一心に秘めた「6・14労学市民総決起集会」が、六月行動委員会、全国全共闘、全国県反戦を中心として挙行された。
 4時頃、大会を終えた各セクトは、思い思いに、公園内でデモ行進を繰り広げた。色とりどりの旗が林立し、白・赤・青・黒のヘルメットの隊列がところ狭しと行きかった。
 原宿駅で機動隊とすでに一戦をまじえたML派の200名ほどは手ぬぐいの覆面姿で、片手に1メートル余りの鉄パイプを持ち武装態勢。“ゲバ抜き”を確認したという集会とはウラハラにここには緊張感が漂う。
 突然、あたりを取りまく人並がくずれ、石が飛びかった。
 「内ゲバだ!」と誰かが叫んだ。唐突なだけに皆、無我夢中で逃げまどう。中核とプロ学同との衝突をはじめ、この日は、ブント内部の戦旗派と叛旗派が分派闘争をめぐり、つばぜりあいを行うなど、随所で内ゲバが絶えなかった。
 「やめろ!やめろ!」「ナンセンス」と周りからしきりにヤジが飛びかった。そして、上京組のノンセクトらしい一人がつぶやいた。「内ゲバかア、頭にくるなア」。権力に向けるはずの鉄ツイが“身内”を傷つけ、果ては自分をも傷つけるー内ゲバ。無情なことがあってよいものか。
こうしている間にも、代々木公園を出発したデモ隊は、原宿駅前を通って青山通りに向かった。小降りだった雨もしだいと強まり雨雲が低くたれさがった。道路いっぱいに色あざやかなほど旗とヘルメットが目を打った。

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途中、原宿二丁目付近で、ML派学生100名ほどが突如、隊列を離れ、狭い路地に向かった。10数メートル入りくんだことろで、あらかじめ用意していたと思われる駐車中の車の中から鉄パイプとダンボール箱に入った火炎ビンを持ち出した。付近にいた学生と労働者の中から「ヨシ、ガンバレ!」と気合がかかり、拍手が鳴った。青山通りに抜ける交差点にさしかかろうとしていた矢先、あらかじめ待機していた機動隊が、黒山のように一斉に規制にのり出した。
近くの路地を逃げまどう学生、交差点からわずかのところにある善光寺の境内では、ML派のものと思われる鉄パイプ20本余りが私服と機動隊に発見された。

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6時頃、デモ隊の中の反帝学評の学生が赤坂見附にさしかかった際、赤坂東急ホテル前の外堀通りで機動隊のスキを突いて、隊列の向きを変え旗ザオをかざし戦闘態勢に入った。判帝学評とMLの一部が向きを変え終わるやいななや竹竿と盾がはげしくわたり合った。片側車線に車がジュズつなぎに立ち往生したため、制圧に手間取り、一時的な解放状態になった、石が飛んだ。必死になって竹竿を機動隊に向かって投げるが力及ばずしてとどかない。またそれを拾って投げる学生。何度か衝突したがいずれも歯がたたなかった。私服に追われて逃げる学生に、歩道の群衆の中に交じっていた私服数人がその学生に飛びかかった。まわりの群衆がそれを取り囲み、非難の声を浴びせた。「ヤメロ!なんで逮捕するんだ」「そうだ。ヤメロ」-風向きが悪いとみた私服は逮捕を断念。その学生を強く蹴り上げて退散した。
この後デモ隊は、高速環状線の下を通って国会方面に向かった。
この辺りから警備は輪をかけて厳重さを増した。デモコースから首相官邸になどにつながる道路には、かまぼこ型の機動隊装甲車が、寸分の隙間もなく並べられ厚いバリケードが築かれていた。小高い所から機動隊がデモ隊を見下ろしている。周辺は全面的に交通が遮断され、見守る群衆も数少なく、ただ閑散たる中を「安保フンサイ」「決戦ショウリ」のシュプレヒコールだけが無残にそれこそ無残に鳴り響いた。
国会議事堂がうす暗くなった闇の彼方から冷たいその姿を現した。一向に降り止まない雨をついて、たんたんとデモの波は動いた。今からちょうど10年前、この辺りは「安保反対」をさけぶ何万という学生・労働者でうめつくされた。
そして今、当時と同じような非情な雨が冷たく身をたたいた。物いわぬ国会南通用門には、やはり数台の機動隊装甲車、放水車が立ち並び、アリのはい入るスキもないほどに強固に固められていた。
デモ隊が通ってゆく。そのたびに「ドンドン」と鈍い音が聞こえた。
怨念。学生が装甲車をたたく音だ。反帝学評の一団がうず巻きデモを繰り広げた。一人の学生が旗竿を放水車の放水搭から顔を出している、機動隊をめがけて投げつけた。装備は頑丈でビクともしない。何度も繰り返す。そのうち、肩車によって一人の学生が放水ホースにしがみつこうとした。が、たちまちにして振り切られてしまう。執拗に何度も繰り返す学生。また、一人の学生がホースをつかんだ。必死に登ろうとするが出来ない。そのホースから放水が始まった。白い水が吹き出す。全身水を浴びながらももつかんだホースを離そうとはしない。「ガンバレ!」とまわりから声がかかった。車の下からも放水が始まった。なおも向かっていく学生。装甲車に何度も体当たりする学生。ステッカーをはる学生。と、突然、国家権力の象徴、国会議事堂から「・・公務執行妨害になり・・」と聞こえたと思うや「ダーン」「ダーン」と催涙ガス弾が不気味にサク裂した。デモ隊と見守る群衆へめがけて飛んだ。逃げる人、人。なおもサク裂するガス弾。この時、議事堂は叫んだのだった。
国家権力の厚いカベの前、たとえ装甲車によじ登ることが、体当たりすることが無意味であろうとも、必死になって何度もよじ登ろうとする学生の姿は、そんなことすら感じさせない何かがあった。
デモ隊は、代々木公園→青山通り→赤坂見附→外堀通り→国会南通用門を経て降りしきる雨の中に続々とデモコースの終着点、日比谷公園に到着していった。
6月14日、この日、内ゲバがあった。路線転換もあった。機動隊との衝突もあった。しかし、その全ての日が“反安保体制“に向けて交錯したものだったが、分裂低迷、そして飛躍。反安保戦線の足並みは決して一致していない。おそらく自動延長される「日米安保条約」は今後、両国一方の破棄通告で1年後、消えるものとなるし、”安保の行方“と”反安保勢力の行方“は今後いかに展開されなければならないか。
午後から降り始めた雨は、夜になっても降り続いた。日比谷公園で手短に総括集会を終え帰路につく学生、労働者。彼らにとって、いや日本人全体にとって、今日の日はいかに映ったのだろうか。
公園の草木が6月の雨にしっとりと洗い流されていた。』

<湧き上がる“情念”6・15ルポ>
 『60年6月15日、十数万のデモ隊が「安保反対・国会解散・民主主義擁護」の旗印を掲げ国会を取り巻き、突入した。右翼と官憲の襲撃と弾圧の中、そしてその時、樺美智子さんが権力の手によって虐殺された。
 十年後のこの日、十年前と同じく朝から雨が降りしきり、東京都内では樺美智子さんをしのぶ追悼集会が3ケ所で行われた。家族、友人などの「美智子さんをしのぶ6月の会」。全国全共闘、全国反戦、6月救援員会などで行われた「墓前祭」。日比谷野外音楽堂で開かれた「6・15樺美智子追悼労、学、市民統一集会」。権力に抗議したがために、人間一個の生命が権力の手によって、一匹の蚊をひねりつぶす程にも、なんの悼みもなく虐殺された“生きるために闘った生命”は十年を経た今日、その権力と闘う者にとって、60年安保を知らずとも、その悼み、いや、怨念はつきず、重い。安保体制がのしかかってくると同様に。
 この日もまた、東京は厳戒態勢の中、そして渋谷もまたその例にもれなかった。渋谷はこの日フロントが4時渋谷結集をうちだしていたのである。駅校内は私服の群れと、機動隊によって城塞のようにかためられていた。勤め帰りの多くのサラリーマン、OLはその異様な雰囲気に、わずかに自らの日常性に「安保」を感じたかのように、足早に「マイホーム」への帰途についていた。茶の間では「安保」が数分電波に乗って顔を出すだけだろう。彼らにも同様にのしかかっている「安保体制」を意識するのは、映像の裏にかくされたものを知るのはいつのことだろうか。
 6時頃、ゆったりとしていた機動隊の隊列が急にあわただしくなった。目黒方面からの山手線から緑ヘル(フロント)の50人ぐらいの一団が降りた途端、機動隊にビッシリと囲まれてそのヘルメットの姿は見えない。壁に押しつけられ、かぶっていたヘルメットが飛ぶ、前から、後ろから、横から、構内からでた頃には、服は破れ、体は傷つき、それでも隊列を崩さず進むデモ隊はなんら武装していなかった。フロント、反帝学評が集会を開いていた宮下公園にやっとの思いでたどりついた。

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 それと時を同じくして、東大駒場で「労学総決起集会」を終えたフロントの部隊が、井の頭線の神泉駅から、道玄坂交番にナダレこみ、鉄パイプ、角材、火炎ビンで襲撃していた。
同時に、渋谷を埋めていた市民、労働者、学生が湧きあがるように、「安保粉砕・闘争勝利」の叫び声をあげた。ほとんどそれは一斉だった。そしてそれはまったく自然だった。歩道の人びとは車道にあふれ、<期せずして>渋谷は“反安保”の渦巻きにおおわれた。
 機動隊が規制に出ると素早く歩道にあがり通行人と化す。横断歩道を渡りながらも「安保粉砕・闘争勝利」を叫ぶ。機動隊が引くとまた車道に人並があふれる。私服の向けるカメラを傘でさえぎり、突進してくる機動隊をその傘で突く。傘は彼らにとって最大のタテとなり、武器となった。
 機動隊の規制は歩道を通る人間も無差別的に攻撃しはじめた。逃げまどう学生、女性、アベックさえも容赦なく大楯で押し、足に打ちおろし、水平に構えた楯を所選ばず打ちつける。念りに満ちた顔、恐怖にひきつった顔、もはや、機動隊の暴走をトドめるモノはいない。権力の姿をまざまざと見せつけられる思いがする。
 渋谷駅構内につくられた機動隊“解放区”は徐々、徐々に広げられていった。自らの身を挺する闘いは悲愴でさえある。しかしそれにしても彼らの顔の何と明るいことか。この日の、この闘いは、11月のあの闘いの再現であり、縮小でしかなかった。だが、だが解放された街のなんと生き生きしたことか。狭い道を肩をふれあってしか歩めない道路は解放され、いまや凶器であるばかりか、鉛さえもまき散らし、人間をジワジワとムシバみだしている車は締め出された。彼らの明るさはその喜びなのだろうか。いつか彼らの世界が来ることを信じてだろうか。

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 かけまわる機動隊。歩道の側までかけてきた機動隊員がものの見事に転んだ。その瞬間、2メートルと離れていない所から転んだ位置で、人であふれた歩道に水平うち。幸いにケガ人はなかったようだ。ケガ人がなかったのが不思議なくらい。
 9時頃になると、渋谷の街は完全に機動隊に規制されてしまった。雨に濡れ、ドロだらけになった学生、労働者が闘い疲れたようにアチラ、コチラ。解放された街は数時間にして消えた。渋谷は、新宿、蒲田のように自警団こそ出現しなかったが、木刀を持った愛国党が4.5人出現した。その他も××協力会の腕章をつけたヤクザ風の若い男が数人、街角に立っていた。右翼に対する警察の寛大なさは国士館の学生などが公然と朝鮮高校生を襲い、警察はそれを警戒するどころか、逆に「朝鮮人高校生が襲撃する」という宣伝をすることによって最近とみにあからさまにしてきている。またどこかの「商店主」なのだろうか、ネクタイをしめた<紳士>が「コイツダ」と進言することによってなんの証拠もなしに逮捕し、「あのアベックが怪しいですよ」という一言でもって飛びかかる。カバンを開けさせ、身体検査をし、なにもないとわかっても、突き飛ばすありさま。権力に味方する者のみが唯一正しき世界。
 だが、こうしたことをよそに、催涙ガスにむせぶ学生にレモンを与える一人のオジサンがいた。いつも住民に敵対される学生にとって、それは思いがけないことであった。彼らはとまどっていた。そのオジサンは1台の車が壊されているのを、デモ隊がやったと思い写真を撮りまくる記者に、その車は事故でそうなったと抗議していた。抗議された記者はきまり悪そうにメモ帳を取りだし訂正していた。
 報道陣はこの日、デモ隊から徹底した反感を受けていた。いまやマスコミによる映像は警察によって利用され、自らが機動隊に暴行されることによってエゴイスティックにしか抗議しない報道、私服と一緒になってカメラを向ける報道。まさにマスコミに対するデモ隊の鋭い告発があった。権力によって守られる黄色い統一腕章。それは明らかに彼らのいう「報道の自由」とは、権力によって認められる「報道の自由」でしかないことを自ら認めたのであったから・・。
 街にただよう催涙ガスも、折れた傘も、ポツネンと転がっている靴も、あのサラリーマン、OLが翌朝通るころには片付けられ、雨が流してくれるだろう。しかし、人間の情念、怨念まで流し去ることはできない。
(八重樫記者)』
6月14日と15日が終わり、70年安保闘争も最終日、6月23日を迎える。
(次回に続く)

【お知らせ その1】
10・8山﨑博昭プロジェクト
ベトナムツアー参加者募集中!!
10・8山﨑博昭プロジェクトでは、8月20日から2ケ月間、ベトナム・ホーチミン市の戦争証跡博物館で「ベトナム反戦闘争とその時代」展を開催します。
これは、当プロジェクトと戦争証跡博物館の共催です。
当プロジェクトでは、展示会のオープニングセレモニーに合わせてベトナムツアーを企画しました。
ツアーには、当プロジェクトの発起人である山本義隆氏なども参加します。
発起人とゆっくりと話ができる機会でもありますので、この機会にツアーに参加してみませんか?
参加希望の方は以下のアドレスを参照の上、お申込み下さい。

「ベトナム・ホーチミン市戦争証跡博物館」展示会ツアーのご案内
http://yamazakiproject.com/from_secretariat/2017/06/02/3484
「ベトナム展示会ツアー」の申し込み方
http://yamazakiproject.com/from_secretariat/2017/06/02/3482

よろしくお願いします。

【お知らせ その2】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は6月23日(金)に更新予定です。