2018年3月4日、御茶ノ水の連合会館で、昨年11月に亡くなった元赤軍派議長塩見孝也さんの「お別れ会」があった、
私は、塩見さんとは10年ほど前、ある会合で一緒になり、名刺交換をしたことがある。塩見さんとの接点は、その時の1回のみである。「お別れ会」の案内状を見ると、「交流の濃淡を問わず参加を」ということなので、参加してきた。
今回は、その「お別れ会」第一部の発言をまとめたものである。
※ ブログの字数制限2万字を超えるため、今日と明日の2回に分けて掲載します。

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【「塩見孝也お別れ会」前編】
  「塩見孝也お別れ会」ならびに「時代を語る会」への案内状
 塩見孝也さんが、2017年11月14日に心不全で亡くなりました。享年76歳でした。塩見さんは1962年京大(文学部)に入学、京大、京都府学連で活躍しその後、三派全学連と第二次ブント結成に中心的役割を担いました。そして、全共闘運動、70年安保闘争の過程で共産主義者同盟赤軍派を結成、議長として「大菩薩」「よど号」を主導し逮捕、破防法も適用されて18年間にわたる獄中生活を送りました。出獄後は「9条改憲阻止の会」の運動に参加するなどして、多くの方と交流しました。また文筆活動を通して「革命の夢」を語り続け一生を終えました。
 塩見さんといえば、やはり「赤軍派」問題です。1969年に「前段階武装蜂起」を主張して無謀な局面突破を追求し、7/6事件で第二次ブンドを崩壊させ、後の連合赤軍事件への道を開いた事実を避けて通ることはできません。それらは日本の地において、20世紀の革命運動の終わりを開く端緒となりました。赤軍派を胚胎した第二次ブントの路線的根拠が問われた所以でもあります。そうした事々をも含めて想い致しつつ、塩見さんのお別れ会を開催したいと思います。
 第一部は「塩見孝也お別れ会」、第二部は「時代を語る会」とします。彼との交流の濃淡を問わず、彼への評価の違いも問わず、多くの方々の参加を呼びかけます。

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椎野礼仁(司会)
「皆さま、今日は塩見孝也お別れ会及び時代を語る会にお越しいただきありがとうございました。一部は発言者が決まっておりますが、俺にも喋らせろという方は二部の方でぞんぶんに語っていただければいいと思います。
私は椎野礼仁と申します。塩見さんの追悼記事が朝日新聞と毎日新聞に出ましたが、朝日新聞は、そこにいらっしゃいます樋口さんがなかなか素敵な文章を書いておりますが、毎日新聞の追悼文は、私が実は書いております。
私は社学同の戦旗派の方にいた人間ですので、直接関係ないんですが、塩見さんの本の出版と、塩見さんが市議選に出た時に運動員の一人として応援しまして、晩年、ちょっと縁ができましたの、その関係で司会を仰せつかりました。
メイン司会の村田さんを紹介します。」

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村田能則(メイン司会)
「塩見孝也さんとは55年くらいの前から付き合いです。途中、彼が刑務所に入って20年くらい付き合いが途絶えたんですけれでも、私は赤軍派ではなかったんですけれども、ブントの関係で、学生時代と刑務所から出てきてからの付き合いが何度かあります。意見が違ったりしていますけれども、喧嘩をする時もあれば仲良く酒を飲む時もあるという関係でした。
今日は椎野さんと2人で進行をさせいただきます。よろしくお願いします。」

椎野(司会)
「それでは実行委員長から開会の挨拶をいただきます。」

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新開純也(実行委員長:京大友人)
「今日はお別れ会に参加していただき有難うございます。実行委員会を代表して、塩見孝也の大学と、共産主義者同盟ブントのいささかの先輩として、僭越ではありますが、ご挨拶をさせていただきます。
塩見孝也は、昨年11月14日に心臓疾患で亡くなりました。享年76歳でした。
塩見は1962年に京大に入学しました。たいへん目立つ男で、当時、大管法(大学管理法)反対闘争を闘い、その過程で社学同に入りました。そういう過程の中で、60年代中盤から上京し、三派全学連、第二次ブント再建の中心の役割を担って活躍しました。
70年安保の過程で共産主義者同盟赤軍派を結成し、過渡期世界論を路線化して武装闘争を提起した。このことについては、皆さんのいろいろな思い、賛否はあるかと思いますが、武装闘争を初めて路線化したのは彼でありました。70年に逮捕され、よど号ハイジャックの共同正犯として約20年間獄中にありました。出てきてから北朝鮮に行って田宮らと交流し、近年は9条改憲阻止の会に参加、また、2011年の福島第一原発事故以降は、経産省前テント村にも参加して活躍した。獄中20年を含めて、闘い続けた一生だった。
その中で、彼は赤軍派リーダーでありましたから、獄中を含めてそれにこだわり続けた一生だったとも思います。

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彼は、赤軍派から出た3つの流れ、一つはよど号ハイジャック、二つ目は連合赤軍に至る過程、三つ目は日本赤軍への流れ、こういう三つの流れについて、後の二つについては、彼は獄中にいて直接タッチしていません。しかし、彼はそういうことに対して責任にこだわり、総括をすることを一生の課題にしたのではないかと思う。
彼は自分の生をストレートに表現した男ではなかったかと思う。そのことは、しばしば多くの誤解を生み、迷惑を被った人が多くいると思います。(笑)お別れ会には行かないという人が結構いるのも事実です。
しかしながら、彼は自分自身のキャラクターを自分の生身の言葉で表現しようとした一生であったと思っています。文字通り『わがままに生きた男』ではなかったか。そういう意味では幸せな人生を送ったのではないかと私は思っている。
今日は塩見孝也を偲び、その時代を語るとともに、現在、大きな転換点にあります世界と日本の今後の行方を含めて、大いに偲びつつ語っていただければ、実行委員会としては非常にうれしく思います。今日はご参加ありがとうございます。」

椎野(司会)
「塩見さんの奥様はいらっしゃいませんが、親しい方が手紙をいただいていて、それをご紹介するということで、ご了承を得ております。」

塩見一子さん手紙紹介(代読:長船青治)
<塩見一子さんの手紙 >
御挨拶 前略 ご容赦ください。
塩見孝也は、2017年11月14日20時15分旅立ちました。直接の死因は虚血性心不全。亨年76年と半年。
生前の御好意感謝致します。私が死者に代わって感謝とはおかしなことです。が、「ありがとう」「ごめん」が言えなかった人なので・・・。
2015年、家族の猛反対を押し切って、市議選に立候補以来、体調を崩し、入退院を繰り返してきました。
今年は、4月3日から15日迄「多摩北部医療センター」に入院。8月下旬から9月一杯「順洋会武蔵野総合クリニック」に入院。退院しても前のように元気をとり戻すことはありませんでした。     
「入院しても、もう元には戻らんのだな」と自問自答することも多くなりました。11月14日、武蔵野クリニックで診療拒否。両病院共にトラブルの連続でした。
ケアマネジャー、清瀬市の社協に相談。具合が悪くなったら救急車を呼んで、病院を決めてもらうという方針にしました。
玄関に座り込んだままの彼に「救急車呼ぼうか?」「いや、呼ばんでいい」 台所仕事をしながら会話をしていました。言葉が途切れたので、見ると動きません。それが、20時15分でした。 救急車で心臓マッサージをしながら昭和病院に運ばれました。心臓は動きだすことはありませんでした。
「午後9時53分死亡を確認致しました。でも動かなくなったとき心臓は止まったんだと思いました」
スタッフ全員、直立不動で背筋を伸ばし、深々とおじぎをしました。死者への敬意と受け取りました。私も同様に、おじぎを返しました。感謝をこめて。
眠るような安らかな死に顔でした。3年の内に、沖縄の海に散骨するつもりでおります。
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お世話になりました。
塩見は何の挨拶もせず、逝ってしまいました。
故人に代わって最後の一日の様子を中心に語らせて頂きました。
本日は、ありがとうございました。
いずれ散骨の日の費用に使わせて頂きます。
塩見に対する評価(悪評)は多々あります。
しかし、個は類に規定され、時代の子でもあります。
彼をつくり出したのは同時代を生きた我々ひとりひとり。
時代を総括して、新しい時代を切り開いていく力にしていく必要はあるでしょう。
私たちとって、自分の人生に向き合うということは、塩見孝也の生涯に向き合うということでもあります。生命のある限り逃げることはありません。
合掌
12月26日  塩見一子

椎野(姉妹)
「黙祷を捧げたいとと思います、皆さまご起立をお願いいたします。」
●黙祷
「同志は倒れぬ」の曲が流れる中、全員で黙とう。

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椎野(司会)
「献花をお願いいたします。」
●献花
「同志は倒れぬ」「ワルシャワ労働歌」などの曲が流れる中、全員で献花。

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椎野(司会)
「参加者の方々から一言づつお言葉をいただきます。渕上さんお願いします。」

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渕上太郎(経産省前テント広場代表)
「塩見さんとはそんなに長い付き合いではない。彼は元赤軍派議長という肩書ですが、72年に浅間山荘の事件があり、彼の政治的な考え方等々について、政治の世界でセンセーショナルに報じられてきたし、彼自身もそうした問題についての一般的な考察を巡って苦労されたのかなと思っています。私も同時代で生きているわけですから、そういう点では共通の問題もあったんだろうと思っています。総括というのはなかなか難しい問題なので、この場でああだこうだ言うつもりはありません。ただ、人間としての塩見孝也について少し申し上げておきたいと思います。
塩見さんとは9条改憲阻止の会が出きてからの付き合いです。しばらく経ってから、会議が終わった後に、彼が『渕上、ちょっと話がある』ということで何のことかと思っていたら、『俺の方が一つ年上なのに会議で塩見と呼び捨てにされた。けしからん』と言われた。(笑)『もしそうだったとすれば悪かった』と謝って終わった。その後いろいろあったわけですが、ある日突然『30万円貸せ』と言われた。『返すのか』と聞いたら『はい』と言うので貸したが、その後お金の話は一切ない。それはそれで仕方ない、そんなこともあるだろうと思っている。
70にもなろうとする男が、呼び捨てにしたと怒って一席設けるわけです。ほとんど学生時代から成長していない。(笑)成長すればいいというものではないわけですが、革命運動などと言う限り、少しずつ成長していかないとなかなかうまくいかない部分があるはずです。そういう点が全く見られなかったので、おもしろい男だと思っていた。
その後、改憲阻止の会が沖縄闘争に取り組んだことがあって、ユニークな沖縄闘争をやりたいと考えて、その金集めの出し物として塩見孝也さんの『生前葬』をやった。その時に、彼から重要な抵抗はほとんどありませんでした。しかし、本音はたぶん『何で俺なんだ。俺はもうお終いということか』という思いもあったはずだか、直接俺には言わなかった。
生前葬に賛同していただいて、おかげで。かなりの金額を沖縄にカンパできた。
9条改憲阻止の会でそういうことをやってしまったものですから、本当に死んだらどうしよう思いましたが、これは普通の方が普通に亡くなっていく対応しかないわけであります。
亡くなってからしみじみ思うわけですが、彼があの世で、まったく違った分野で頑張っていこうということであればいいなと思っている。違った分野で違った経験をして、もう1回転じて、彼の希望していた『革命家』の道を成就することができるのではないかと思ったりするところであります。
彼は『学生運動革命家』として一生を終えた。これはこれで大変幸せな一生ではなかったのかと思っています。楽しい人生を送っていただいて、私も塩見さんの人柄に触れることができて、それはそれで良かったと思っています。」

椎野(司会)
「9条改憲阻止の会の三上治さんにご挨拶いただきます。」

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三上治(9条改憲阻止の会)
「塩見とは長い付き合いで、塩見のことはいろんな話があって、どういう風にお別れするかと思っていて、自分の中でいい言葉がないというか、もっと時間をかけて、いろんな形でやらなければいけないと思っています。
1969年から70年にかけて、いわゆる赤軍派が登場した時、僕はブントの右派といわれた、後に叛旗派となるグループの先頭で、塩見とは一番激しく対立していた時代がありました。それは、あの時代に武装闘争をやることが正しいのかどうか、基本的に僕は反対の考え方をとっていて、一番激しく対立した時期があります。その時代の後も、ずっといろんな形で総括し、話し合ってきました。
その後、9条改憲阻止の会で一緒になり、活動してきました。議論もし論争もしました。60年代の話になると、2人で激烈な喧嘩になり、収拾がつかなくなり、周りがハラハラすることもありました。でも、お互いにその問題について決着つかなくとも、何らかの形で考えていかなければいけないということに関しては塩見と共通の考えを持って、お互いの意見を聞こう理解しようとしていました。
9条改憲阻止の会が経産省前にテントを作り、初期は塩見も来ていた。その後、清瀬市会議員の選挙があり、選挙の後、清瀬まで塩見に会いにいきました。彼も前から心臓を患っていて、お互いに身体には気を付けようという話になりました。
塩見自体が、本当の意味で自分の心の底を、あの当時どうだったかということを本当の意味で語ったのか、語らなかったのか。たぶん語りたかったけれど語れなかったのか、あるいは言葉にしたかったけれど、まだ言葉にならなかったのか、それは塩見の問題ではなくて、また俺の問題でもあるんだろう。
塩見とお別れするのは、塩見の本音を自分自身で本当に理解できた時だろうし、それまでは塩見さんの存在は僕の中ではずっと続いていくだろう。それは、あの時代を共に闘った、その時代の問題でもあるのだろうと考えて、しばらくは、お別れしたいけれど、お別れするためにはまだまだ時間がかかる。まだしばらくは、お別れという言葉を留保させていただきます。」

椎野(司会)
「続いて、塩見さんと北朝鮮とかイラクに一緒に行ったり、市議選の時には応援に来ていただいた作家の雨宮処凛さん、お願いします。」

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雨宮処凛(作家)
「皆さん60年代くらいからの付き合いがある方も多いと思うんですけれども、私はちょうど20年前、塩見さんのイベント、確か『赤軍派対ダメ連』、ダメ連という若者のムーブメントと赤軍派議長が語るみたいなイベントに行ったのが、1998年、私が23歳くらいの時だったと思うんですけれども、塩見さんが初対面のただの客の私に、いきなり『北朝鮮に行こう』と言ってきて、それが最初の会話で、私も元赤軍派議長にいきなり北朝鮮旅行に誘われて、断ったら殺されるんじゃないかと思って(笑)、しょうがないから二つ返事で行きますと言って行ったのが初めての海外旅行で、99年に北朝鮮に行った。何で北朝鮮に行くのか全然説明がなくて、とりあえず平壌に行けば何とか活動するだろうみたいな感じで、いきなりよど号グループの宿舎にぶち込まれて、子どもが同世代だったので、子どもたちと仲良くなって、それで5回北朝鮮に行って、よど号の子どもが日本に帰ってくる時に、私は平壌まで迎えに行って一緒に帰ってきて、そんなことしていたから、日朝会談があった直後に家にガサ入れが入って、本当に塩見さんと付き合っていると、いきなりいろんなことに巻き込まれて人生がおかしな方向になるという、それを実践している一人です。皆さんもいろいろ迷惑を被っていると思いますけれども(笑)、私にはこの20年でこのような実害というか、そのようなことがありましたけれど、塩見さんに強引に巻き込まれたお陰で、人生がとっても面白くなったということがあります。

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あと、晩年の塩見さんのことで、皆さん知らない方もいるかもしれないですけれども、この10年15年くらい、塩見さんの周りに生きづらさを抱える若い人たちがすごく集まってきて、私のイベントにも塩見さんに来てもらっていたんですけれども、2010年にここで塩見さんの生前葬をした時は、元引きこもりの若い人が『俺は駐車場管理人』という自作のヒップホップを歌ったことがあって、その彼は塩見さんのことが大好きで、他にも引きこもりとかニートとかいじめられていたとか不登校だったとか、社会的に排除されたような若い人が、塩見さんの周りにすごい集まっていて、塩見さん塩見さんとなついていたんですね。何でかというと、その人たちのいろんな悩みを普通の大人に相談すると『自己責任だ』そんなことを言われるけど、塩見さんに相談すると全部資本主義が悪いんだ(笑)
それは全部資本主義の問題だ、世界同時革命しかないと言う感じで、普通の大人が言うのとは全く違うことで、元赤軍派議長にお前は悪くない、お前の生きづらさの原因は資本主義だと断言される。そういう形で塩見さんと関わった若者たちが、塩見さんが意図しない形ですごい勇気づけられて、元気になっていくということがたくさん起こっていたんですね。本人は気付いていなかったけど、すごいたくさんの人を救っていた。
自己責任をいわれて分断されて孤立化させられていく中で自殺に追い込まれていくという中での苦しさに対して言ってくれたので、塩見さんがどこまで若者たちの思いを理解していたかわからないですが、そういう形で救っていたというのはすごい大きなことです。
私は20年前は右翼団体にいて、塩見さんにやめろ辞めろと言われていて、12年間から貧困問題と労働問題を始めたら、全部自分の手柄だと思ったらしくて、それからしょっちゅう電話が掛かってきて、明らかにこっちの運動を乗っ取って世界同時革命をやろうというのがバレバレなんです(笑)。
10年前にシルバー人材で仕事をしてからすごく変わって、シルバー人材センターユニオンを作りたいと相談に来たことがある。結局、シルバー人材ユニオンから世界同時革命をしたいということをまだ言っていて、とても感動したことがあって、本当に好き勝手に生きてきた人だったなと思います。
私にとっての塩見さんは『世界同時革命おじさん』でした。」

椎野(司会)
「この方も塩見さんと交差した方で、塩見さんが左から右へ、鈴木さんが右から左へ行くような交差がずいぶんあった鈴木邦男さんから一言いただきたいと思います。」

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鈴木邦男(元「一水会」最高顧問)
「鈴木邦男です。今、司会者が交差と言いましたけれど、そういう点もあったのかなと。僕がかって右の運動を40年間やっていて、今は左翼だといわれますけれども、塩見さんの名前は昔から知っていましたし、本も読んでいました。ただ、皆さんと違って同志ではなかったので刑務所に迎えに行くこともできなかった。
出てきてから、運命的な討論会がありました。予備校の河合塾で『左翼激突討論会』というのがありまして、塩見さんと私がやりました。名古屋でやって、大阪でやって、東京でやって、全国でやりまして、塩見孝也というのはものすごい人だと思ったんですけれども、でも、結構脇が甘くて人間的なんですね(笑)。そういう意味で非常に面白い人ですね。
塩見さんが左翼のアホどもに利用されるのが嫌で、一度塩見さんにこう言ったことがあったんですが、『塩見さん、そろそろ革命家としてきちんとこの国の将来を考える本を作りましょうよ。憲法9条の改憲阻止の会なんかやっているんじゃない』すみません、関係者がいっぱいいるのに(笑)『それよりも憲法そのものが日本にはいらないんじゃないか。天皇制もいらない。そういうことをきちんと言ったらどうですか』と言った。かって、社会主義協会の人がこんなことを言ったことを覚えている。社会主義協会の代表だった人は『日本には自衛隊なんかいらない。自衛隊を赤軍にしろ。ワルシャワ条約機構に加盟しろ』と言っていた。敵ながらあっぱれなことを言うなと思った。塩見さんにもそういう存在になって欲しいと思ったんですね。塩見さんにも『天皇制はいらないでしょう。大統領制にしましよう。自衛隊はいらないでしょう』という話をしたんです。塩見さんは『そうだな』と。『じゃあ憲法9条の問題をやっているところじゃないでしょう、天皇制はいらない、大統領制にする、最初の大統領は塩見さんですね』と聞いたら、塩見さんは謙虚なんです。『俺はダメだ。中核派の親分、本多さん』。『その次は塩見さんですね』と聞いたら答えない。
冗談半分なんだから大風呂敷を広げればいのに、正直で言わない。
雨宮さんが言っていましたが、若い人の話を聞いたと。塩見さんはキチンと聞くんですね。『君はなかなか革命的だ』とほめる。ほめる言葉の最大の表現が『革命的』ですからね(笑)。それで、『今の若者は大したものだ、しっかりしている』。どこがしっかりしているのか、こいつらは、と僕は思いました。他人に対して甘いんじゃないかと思いました。
あれだけのことをやった日本のレーニンといわれた塩見さんだから、もっと大きく構えていればいいと思うんです。
連合赤軍の人たちが塩見さんの責任を言うと、これこれと細かく例証を上げるんですね。そんなことよりも全部自分が作ったんだ、俺のせいだ、成功も失敗も全部俺のものだと言ったらいいと思うんです。でも、そういう風に言えなかった。きっと人間が真面目なんですね。そういう意味で残念だったと思うし、そういった形で塩見さんをもっと大きくすることができなかった我々傍にいた人間の失敗だと思います。
塩見さんを送るということですが、送りたくないですね。阻止したい、奪還したいという感じですね。肉体は奪還できなくても、魂は、また、革命の志は奪還したいと思っています。塩見さんが出来なかったことを、我々がみんなが何とかしてやっていきたいと思っています。」

椎野(司会)
「続いてトークライブ酒場を経営している平野悠さんにお言葉をいただきます。」

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平野 悠(ロフト+1経営)
「僕はロフト+1というトークライブハウスを経営していまして、その中でいろんな論争があったり乱闘があったりしました。僕は青春時代は、ブントが初めて作った労働戦線で懸命に労働運動をやっていました。でも2年間一生懸命やったことが、あの連合赤軍事件で悲惨な目に遭って仕事を辞めました。僕は学生時代も労働戦線の時代も塩見と全く接点がなかったです。
85年に酒場、トークライブハウスを作った極端なきっかけは、中核と革マルを同じステージに上げて喋らせたいというのがずっと僕のテーマにあったんですけれども、結局、僕のところに出たのはブント系しかなかった。98年に塩見さんと会いましたが、塩見さんは全く孤立無援でしたね。20年間の獄中生活の中で、彼はいろんなことを思ったに違いない。出たらもう1回組織を作って世界革命をやるということはなかった。塩見さんが出てきて何かをしたいという土壌が一つもなかった。
それで僕は塩見さんを立てるしかないと、塩見さんを呼んだいろんなイベントをやりました。15年前に塩見のイベントをやった時に、塩見さんの事務所にFAXが入って『塩見を殺す』。普通の人だったら面白がって、右翼こいこいとなるが、塩見さんは異常反応しまして、防衛隊を作ってどうのこうの、そこまではいいんですが、店の入口で一人一人チェックして写真まで撮って、新宿署の公安もいるというムチャクチャなことをやった。ふざけるな、俺のところは絶対警察なんて入れないと一時絶縁した。
だけど塩見さんはいい人なんだな。塩見さんとは北朝鮮に行き、イラクに行き、原発の時は福島まで行って一緒にデモをしたり、いろんなことをしました。
最後の塩見さんとの決別の場所は、塩見さんから電話がかかってきて『俺は選挙に出る』たぶん、裏ではお金出せというだけの話だったと思うんですけれども、塩見さんに言われちゃったらしょうがないんで、僕と鈴木邦男と雨宮処凛と選挙の応援演説に行った。選挙日の前日には、皆で町をゲバラの旗を持って、赤軍派だと、世界革命の旗を持って町中行進したんですよ。これはひんしゅくもので、町はドンビキ。選挙演説の時は買い物かごを持ったおばさんに対して世界革命をやる訳ですよ(笑)。本人は受かるつもりだったらしいが。僕は間違いなく受からないと思った。でも300票くらい取ったんだよね。20年間牢獄にいたせいなんでしょうが、午前中に演説して午後には家に昼寝に行ってしまう。そんなこともありました。
でも塩見さんはいい人です。塩見さんは大衆運動にとにかく入り込みたい、自分で何かやりたいといった時に、僕の店は若者もいたし、彼は僕の店で開いた学習会にも入り込んできて、『賃労働と資本』の学習会をやったんですけれども、全部パクるんですけれど、組織者としてはうまくいかなかった。
塩見さんは最後の最後まで世界革命を忘れていなかった、という無茶苦茶偉大な人です。」

椎野(司会)
「平野さんが紹介していた選挙演説の時に、塩見さんは獄中20年と言っていた。それは隣の西東京市で、自分は大菩薩で捕まった赤軍派であるということを隠さずにトップ当選をしている市議会議員の選挙参謀がそういう戦術を打ち出した。(選挙参謀は)『塩見さん、他の人と同じことをやってもダメだ。1人対他の候補22人という構造を作り出せばそこに勝機があるかもしれない。そこにしか勝機がない』ということを仰って、それを採用して、23人中22位、319票で落選しました。ただ供託金は取り戻しました。」

村田(司会)
「これから学生運動の時代に活動家だった方が発言します。最初は白川真澄さん、お願いします。」

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白川真澄(京大大学時代の友人)
「私が大学に入学したのは1961年、安保闘争の次の年です。彼が入学したのは1962年に文学部に入学した。教養部のブンドの新しいリーダーとして活動するようになった。当時の京大ブンド、関西ブントは、渥美さんとか新開さんとか、きらびやかなスター軍団ぞろいで『巨人』のようなものです。私は共産党に入党したわけですが、共産党は人材もない戦闘力もない、当時の広島カープのような『貧乏球団』に入ったという印象だった。この『貧乏球団』をブントに並ぶ強い『球団』にしなくてはいけないということで、私が大衆運動の前面に出まして、塩見君とライバルとしてやりあったということであります。
当時の京大ブントの新開さんたちとよく論争しましたが、かなり生産的な論争ができたと思っています。だけど、塩見とは生産的な論争をした記憶が全くない(笑)。新開さんとはグラムシとかローザを読んで、それをベースにして論争するわけですが、塩見は読んだことがないんじゃないか。あいつのレーニン理解は何なんだろうと思っていて、結局塩見とは腕ずくでやり合うことが多くて、論争にならなかったというのが私の印象です。彼は『日本のレーニン』と呼ばれたそうだが、誰が言ったのだろうか(笑)。自分で言ったのではないか、とさえ思う。
私たちにとっての華というのは、68 年から70 年にかけての闘争ということになって、同じように体験したわけですが、私は共産党から当然のように除名されまして、共産主義労働者党という党派を結成しました。これは『遅れてきた新左翼』ということで、中核の諸君とかブントの諸君が先行していましたから、何とか追いつけ追い越せということで、私たちも反政府実力闘争を展開してかなりの犠牲者を出しながら実力闘争を展開しました。ただその中で、いろいろな要素があって、政府を実力で倒すという闘争と同時に、全共闘運動に見られるように自分たちに決定権を取り戻す、つまり自治の革命とか、あるいはフランス5月革命に見られる自主管理の闘い、そういう新しい要素が芽生えていたのではないか、今も当時もそう考えていました。私たちは政治革命だけではなくて、社会革命もということで『政治=社会同時革命』といういい方をして、68年69年の闘いに行こうと考えていたわけです。
ある時、69年ですが、上京していた塩見とばったり出会った。私は共労党の専従で上京していた。その時、塩見に『塩見、暴力だけでは世の中は変わらないぞ』と言った。それ対して、塩見は『何言ってるんだ、暴力で変わるんだよ、暴力で』と言った。その後、交わることはなくて逮捕されて、長い獄中生活を送るわけです。出てきたときに出迎えに行って付き合いが復活するわけです。
私は68年69年というのは、世界革命ということでいうと、国家権力を獲る革命あるいは政府権力の奪取を優先する革命から、自治の革命に革命というものが大きく転換する歴史的な転換点だったと、私は総括している。
このことは、国家権力を獲る革命、あるいは政治権力を奪取することを優先する革命は、革命的な暴力を伴います。革命的な暴力というものは、当時の新左翼の共通の考えであったわけです。『革命的暴力』をどうするかという問題があって、やっぱり塩見君はぎりぎり武装闘争を追求した。68年から70年にかけて東京でやった反政府実力闘争は敗北した。敗北をはっきろ認めなければいけない。私たちは、三里塚闘争の中で、もう1回実力闘争を復権するという道を選んだ。
ちょうど今年が管制塔占拠の40周年になるわけで、生活空間に根差した人々の抵抗の暴力は強いということを非常に実感しました。と同時に、世界的に行われた民族解放の武装闘争、第三世界の武装闘争、ベトナムやパレスチナの解放闘争、そういうものに世界革命のリアリティを求めたわけです。だけれども、それが80年90年代に挫折をしたということをどう考えるか、という問題があります。私は、暴力の問題は、人々の生活空間に根差した『抵抗の暴力』は強い、これは生きるというのが私の一つの考えで、その点、塩見がどう考えたのか、彼が生きていたら論争したかった。
普通、偲ぶ会というのは、良いところを挙げて、最後にちょっとけなすということがあるけれども、何が良いところかよくわからない。
最後に一つ申し上げます。塩見はリアリスとしての革命家としてはダメだ。だけれども、間違いなく革命の夢を追い求めたロマンティストであったことは間違いない。リアリストであるためには、冷たい計算をして闘いを勝利に導くためには、その原点は熱い心を持ったロマンチストでなければいけないと思います。その点で、ロマンチストでありたい、あろうという塩見とどこかで一致するのではないかと考えているところです。」

村田(司会)
「白川さんのお話の中で、誰が塩見を『日本のレーニン』と最初に言い出したかということですが、私の記憶では、たぶん藤本敏夫が、新聞記者相手に関西弁で『レーニンみたいな男やな』と言ったと記憶している。次に朝日健太郎さんお願いします。」

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朝日健太郎(先駆社代表)
「私は1944年生まれです、塩見さんよりちょっと下ですが、同時代を生きてきた一人です。私はフロント派といわれていた政治グループの責任者でもあります。
彼の特徴点は世界同時革命、武装闘争ということでありますけれども、その視点からいいますと、私は終生一貫して反対し続けてきた右翼日和見主義の代表のような立場であります。塩見さんとは、実はほとんど接点がありません。3・11以降、立ち話をする機会はありました。
塩見さんは第二次ブントの中心的な方ですが、第一次ブントで世の中を騒がせている人は西部邁です。この人物はどういうわけかメディアでは賛美されている。60年安保のブントの人たちの一群は、皆さんご存知のように保守派に行きました。それは、国家をどうするかということで中曽根など保守派に近づいたと思います。西部はそこに行けなかった。彼は共産主義は嫌い、これは反スタですね。もう一つは親米保守は嫌い。これは私の理解ですが、60年論争の時に最大の論争点は自立従属論争というのがあった。ブントは私たちと同じように自立派、日本帝国主義復活と闘うにはどうするのかというのがテーマであったわけですから、アメリカと手を組んでやろうという気はさらさらなかったし、ましてや、従属的な発想は全くなかったですね。ですから西部は親米保守が嫌いだった。保守派に行ったにもかかわらず、彼の考えは合理主義です。力で振り負かすというのは彼には合わない。そうすると、最後は行く場所がなくなったのではないか。私は安倍晋三は対米従属を賛美しているとは思いません。彼は明らかに日本の自主独立をどうするかということを保守の側から考えている一人です。彼は最終的には憲法だけではなくて、核武装もそうだし、天皇元首化もそうだし、日本の復古的なものをもういっぺんやろうという発想に近い方である。西部は行く場所がなくて死んだと私は思っている。
塩見孝也の長い人生を見て、ブントの中で保守に行かなかった代表者の一人だと思う。それは保守に行かなかったけれども、革命をどうするかということを終始考えていたことは間違いない。
私は世界革命戦争と市議会議員選挙がどうして結びつくのかということを彼に聞くこともなかったし、私の理解を超えた発想であります。
彼はいろんな評価はありますけれども、彼のフェイスブックを読んだ友人によりますと、そこに革命家と書いてあるという。そうか、彼は革命家として終生闘ったんだ、その中身はともかくかくとして、その志は私は最後に称えたいと思います。」

(明日のブログ後編に続く)

【お知らせ】
●日大全共闘結成50周年の集い

2018年6月10日(日)
午後1時 御茶ノ水「錦華公園」集合
(明治大学裏)
午後2時から5時
アジア青少年センター
千代田区猿楽町2-5-5
参加費4千円