2017年8月20日から11月15日まで、ベトナム・ホーチミン市の戦争証跡博物館において、10・8山﨑博昭プロジェクトと博物館との共催により、「日本のベトナム反戦闘争とその時代」展が開催されている。
 この展示会は、昨年、同プロジェクトが東京と京都で開催した「ベトナム反戦闘争とその時代―山﨑博昭追悼」展の内容を更に充実させたものである。
この展示会に合わせて、同プロジェクトの企画により、8月19日から8月24日まで約50名の方がベトナム博物館展示・ツアーに参加した。

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私はこのベトナム・ツアーには参加しなかったが、ツアーに参加した方が「10・8山﨑博昭プロジェクトベトナムホーチミンの旅」という映像をユーチューブにアップしていただいた。その映像とナレーション及び参加者へのインタビューを基に、私の方でベトナム・ツアーの報告を作成したので、今回はそれを掲載する。

【10・8山﨑博昭プロジェクト ベトナムホーチミンの旅】
2017年8月19日午後、10・8山﨑博昭プロジェクトホーチミン市訪問団約50名が日本から到着。夜は、サイゴン川ディナークルーズにて結団式を行いました。
 
<オープニングセレモニー>
2017年8月20日、いよいよ今日は本ツアーのメインイベント、10・8山﨑博昭プロジェクトにとってもホーチミン市戦争証跡博物館にとっても史上初の試みで記念すべき日の「日本の反戦闘争とその時代」展示会オープニングセレモニーの日です。

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10・8山﨑博昭プロジェクトからは山本義隆氏(開幕挨拶)佐々木幹郎(詩朗読)山﨑建夫氏(相互の記念品授与、テープカット)が登壇しました。
その中から、山本義隆氏の挨拶を掲載します。文章だけではわかりませんが、映像を見ると、正に「渾身のアジテーション」という表現がぴったりの挨拶でした。

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「10・8山﨑博昭プロジェクトを代表してご挨拶を申し上げたいとおもいます。山本義隆と申します。はじめにベトナム戦争の時代における日本の反戦闘争に関するこの展示会を開催するにあたり、この機会を与えて頂いたホーチミン市戦争証跡博物館とホーチミン市人民委員会に心から感謝の意を表明したいと思います。
50年前、1967年10月8日、日本の学生組織である全学連が、この日、日本の首相・佐藤栄作が南ベトナム政府を公式訪問するのを阻止する目的で、日本の東京の国際空港、羽田に向かっておりました。その羽田空港に至る橋の上で武装した警官隊が学生に襲いかかり、そして大学生、山﨑博昭君が命を落としてしまいました。当時、南ベトナム政府はすでに民衆の支持を失い、その南ベトナム政府を軍事力で支えていたアメリカは、南ベトナムの農村を破壊し、北ベトナムの都市を空爆しておりました。そして日本はその米軍に対して軍事基地を提供し、かつ様々な軍事物資を提供しておりました。ベトナムはフランス帝国主義とアメリカ帝国主義に勝利した世界で唯一の国であります。そういう意味において私はベトナムという国を偉大な国だと思っております。日本は1940年にフランスの支配下にあったベトナムに軍を進め、そのことが一つの原因となって、ベトナムに飢饉がもたらされ、多くのベトナムの人たちが命をなくしたことが知られています。それから四半世紀のち、1960年代中期に日本は再び、アメリカのベトナム戦争に加担したのです。1967年に日本の首相が南ベトナム政府を公式に訪問することは、南ベトナム民衆に敵対することを世界に公表し、そしてアメリカの軍事戦略を政治的に支持することになります。これは、日本の心ある民衆にとって許すことができないことであったのです。山﨑博昭君の犠牲という、尊い命を奪った、あの日の全学連の行動は世界に日本の良心を示したものだと私は思っております。
それ以来、日本の反戦運動は、学生、労働者、農民、そして多くの市民によって長年にわたって闘われ続けました。アメリカの原子力空母の日本寄港を阻止する闘い、米軍基地拡張を阻止する闘い、野戦病院開設を阻止する闘い、そして米軍のジェット燃料輸送を拒否する闘い。さらには、沖縄における米軍基地の基地労働者の闘いへと日本の闘いは発展していきました。さらに、日本国内における米軍基地からの脱走兵の支援の運動、脱走を呼び掛ける運動、さらには、上官の命令に対する拒否をする運動などを闘って、在日米軍への働きかけを強め、そして日本の国内ではさらに新国際空港の建設に反対する農民の反対運動や、自衛隊の内部からさえ反戦の訴えがあげられていったのです。この間の日本の民衆の闘いは、日本の民衆がはじめて世界の歴史に手をかけた希有な経験だったと思っております。
今回のすなわち10・8山﨑博昭メモリアルエキシビション、これは私たちが取り組んできた展示会でありますけれども、それは山﨑博昭君を追悼するとともに、あらためて反戦、戦争に反対することの意義を現代において問い直そうとする試みであります。この企画がベトナムの人たちと、日本の民衆の間の友好と連帯を深め強めることを心から祈念しております。最後にあらためて、この企画を推進しこの企画の実現のために力を尽くしてくださった、この戦争証跡博物館のヴァン館長と、およびスタッフの皆さまに心からの感謝の念を表明して、私の挨拶に代えたいと思います。」

<元ベトコン兵士との懇親会>
オープニングセレモニーの後、戦争証跡博物館館長の特別な計らいで、元ベトコン兵士の女性(81歳)と男性(82歳)の講演と懇親会を持つことが出来ました。

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女性はビラを撒いたことで共謀罪のような罪に問われて監獄(かの恐怖の「虎の檻」)に閉じ込められていた女性として悲惨な体験談を。そして、自らを元気づけるために歌っていた歌を博物館スタッフと共に披露してくれました。そして男性は手榴弾を投げた罪で捕らわれ、同様に「虎の檻」で24歳から42歳まで過ごしたこと。死刑判決を受けた後、3回の脱走を試みたが失敗し、戦争終結で奇跡的に生還した体験談を話してくれました。
「私のように政治犯として捕らえられた場合、自白するまで打たれるなどの拷問を受けることになります。」
「今回参加された皆さまのおかげで、ベトナム戦争が1日でも早く終わったということに感謝します。」

<展示会の様子>

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展示会の様子は、ベトナム国内のいくつかの新聞にも掲載されました。

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<クチトンネルとツーズー病院平和村訪問>
翌日、ベトコンが作戦を展開してクチトンネルを見学。

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その後、向かったのは枯れ葉剤被害者の保養施設、ツーズー病院平和村です。
子供たちに絵本やおもちゃなどを届けました。

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<参加者へのインタビュー

●救援連絡センター事務局長 山中幸男

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「日本のいわゆる新左翼というのは、山﨑博昭が殺された羽田10・8佐藤訪ベトナム阻止闘争から始まっていると言えば始まっている。その歴史が全くこちらには伝わっていなかった。ちゃんと伝わったのは実に50年経とうとしている今日という、このつらい思いをみんな感じているから。」

●「情況」元編集長 大下敦史

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「歩ける状態じゃなかったんだよ。あと4ケ月でなんだかんだと言われていたからね。これだけは人生の区切りだと思って来ているからね。」

●元東大全共闘議長 山本義隆

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「チラシは刷ればいいんだから。展示物は一つ一つ集めて持っている人を探して、展示できるような形で金もかけて細工してだからこれは大変ですよ。直接手紙を書いて貸してもらったり、譲ってもらったり、それを一つ一つクリアポケットに入れてパネルに貼ったり、、コピーを作ったり、パネルにいきなり貼ってラミネートしたり、それぞれ資料ごとに相当手間暇、時間、金はかかっています。」

●山﨑博昭君の兄 山﨑建夫

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「米軍機だけれども日本の基地から飛び立ったということがあって、この日本からそういうことがなされているということが許せない。放っておくということは私たちはそれを認めていることになる。学生たちの反戦意識というのはすごく盛り上がっていた。一番衝撃的だったのは、米兵に連れられてベトコンの青年が歩いてきて画面の横からバンと撃つ、ああいう映像というのは本当にショキングで、これを見て黙っているのかお前はと問われかけている。」

●大手前高校同期生 黒瀬淳

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「僕と山﨑は防衛ラインの方に配置されて、生まれて初めて機動隊を撃退したんですよ。3回くらい機動隊が攻めてきたけど、3回とも追い返して、それでもいつ来るか分からないから防衛ラインは崩さずにいたんですけれども、みんな攻める方が気になって振り向くんですよ。そうしたら防衛ラインのリーダーがみんなの頭を殴って回ってね、行きたいだろう、行きたいだろう、だけど俺たちの任務はここだから振り向くなって言われたんですけれども、やっぱりみんな振り向いて、山﨑君だけ口に出してね、行きたいね行きたいねってずっと言ってたんですよ。それは僕という友人が隣にいたから口に出したんだと思うんですよね。他の人も思いは同じかもしれないけれど、知り合いがいないから口には出さない。彼が口に出し行きたいね行きたいねとずっと言っていて、それで本当に行ってしまったんです。だから、その時分かれて僕とはそれっきり。最後に見た姿は、思いがけず行ってしまったんで、びっくりして振り向いたら、勇躍、石を投げていた姿が最後に見た姿です。」

●水戸喜世子

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「山崎君がたまたま一人亡くなっただけで、亡くなるべき人は本当にたくさんいた。脳挫滅だとか片目が潰れた人だとか、本当に死なないのが不思議だと思う人がいっぱいいて、それくらい犠牲者がたくさん出た大衆運動だった。」

●佐々木幹郎(詩人)

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「僕は彼を追悼するために『死者の鞭』という詩を書いたんですけれども、書いたときは、もうこの詩を最後に詩は書かないと思って書いたんですよ。なぜ書かないと決めたかというと、次、死ぬのは僕だと思ったんですよ。山﨑が先に死ぬのはおかしいと。(博物館に)山﨑の遺影を置いてもらおうと、僕が言い出したんですよ。ベトナムにアクセスする機会がなかった。何もつながっていなかった。
50年後に山﨑を追悼するんだったら、直接ベトナムとつながろうではないか。山﨑が行けなかったベトナムへ行こう、博物館に山﨑の遺影を飾ってもらおう。」

●展示を見ていたベトナム人留学生

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「ベトナム人なんですけれども、申し訳ないという気持ちになりました。日本人の学生も死んじゃったりということを今回初めて知りました。」

●歌人・道浦母都子

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「一つはほっとした、一つはまた悩みが出来た。ここに来れて一段落、一区切りでいるけれども、この後、一生かかってそのことを考え続けないといけない。山﨑さんは死んでいる。私たちは生きている。それはものすごい違いでしょ?」

●ツアー参加者 Y氏

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「この山﨑博昭チームでベトナムに来て、枯れ葉剤のビーカーに入った標本、それを見た時に、命が叫んでいるわけですよ。みんな口を開いて体でホルマリン漬けの中で叫んでいるわけ。それを見た時、自分たちが山﨑も含めてベトナム戦争に反対した意味が、初めて分かったような気がした。
山﨑くんが前に出たい前に出たいと言うのは、必死にそういうことを純真に止めたかったんだということで、セレモニーの時に、スピーチでアメリ軍の拷問に遭った2人の方がおっしゃったじゃないですか。あなたたちの闘いのおかげでベトナム戦争を早く終わらせることができたと言われた時に、僕は初めて山﨑博昭君の叫びが、子どもたちの叫びが救われたというか浮かばれたというか、そいう風に思って、このプロジェクトチームのすごさというか、涙が止まりませんでしたね。」

最終日、山﨑プロジェクトを常設展示に、という交渉が館長と行われた。

佐々木幹郎氏談
「我々としては永久展示を、常設展示をする場所が欲しい、そこに山﨑博昭君コーナーと名付けてくれないかと、それはスタッフと一緒に相談して、その方向で進めたいと。重要なのは、ホーチミンに来れない地方の田舎の人たち、もっと貧しい人たち、その人たちにこの展示を見せたいと。だから南の端の島から北の方まで、ちょっとずつ展示をしていくことを考えていると、それを許可して欲しいと、そういう言い方なんです。」

山﨑建夫氏談
「突き動かしたのは、50人の団体で来て、みんなでやっているんですよということは大きかったと思う。3~4人の代表だけでやっている仕事に見えるのと、50人が来てあれこれ支えているのとでは違う。それは大きいと思う。」

6日間のベトナムツアーは無事終了した。

以上、10・8山﨑博昭プロジェクトベトナムツアーの報告でした。
この報告作成の基となった近藤伸郎氏の 「10・8山﨑博昭プロジェクトベトナムホーチミンの旅」(約20分)というユーチューブの映像は、以下のアドレスでご覧になれます。

(終)

【お知らせ その1】
「羽田闘争50周年 山﨑博昭追悼」関西集会
●日時  2017年11月12日(日)14:00~(開場13:30)
●会場  梅田スカイビルイースト36階
●参加費 1,000円
●主催  10・8山﨑博昭プロジェクト
第一部 50周年を迎えて三事業の報告
第二部 パギやんの歌と語り(趙 博)
第三部 建碑式、ベトナム展示会の撮影記録上映 (撮影:代島監督)
第四部 記念講演「1967年から1970年代にかけての激動の時代をふりかえって」  三田誠広(作家)

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【お知らせ その2】
国立歴史民俗博物館 企画展示 (千葉県佐倉市)
「1968年」無数の問いの噴出の時代
●展示期間 10月11日(月)から12月10日(日)
詳細は国立歴史民俗博物館のHPを参照してください。

【お知らせ その3】
野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は11月24日(金)に更新予定です。