今年の1月3日、前・情況出版代表大下敦史氏が逝去された。享年71歳。
大下氏を偲んで、6月17日(日)東京・神田の「学士会館」で「大下敦史ゆかりの集い、追悼!記念講演会」が開催された。今回のブログはその集いの概要を掲載する。

【当日の呼びかけ文】
大下敦史ゆかりの集い、追悼!記念講演会/懇親会(2018年6月17日)
前・情況出版代表の大下敦史が逝ってから6か月が経ちました。
彼は「情況」誌を引き継いでから約20年、厳しい活字離れ、出版業界の中で、また、論壇の急速な右傾化の中で、いわば孤高を保って「情況」を守り出版を続けてきました。
新自由主義が跋扈し,思潮においても、現実の運動においても、「情況」が出発した“68年”当時と様変わりし、“体制変革”志向の衰退するなかで,松明を掲げ、知識人、運動家の輪をつないできました。
そして、リーマンショックと2011年以降の世界同時の新たな運動の波の中で、「情況」を通してそれを解析し、また運動の輪を広げるチャレンジをしてきました。その途上の死でした。残念であっただろうと思います。
そのような大下敦史を偲び、生前ゆかりのあった山本義隆氏、白井聡氏の協力を得て両氏の講演を交えた追悼会/懇親会を2018年6月17日に開催いたします。ハワイ留学中の愛娘、朝子さんが帰国しているこの時に開催することをご理解頂き、ご多忙かと思いますが皆様方のご参加をお願いします。
(呼び掛け人代表  新開純也)
共同発起人  大谷行雄(義弟) 大下朝子(長女)
呼び掛け人  山本義隆 白井 聡 新開純也 米田隆介 表 三郎 末井幸作 山中幸男

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【式次第】
第一部 講演会 
 司会挨拶  辻 惠/福井伸一
発起人 開会挨拶と謝辞  大谷行雄
呼び掛け人 挨拶  米田隆介
重信房子メッセージ代読  山中幸男
追悼メッセージの紹介  福井伸一
記念講演    白井 聡
記念講演    山本義隆
呼び掛け人 挨拶  新開純也
発起人の閉会挨拶と謝辞  大下朝子

第一部

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辻 恵(司会)(弁護士:10・8山﨑博昭プロジェクト)
「大下さんは昨年8月の10・8山﨑博昭プロジェクトのベトナム・ツアーに参加されました。そういう縁もあり、今日司会をさせていただくことになりました。最後の頃、新しい政党を作らなければいけない、政党、政党と、どういうイメージで仰っているのかと思って、もう一歩深い話ができないままにお別れになってしまいました。大下さんが『情況』誌を拠点に、日本の50年代60年代以降の様々な闘いを、しっかりと次につなげるための孤塁を守ってきていただいたということを、私たちはきちんと胸に刻んで、(今日の集いが)これからも頑張っていくという誓いの場でもあればいいと思います。
最初に、発起人を代表して大谷行雄から皆さま方にご挨拶させていただきます。」

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大谷行雄(発起人)
「大下の義理の弟の大谷行雄でございます。よろしくお願いします。
本日はご多忙な中、亡き大下敦史の追悼記念講演会にお越しいただきまして心より感謝いたします。先月末に大下の長女、朝子が出生地に出向き、菩提寺に無事納骨を済ませました。
会の呼びかけ人、世話人、その他協力をいただいた方々に深くお礼を申し上げます。中でも特にお礼を申し上げたいのは、山本義隆さんです。いうまでもなく、山本さんは全共闘のリーダーとして、そして大下はブントの指導部の一人として、同じ時代を闘ってきたわけですけれど、聞くところによれば、あまり2人の接点はなかったということです。ただし、昨年の山本さんがリーダーとなって推し進めてきた10・8山﨑博昭プロジェクトのベトナムの展示会に、大下が参加したことによって、同志的きずなというか、大下の意気に感じていただいたのか、山本義隆さんがお話をしていただくことになり、大下も非常に喜んでいるのではないかと思います。
この会に向けて、大下とゆかりのあるいろいろな人に声をかけました。鳩山由紀夫元首相が呼びかけ人の参加に賛意を示してくれました。『海外にいるためにここに参加することはできない、残念である』というメッセージをいただいています。また、60年安保闘争を代表する蔵田計成さん、篠原浩一郎さんもここに来ていただいています。それと、私を含めて、元高校生活動家であった諸君にも来ていただいています。また、大下の高校の同級生も3名来ると伺っています。これが大下の人徳であって、人脈の広さでもあると、私なりに確信しています。
ご臨席の皆様、本日は感謝いたします。どうもありがとうございました。
最後に、今回の純益は、残された一人娘、二十歳の大下朝子のカンパに当てたいと思いますので、皆様のご理解と異議なしの言葉をいただきたいと思います。」
(会場から「異議なし!」の声と拍手)

<ビデオ上映「10・8山﨑博昭プロジェクト・ベトナムツアー」の記録映像を編集したもの>
【大下さんの発言】

〇ベトナムツアーについて
「歩ける状態じゃなかった。あと4ケ月で何だかんだといわれていたから。4ケ月間寝てたんだけど、4、5、6、7月まで目いっぱい寝てたんだけど、7月の途中からね、8月のこれ予定していたから、俺絶対来るって言ってたから、7月の中頃から歩く練習を始めたんだよ。今まではスーパー行ったり駅に行ったりという程度だったんだけど、そんな短い10分程度の距離じゃなくて、何しろ1日数時間歩くというので、足腰鍛えたんだよ。今回、普通に動いても何とか足引っ張ってないでしょ。一応、これだけは人生の区切りだと思って僕は来ているからね。
ベトナムというのは1975年から45年以上経っているでしょ。それが今どんな現状なのかって見たかったのよ。これが大きいよね。一番驚いたのはオーバートバイの数。あれ暇な連中でしょ、はっきり言って。オートバイに乗っている連中は。あれが今後どう変わっていくのかね。本当はハノイに行きたかった。
ここに来てベトナムの人の意見聞いてみて、あっ、そんなにすごかったんだと初めて知るようなことの方が多かったね、今回は。それは驚きでしたよ。我々、日本でアメリカのベトナムのはよくないと、その前、フランスのことは俺なんか世代的に知らないんだよ。50年代の初期でしょ。17世紀くらいからもう反フランス闘争ずっとやってて、穴掘って潜ったところ何だったっけ、あれを17世紀くらいからずっとやってたと思うんだよね。だからベトナム人というのは、ほとんど反植民地闘争を伝統的にやってきた集団だから、これはすごいと思ったね。ベトナムみたいなちっちゃい国で、アメリカなんかに勝てるなんてなかなか思ってもいなかったからさ、我々はね。」

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〇これが記録に残った大下さんの最後の言葉となった(インタビュー)
「1968年の闘争について
10・8で68年革命が起きたんだよ。日本的な意味のね、大衆運動が起きた。それまでは党派による、60年安保だったら共産党と安保ブント、党派が大衆運動を作る、社会党も含めてね。ところが10・8の三派全学連がやりだして、学生たちが党派と関係なく動き出したんだよ。反戦青年委員会みたいなものも登場したしね。党派があるんだけど、党派主導だと人数なんか少ないじゃないですか。それが膨大に広がったというのは全学連運動の成果だよね、あれは。
Q 10・8が大衆運動の出発点だった?
左翼勢力というのが、まだ60年代は強い時代だった。同時に三派全学連みたいな形の大衆運動が起きて、そのあと、内ゲバなんかでよくいわれないけれども、でも、あの大衆運動は純粋にうまくいったんだよ。そうすると、今度はそれを中心にした新しい学生の人たちの動きが膨大に全国的に広がって、これは全国全共闘になっていったわけ。山本さんなんかがヘゲモニーを持ってやっていって・・・
Q なぜそのタイミングだったのか?
これがね、俺なんか当事者として集団の中にいたけれども、あれよあれよという間に周りが変わっていくんだよ。自分たちがやったという思いもあるんだけど、それを越えてね、自分たちの意志と関係なく大衆運動が広がっちゃった。ベ平連とか市民運動、佐世保闘争なんかすごい全国運動だったからね。68年の1月。10・8は67年の10月8日でしょ。だから数ケ月後。だから山﨑君だってまだ1年生だからね、あの当時。中核派だなんだかんだって関係ないからそういうことは。全学連のメンバーが亡くなったということで皆一斉に動いたわけだから。現地闘争で体を張ってぶつかってやったという、これが大きかったね。しかも全学連運動だから、あまり党派運動色がないんですよ。学生たちがその闘いをやっていると。だから60年安保みたいなところがちょっとあるんだよね。だからあれが党派だけでやっていたら、あの影響は生まれなかったと思うよ。」
<ビデオ上映終了>

辻 恵(司会)
「昨年の8月20日(ベトナム・ホーチミン市戦争証跡博物館での展示会の)開会のセレモニーがありました。19日に関東から25名、関西から25名、それぞれ訪越団を組んで、現地で50人、現地に直接集まられた方を含めて60名で8月20日のセレモニーに参加して、2ケ月の予定で山﨑プロジェクトと、ホーチミン市の戦争証跡博物館の共催で、『日本のベトナム反戦闘争とその時代展』というのを開催しました。年間70万人の参観者がいるということですけれども、2ケ月間の予定が1ケ月延長になって、11月15日まで延長して欲しいと博物館からいわれて、結局、3ケ月弱の間に23万人が、この日本のベトナム反戦闘争の展示会をご覧いただいた。そのうちの20万人は海外からの、主に欧米からの参観者であったといわれています。この展示会は、日本でも一昨年、東京の根津と、京都の京都精華大学で展示会をやりましたけれども、今年の8月、同じくベトナムのメコンデルタ地域最大の都市カントーというところで展示会をやろうという話が進んでいます。それから、今年、(10・8羽田闘争の)51年目の集会を10月7日(日)に四谷の主婦会館で開きますけれども、アメリカ・カリフォルニア大学の准教授であるウイリアム・マロッティーさんが、『アメリカから見た日本のベトナム反戦闘争』というテーマで講演をしていただいて、来年にはぜひカリフォルニア大学で展示会をやらないかというお誘いを受けています。アメリカ帝国主義の本場に乗り込んでいって、当時のベトナム反戦闘争の展示会を開催したいと思っているところです。
そういう流れの中で、大下さんが最後にベトナムを訪れ、50年前の闘いの場をその目でご覧いただいたということは、我々もうれしい限りだと思っています。
それでは次に、呼びかけ人を代表して米田隆介さんの方からご挨拶をちょうだいします。」

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米田隆介(呼びかけ人)
「米田隆介と申します。ビデオにありました67年の10・8闘争、私は大下君と一緒に闘っていました。ですので、大下君との付き合いは、もう50年以上になります。
大下という男をいろいろ考えているんですが、まず、時間は守りません、約束は忘れます。そういう意味では日常生活上は、極めていいかげんな男でした。それに引きかえ、私は約束は必ず守る、時間も必ず守る。こういう私と大下君が50年以上にわたって友人でいられたのは何なのか、ということを今考えています。確かに私を引き付ける何かが大下君にあったんですよね。
一つエピソードをお話します。今から20年前、大下君が『情況』誌を引き受けるにあたって、『ブントの大将の島さんに挨拶をしたい。協力をお願いしたい』ということで『何とか沖縄に行きたい』ということを言い出しました。そこで、大下君、及川さん、生まれたばかりの朝子さん、それと私と私の連れあいの5人で沖縄の自宅にお伺いました。そこで豚足と泡盛の接待を受けまして、2時間ほどお話をしたんですが、島さんは大下君の希望を快諾していただきました。そういうことがあったので、今、思いますと、まず大下君は、こうだと思ったら、周りのことなど全然斟酌せずに突き進むという、身勝手なバイタリティーがありましたね。それともう一つ。こうと決めたら、自分の思っていることをストレートに相手にぶつけて、説得し、納得させてしまうという、何というか、タラシ的な情熱がありました。この二つがあったので、私は常識人なので、逆に大下君に心をワシづかみにされてしまったのではないかと思っています。
亡くなって半年近くになりますが、今の私の気持ちとしては、肩の荷が下りた、ほっとしたという気持ちと、何か心の中に大きな穴が開いてしまったという喪失感を今でも持っております。簡単ですが、私の挨拶としたいと思います。」

辻 恵(司会)
「米田さん、ありがとうございます。今日、皆さんにお配りしております式次第の中に、呼びかけ人ということで、7名の方々のお名前を掲載しております。本当は、それぞれお話を頂戴したいところですが、時間の関係上、懇親会の場で語っていただければと思います。
お配りした資料にありますが、多くの方々から追悼のメッセージが届いています。
まず重信房子さんからのメッセージを、救援連絡センター事務局長の山中幸男さんから代読していただきます。」

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山中幸男(救援連絡センター事務局長)
「山中です。代読とプログラムには書いてありますが、私の声は不適切ではないかと自ら思っておりましたので、山本万里子さんを紹介したいと思います。昨年(のベトナムツアーの時には)日暮里で大下さんと待ち合わせて、成田まで一緒連れて行って、現地に行きました。そもそも、僕が大下さんとどこで知り合ったのか定かでないんですね。ただ、大谷行雄さんの弁護士のお姉さんの関係です。重信さんの、極めて格調高いメッセージを、このあと、山本万里子さんに代読してもらいます。それから資料にありますが、「よど号事件」で北朝鮮にいる小西隆裕、最近、米朝協議もあったりして、非常ににぎわっているんですが、このままいくと、安倍晋三がまた登場してきて、「よど号」が忘れられるんじゃないかということで、小西隆裕さんのメッセージを急いて取り寄せて掲載させていただきました。あとで読んでいただければと思います。
大下さんは、一度、北朝鮮に行く手配をして行ったのですが、小西さんもメッセージに書いていますが、もう一度来ないかという話を伝えていたのですが、正直、あんまり行きたがらなかったんですが、昨今の情勢を見ると、彼が元気だったら『俺行くわ』と言い出す気がしたけれども、残念ながら実現できないこととなってしまいました。
それでは重信さんのメッセージは山本万里子さんにお願いしたいと思います。」

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山本万里子(重信房子さんを支える会)
「私は重信さんの救援の方を手伝っております。皆さまとはあまり親しみがないと思いますが、重信さんの追悼の言葉を読ませていただきます。
<重信房子さん追悼メッセージ>
大下敦史さんありがとう
明るく朗らかな便りで大下さんが胃癌の末期にあると伝えて下さったのは、去年の春だったでしょうか。驚き、癌患者の先輩として語るうちに、大下さんはそれからベトナム行きを敢行し、旅行記の原稿を送って下さり、思いきり生きている様子に励まされて、私もブント総括の方法を提案した矢先に突然の電報で訃報を知らされました。
正月の静かな病房で「大下さんありがとう」と心を鎮めながら、永別の挨拶を送りました。
同世代の社学同仲間でありながら、60年代当時、私は大下さんを知りませんでした。早稲田の村田さんは私の社学同加盟の推薦人の一人だったし、荒さんは明大や中大によく出入りしていたし、斉藤さんやあべさんら女性たちとも顔を合わせ、活動を共にすることもあったのに、大下さんとは、そんな機会がありませんでした。昨年の11月頃の便りで、私の文から小学校・中学校時代には、世田谷の隣の学区域らしいと知らせて下さいました。どうも御近所だったのですが、交流の機会には恵まれませんでした。
私が2000年の帰国時に逮捕された後、情況誌に「冒頭意見陳述書」を掲載して下さったり、かつてのブント・社学同の縁で交流の機会が生まれました。そして、パレスチナからライラ・ハリドさんが訪日された際も、共同してして下さいました。
多忙の中、短い10分程の面会にも足を運んで下さいました。最高裁の刑確定直前に、小学6年生の朝子ちゃんと共に最後の面会に来て下さって、「あと十数年なんてすぐだから」と励まして下さったのを思い出します。
マーガレットの花を思わせる楚々として美しい少女、朝子ちゃんは、お父さんが大好きで、一緒に出かけるのが嬉しそうでした。「でもね、お父さんね、時々お鍋を焦がすのよ」と教えてくれました。お父さんは「何を言うんだ!ハハハハ」と嬉しそうに照れ笑いしていました。「観念的」で「極楽とんぼ的」なところが見受けられると思っていた大下さんの印象は、朝子ちゃんの登場でなんてすばらしい親子なんだろうと、がらりと変わりました。愚痴は言わないけど、すべて苦労を寛容に引き受けている大下さん、これが大下さんの姿だと実感しました。暖かい人です。
受刑処遇の中、私が抗癌剤治療と、手術を繰り返していたころ、2015年2月、米国から旧友の城﨑さんが強制送還され、そのまま逮捕拘留されたころのことです。
大下さんから情況誌に中東情勢の分析など原稿を書いてほしいと依頼されました。獄外には中東情勢などを書ける専門家もいるし、私の友人たちも書けるでしょう。それに獄では、資料入手も不十分だし、検閲で時間もかかるし、受刑処遇では無理と返事を一度は返しました。彼から再び依頼があったころ、私は、3月警視庁と検察庁の任意取り調べがあり、拒否しました。
それから1週間程して、突如、病房に「ガサ入れ」が入りました。4人の公安刑事が、狭い独房を1時間以上にわたって捜索を行いました。何という嫌がらせでしょう。憤りと共に、「まてよ・・・彼ら公安は私を『現役扱い』している。それなのに私は、受刑処遇に甘んじて受動的になっているのではないか?せっかく現役扱いされるのなら、それにふさわしい仕事をしなくちゃ!」と目覚めさせられました。
こうして、大下さんの誘いを受けて、情況誌に2015年から中東情勢について書き始めることになりました。大下さんの寛大な原稿受け入れに気を良くして書きだすと、書きたいことが溢れ、書くことがとても楽しくなりました。大下さんありがとう。機会を与えて下さってと、お礼を伝えました。
情況誌は1968年のブントが主導した8月の国際反戦集会(米・仏・独からラジカルな代表が参加した画期的な集会)にむけて、春から出版を準備し、変革のための総合誌として企画されたものです。当時私は、明大の文学研究部で「駿台派(すんだいは)」という雑誌の編集長をしていたことを知っていた松本礼二さんと、専修の前沢さんから、この新雑誌の編集スタッフに入ってほしいと誘われたことがあります。ちょうど卒論で多忙で、また、社会批評や革命論は私の任ではないと辞退しました。当初は、詩や文学論なども考えていたので、私を誘ったそうです。そんな50年前になる因縁を思い返しながら、大下編集長の下、情況誌に楽しく書かせて頂きました。
68年に、ブントが描き、持っていたあのような変革の総合性は、いつのまにか政治主義に狭められ、更に権力問題から、軍事へと短絡していきました。ブントの多様な連合性を否定し、マル戦派排除にはじまる「純化」過程は、「7・6事件」の過ちから「連合赤軍事件」へと自己対象化しえぬまま進み、敗北していきました。
大下さんは、ブントを愛した人々の思いを、情況誌の中に受けとめ続けていました。大下さんは、良くも悪くもブントを代表する一人だったと、しみじみ思い至ります。
共にブント総括を語り尽くせなかったけれど、遅れて彼岸に向かう私は、大下さんが誘って下さったことで再発見した“書く中東”の楽しみを、これからも命尽きるまで行使していこうと思っています。
大下敦史さんありがとう。彼岸での再会まで!

獄窓の落暉(らっき)を赤旗代わりとし 歌いて葬送(おく)らんインターナショナル
リッダ闘争を思いつつ  五月三十日         重信房子

PS:今受け取った白井聡さんの新著の巻末に「本書を、大下敦史の想い出に捧げる」とあり、嬉しくなりました。
以上です。

山中幸男(救援連絡センター事務局長)
「山本さん、どうもありがとうございました。重信さんは昭島市の東日本成人矯正医療センターにいますが、このままいけば、オリンピック明けの2022年に出所予定ですので、皆さんよろしくお願いします。」

辻 恵(司会)
「いろいろな方からのメッセージをいただいていますが、福井紳一さんの方からご紹介いただきます。」

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福井紳一(司会)(60年代研究会)
「思いのこもったメッセージをたくさんいただいたのですけれども、今、全文読むことはできませんので、あとで読んでいただきたいと思います。
重信さんに続き、『大下さんを偲ぶ』?秀実さんからのメッセージ、そして椎野礼仁さん、そしてまた『大下敦史さんを追悼して』ピョンヤンかりの会小西隆裕さん、そしてまた『故大下敦史君のご逝去を悼み心からお悔やみ申し上げます』高校同級生林哲さん、それから『大下さんへ』榎原均さん、それから『大下君を偲んで』高原浩之さん、それから『大下敦史の「遺言」』村田能則さん、皆さまからいただいておりますので、集会が終わったあと、ゆっくりとお読みいただければと思います。」

【追悼メッセージ】
当日の資料に掲載されたメッセージのうち、3人の方のメッセージを掲載する。
●「大下敦史さんを追悼して」  ピョンヤンかりの会小西隆裕
大下さん・、こういう文章を書かねぱならなくなり、本当に残念です。
貴方とはもう一度お会いしたかった。会って、これからの日本のこと、闘いのこと、いろいろ話し合いたかった。
私白身、貴方とお会いしたのは、二度きりとなりました。一度目は、東大安田講堂の付近で。そして二度目は、22年前のピョンヤン。貴方は、われわれの宿所に松平さんと二人で訪ねてきてくれましたね。田宮さんを亡くし傷心のわれわれに対する貴方の思いやりが身と心にしみました。
今、情況は動いています。朝鮮半島をめぐり北東アジアが動き、その新時代の波動が日本に押し寄せてきています。貴方が人生の最後をかけようとしたアジアと日本の問題が、今こそ、いつにも増して切実にわれわれの前に提起されてきているように思います。      
日本が朝鮮に、そしてアジアに、アジアの外からでな<中からどう向き合いどう対すべきか、今問われてきている問題の大きさは、50年前、いや150年前にも匹敵し、それを超えるものになるのではないかと思われます。
貴方の無念を思いながら、ご冥福、一層深くお祈り申し上げます。

●「大下君を偲んで」    2018.6.17 高原浩之(元ブンド・元赤軍派)
昨年2月に胃癌が判明し今年1月に亡くなるまでの約1年間、医師に病状の説明を受けるのにも同席したし、折に触れて、『情況』のことや朝子ちゃんのこと、さらには塩見のお別れ会のことなど、いろいろな話をしました。亡くなった当日も直前まで話していました。
『情況』の人民闘争と結合した発展を願う
大下君の生涯では『情況』が何と言っても大きいと思います。新左翼とブンドが党派的組織的に解体した困難な時期に、人民の大衆闘争と結びつける面で『情況』と大下君は大きな役割を果たしてきました。この会が、大下君の業績を引き継ぎ発展させる出発点となるよう願っています。
新左翼とブンドは、ベトナム反戦・70年安保闘争において、社共・総評ブロックより少数ではあったが、先頭に立って人民闘争を主導した。しかし、闘争に敗北し、党派的組織的にも解体した。その原因は、依拠する社会的階級的基盤が基本的に学生に限られ(一部の青年労働者と結合したが)、この狭い基盤の上で情勢も見誤って日本帝国主義と決戦しようとしたこと、このように言えるでしょう。少なくともブンドはそうであった。赤軍派の革命戦争路線はその誤りの典型であり、その破綻が連合赤軍事件でした。
今日、グローバリズムと金融資本主義で日本資本主義の矛盾が深まる中、2015年反安保法闘争など、人民闘争が発展する情勢である。この人民闘争には数多くの具体的な課題があるが、その一つ一つに、新左翼・ブンド系の党派あるいは活動家による、「偉大な」と言うべき努力が存在していると思う。大きくは民族・女性・部落など差別の問題や労働者階級「下層」の問題で、人民大衆と結合する、プロレタリア階級の階級闘争に依拠する、こういう努力が継続した。これこそが、今日、人民闘争が発展する情勢をもたらしていると思う。
大下君の『情況』はこの新左翼・ブンド系の党派および活動家と人民の大衆闘争との結合で大きな役割を果たした。新しい『情況』がこれを継承し発展させるよう切に願います。
70年闘争世代でケジメをつけておきたい
70年闘争を闘った、新左翼とブンドの活動家の間の人間関係は、党派的組織的に解体する過程で大きく破壊された。原因は「内ゲバ」と「リンチ」、これを党内闘争と党派闘争に持ち込み、それで組織を統制し維持しようとする、革命運動を長く蝕んできた体質、と言えるでしょう。少なくともブンドはそうであった。第7回大会、7・6事件、連合赤軍事件、ブンドを崩壊させ、最後は人民闘争と革命運動に壊滅的な結果をもたらした。
大下君の『情況』は、新左翼とブンド系の党派と活動家、言わば70年闘争世代がそれぞれに連絡を持ち、その中心に位置して交流を維持してきた。しかし、人間関係の問題は当事者がケジメをつけることがやはり必要であると考えます。
今日の人民闘争が発展する情勢で、革命と革命党の問題に必ず直面するでしょう。ソ連が崩壊し中国が変質した現状からして、ロシア革命や中国革命を総括し、マルクス・レーニン主義そのものも総括し、社会主義・共産主義論を新しく構築する問題に必ず直面するでしょう。新左翼とブンドの崩壊を総括し、新しく革命党を建設する問題に必ず直面するでしょう。それは基本的には現在と将来の世代の任務でしょうが、70年闘争世代も自分たちの経験を踏まえた総括を、言わば遺言として残しておくことは有意義であろう。
しかし、「内ゲバ」と「リンチ」の問題だけは、それが二度とくり返されないよう、70年闘争世代の当事者が過ちを反省する態度を表明しておく義務があると思う。それがケジメだと思う。私は、連合赤軍事件については「塩見お別れ会」の場を借りたが、第2次ブンドから赤軍派結成に至る過程の7回大会と7・6事件の「内ゲバ」と「リンチ」についてはこの「大下ゆかりの集いの会」の場を借りて、ここに謝罪と反省を表明します。
最後に、朝子ちゃんへ、大下君の生涯に学び、しっかり自分の人生を歩んで下さい。

●『大下散史の「遺言」』    村田能則
 早稲田ブントの最初の同窓会が開かれたのは、「7.6」の分裂から、40年以上経った2010年頃。長い空白は、過酷な党派関係のせいである。党派闘争は、ブントの大きな汚点だが、早稲田はそのド゙真ん中にいたのである。各メンバーは、分裂した党派の中心になる場合が多く、同窓会など難しかったのである。
 転換のきっかけは、72年の連合赤軍の同志殺しである。左翼を震撼させたこの出来事で、運動と組織は衰退の、長い坂を転がってゆく。同時にそれは、ブント系の各組織にとって、内ゲバ否定の長い、長い道のりの始まりでもあった。一方、革共同両派、革労協系の内ゲバは、逆に連赤以降に激化し、犠牲者も急増。構改系や第4インターを除いて、新左翼系の党派は殆どが内ゲバを肯定し、実践してきた。現在はあまりに大きな犠牲と、組織の分裂・衰退のせいで、暴力行使はひと休みのようだが、内ゲバ肯定の立場は変わっていないのではないか。ブントを名乗る組織や、グループでは、現在、内ゲバを肯定、実践しているものはいないようだ。連赤排出の事実は重いが、これは評価しても良いのではないか。
 早稲田ブントの同窓会が始まると、大下や松平が連絡や運営を引き受けてくれた。大下と会って議論する機会も増えた。末期がんと闘った最後の一年間は、私が同じ病気で生き残った“先輩”ということもあり、連絡が急増した。
 大下が最後まで気にしていたのが、やはり“内ゲバ”だった。我々はよく話し合った。残念ながら「内ゲバ止揚の論理」などは、見つからない。問題の核心はそんな魔法ではなく、「実際の運動」「現実的な判断」の方にあるのではないか。「内ゲバ」は、実際の運動に、深刻なダメージをもたらす。仲間同士を出口のない争いに引きこみ、解体してしまう。一般の運動参加者は嫌悪と恐怖で、離れて行く。これは理屈ではなく、現実なのだ。
 内ゲバの頂点は、連合赤軍の同志殺しだが、それはどこから来たのか、出発点は何だったのか、語られることは少い。連赤という怪物が、自分だちとは無関係に、ある日突然天から降ってきたのか。責任逃れのためか、そう主張する輩もいるが、そうではあるまい。
 私と大下は、1968年のマル戦派との組織分裂に、重要な鍵があるのではという議論に向かっていた。組織分裂が、学生運動の高揚期に当たっていたせいで、運動や組織に与えるマイナスが、当時はあまり意殲されなかった。否、それ以上に、我々の間では、肯定的に評価されてきたように思われる。運動の退潮期であれば確実に、組織と運動は大きなダメージを受け、長期の分裂の泥沼にはまってしまったことだろう。実際には、この分裂の後、組織と路線はスッキリし、動員力も戦闘力も増強されたように感じたのである。全共闘運動が日本全国を席捲していた頃は、マル戦派との分裂を思い出すことは殆どなかった。
国際反戦闘争や、全共闘運動の高揚は、圧倒的だった。この“成功体験”こそが、党派闘争に関する間違った考え方を温存し、発展させたのではないか。「正しい党派闘争は、組織と運動を飛躍的に発展させる」という確信。これはブント全体の共通認織になっていたと考える。後に致命傷となるような棘が、そこに潜んでいるとは誰も考えなかった、これが大下の意見だった。「方針さえ正しければ、組織分裂はマイナスではなく、組織と運動を発展させる」。「正しい方針、正しい党派闘争の中では、暴力の行使も認められる」など。一言でいえば、「正しい方針(戦略戦術)」が絶対的で、この目的のためには何でも許される、こんな「教訓」を身に付けてしまったのではないか。この成功体験と傲慢さが、我々を蝕んでいったと考える。「我々は正しい方針をもっている」という確信は、間違った路線を主張する人々を、排除する権利を持つと考えられた。その後の様々な内ゲバは、この認識を変えることはなく、別の成功体験によって、更に補強された可能性さえある。その行きつく先には、凄惨な場面が待っているとは、誰も想像出来ない。誤りを止め、修正する手段を、内ゲバの成功体験の中に置いてきてしまったように思われる。
 マル戦派との分裂後、「スッキリした」我々が揚げた“正しい方針”は、「プロレタリア国際主義」と「組織された暴力」であり、それを更に深化させた(と主張する)赤軍派の「過渡期世界論・国際根拠地論」「前段階武装蜂起」によって、組織分裂が行われた。私は「63年革共同の分裂」を別にして、新左翼の間で発生した内ゲバは、全て不必要だったと考えている。特にブント系で起こぅた内ゲバは、全面的に間違っていたと考えている。マルレ戦派、赤軍派、・ぞの他大小の全ての内ゲバが、意味がなく、してはならない分裂だった。このレヴェルで分裂を繰り返しでいれば、大衆的信頼を背景とする、強力な革命党など、出来るわけがない。成熟した議論と、知恵によづて、組織の統一を継続すぺきであった。大下もこの考えに同意してくれた。とりわけ、最初のマル戦派との組織分裂の「成功体験」が残した、大きな負の遺産に注目し、点検総括そして、謝罪までやり遂げなければならないという考えで一致した。
 因みに「10.8羽田闘争」のブントの戦術方針は、マル戦派の成島忠夫氏の仕業であった。当時は、優れた経済学、組織運営の能力、献身的戦闘性など、マル戦派の長所など誰も認めようとはしなかった。塩見さんの死去とお別れ会を前後して、過去の内ゲパに対する謝罪の実例がいくつか伝わっている。しかし、マル戦派のことは誰も言い出さない。大それた革命的遺産など望むべくもないが、後世の革命家たちに“やってはならないこと”を、“やるとこうなる”という経験的資料に残すことくらいは、必要ではないかと考える。大下はこれにも賛成してくれた。文章として、はっきり残っているわけではないが、私はこれを大下の遺言と考えたい。

<このあと、白井聡氏が大下氏との思い出を語り、山本義隆氏が50年前の東大闘争について発言した。この講演内容は、別途ブログで公開予定なので、今回は内容の掲載を省略し、写真だけ掲載する。>

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辻 恵(司会)
「新開さんから、今日の呼びかけ人代表としてシメのお言葉をよろしくお願いします。」

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新開純也(呼びかけ人)
「今日は、大下の偲ぶ会に大勢の方に集まっていただきまして、本当にありがとうございました。また、山本さんの熱い思い、そして白井さんの大下に対する愛情のこもったお話をいただきまして、本当にありがとうございました。公式の私の大下に対するメッセージは、今日の冒頭の呼びかけ文に書いておきましたので、それを読んでいただくことにして、大下との付き合いについて、若干喋らせていただきたいと思います。
僕は京都におりますし、歳もそこそこ離れていますので、大下君の名前はよく聞いておりましたけれども、直接的な付き合いが始まったのは、この10数年なんですね。僕は一時ブルジョアをやってましたから、それを整理をつけてブントに復帰したときに、古賀と大下が、ある関西の集会のあと訪ねてきて、『お前は会社を辞めたのだからやることないだろう。だから「情況」を手伝え』ということで、それからの大下君との付き合いでありました。その後、僕が東京に来ますと、しばしば大下邸に泊めてもらっておりましたし、大下君が関西に来ますと、我が家に来て、安酒を飲んで、タバコをもうもうと吸いながら、延々と話をしました。その中で彼が常に言っていましたのは、一言でいえばブントの再建であります。
これはいろんな解釈があると思います。大下が言う言葉というのは、まっとうに、字ずらどおり解釈するのは間違いなわけで、彼の思いみたいなことをどうつかまえるかという、少なくとも、僕はそういう付き合いをしておりました。だから、彼のブントの再建というのは、文字通り狭義な意味でブント系の再建という風に使われたこともありますし、もう少し広げて、三派ないしは新左翼、そういう範疇での大同団結として使われたこともありますし、また、時には、山本さんが言われたような、小運動を含めた、そういう運動の発展という風に使われたこともあったように、僕は思います。だから、多くの方が大下の『ブントを再建しようや』という言葉にオルグされた、あるいは悩まされたか知りませんが、そういうことだったと思います。僕は彼の言わんとするところをできるだけ理解に努めようとしてきたわけであります。
60年安保の時は、今日来られている篠原さんとか、そういう言葉でいうと失礼ですが、大風呂敷を広げる人は結構いたかと思います。でも、僕の年下で、そういう大風呂敷を広げる人は、僕が付き合った中で2人いました。一人は大下君、もう一人は塩見です。冒頭、米田君が言いましたけれど、僕は極めてある種の原則主義者であり、ある種の常識人ですから、塩見だとか大下だとか、そういう大風呂敷を広げる人とは全く異質な人間なんですけれども、2人とも僕にとってはよき後輩で、2人ともそういう言葉で言えば愛していました。先方の大下君や塩見から見ると、僕は非常に好都合な人物だったと思うんですね。つまり、自分の広げた風呂敷が。世の常識ある人にとってどう映るか、対話したいと思ってくれていたのだと思います。そういう意味で、大下君とは10数年、彼の言うところのブント再建をめぐって、いろんな議論をしました。
断っておきますが、僕は、いわゆるブント再建なんていうことは、今はさらさら考えていません。それは歳だということもありますけれど、そいうことではなくて、例えば最近、米朝会談があったからということではありませんが、文政権を生み出した韓国の運動の構造みたいなことに非常に関心があって、いろいろ考えることがあるんですけれども、一つは文政権を生み出した『共に民主党』、それを支えているのは、ご承知のとおり、進歩連帯だとかそういう運動、そしてまた、その中に広い意味でマルクス主義を含んだグループがある、という三重構造になっていると思うんです。我々に最も必要なのは、そういう運動の構造を、現実の運動から出発して作りあげるということが必要なのではないかと僕は思っている。だからブントの再建とか、それは狭義な意味での昔のブントを含めて、新しい、共産党に代わる政党という意味での政党、そういう意味でのブントの再建というのは、考えませんけれども、そういう小運動の構造を作るためには、何らかのまとまった一定の政治勢力が必要であるということについては、僕は今でも揺るがない信念を持っているわけです。それが、いろんな小運動を糾合する構造を持たなければならないと考えています。僕は、そのことが、大下がいうところのブント再建の意味であると私流に解釈しているわけであります。その限りにおいて、私どもは大下の遺志を継いで、これからがんばっていかなければならないと思っております。私は今年で77歳になりますから、到底、そういうことを中心になってやることはできませんので、ここにおられる方が、いろいろな小運動を通じて、少しでも、そういう新しい意味での政治勢力、新しい意味でのブントをつくられるよう、私も一兵卒としてそれにやっていきたいと思いますけれども、お願いしたい、そのことが大下の思いではないかと思います。
それから、もう一つは、大下は「情況」の人なんですね。古賀のあとを受けて20年やってまいりました。世の中が右傾化して、論壇も右翼的な雑誌ばかりになっている中で、いわば孤高を保って「情況」をずっと20年やってこれた。僕は横で見ていましたからよくわかりますけれども、これは非常に大変なことなんです。ああいう人格ですから、金の苦労から、いろんな事の苦労があって、でも結局は「情況」は大下が20年を捧げたんです。そういう意味で、我々は「情況」をこれからどうやっていくのかということも考えていかなければならない。「情況」は大下の遺志を継いで、必ず守り育てていくということを最後にお願いします。そして、私も及ばずながらお手伝いするということをここにお約束して、今日のお礼の言葉にさせていただきたいと思います。
今日は大勢の方に集まっていただきまして、本当にありがとうございました。」

辻 恵(司会)
「今、新開さんが仰られたように、新たに『情況』をしっかり灯を消さないでつないでいこうという風に、皆さん意思を新たにがんばるとされているので、是非とも今日お集まりの皆さん、『情況』を支えて中軸を担っていっていただければ、本当に大下さんの思いが、今日このような場を設けたことの意味が、本当に具体的な形に現れると思います。ぜひともよろしくお願いしたいと思います。
去る6月10日に、日大全共闘の50周年の集会があって、200名以上の、元ではなくて日大全共闘の皆さんがお集まりになった。1968年ということで、いろんな本が出たり、いろんな情報が出たり、いろんなイベントなり集まりがあります。やっぱり、この50周年の中で、今、新開さんが仰ったように、昔の非常に単線的な党統一戦線とか党共同戦線とかいうのではなくて、本当に重層的な、ありとあらゆる運動を、重層的な展開をする、その中で知恵を働かせていって、本当に目にもの見せて、もう1回世の中を引っくり返すというような、そういう方向で、大下さんと一緒に、大下さんの遺志をついで、我々もがんばれればいいなと思っています。
それでは、最後に発起人の大下朝子さん、お礼のあいさつをお願いします。」

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大下朝子(発起人)
「本日は父のためにお集まりいただきありがとうございました。エピソードを用意しておいてといわれたんですけれども、日常的すぎて、特別なエピソードが思いつかなくて、むしろ逆にエピソードを教えていただきたいくらいですし、話さなくても父のことをよくわかっていると思ので、ごめんなさい。」

辻 恵(司会)
「生前、大下さんが、将来ハワイに娘と一緒に住みたい、暮らしたいとくり返し言っていたわけで、朝子さん、ハワイでがんばってやってください。
今日はお忙しいところ、100名を超えるたくさんの皆さんにお集まりいただいて、前情況代表『大下敦史ゆかりの集い』を開催できました。大下さんが20年かかって孤塁を守ってきた『情況』を絶対に絶やさないで再興していこうということを、もう一度皆さんの拍手で確認していただいて、今日の場の結論としていきたいと思います。ご確認よろしくお願いいたします。(拍手)どうも今日はありがとうございました。」

このあと、御茶ノ水の明治大学の裏にある、お好み焼き・もんじゃ焼きの店「祭」で懇親会があった。この店は、「明大土曜会」が偶数月の第一土曜の午後2時から開催している定例会の会場として利用している店である。
この「明大土曜会」は、明大に限らず、いろいろな方が自由に参加している「情報交換の場」である。最近では、元一水会の鈴木邦男氏や東京新聞の田原牧氏などを呼んでお話を伺っている。興味のある方はぜひ参加をお願いしたい。
私は体調不良で懇親会に参加しなかったが、発起人の大谷行雄氏のフェイスブックに懇親会の様子が掲載されているので、転載させていただいた。

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※ 白井聡氏と山本義隆氏の講演内容は、別途、ブログに掲載する予定です。

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次回は7月6日(金)に更新予定です。