2009年5月に連載を始めた明大全共闘クロニクル(年代記)も、8年間連載を続けてきたが、今回が最終章である。
1970年6月14日と15日が過ぎ、70年安保闘争の最終日、6月23日を控えて、大学当局は突如として6月18日から23日までの全学ロックアウトを行った。
全学ロックアウトとなったため、私は6月20日から22日まで法政大学にいた。高校時代の友人が法政大学にいたため、高校時代の仲間のグループとともに、そこで23日に向けた準備など行っていた。
明大新聞に全学ロックアウトになった6月18日の記事が掲載されているので見てみよう。この日は、私は新聞の告知でロックアウトを知ったが、大学へは行っていない。

【抜き打ちロック・アウト 内ゲバ理由に18日から6日間 明治大学新聞 1970.6.18】
『18日、大学当局は「6月18日(木)より23日(火)まで全学休校とし、各校舎出入口は閉鎖します。詳細はテレホンサービスで承知願います」の新聞広告と掲示によってまったく突然にロック・アウトを行った。
それと知らず登校した学生はその告示板と「最近、学内外で他大学生を含む一部分の学生の暴力行為、業務妨害等が頻発している状況にかんがみ・・・」という告示によって、締め出された。
こうした大学当局のロック・アウトに対し、本校、和泉、生田各地区においてつめかけた学生の抗議集会が開かれた。和泉地区では1,000人近くの学生が集まり、ベ平連、反帝学評、MLなどを中心として弾劾集会を開き、11時30分頃正門の鉄扉を実力で解除した。しかし、かけつけた機動隊に排除され、5名が公務執行妨害で逮捕、1名が救急車で運ばれた。

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一方、生田校舎では、正門はロックアウトしたものの、生田寮側から学生が続々と登校し、9時頃約200人の学生が、高木工学部長を囲み追求集会を行い、12時頃集会を終えた。
 また本校では5時頃から抗議集会やデモ行進が行われた。

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(解説)
このような事態について大学当局はロックアウトの理由を「学生諸君へ」の文章で「最近『安保』の自動延長をめぐり、学内において一部学生の過激な行動と、学生各セクト間の主導権争いによる暴力行為が頻発」ということをあげている。しかしながら、それが決して「『安保』の自動延長をめぐった」問題ではなかったことは明らかといえる。その点において18日から23日までのロックアウトはいかに考えようとも不可解という声が強い。また、15日の生田における「寮闘委」の学生による生田学生課長などに対する「団交」要求を迫ったこともあげているが、これにしても、これは寮闘争の一環であり、そうしたところからは、そのような期間は出てこない。さらには18日における「寮闘委」の学部長会議への抗議行動にしてみても、それはすでに学部長会議で決定ずみであったといううわさもあり、またそれが事実でないにしろロックアウトの理由として掲げられることは基本的におかしいとみられる。
 このようにみてくると、大学当局の「ロックアウト」それも18日から23日までという期間はなんら納得のいかぬものであるばかりか、明らかに「6月安保」を機に盛りあがる「反安保」運動への弾圧であり、圧殺であるといわれてもしかたがない。大学当局が常にいう「力の論理」を認めぬという態度が、はしなくも今度の「ロックアウト」措置によって、自ら「力の論理」をもってしか臨んでいないことを露呈したとみるむきが多い。そして学生間に強い不信感を残したことは事実である。』

【薄れた大学側の警察アレルギー  6・17和泉の混乱から  明治大学新聞 1970.6.25】
<“オレ達の大学だ” 排除される学生に当局不信>
〇本学連合教授会は大学の自治と教育・研究の自由を守る観点から、新次官通達に対してつぎのような疑念と憤満とを表明するものである・・・(略)・・しかるに、当局の単なる治安対策的な大学紛争処理の在り方は、真の解決にすこしも役立たないばかりか、大学問題の自主的解決を阻害するものである。大学に対する教育上の配慮と判断とを無視した警察当局の、一方的な判断を優先させることによって学内に警察権のほしいままな行使を許すような事態になれば、もはや大学はその本来の機能を主体的に果たしえなくなる・・・(略)・・(昭和43年4月25日「連合教授会声明」)
〇われわれは今日の大学問題が単なる治安面の学生対策によって解決されとは考えない。治安当局の大学介入はかえって学内をいっそう混乱におとし入れ、激動する大学内の秩序をさらに収拾できないものにすることを強く憂うものである・・・。(同日「学長声明」)
 『約1年前、大学側は別掲のような見解を表明、警察権力の大学介入に反対の意向を強調してきた。ところが、昨秋の機動隊導入、ロックアウト以来、うって変わってコトあるごとに機動隊要請が行われ、今では警察と大学との癒着を疑われるほど、憂慮すべき事態であることは否定できない。学内秩序の維持を理由にした予備検査的な警察権力の要請・介入は、一面で学生自治への挑戦と化している・・。
 6月18日の全学ロックアウト突入の際の和泉での混乱を見るなかから、学生の間につのってきた大学当局への不信感をさぐってみよう。
 
 6月23日の安保条約の固定期限切れの迫った18日、本学は突如、6日間に及ぶ全学ロックアウトという事態に突入した。これは警察側から、都内の主な大学に対して発した、ロックアウト要請があったことからして、あらかじめ予想されていたとはいえ、6月安保決戦の第一のヤマ場であった14日、15日を大学当局は看過してきただけに、余りにも突然で不意を突かれたとの声が強かった。当日は、本校、生田が比較的平穏だったものの、和泉地区はロックアウト糾弾の声でうずまった。
 この日は早朝から、ロック・アウトの新聞広告を知ってか知らずか登校した学生が京王線・明大前駅周辺や固く閉ざされた和泉校舎の正門前に集まった。その数、数百名。
 「最近、学内外で他大学を含む一部学生の暴力行為・業務妨害が頻発している状況にかんがみ」
 -と叫ぶスピーカーからの声。これをロック・アウトの理由だとすると当局側には、説得力は感じられなかった。というより論理以前の問題として、あまりにもその言葉は冷たく聞こえた。「声の姿は見えず、機械的に同じことを繰り返すその言葉に、当局と学生との間の目に見えない断層があった」とある学生が言った。
 また、そのロック・アウトの論理にしても、本校地区で12日に起きた学生解放戦線のノンセクト学生を含めた反帝学評系学生に対する襲撃事件にからんだ予防措置としているが、これにも批判が多い。田代新寮闘争委員長は「生田の場合、その事件とは関係ない」としており、和泉においても「本校で内ゲバなり、寮生が押しかけたからといって、それを理由に和泉もロック・アウトにするのはおかしい」という声が強かった。
 また、安保固定期限切れの23日に向けて法学部2年14組が11日からスト入りしたのをはじめ、相次いでクラス単位の運動が盛り上がりを見せ、本校でも二政経1年8組、二政経3年7組など個別的にクラス・ストを行ってきたところが多かった。学生会中執の力量不足など全学的なマトメ役に欠けていただけに、その価値は大きいものがあった。「われわれのクラス運動の圧殺でしかな」(法2年)とブチまけていたのが印象的であった。
 11時半。正門をこじあけたとたん、ドッとあたりにいた学生が校舎内に乱入した。ヘルメットの学生はそれほど多くはなかった。“喜び”と唐突さのために、興奮気味でデモ行進する学生。いわゆる“一般学生”といわれる部分もかなりを占めている。それをただ冷たく見守る教職員。そこには対話はなかった。

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 ただちに機動隊が要請された。正門横に座り込んだ学生数十名と、それを取り巻く学生。いかめしい乱闘服にジュラルミンの楯で警告もそこそこに排除に乗りだした。座り込みの指導者は、間髪をいれず逮捕され、無抵抗の学生は楯で押しやられた。正門から10メートルくらいのところまで有無を言わさず学生を蹴散らした機動隊。このところ頻繁になった機動隊要請だが、この日の排除は強硬で、一般学生を遠く押しやることでヘルメット学生と分断し、機動隊はヘルメット学生を取り囲み楯で押しまくった。「ここは俺達の大学だ」と誰かが叫んだ。

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 -「学生のゲバルトを政治ゲバルトで押さえようとする大学弾圧立法が成立した」(本紙44年8月14日付号・木下理事の話)
 -「機動隊など外部の力の導入などに関しては、今のところ白紙である。そういうことをできるだけしたくはないしまた避けたい。警官隊を入れてまで抗議をしたいとは思わない。それは真の解決にはならないからだ。それは学生と大学とのミゾをますます深めるもとであり、一番好ましくない姿である。「(本紙44年10月11日付号・中川学長の話)
 -かたくなに警察権力の介入に批判的だった大学当局。各大学に機動隊導入の相次ぐなか、徐々に警察アレルギーは薄れていった。
 完全に機動隊に制圧された和泉校舎一帯。正門前には、機動隊放水車がドッカと腰をすえ、その周りで隊員が冷厳に蹴散らされた学生と対峙していた。
 高姿勢な機動隊の警備に、一人の学生が声を震わせながら叫んだ。
 「皆んな見たか。これが大学の姿なんだー」
 学生の排除されるのを目のあたりに見ながら、校舎内にいた教職員が、ただ正門の黒いトビラをしめるだけだった。』
6月23日、70年安保闘争最終日、この日のデモは日比谷公園まで3時間以上かかった。途中の衝突の影響で催涙ガスがデモコースの各所に充満し、眼が痛かった。
6月23日の記事が明大新聞に掲載されてるので見てみよう。

【6月反安保闘争の終焉6・23  明治大学新聞 1970.6.25】
『―全国全共闘のセクト野合を越え 全共闘運動の原点へ たとえ権力の壁は厚くともー
<闘いはやまず>
 23日、その前日「日米安全保障条約」はその固定期限が切れた。そしてこの日から<国民>の意志さえまったく無視した形で、302議席という数にのみ依拠した佐藤内閣によって自動延長された。
 この日、全国全共闘、全国反戦共催による「6・23労学市民大統一集会」が明治公園で開かれた。3時頃からつめかけた学生、旗の波は次第に広がり、反戦労働者がつめかける頃、公園の中は身動きできないほど埋めつくされた。その中で、権力との直接対峙をよそに、戦旗対叛旗、ML対フロントなどの内ゲバがありながらも、7時頃、約5万人の参加者を結集し、統一集会は成田空港三里塚反対同盟青行隊長の「反安保体制、階級闘争」へむけたアピールから開始された。

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 68.69年にわたって全国的に展開された学園闘争は、70年に至って強権的な大学当局によってあらゆる闘争は締め出され、大学当局のいう<一般学生>さえもが行き場を失った。この日も多くのノンヘル、ノンセクトの学生もつめかけたのだが、全国全共闘のアピールはこれまでの各大学代表のアピールという慣例を破って各セクトのアピールに終わった。これは全国全共闘がセクトの野合でしかなかったことを、計らずも露呈してしまった。このことは大きく問題にされねばならない。
 今野反戦青年委員会世話人の決意表明採択を最後に集会を終えたデモ隊は、街頭へ繰り出した。先の14日、鉄パイプで武装登場したMLはこの日、鉄パイプにかわって竹竿の武装で参加していたのだが、青山絵画館前付近で機動隊と対峙する頃には、片手に鉄パイプ、もう一方の手には火炎ビンで武装されていた。その数200人ほどだろうか。阻止戦を張る機動隊に一斉に火炎ビン攻勢。退却する機動隊、退却から攻撃。鉄パイプで応戦するデモ隊。攻撃から退却。水平撃ちのガス銃が連続火花のように火を吹き、鈍い音が続く。
 まもなく、わずかに衝突の跡をとどめるだけの場所を何事もなかったように後から後から機動隊を睨みつけるようにデモ隊がジグザグデモを繰りかえしていった。いつもは五列の隊列を余儀なくされるデモ隊は機動隊の壁を押し押し隊列の幅を広げる。デモコースはいつになく長かった。どこまでいっても裏通り、裏通りを抜けて待ち構えるのは機動隊、あらゆるところで小ぜりあいが続き、そして衝突の跡は生々しく残されていった。その中でけがをした学生の手当をする、白ダスキに黒く「6・23救援会」と染め抜いた30,40才くらいの“オバサン達”の姿が脳裏にやきついた。
 デモ隊が国会の南通用門をさしかかる頃、装甲車は幾重にも並べられ、ビデオ車から伸びたカメラがその中から顔をのぞかせ、サーチライトがまぶしくデモ隊の姿を浮かびあがらせる。遠くに国会議事堂が無表情に見えるだけ。「安保粉砕・闘争勝利」のシュプレヒコールが一層高く、デモ隊の装甲車を蹴る鈍い音だけが響きわたった。

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<唯一の安保スト>
 その頃、1日以来「連日デモ」を敢行してきたベ平連は、この日も清水谷公園に結集した。その数1万5千人(主催者発表)にのぼり、デモが出発した後、さらに1万人の追加発表がなされるという、まさに前代未聞の“異常”事態となった。
 一方、6月安保ゼネストを掲げた総評は2月頃に至り、当初のゼネストを放棄し、5月1日のメーデ-にいたっては、同盟の右翼的分裂策動におびえ「統一集会」というなんら内実なきものを守るため「反安保」のスローガンさえ下した。そうした既成労組を乗り越えて、この日の早朝、動力車労組の労働者によって“安保スト”が革マル派の学生の支援による「労学共闘」によって勝取られていた。
 だがそうしたことをよそに、代々木公園では社共の「1日共闘」などというまことに形ばかり「中央大集会」が22万人(主催者発表)を集めて、アコーディオンの調べにのって行われたのである。

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<衝突・討論>
 全国全共闘と全国反戦のデモの解散地点日比谷公園の入口では、デモが到着するごとにデモ隊と機動隊の激しい衝突が繰り返されていた。入口付近は催涙ガスが充満し、一見モヤでもかかっているかのよう。しばらくはデモ隊と機動隊の一進一退が続く。だが機動隊が攻撃に出る度に次第に公園の中へと入り込んでくる。デモ隊は退却する機動隊員1人を捕まえた。「ヤレ、ヤレ」と叫ぶ者。「ヤメロ。ヤメロ」と叫ぶ者。いつも抑圧され、弾圧され屈辱を強いられているのだが・・・。「ヤメロ」と言った学生なのだろうか、気を失った機動隊を大楯に乗せて機動隊の待機することろまで運んで行った。それから間もなく、機動隊は公園内までガス銃を撃ち、乱入してきた。公園内までもが機動隊の解放区と化してしまった。
 催涙ガスの炸裂する中で、近くにガス銃の連続音と機動隊のウナリ声を聞きながら、まだ集会を続行する黒ヘルの部隊があった。まわりには散り散りになった仲間を探す姿がチラホホラ見えるだけ。「自由連合」と書かれた黒旗を囲む黒ヘルの部隊は終電近くまで、一人、一人の発言を求めながら総括集会を続けていた。
 日比谷公園にデモ隊の姿がなくなった頃、べ平連のデモ隊は、全国全共闘、全国反戦デモ隊と交差して分断されたため、最後尾はまだデモを続けていたのであった。そのデモが終着点に着く頃には、すでに終電車はなくなり、はからずも徹夜デモンストレーションとなった。
 6・23だろうと、「安保」だろうと、変わることなく輝き続ける銀座のネオン街に、異変が生じたのであった。“金と権威”の銀座は、金もなく名もない若者の夜の街となったのであった。
<70年代闘争へ>
 こうして6月23日は終わった。そして70年の6月は終わろうとしている。この日を最後に6月には大きな街頭闘争はもうないだろう。だが、まだベ平連の「連日デモ」は続く。いつまで続くのか。ベ平連の運動自体にはそれなりの問題点なり、限界性はあるのだが、しかし、ユニークな運動は否定しがたく、とどまるところを知らない。
 70年6月が終わっても「安保体制」は依然として変わりなく存在し、ますます重くのしかかってくるであろう。街頭へ、街頭へと出てきた学生も、労働者も、学園へ、職場へ戻っていく。学園ではこれまで学園闘争で提起された問題はなんら解決されることなく存在し、それ以上に、ロックアウト体制なるものをもって、闘争を圧殺せんとしている。職場においても合理化攻勢はとどまることはないであろう。権力の壁は厚くあまりにも強大ではあるが、それだからこそ一層、今、それぞれの学園で、職場で、地域で根底的な闘いを、個人の“主体性”と“自発性”の中から創出していかねばならない。
 全国全共闘がセクトの野合でしかなかったことを露呈してしまった現在、日大、東大闘争によって創出された「全共闘運動」そのものを再度見つめ直す中でしか、70年6月を70年代闘争の出発点とすることはできないのではないか。
 この日はこれまで叫ばれてきた「労学共闘」が実質的に動力車労組において実現された。こうした「労学共闘」、そして三里塚における「労濃学共闘」もすでに実現されている。こうした闘いの環をさらに推し進めることによって、70年代闘争の展望は開けてくるのではないか。』

70年安保闘争は終わった。
この6月23日以降、明大和泉校舎は旗もなく笛の音も聞こえない状況がしばらく続いた。学内デモをしても2桁は集まらず、旗もちとデモ指揮を除くと、隊列が2名で3列という時もあった。このような停滞した局面は、70年12月まで続いた。
全共闘に結集した学生は、最盛期には2,000名(中心的な学生は約500名)もいたが、70年安保闘争の終焉の機に活動から遠ざかって行った学生も多く、活動を続ける学生は減った。だが、数は減っても、生協の総代選挙、自治会の選挙、学生大会と合法的な機関を再び学生の手に握る活動が開始された。
また、学生会館は自主管理で開いてはいたが、ロックアウト体制ということで、館内に電気やスチーム暖房が入っておらず。冬が近づくにつれてサークルの学生たちの不満が募っていった。
そこで学生会館運営委員会では「学館に電気を入れろ!」という集会とデモをやったところ、100名近くのサークル員が集まった。それに驚いたのか、学校当局はすぐに電気を入れた。
そんなことを繰り返しながら、徐々に学内での体制を立て直して行っていった。
明大全共闘は消滅したが、全共闘運動の遺産を引き継いで、新たな闘いは続いていく。
「明大全共闘クロニクル」は今回で終了となるが、今後、ポスト全共闘の時代、1971年から72年までの駿河台地区での学内ロックアウト体制粉砕の闘いや、MUP(マップ)共闘を中心とした闘いなどを「黒ヘル風雲録」(仮題)という形で掲載できればと考えている。
(終)

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は7月7日(金)に更新予定です。