今年は激動と変革の時代、1968年から50年目の年である。50周年を記念して集会や本の出版が企画されているが、もう一つ、1978年の成田空港管制塔占拠から40周年の年でもある。3月25日には、「三里塚管制塔占拠闘争40年 今こそ新たな世直しを! 3・25」が御茶ノ水の連合会館で開催され、200名を超える参加者があった。
 この管制塔占拠闘争に関わったH氏が、フェイスブックで『開港阻止決戦って何だったのよ、ドキュメント』と題した連載を掲載していたが、この連載記事を私のブログに転載させていただくことになった。今まで、管制塔占拠の前哨戦について2回掲載してきたが、今回は最終回の管制塔占拠闘争を掲載する。(転載にあたっては、H氏の了解を得ています。写真はブログ管理者の独断で選んだものを掲載しています。)
※ 3万字を超える長い原稿なので、ブログ掲載の制限のため、今日と明日の2回に分けて掲載します。

【開港阻止決戦って何だったのよ、ドキュメント】その3 前編
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★管制塔占拠闘争(1)
 今回は、タイトルと少しずれますが、3.26管制塔占拠闘争のプロローグとして書きます。
 1978年2月6~7日横掘要塞戦は大変な反響を呼び起こしました。
 新聞は「まるで不死鳥」と見出しをつけて、鉄塔にしがみ付いて放水に耐える仲間の姿を大きく報じました。リアルタイムで放送したらしいTVの映像に釘付けになった人々も多かったようです。わが母も「4人を死なせなかった反対同盟の勇気に感銘を受けた」と後に語っておりました。
 現地の常駐者の一人もこう振り返っています。
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 (開港阻止闘争として3・26までの)闘いを全体的にとらえると、ここがクライマックスだったと思ってる。これ以上のことはできない。
 本当にいろいろ偶然が重なったんだけれども、本当に気持ちに訴える闘争っていうのは、俺自身、高校を卒業してから新左翼運動に入って、現闘をやめるまで、あれほど心に訴える闘争は見たことがない。みんなが泣く闘争だったな。
 俺らが無線で「元気だったら、手~ふれ~」っていうと、手ふるんだよ。そうすると、まだ大丈夫だとなって。周りでは、反対同盟のお母ちゃんらが、青年行動隊(青行)の幹部連中を囲んで、「もう降ろしてやれ、死ぬから、降ろせ」って、ワンワン泣いてるんだよ。で、「手~ふれ~」って言うと、手ふるから、まだ大丈夫だとなって、朝をむかえたわけ。
 4人はメシも食ってないし、一晩中、寝てない。機動隊が来るってわかってたから、徹夜で準備したので、たぶん寝ないでそのまま闘争に入ったと思うんだよね。朝になったら、ぽかぽか、気持ちいい朝になったんだよ。で、「元気だったら手~ふれ~」って。手ふったから、日中は大丈夫だ、みたいになってさ。日が昇ってくると、全国からちらほらと集まりはじめるんだよ。前田なんかも駆けつけるわけどさ。
みんなで、「がんばれ~、がんばれ~」って言うことしかできないけど。それしかできないけれども、放水をあびて凍ったつららを垂れさげて、4人が鉄塔にしがみついてるのを、ずうっと見てるわけだよ。それはね、同じものを共有していくんだよ、気持ちの部分で。
 そのときのおっかぁらがそうだけど、「かわいそうだから降ろせ」っていう気持ちが、今度は機動隊に向いていくんだよ。「おまえら、あれ見て、どう思うんだ。死んだらどうするんだ。まだ放水する気か!」って。で、「あいつらといっしょに闘わなきゃ」っていう気持ちが、現場にいたやつも、テレビを見たやつも、全体でつくられていくわけよ。 (『1978・3・26 NARITA』)
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 この7週間後に、第一期工区の完成のみで開港を強行しようとした空港は「包囲・突入・占拠」され、開港を阻止されることになります。つまりは、その先端で闘う者は、前年の1977年岩山大鉄塔決戦の準備として生まれ、この横掘部落での闘いで打ち固められたものでした。だから、その人々の集まりは別名を「横掘三派」と呼ばれもしたのでした。
「横堀」という地について考えてみることは、三里塚闘争とは何なのかを理解するのに意外に役に立つのではと思います。
 要塞が建設された横堀部落は、先に書いたように77年の(岩山)鉄塔決戦のあとから闘いの焦点として浮かび上がってきた地区でした。いやむしろ、反対派が意識的にそこを焦点化していったといってもいいのですが。
 成田空港建設反対運動は「三里塚闘争」と呼ばれてきました。「三里塚」とはもちろん地名です。成田市三里塚のことです。成田空港建設計画は、この地にあった「御料牧場」という天皇家の糧食をまかなう広大な土地を中心にして、新しい国際空港をつくろうとしたということです。
 空港建設に反対する運動について、あるいはそこに現実的にかかわっている地域全体を指すイメージとして「三里塚」と呼ばれてきたました。
「三里塚へ行く」といった場合に、実際にはそれぞれの支援者が向かう小屋がある地区を指し、成田市三里塚ではなく、山武郡芝山町朝倉や、辺田や、坂志岡etcというのも、だからごくありふれたことでした。
 しかし、各部落にはそれぞれの固有の成り立ちがあり、ものごとの考え方、運動の進め方、匂いや雰囲気の違いまであります。
 しかも、反対同盟はその違いを互いに認め尊重するという組織であったのです。私は、「左翼の組織より、よっぽど民主的だな」と思うことが何度もありました。
 反対運動が立ち上がってすぐ、住民たちの組織は、ごくごくおおざっぱに言えば、多くを空港敷地に取り上げられる成田市側と、主として騒音地区になる芝山町側の組織が合同して、三里塚芝山連合空港反対同盟になります。横堀は行政的な(?)地名でいえば、「山武郡芝山町香山新田」です。
 横堀は二期工事区を抱える芝山町の部落でした。ここからやはり二期工事区内にある成田市に属する木の根や、東峰、天神峰も、横掘にほとんど隣接する開拓者たちがつくりあげていった部落です。
 これもごくごくおおざっぱに言います。田んぼが古村、畑が開拓。
 横堀から南へ坂を下って降りていった先が辺田です。周りを田んぼに囲まれた古村でした。横堀の古老が、辺田のことを「本村」と呼ぶのを聞いて、何かに打たれたような気持ちになったことがありました。いい、悪いではなく、古村と新しい部落の関係が、どきりとする感じで迫ってきたのでした。
「開拓で入って食うや食わず苦労の末に、やっと人並みの暮らしができるようになったとたんに空港がやってきた」という人々の闘いが三里塚闘争と言われ、それはそれで間違いではないのですが、より正確にいえば八百年、千年の歴史をたどれる古い村(村落共同体)と、開拓の村が独特に結合した闘争であり続けました。敷地内開拓部落は古村に支えられて闘い続けてきたとも言えるのです。
 辺田の三ノ宮文男さんが代執行のあと、次々に青年行動隊員に弾圧が及んでいくさなかに自殺したときのこと。まだ行方がわからないまま、家族なのか友人なのかが、横堀のOさんを訪ねてきた話もまた、その古老に聞いたことがありました。
「息子が仲がよかっただから、来てないかって捜しに来たんだっぺよ」
 その仲のよかった友人は、東峰十字路事件(三人の警察官が反対派との衝突で死んだとされる事件)で、うそっぱちの調書を取られた人でした。この調書は、のちの裁判で最大の争点のひとつになり、Oさんがその調書を否定することで、裁判の展開は、事実上の勝利へ向かって、大きく流れが変わっていきました。
「三里塚闘争に連帯する会」などが、現地の結集・宿泊に利用した施設「労農合宿所」は、このOさんが横堀を去ったその宅地跡に開設されたものでした。
 横堀は、横堀要塞を建設することで、そんな人の命や三里塚闘争の歴史を結び合わせる地だったのです。
 ここで公団・機動隊と要塞を巡ってせめぎあうことで、その主力を担った「三里塚闘争に連帯する会」や、第四インター、プロ青、戦旗のブロックが固められ、「横堀赤ヘル三派」と呼ばれる管制塔占拠闘争の部隊が作られていったのでした。

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★管制塔占拠闘争(2)
1978年開港阻止決戦は、3月26日の現地集会から開港日となるはずの4月2日にかけての長期闘争として、多くの支援者には伝えられていました。むろん、1日目1発目で決めてしまうという計画を知っていたものもおりました。
機密保持はまぁ当然でありましょう。
三里塚闘争に連帯する会系の支援者の中で、党派部隊に属するものは、大方、前日の25日までには現地に入っていたはずです。地方にいる者は、24日に現地へ向けて出発する者が多かったのです。
24日、25日と見事な月夜でした。しかも24日はその月がきれいに欠けてしまう月食でした。「月夜に釜を抜かれる」というのはありますが、やってみせます! 月夜にカマトンカチ! この月食のひとときを利用して、要塞へ最後のブツが搬入されたのでした。
要塞は、例のごとく「航空法違反」物件になる可能性がありました。実に不思議に間抜けに、機動隊は「6mの要塞に3mの塔が立てば高さ制限の9mを越える。ゆえに3m以上の建設資材は運び込ませない」ということでした。
でもね、つなぎゃいいんです。そんなものは。
というわけで、鉄塔を立ち上げる資材は、検問を潜り抜けて数日間のうちに運び込まれて、準備は整っておりました。
一方で、支援者がやってくる横掘の労農合宿所には、とてつもない物資が送られてきていたそうです。衣類、バス、トラック、冷蔵庫、医療品etc 全国から来る物資が山積みに。
大方のメンバーは片道キップのつもりでしたから、身辺整理をして、近親者があとで読むことになる、お手紙なんぞを残して現地へと向かったのでありました。
管制塔へ向かうプロ青の中川のおっさんは「無事に帰ってきてね」というテーブルの上の妻の手紙に、特別任務につく自分のことを何も語らず、ぼろぼろ涙をこぼしながら「ただ人民のみが歴史を動かすのです」と返事の置手紙。かぁ、俺も泣けるぜ。
泣きたい人は、どうぞまた『三里塚のイカロス』を見てください。
同じく戦旗派の水野は、現地へ向かう車の中で、キャンディーズの最後の名曲「微笑返し」を「おしっこの仕返し、だって、わははは」と笑っていた。んなこと言ったって、自分がこれから長いところへの「お引越し」なんだよ。
さ、後楽園キャンディーズ解散の動員力と人気に負けてなるものか!
行くぞ、決戦の地、三里塚。
ヅカへ、ヅカへ、と草木もなびくよ~ あらあらあらさっと。

★管制塔占拠闘争(3)
1978年3月25日、三々五々、現地へやってきた支援者は、それぞれの団結小屋に入っていきました。インターは空港南側に位置する朝倉、プロ青、戦旗は横堀の小屋です。
まず、のんびりとした春の日でした。ぽかぽかしたいい陽気なのです。
朝倉小屋の草の上に多くの支援者が寝転んで草などはんでいるのでありました。
一方、横堀はまた空港反対派の挑発が始まろうとしていました。
午後1時、横堀要塞にまた鉄塔が立ち上げが開始され、夕方には完成してしまいます。
長さ3m鉄材の制限の陥穽におっこちた警備側には、頭に血が上った指揮官が出てきてくれたのでした。まことにありがたい話でした。
長い会議の末に「違法行為を看過すべきでない」という強硬論が「警備が空港と二分される。いまは要塞に手を出すべきでない」という冷静な判断を押し切ってしまったというのです。
インター朝倉では部隊編成が行われます。小隊、中隊、大隊。そして0部隊。
このゼロがなにしろ怪しいよ~。
たぶん、その部隊がいくつかに分けられて、特別任務隊になったのだと思います。
管制塔と9ゲートトラック突入部隊は、ここにいたわけです。
あららら、やばっ
前田が出てきちゃったもんね。
「みなさん、死んで頂きましょう、というやつです」と第一声を発しました。
(ばかやろ!)
その数15人。日が落ちてから朝倉団結小屋の一室で「共謀」が行われました。
このとき、初めて翌26日の全体計画が現場メンバーに明かされることになったのです。
空港に突入し、管制塔を占拠する戦術は、指導部のごく一部しか最後まで知らなかったはずです。現場に向かう「兵隊さん」で知っていたのは、この時の「共謀」のメンバーくらいではないでしょうか。
たとえば戦旗の3人は、横堀の熱田さん家のマデヤ(作業場兼ものおき小屋)の軒先で、前田から説明を受けるまで、内容をまったく知らされていなかったと記憶します。
地下足袋姿の私達は、首に安全靴をぶら下げ、許される範囲の「あらゆる武器」を抱え込んで、月光のもと熱田さん宅から畑の中を駆け抜け、田のあぜに伏せて、ようやく所定のマンホール突起口というやつに取り付いたのでした。
この時点でインター15、プロ青4、戦旗3、計22名。南ベトナム民族解放戦線、アメリカ大使館占拠部隊のアナロジーでありました。
夜陰に乗じて、(といっても月夜であったのですが)、空港内に通じる排水口に入り込もうという計画です。でも、そうはうまくいかんのです。
7ゲートを警備していた機動隊のサーチライトがくるくる回る合間を縫って、人とブツがマンホール内へ入っていきました。そのライトは、月夜に動く影を捉えて、ぴたりと突起口を照らして動かなくなることしばしばという状態に陥りました。
ついに機動隊がやってきて、半身を突起口に入れていたS君が追いつかれて逮捕、中に入っていたのが15人。後は一目散に遁走し、田んぼの水にどろどろになりながら、逃げのびたのでした。
これより管制塔組は、空港内の出口近くまで進み、真っ暗闇の中、入ってくるかもしれない機動隊を警戒しながら、翌日の突入時刻を待つことになりました。
正直言えば、この時間がいちばんきつい経験でした。
私(平田)は、「直ちに突入すべき」と隊長・前田に進言すべきかとも思いました。出口を機動隊が察知して押さえる前に、出て勝負すべきではないかと。
そう主張しなったのは私に勇気がなかったとも言えますが、前田の判断に従うのが最善だとも思ったのです。実際、彼の判断が正しかったのです。
前田は「撤退する道はない。予定通りの時刻に予定通りの場所から出て、管制塔を目指す」と、まったくブレがありませんでした。
連絡に使用するはずだった無線機をハンマーで破壊し、私たちは退路を絶ち、自らを闇の中の「突撃の意志の塊」に追い込んでおりました。
そのころ、外の無線は「予定通り決行!」と流しつづけていたそうです。

★管制塔占拠闘争(4)
3月26日朝、外はきれいに晴れ上がっていました。
管制塔占拠部隊はまだ排水溝の暗黒の中。部隊を組みなおします。
当初予定した22人が15人にメンバーが減っていました。確かこれを5人ずつの3グループに分けたはずです。
持ちこんだ武器は整理されました。とにかく身軽にして、一気にマンホールから飛び出して勝負できるならしようということでした。
入り口で忍び入るのを見られている以上、出口では機動隊が待ち構えている可能性が高いと考えたのです。
鉄パイプ、大ハンマー、そして触発性の火炎瓶。あとはすべてマンホールの中に置き去っていくか、排水溝の口から小見川へ捨て去ったはずです(置いていてもよさそうなもんですが、そうもいかないものもあったのです)。
午後1時が迫ってくる。「いくぞ!」の声の直前。まだ、党派が違う人間はよく知らない間柄ですから、それぞれの党派で声をかけていました。
プロ青が凄い。
「死んでもお互い、恨みっこなしだぜ」
津田のセリフであったそうです。津田は夜にひどく目が見えづらかったのだそうで、このマンホールに至る間に田んぼに落っこちて、おろおろするのを中川のおっさん達に「お前、帰れ!」「いや、連れていってくれ。頼むから」と、やってきていたのでした。
15人は一列になって、マンホール内の小さな鉤型の手かがりを伝って数メートルを登り、丸い、横に伸びる側溝に這いこみます。ここにきてようやく数時間ぶりにうすぼんやりとした明かりを見ることができました。
後ろからブツが送られ、それを出口になる集水口の向こうに伸びる側溝へ押し込み、最初に飛び出す先頭の藤田がその集水口の真下に位置しました。
時計を見て、飛び出す時間を量る。‥‥‥しかし、不思議なことがあります。このとき、二番目に位置した平田は、後方から前方へ頭上を通りすぎていく人の話し声を聞いているのですが、藤田にはその記憶がないといいます。
午後1時、藤田はバールで集水口の碁盤になった鉄の蓋を抉じ開けようとします。
うまくいきませんでした。やがて彼はヘルメットを脱ぐと、慎重にバランスをとっておでこと両腕で、立ち上がりざま一気に持ち上げたのでした。

★管制塔占拠闘争(5)
すぐさま飛び出した藤田は「牧歌的な状況」に驚いたと言います。空にはひばり、出口すぐそばにある信号機のカチカチという機械音を聞いていました。
二番目の平田はその声、音を聞いていません。本当に人間がある状況の中で、認識するもの記憶するものは、恐ろしく個人差があるようです。
飛び出す瞬間、集水口のふちで切り取られた四角い真っ青な空だけが見えました。ただ青い空にまるで逆さに飛び込むように、伸び上がって、私たちは地上に出たのでした。
5人が出てから、隊長の前田がブツを下から必死に上に持ち上げて、先の5人に手渡していました。
ブツのあとに、残りの10人のメンバーが次々に出てきました。時間との勝負でした。そこに制服の警察官5,6名が小走りにこちらへやってきたのです。
手を震わせながら、銃を構えて。
飛び出す直前に、頭上数十センチメートルをゆっくりと通過していった、話し声の男たちに違いありません。
先に出たものは、仲間が出てくるまで、警察官と5、6mの距離で対峙しながら、時間を稼いでいました。前田は排水溝から出てくる人数を数えていたといいます。
最後の中路はまだ体半分しか地上に出ていませんでした。
管制塔組は半円に囲む警官を一気に蹴散らして突っ走りました。と、いってもどの方向か事前にシュミレーションしていた前田以外、他のメンバーは全然分かりませんから、「こっちだ!」の声に従うほかになかったのです。
ただ、制服警官は、管制塔組が走り始めたとたんに「い、いかん!」と絶叫したのでした。
そう、俺たちが向かうのは管制塔。

★管制塔占拠闘争(6) 
制服警官は、疾走する管制塔組に「止まれ! 止まらんと撃つぞ!」と並走しながら叫んでいました。むろん、拳銃はこちらに向けられたまま。
前田隊長が、片手に持つ火炎瓶の投擲フェイクを入れつつ、行儀の良くない殺伐としたご挨拶を脇にいる警官に送りつつ、先頭グループを引っ張っていました。
最後に排水口から出てきた中路は足が速かった。大ハンマーを提げると、あっという間に先頭グループに入っていました。
むろん、前田とともに千葉で活動してきた児島は、約束通り大ハンマーを掴んで、前田の側を離れませんでした。
他の連中が手にしていたのは、鉄パイプとバール、火炎瓶のセットということになります。
殿を受け持つ形になったのは、中川・原のプロ青同コンビでした。遅れるはず、中川は欲深く3本も火炎瓶を抱え込んでいたのです。
管制塔がそびえる管理棟敷地内に入ってすぐ、そこを他の地区と仕切る金網の扉を原が叩きつけるように締めたそうです。二人は自分たちが最後尾であることを自覚していたということになります。
こうして、追ってきた警察官を置き去りにした上に、入ってこようとしたところに、中川は2本も火炎瓶を投げつけて退かせています。
先頭はもう管制塔へとまっしぐら。
その行く手に黒煙が上がっていました。次の瞬間、地面に横たわる誰かに暴行を加えているかのようにみえたガードマンが、何かを放り出して、まさに脱兎のごとく全速力で逃だしました。
突っ走る15人の目の前に、異様なものがいきなり立ち上がりあがりました。消火液をかけられ真っ白になった人でした。
1時きっかりに、9ゲートから突入したトラック部隊のメンバーです。
トラックに積んであったガソリンに引火し、それが燃え移って全身を焼いた仲間です。
あとから思えば、警官が放り捨てたのが消火器だったのです。でも、その時点で、何が起こったのか、突っ走る管制塔組の誰も理解していなかったようです。
9ゲート部隊のメンバーも、管制塔組の後を追ってまた走り、管理棟の中で逮捕されたといいます。
管理棟1階に管制塔組が走りこんだとき、警備本部は解体したようです。9ゲートからトラック2台で突っ込こまれ、慌てふためいた警備本部がやや持ちなおして、ふと心理的な空白ができていたのではないかと思います。
そこへ2撃目が加えられることになったのです。
その瞬間に警備本部のえらいさんたちは、蜘蛛の子を散らすように現場から逃亡したのでした。管制塔組が突入した管理棟1階(ロビー)の真上、2階の空港署に警備本部が置かれていたからです。
1階ロビーで津田の両手をあげての「撃てるもんなら撃ってみろ!」の弁慶ごっこを先頭に5人が警察官と対峙して頑張る間に、10人がエレベータに乗りこみ、上へと向かいました。
こうして、管制塔占拠が開始されていったのでした。

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★管制塔占拠闘争(7)
私達が管制塔に突入する前日の3月25日夜、インター朝倉団結小屋の一室で管制塔攻略組15人に明かされたプランは、26日の午後1時を期して、私達排水口から管制塔を目指すもの、第9ゲートから2台のトラック部隊(8人)、そして8ゲートから入ってくる大部隊の3方向から闘いを行うというものでした。
9ゲート組と管制塔組の時間のズレはあったものの空港内で出会いました。火だるまになった9ゲートの仲間のおかげで、管理棟正面玄関のシャッターが開き、そこから管制塔占拠部隊は管理棟に突入したのでした。
警部本部にいた幹部たちは、自分たちが襲われると思ったようなのです。
むろん、私達にはそんなつもりはまるでなく、とにかく管理棟の上に立つ管制塔のてっぺん、管制室をただひたすら目指していました。
管理棟に走り込んだ時、エレベーターから血相を変えた男たちが次々に降りて、「避難」していきました。私はずっとそれらの人々を、新聞記者だと思ってきたのですが、ことによると、警部本部づきの偉いさんたちだったのかもしれません。
その男たちと入れ違いになるようにして、最初の5人がそのエレベーターに飛び乗りました。
これが管制室に入っていく任務を持っていた前田達の隊でした。ここには隊長のインター・前田、プロ青のリーダー・太田、戦旗派のリーダー・水野、前田の側を離れない大ハンマーをぶら下げた児島、藤田の5人でした。
こうしてみると、前夜、22人のメンバーが15人に減って、それでも3つの任務で隊を編成して、管制塔を落とすという編成とメンツは、結果として根本的には変わっていません。つまり警備を先端で破る役割、周囲を払い占拠組を守る遊撃隊、占拠するメンバーという分け方になっており、占拠する主力が真っ先に駆けていったところが違っていましたが、なかなかうまくいっているのです。なぜか、ひとりだけ勝手に管制室に入っていって、Vサインなど挙げていたおっさんがおりましたが。
ロビーに最後尾で走り込んだ中川は、阻止線の向こうのエレベーターが開いていることを認めて、「乗れ、乗れ!」と叫びます。前の阻止線をすり抜けて、そのエレベーターに走り込んだのでした。それに乗り込んだ誰もが、自分たちの背後の扉が開いていることに気がついていませんでした。
警察官が投げつけた消化器を阻止線の仲間が避けた。エレベーターに向かって床を滑ってくる。中に飛んでくると思った瞬間に扉はしまり、その衝撃を受けて2台目のエレベーターは上昇し始めたのでした。
1階ロビーのエレベーターの前に居座り、上に登っていく仲間を守り通した5人の仲間たちは本当に見事でした。
三里塚に来るのに「俺がやるしかないよなぁ」と特別任務を引き受けたというプロ青の原、現場で「撃てるものなら撃ってみろ!」と叫んだ津田、5.8闘争で放水車の上に立って旗を振っていたインターの高倉たちでした。
ロビーで発火した火炎瓶の炎と煙の中で、彼らは警備の暴行を存分に味わいました。押っ取り刀でやってきた警察官や機動隊に、火炎瓶で抵抗したあと、街路樹の添え木の丸太や消化器で殴られたり蹴られたり、拳銃で脅されながらも、登っていく占拠部隊を上に送ってくれたのでした。
逮捕される直前に彼らが交わした言葉は、
「上にあがったよな」「確かに行った。あとはやってくれるよ」だったそうです。

★管制塔占拠闘争(8)
管理棟を上っていく2台目のエレベーターに乗ったのは、インターの小泉、中路、平田、プロ青の中川、戦旗の山下でした。先に上がったエレベーターの5人と合わせて、10人が管制塔に登ることになったのでした。
管制塔は、7階建て管理棟(管理ビル)の上に聳えていました。そして、いま思うに、エレベーターは管理棟最上階までで、直通エレベーターはなく別のエレベーターに乗り換えなければ通信施設の部屋と管制室にはいけかったのだと思います。
みなさんが写真や映像できっと見たことがあるだろう赤旗の下がるベランダが14階です。このベランダの奥に、マイクロ通信施設がありました。そして、てっぺんが16階の管制室でした。
1階ロビーから14階と16階に至る道筋については、記憶をたどっても間違いない事実として、語れるほど判然としていないのです。ただ、管制塔占拠から9年後に、すでにシャバの人間になっていたものたちが集まって、何度も記憶をたどったり討論する場を持ちました。『管制塔、ただいま占拠中』(つげ書房刊、10年記念)出版を目的にしたものでした。というわけで、平田の記憶と『ただいま占拠中』を照らし合わせて、これから書いていきます。
事実として、先に上った5人を追い越して、後のエレベーターに乗った5人は14階に達しました。後発のエレベーター組は、うまくエレベーターを乗り換えたのでしょう。扉にいちばん近いところにいたわけではない平田が、14階には最初に到達しているのです。おそらく乗り換えるときに、先頭(扉際)に位置することになったのです。平田は、2度目にとまったエレベーターから先頭(だったと思う)で飛び出しました。ここが13階でした。今度は階段を目指しました。
途中のエレベーターホール脇で、職人さんスタイルの男の人が突っ立ってるのに出会いました。ここがたぶん13階エレベーターホールでした(『ただいま占拠中』では、エレベーターを乗り換えた7階と書いてあります)。
人間というのは本当に不思議です。彼は騒ぎもせず、ただ黙って壁のほうを見つめていました。「そこにいるのだけど、いない」という存在のしかたなのでした。中路には彼がキョトンとこちらを見る目が印象に残ったといいます。その背後を駆け抜けて、階段を全速力で上り始めました。
それより、数分前、前田たち5人が飛び出した階は7階だったのでしょうか。正面にオフィスらしきものがあり、開けっ放したドアの向こうでデスクから離れて、窓際に張り付いた人々を見ています。ちょうどエレベーターに向かおうとした女性二人が、絶叫して顔を覆い腰をかがめて部屋に戻ったといいます。
「俺は何か悪いことをしてるのか? 世間ではこういうのを犯罪と呼ぶんだ」と、あられもないことを思ったそうです。赤いヘルメットに手に手にハンマーや鉄パイプの連中が闖入してくれば、人々はそうなります。すみません、やまにやまれぬ犯罪です! 
ここから、彼らも階段を駆け上ってくることになります。
13階から14階、いや中二階構造の15階まで、平田たちは駆け上ります。平田は行く方向に塞がる扉、ノブを回しながら身体をぶつけていました。いくつかそうやって当たっていったのですが、ドアはまったく動きませんでした。
ただ、ひとつの部屋の扉を除いて……。

★管制塔占拠闘争(9)
どうやら15階入り口だったらしい扉はビクともせず、平田とその後ろの数人は短い階段を下に向かってとって返します。さぁ、ここらへんからドタバタ・てんやわんやの連続になるのです。
14階に駆け下りて、またしても扉にむなしい突撃を繰り返すことになりました。
でも、そこになぜかふわりと扉が開いている暗く小さな部屋を発見したのでした。
何だか大きな機械が天井近くまでしつらえてありました。むろん、それが何の機械かさっぱりわかりません。
部屋の入り口で半身ほど中川が平田より先にいたと思います。
中川は「ここは俺がやる!」と言うが早いか、なけなしの火炎瓶を放り込みます。火炎瓶は沈黙したままでした。
平田は火炎瓶を使用することに躊躇しました。ここが管制室でないことははっきりしている。下からは間もなく機動隊が上がってくる。瓶を持っていたかったのです。
いっさいお構いなしの中川は、左後ろにいた平田の手にある火炎瓶を奪い取るようにしてまた投げつけました。こたびはめでたく炎が上がり、煙がこの小部屋に充満しました。
何がめでたいものやら、ここに満ちた黒煙は14階廊下に湧き出し、てんやわんやの突入部隊を噎せさせたのでした。
さて、おそらくそれよりほんの数分前、この部屋で何が起きていたのか。
一緒に13階まで上がってきた中路は大ハンマーを抱えていて、少し遅れ気味でした。彼もいくつかの開かないドアにハンマーを叩きつけていました。ノブだけがグニャリと曲がったそうです。
そして、この扉、「マイクロ通信室」と書いてある部屋の前に立ったのでした。中路にとっては、この文字は馴染みがありました。三年間もマイクロウェーブ関係の仕事をしていたのです。ただ、上を先に目指したために平田たちがすり抜けていったこの部屋だけは、鍵がかかっていませんでした。
中路は部屋に入り、機械にハンマーを振るいました。機械がへこんでいく手応えを感じながら何度も何度もハンマーを打ち付けたといいます。
この時、この機械が作動していたのかどうか、中路は確認していません。このことが後の裁判で「航空危険罪」の大きな争点になるなんて、考えつくわけがありません。
それに中路は、「動いているって知ってたってよ、壊しに来てんだもんよ。やるに決まってんじゃねえか」と、またあの不気味な笑い声を法廷で漏らすのでありました。
中川の奮闘ぶりも、平田の慮りも、すでに中路がオシャカにした機器を相手にしていたわけで、あまり意味のあるものではなかったのです。
5人がてんでにてんやわんやのさなか、下から激しい勢いで足音が上ってきました。平田は階段の手すりに身を乗り出して階段下を覗き込みます。
(ばかやろ! 瓶がねぇよ。この階段でパイプ使って肉弾戦かよ……)。

★管制塔占拠闘争(10)
凄まじい勢いの足音は、やがて3つの真紅のヘルメットの頭頂部となって現れました。一度反転すれば、すぐに平田たちのいるところへ辿り着くことになります。前田と児島(純二)、そして水野でした。
平田は正直ほっとしたのですが、それでもそれを追って錣つき濃紺ヘルがやってくるかもしれない。そうなれば、どこかで機動隊を止める位置を確保して構えなければなりません。
打ち合わせをしたわけではありませんが、この前田たちを上に上げるために、どうするのかを、先に14階でジタバタしていた連中は思ったのに違いないのです。ひょっとしたら、同じように、3人に遅れていた太田、藤田は後方を確認しながら上がってきていたのかもしれません。
前田を先頭に上がってきた3人は、やはり15階扉へまっすぐに向かいました。扉の前で前田が叫びます。
「純ちゃん! ここ! ここ!」。
前田の脇にさぶらふ大鎚おのこ、児島は腰だめに大ハンマーを振り回しました。ガンガン何度も何度も。前田は叫ぶ「開けろ! 開けんか。汚えぞ!」
どうやら人が扉の向こうに人がいるらしいのでした。それにしても「汚い」とは(笑)、同意するにはわが立場からしても難しい。まぁ、お互い必死の場面です。お許しくださいませ。
このとき、16階管制室からこの15階扉に向かって椅子やデスクが投げ下ろされていました。
14階先行組が身体をぶつけても開けられなかった扉は、2度目のアタック、児島の大ハンマーをしても開けられませんでした。
「上に行けないのなら、どこかを確保して占拠だ」と声が上がり始めます。このときには遅れていた太田、藤田も合流していたと思います。
そしてまた、14階をてんでにてんやわんや、行きつ戻りつ、占拠できる場を探したのでした。
敵中に飛び込む強襲は、混乱に乗じる時間での勝負だということがよく分かります。アタックしながら、また逃げなければならないのです。前に進む道を切り開き、後ろから追ってくる者との間を取って、アタックするということになります。
しかし、管制塔の中ではおよそそんな余裕を作る闘いは無理でした。
もし、前夜、排水溝の中で廃棄してきたガスカッターをここに持ち込んでいたら、それに因われて15階扉前に釘付けになりかねず、管制塔アタックは成功しなかったのでは思うことがあります。
何しろ小泉が死ぬような思いをしながら、田んぼの畦道を背負って持ち込んだ30キロもあるボンベの付いたガスパーナーのカッターでした。そいつで15階扉の鍵を焼き切って侵入しようというのは土台、無理な話でした。準備したある他の武器とともに、このバスバーナーは占拠プランのお笑いというところだったでしょう。
「占拠、占拠!」の合言葉でうろうろ、機動隊の影がちらつきはじめ、焦りが募ってきた所に、小泉が叫びます。
「ここから、出られるぞぉ!」。
前田が15階から駆け下りながら指示しました。
「出ろ、出ろ!」
小泉が長身を折って外に出ました。残りが一気にその方向に向かいました。小さな鉄の扉の出入り口でした。
「マルキ」の声に児島に外から火炎瓶が渡され、放りますが不発。それでも後退した機動隊が上を伺いつつ上がって来ようとするとこに、中川がペンキ入りのバケツをそのまま投げ落としました。
殿の山下が、半身を外に出したまま、火炎瓶を渡されて階段下に向かって放る。一気に炎が燃え上がりました。扉を締めて、間一髪、全員外。
ペンキ入りのバケツは、あの13階で出会った「そこにいるようで、いない」の職人さんの道具だったのだと思います。
そこは14階のベランダでした。屈んで鉄の扉を出れば左に大きなパラボラアンテナが置かれ、下を見れば管理棟の屋上、そして、目を放てば青空と空港周辺をみはらかすバルコニー。その舞台に、赤いヘルメットの10人が姿を現しました。
……みせばやな 児島のかいなと鎚だもん 振りにしふって 魂はかわらず

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★管制塔占拠闘争(11)
身を屈めて潜ってきた扉には、鉄パイプでつっかえ棒がされました。14階内部に通じるこの扉が機動隊によってガンガン叩かれるようになるのには、少し時間がたってからでした。最後に投げたペンキに火炎瓶の火が移って、数階下から階段を噴き上がったのが効いたのだと思います。その前から機動隊は瓶を警戒して、上を伺いながら慎重に間を詰めようとしていました。
プロ青の太田と戦旗の水野が手すりにそれぞれ「先鋒隊」と「戦旗」と赤地に白く染め抜かれた旗を垂らしました。反対同盟にとっては、怨嗟の的だったシンボル管制塔に、反対派の旗が翻ったのでした。
口惜しいことに、そこに反対同盟の三輪旗を飾ることができませんでした。第四インターのツチカマ旗もです。そのわけはもう少し先で語ることにします。
ベランダから横堀要塞方向を眺めていた数人が「来た、来たぞ!」とざわめきました。ベランダに身を乗り出して右方向をみると、数百の赤いヘルメットの隊列がゆっくりと空港に向かって来るのでした。
この部隊は、午前10時に菱田小学校跡地で決起集会を行い、辺田、中谷津、一鍬田とおよそ10キロも延々と迂回して、空港第8ゲートにまっすぐに入ってくる道のある松翁交差点に姿を現したのです。管制塔占拠組がその姿を認めたのはこの時でした。
彼らは横堀要塞と山林を隔てた東側、つまり管制塔との間に横堀要塞を挟む道を通ってきたことになります。
横堀要塞は、2月に続いて再び鉄塔を立ち上げて戦闘に入っていました。
横っ腹に「いまぞ起て、減反に苦しむ百姓も、大義を樹てる春はきた」という反対同盟の横断幕と、幾多の赤旗で身を飾っていました。この挑発を警備側は見過ごすことができなかったのです。
さて、3月26日当日、この開港阻止決戦のプランナー和多田は、岩山部落の台地に建てられた小さな小屋におりました。インター系の学生共闘が鉄塔決戦に備えて作った小屋のはずです。他にやはり管制塔占拠の計画を知っていた指導メンバーがそこには詰めていたようです。
午前11時、某ホテルから和多田に連絡が入ります。屋上から空港内を偵察していたメンバーが「警備部隊が第3ゲートの方に動いていった。空港内はガラ空きである」というのものでした。第3ゲートは、反対同盟主催の集会が予定されている三里塚第一公園からまっすぐの直近のゲートです。公園には少なくとも数千人規模の参加者が集うはず。警備がそちらに差し向けられたのでした。
実は、その前日に新聞記者から、警備方針で警察内部に対立があるという情報がもたらされていたそうです。それを聞いて「もしかしたら」と思った和多田の見込みがまんまと当たったのでした。警備は精強の千葉県警機動隊を横堀要塞に差し向け、おまけに第一公園の集会・デモ警備に残りの部隊を投入したのでした。
和多田たちは、第8ゲートの部隊指揮者とは無線連絡を取っていましたが、管制塔攻略部隊とはまったくやりとりができない状態でした。
前夜、排水溝侵入時に機動隊に発見されたことがあって、排水溝内で無線機をハンマーで潰して無線を遮断していました。
「ヒラタよ。あの日の闘争はもう信じられないような偶然の重なりばっかりで、とんでもなくうまくいったのだから、あんまりカッコよく書くんじゃないよ」の和多田の言に従って書きます。
かっこ悪いことはこれからたくさん出てきますが、ここでは、あの無線機は地下に入ると通じなかったという話だけ記しておきます。それでも、和多田たちは「予定通り、決行」と流し続け、前田は地下排水溝でそれを聞き取らずに、やりとりの傍受を警戒して無線機を潰していたのです。管制塔に持ち込まなかったガスカッターとともに、ドジがいい結果を生んでいるのでした。
14階ベランダで、空港へ向かってくる赤い部隊を発見して、前田が騒ぎます。
その部隊に向かって、みんなでシュピレヒコォール!
「管制塔を占拠したぞぉ、開港を阻止するぞぉ!」。
振り向くや、「俺たちは、ここにカンパニアに来たんじゃないぞ。管制室に行くぞ! 方法を探せ、管制室に行くんだ」
ああ、そしてまた、このベランダでうろうろばたばたが始まったのでした。

★管制塔占拠闘争(12)
管制塔占拠組が、空港に向かってゆっくりと進んでくる隊列に向かって、シュピレヒコールをしているとき、当然、隊列の方も翻る2つの旗とその後ろでパイプを振っている人影を発見しました。
手すりをガンガン殴りながら、手を振る管制塔組に、ゆっくりと進んでくる隊列も、やがて猛烈に手やパイプを振って応えるようになりました。
けれど、インターの指揮者は、こんな会話をしたといいます。
「おい、俺らの旗がねぇじゃねえか? プロ青と戦旗が占拠したのか?」
「いいや、間違いなくあそこにいるのの半数は我が派だよ。また、旗を忘れたんだろうよ。ありそうなことじゃねぇか。日韓の時のことを思い出してみろよ」
数年前の日韓閣僚会議粉砕闘争ってやつです。
外務省に突入したはいいが、そこに立てるはずだった南ベトナム解放戦線旗やら槌鎌の素敵な「大漁旗」を、お忘れになったのです。
こたびは、前夜、排水溝侵入口に入り損なって、田んぼの泥まみれになりながら、小屋へと逃げ帰ったメンバーの腹に、反対同盟旗とインターの旗は巻かれていたのでした。
8ゲート部隊はずいぶん予定の時刻(午後1時)から遅れていました。他にも戦旗派にご事情があったようです。準備していたブツを、前日にすっかり機動隊にもって行かれてしまったのだそうです。後に名を挙げる「水野・山下精神」も、木材を鉄ブツに変える力があるはずもありません。
8ゲートの部隊の動きについて、『1978・3・26 NARITA』(ゆい書房 2008年刊)で語っているのは部隊を率いたインターの大隊長・中隊長。現場ではなく無線で指示を与えていた青年共闘(インター系)の大門、そして、今も称えられる勇士、プロ青の大森さんです。
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佐々木●8ゲートの部隊のなかで、「横堀要塞前から突撃開始して午後1時に8ゲートを突破」ということを知っていたのは、(無線で本部から指揮する)大門と連絡をとっていた大館だけ。だから、大館は焦るわけだよ。
大森●僕たちも急げ、急げと言われたが、時間を教えてもらっていない。現闘だから道は知っているから、これだけの大部隊が、あの細い道を簡単に通れるはずがないこともわかっている。戦旗派の武器が到着しなかったのは、前日に山をガサ入れされて鉄パイプを持っていかれてしまったので、やむをえず角材に変えた。これが部隊と武器とのドッキングが遅れ、角材という10年前のスタイルで戦旗派が登場した理由です。俺たちは前日の警察無線でそのことを知って、戦旗派は明日、どうするのだろうと心配していた。
大門●要塞に籠城していた現闘責任者は、午後1時に3方向から戦闘が始まることを知っていて、チャンスがあれば、できるだけ機動隊を要塞に引きつける作戦行動をとることになっていたのだが、「1時になっても8ゲートに部隊が到着しない。計画変更ですか」という連絡も入ったりした。
佐々木●けっきょく、30分くらい遅れたね。横堀要塞周辺の出発地点に30分遅れで到着したとき、管制塔付近から煙が上がっている。
大森●精華学園でいったん止まって、あの細い道を出た丹波山のところで部隊が勢ぞろいした。私の任務は「突っこむときに先頭にいればいい」ということで、第1中隊の第1小隊長。京都にいるAとIが、前年の5・8から交互に指揮をとっていたのですが、Aと僕と、インターからは3~4人が出てきて、「今日は頑張ろう」と丹波山で握手をしたのは覚えています。そのときの意思一致は、「今日は突っこむ」。先鋒隊で言われたのは「今日は引かない」ということだけです。陽動作戦がちょっとでも頭に入っていれば、考え方は変わっていたと思います。
佐々木●陽動作戦といっても、進んでいけばどこかで機動隊の阻止線とぶつかる。そのときは引かない。とことんやりぬく。しかし、それで空港のなかまで行きつけるという想定は、少なくとも僕の頭のなかには全然なかった。
大森●途中にバリケードがいくつもあるのは知っていたから、空港のなかまでいけるとは思っていなかったよね。
佐々木●8ゲートに至る途中で、機動隊と大乱戦になるはずだった。
大館●それをやらないかぎり、管制塔部隊は上までいけない。中隊長クラスまでは、みんな、そう考えていたと思う。
高橋●想定では、8ゲートのはるか手前で白兵戦になるはずだった。ところが行けども行けども白兵戦にならない。どんどん進めてしまう(笑)。
大森●空港を作るための砂利の山が、あちこちにいっぱいあって、そのあいだを行進していった。途中に開けたところもあるが、その場所にはバリケードもなければ機動隊もいない。 (『1978・3・26 NARITA』)
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先に書いたように警備側は精鋭を横堀要塞に送り、警視庁他の部隊を第3ゲート方面に向けてしまっていました。あとは空港内に制服警察官と多くない機動隊が置かれているだけの状態になっていたのです。
その状態で管制塔を占拠され、空港内に置かれた警備本部が解体してしまってからは、もう警備どころじゃなくなっていたのです。どこにどう部隊を配置するのか、どう動かすのか、機動隊の側はやりようがなく大混乱に陥っていたのでした。
8ゲートからの大部隊がしずしずと進んでくるなか、管制塔14階ベランダでは、前田の「管制室に行くぞ、方法を探せ!」の声が響いていました。
一人のメンバーが、ベランダに設えてある大きな「お椀」を見上げたのでした。

(明日の後編に続く)
※ 管制塔占拠闘争を報じた第四インター機関紙「世界革命」号外(1978.3.27)をホームページにアップしました。
下記アドレスからご覧ください。