重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子がある。この冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センターでの近況などが載っているが、最新の143号(2018年8月26日発行)には、今年が1968年から50年目となることから、「1968年特集」というタイトルで、重信房子さん、前田祐一さん、水谷保孝さんの3名の方の1968年の闘いのエピソードが掲載されている。
今回は、この「1968年特集」の中から、重信房子さんの神田カルチェラタン闘争のエピソードを掲載する。
(この記事の転載については、「オリ-ブの樹」編集室及び重信さんの了承を得てあります。)

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【初めての御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争 1968年6月】   重信房子
 67~68年のベトナム反戦を求める闘いが米政府を追い詰め、米国内でも学生・市民の反戦運動が広がっていました。また、欧州でも反戦闘争と労働運動・学生運動が結びつき、革命をもとめる新左翼潮流の活動が汎欧州レベルに広がっていきました。このころのこうした海外の動きは、日本の新聞の国際面でも大きなニュースとなって私たちの興味を引いていたのです。毛沢東の言葉を借りれば、「国家は独立を求め、民族は解放を求め、人民は革命を求める」。60年代を体現し、ことに資本主義国においては、その闘いの質の同時性を表現していました。これまでのソ連型の共産主義・社会主義にとってかわる闘いが各地で討論となり各国共産党批判となっていました。資本主義にとってかわる社会主義計画経済は、資本主義を揚棄する道に進んでいるのか?否。プロレタリアートの独裁とは、プロレタリアートが例外なく社会成員を解放する能力を持つこと、つまり人間解放が故ではなかったのか?それが党独裁の官僚機構へと変質しているのではないか?チェコスロバキアではドプチェク第一書記のもとで改革が始まり、ソ連との矛盾があきらかになっていました。ソ連中心の国際共産主義運動は「平和の共存」の名で各国の階級関係の現状固定をのぞみ、人民の闘いに連帯する国際主義を失っているのではないか?などなど。当時の欧米の新左翼運動や人種差別に反対する運動は、ラジカルな変革を求めていました。5月にパリでは、学生運動と労働運動が結びついた「5月革命」と呼ばれる闘いが始まろうとしていました。
 私たち社学同・現思研は神田・御茶ノ水の大学同士の助け合いの「闘いの季節」の中にいました。現思研の67年68年の活動は、いわば全盛時代で、学生運動の盛んな時代と重なります。
私が、まだ卒論作業に意欲的なころにパリの5月革命の闘いがニュースになりました。「すごい!労働者と学生が一体になって蜂起している!」と新聞、テレビのニュースから学館の仲間たちは沸き立っています。「パリのカルチェラタンの機動隊との攻防はすごいな。あれは学生街だぞ!御茶ノ水街・神田街でも戦えるんじゃないか?!」と大いに話題になりました。
パリの5月、カルチェラタン闘争から1ケ月くらい後のことです。6月には、7日全学連統一行動、6月15日共産主義者同盟の政治集会や6月21日全学連集会が街頭行動としても続きます。東京の社学同の中心として「2・2協定」をのりこえて再び明大も力を増し、中大や専修大と共にラジカルに活動していたころです。私たちの仲間ばかりか、いろいろな友人たちが御茶ノ水から神田一帯のカルチェラタン闘争を、いつかやろうと言い出しました。明大が地理的にも重要な場所にあります。御茶ノ水駅から明大前通りの駿河台下まで解放区にできるからです。
 6月のある日、当時社学同の委員長だった早大の村田さんが現思研に来ました。早大の村田さんと医科歯科大の山下さんが、私の社学同加盟の時の推薦人でした。「おいカルチェラタンやらんか?!パリのカルチェラタンみたいなの。やれるのは、やっぱり明治だろ。中大で全学連の社学同集会をやって呼応させるから」と。全学連統一行動の中で、当時ブントはアスパック(アジア太平洋閣僚会議)反対闘争を、日米によるアジア政治経済支配として重視していて、中核派とは違う党派性として主張していました。「4・26の国際統一行動は、機動隊に御茶ノ水駅で封じ込められたから、今度はゲリラ的に闘って、解放区を作ろうぜ」と村田さんは気軽に言います。
「でも、とっかかりがないと・・・。どうやってカルチェラタンのような解放区が出来るかな」みんなで語り合いました。「やったら何とかなるって」といつものブントの官僚的な説得ですが、実は現思研のみんなもやりたいのです。昼間部に頼まず、夜間部に頼んできたのは、昼間部は中大全学連社学同系集会に参加動員のためだったかもしれません。
とにかくみんなでワイワイ話し合って、「やってみよう」ということになりました。社会的な影響や責任は問われるな・・・と思いつつ、新宿駅のフォークソングの広場まで制圧しようするこの間の警察の強権や、日大を含めた街頭抗議も続いていて、「4・26闘争のお返しとして駅前交番を占拠して赤旗を立てよう」などと、ゲリラ戦術になると、みんな次々とアイディアが浮かびます。二部の学生が授業の始まる直前の5時ころには、御茶ノ水駅から明大前通りは、昼間の学生あわせて歩道をはみ出すほどの人でいっぱいになります。その時を狙おうということにしました。それに、私たちの多くは、仕事をもって勤めていて、昼間から参加できる人は少ないのです。中大で行われる全学連社学同の決起集会も夕方には呼応できるし、5時半の授業開始前に闘いを始めることにしました。

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(8号館)
明大前通りとマロニエ通りの角に立つ8号館は学生会館の旧館で、各学部自治会室、生協事務室、それにサークル部室が入っていて、ちょうど、明大前通り側に小さなドアがあります。この8号館のドアの内側に5時ごろ集合することにしました。それまでに、このドアの近くに長椅子と長机をできるだけ多く集めて積んでおくことにし、昼間部の仲間も手伝ってくれることになりました。学館旧館(8号館)の明大前通りに面した小さなドアは、すぐ歩道から車道に続いているので、5時になったら一斉にそのドアから机と椅子を車の通行を止めるために車道に並べて、バリケードにしようということにしました。この明大前通りも車の往来はひっきりなしです。それには、たくさんの椅子と机がいるな・・・などと話していました。
6月21日、初のカルチェラタン闘争が始まりました。この日、現思研や居合わせた社学同の仲間や政治的には関係ない友人たちも、午後のうちに、教室から長椅子と長机を持ち出して、学館旧館ドアの内側にきれいに積み上げました。入り口は狭いけど奥行があり、いくつも積むことはできたし、通路も確保しているので、出入りの邪魔にはなりません。「正門のバリケード封鎖もこんなもんだった。これくらいで大丈夫だろう」と話しながら準備を終えました。
5時ごろ、現思研の仲間ははりきっていたけれど、職場からまだ戻ってこれない人もいました。どうしようか。入学して間もない法学部の樫村クンが、「決めたとおりにやりましょう」と主張したので、彼を目直して、そうだね、そうしよう、と、そこにいた10人くらいの者たちで2人1組になって、まず長机を運べば道路に5つの机を横に並べられるというので、じゃあ、始めようと決断しました。樫村クンらが、まず、少し場違いな感じて恥ずかしそうに長机を道路に運びだして、明大前通りの真ん中に置きました。途端に激しいクラクションが鳴りわたりました。一人が赤旗を横にして、工事現場のストップのような合図をして笛を吹き、車を止めようとしました。怒った車の運転手は徐行し、クラクション鳴らしながら次の机が運ばれる同じころ、最初の机に前進して接触し、机を倒しました。本当にアッという間でした。ピ-ッと笛と共に、あちこちから学生たちが道路に飛び出してきて運転手の車を囲み、もたもたしている私たちの机を奪うと、さっさとバリケードを作り始めたのです。そして赤旗に誘導されて車は中華料理「味一番」のある狭い通りへ迂回し通行するよう学生たちが采配しています。
中大中庭で、社学同のアスパック粉砕・東大闘争支援の全学連集会を行っていた1,000人近い全学連部隊がタイミングに合わせて行動を開始したらしい。中大では午後から、全学連副委員長の中大の久保井さんや、同志社大の藤本さん、明大学生会中執委員長米田さん、東大全共闘、160日ものストライキ中の医科歯科大など、全学連の社学同系の部隊が、独自の集会を開いていました。機関紙「戦旗」によるとヘルメット部隊1,000人、集会3,000人とのことです(当日の毎日新聞では500人とのこと)。それによると、集会を終えて4隊に分かれてジグザグデモで街に繰り出したのです。それにあわせて、私たちのバリケードが解放区がはじまったのです。

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あたりを見まわすしと、「待ってました!」とばかり、学生たちや勤め帰りの人らしい人々も、バリケードを補強して、どんどんその机・椅子を担いで御茶ノ水の駅の方へと移動して解放区の陣地を押し上げて広げています。ふりかえると、駿河台下では、正門よりずっと向こう側にむかって交差点のところまで机を運んでいる人もいます。工事用の看板なども集めてきて、たちまち御茶ノ水駅から駿河台下まで、またたく間に解放区が出来上がってしまいました。車の通らない「歩行者天国」の道路をジグザグデモがあちこち繰り出しています。さっそく立看に「解放区」・「反安保反戦の砦神田カルチェラタン戦闘中」など、御茶ノ水駅近くの通りの真ん中に立てました。あたりは万を超える人々が道路でデモしたり、踊ったり楽しんでいました。当時の「戦旗」には、こんな風に当日のことを記しています。
「6・21全学連駿河台で2万余のバリケード集会。
70年の新局面切り拓くASPAC(アスパック)粉砕第二波機動隊を圧倒。
全学連集会は中大中庭で1,000人のヘルメット、3,000人の大集会として行われた。2時45分、久保井司会で開始、藤本基調報告、東大時計台占拠で全学ストを喚起した東大全学闘争委員長、160日スト中の医科歯科大、熊本大の原島委員長、明大中執からの決意表明。4時半に4隊に分かれて中大を出発。神田駿河台一帯をジグザグデモし、一梯団が医科歯科への支援デモを敢行する最中、その三梯団はバリケードを駿河台通りの街頭に進出させる。パリのラテン区に比すべき学生の街神田一帯は、まさに反戦闘争の砦として出現する。5時半、機動隊は御茶ノ水駅、駿河台下の両方向から全学連の部隊を挟み撃ちしようと攻めてくる。激しい投石の雨を降らすが、機動隊はバリケードをトビで破壊して迫てくる。一進一退、数千の学生・市民・労働者もバラバラと投石。機動隊後退。再びバリケードが出現し、御茶ノ水駅まで押し返す。機動隊はいったん、御茶ノ水橋を渡り、順天堂大横まで総退却。この時、医科歯科大5階の学生・研修医が占拠している医学部長室辺からスピーカーでバリケード戦に結集し、連帯の呼びかけ。機動隊は態勢を立て直し聖橋口から御茶ノ水橋に配置し、横と正面からバリケードの破壊。『突如』出現した街頭バリケードがASPAC、70年安保粉砕の新たな戦術であることを理解して、万余にふくれた大衆は『機動隊帰れ!』のシュプレヒコール」と興奮気味に記録しています。

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実際、当日は、みな、新しい闘い方に大興奮でした。いったん、バリケードで解放区ができると、あちこちからうっぷん晴らしの野次馬含めて、万余の学生たちがバリケードと投石で陣地を広げます。御茶ノ水駅前交番も避難し、無人となったのです。すかさず明大の仲間が赤旗をそこに掲げました。広々とした明大前通りにフランスデモで道いっぱい手をつないでワルシャワ労働歌や国際学連の歌を歌いながら行進しては機動隊へと投石。今ではあの一帯はアスファルトで固められてしまいましたが、当時はレンガや正方形の敷石で歩道がおしゃれだったのです。この敷石をみんなで掘り起こしては、車道で力いっぱい落として割り、礫(つぶて)にして抵抗しました。ポケットいっぱいにつぶてを抱えては、最前線から機動隊へ投石を繰り返しました。機動隊もいたちごっこを止めて遠巻きにし始めたので、その間、赤ヘルメットの大衆集会、歌やジグザグデモが夜まで続きました。8時半すぎには、社学同部隊は撤収したのですが、野次馬や一般の人たちは、機動隊との攻防に普段のうっぷん晴らしもあってか、ずっと闘っていました。夜学授業が終了する10時にも、学生会館内には勝利の戦術に「やった!やった!」と喜ぶ人々でいっぱいでした。
これ以降、カルチェラタン闘争のスタイルは、何度も御茶ノ水駅のこの明大前通りから駿河台下までを解放区として戦う戦術を繰り返しました。今からは考えられない「騒乱」ですが、当時の私たちは街頭戦の新しい闘い方を提示する一翼を担ったことで、現思研としては達成感で意気揚々でした。今から見れば無謀の謗りを免れない行為といわれるでしょうが、当時はこういう楽しい開放感と、一つの戦術の小さな勝利感と、人々との連帯感が、学生運動の拡大をつくりだしていったと思います。東京における社学同の拠点は、この地域、明大、中大、医科歯科大、専修大、東大医学部、慈恵医大など、御茶ノ水と神田にありました。その分、社学同仲間は何かあるたびに、中大と明大の学館に集まって語り合ったものです。
68年は、このように、反戦闘争が社会的にも日常化していたので、佐世保の住民や、王子野戦病院に反対する住民、三里塚の農民と共同し、国会の社会党、共産党などの野党勢力の力もあって、正義感を持って闘いを続けえたのだと思います。公正・正義を求める闘い、その一員として参加できることが喜びであり、闘争は楽しいと実感していた時代です。全面的に肯定しえない点もありますが、当時は非暴力直接行動の中で、様々な野党勢力と共闘しながら戦おうとする、謙虚さがありました。
しかし問題は、その後、私たち社学同や三派系勢力が「図に乗って」いき、佐世保や王子、三里塚など、住民の支援と連帯に支えられて闘いえたことを、自分たちの力と自惚れて、運動の急進化へとまっしぐらに進んだことです。党派による戦術の急進化の競合は、後の分裂や運動の否定面を広げていきました。その苦い後の教訓とともに、68年の朗らかな闘いを思い返します。
(終)

【お知らせ その1】
1968年6月21日の神田カルチェラタン闘争を報じた「戦旗」137号(1968.6.25)をHPにアップしました。
新左翼党派機関紙・冊子
http://www.geocities.jp/meidai1970/kikanshi.html ;

【お知らせ その2】
50年前の芸術はこんなにも熱く激しかった
「1968年激動の時代の芸術」展
10月7日に行われた10・8山﨑博昭プロジェクト東京集会で講演したウイリアム・マロッティさんと嶋田美子さんが企画に関わっている展示会です。
●会  場:千葉市美術館
●開催期間:2018年9月19日から11月11日

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【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は10月26日(金)に更新予定です。