このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)や、差し入れされた本への感想(書評)を掲載している。
今回は、差入れされた本の中から「かつて10・8羽田闘争があった 記録資料篇」の感想(書評)を掲載する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

イメージ 1


【「かつて10・8羽田闘争があったー10・8山﨑博昭追悼50周年記念記録資料篇」(合同フォレスト発行)】
この本は、昨年10・8五十周年に刊行された「かつて10・8羽田闘争があったー寄稿篇」についで当時の生の記録を中心に編んだものです。2004年、兄建夫さんの慰霊碑を建てたいという意を受けて始まった「10・8山﨑博昭プロジェクト」の工夫と創意、友情と連帯が、日々育ち広がり、ベトナム・ホーチミン市の戦争証跡博物館において、「日本のベトナム反戦闘争とその時代展」開催と、国境を越えた活動にまで発展しました。この本の目的は、当時の記録を掲示することで、歴史に屹立して闘いの一つの節目をなした山﨑博昭さんの死と10・8羽田闘争を現在50年後に再確認・再認識する意義があります。圧倒的な質と量の当時の記録は、私自身の20代を蘇らせ、当時視野になかった様々な記録を読むことが出来、未熟な自らを問いつつ読み、描くことが出来る書です。
 主な内容は、第一に「現認&裁判記録」として、死体検案書の掲示、当時の小長井良浩弁護士の「山﨑博昭君の死因について・警察当局の世論操作を糾弾する」や、ドキュメンタリー「現認報告書―羽田闘争の記録」(小川プロダクション)のほとんど無傷の山﨑さんの死顔の写真などや証言、起訴状、国会議事録、都議会議事録がそのまま示され、山﨑さんの死の原因究明が真向から官憲側と対立している姿が鮮やかに蘇ります。
 今、半世紀を経て冷静に読み返してみても、いかに権力側が嘘と強弁で事実を捏造していたかがわかります。第二に当時の「一般紙、機関紙、大学新聞」の記録です。大手のどの新聞も、公安側の情報をたれながし、「学生が学生を轢き殺した」という論調を世間に広め、暴力、暴徒キャンペーンは、かくもすさまじかったか、と今更に驚かされます。当時は「ブル新はどうせ信じない」と、気にとめなかったのでしょう。
 同じ10月8日.日本共産党は、佐藤訪ベト阻止に力を入れず、、当日「赤旗まつり」の最中でしたが、「暴力主義」批判によって、学生、トロツキストを糾弾することで結果的に権力を助ける狭量さを晒しています。第三には、「週刊誌、雑誌」です。ここに涙を拭いつつ読んだ一文があります。「女性自身」68年2月5日号に掲載されている「羽田事件2人の母」というタイトルの、被害者(故山﨑博昭君の母)と、容疑者(車の運転していたとされるN少年の母)の往復書簡として、兄山﨑建夫さんが橋渡しをしている文です。母、山﨑春子さんが、車の運転していたとデッチ上げ逮捕され拘留中のN少年の母親にあてた手紙の毅然とした姿と優しさに胸をうたれます。お母さんは、警察発表の「轢死」に非常な疑いをもっており、弁護士に死因調査を依頼していると述べた上で、「たとえ最悪の場合を考えても、ああいう混乱の中で、博昭が運転免許証を持っていたら、まったく反対の事態が起こったかも知れません。ですから本当に博昭を死なせた原因は、あのようにまで激しい抗議をしなければならなかった、佐藤首相のベトナム訪問にあるのだと考えるようになっております。どうかあなたさまも、お子さま信じてあげてください。(略)どうか、世間のおもわくなど気になさらず、がんばてください」と記しています。その手紙を受け取ったN少年の母は「子供が逮捕されてから、世間へも出られない思いで、主人と考えこんでばかりおりましてまったく死んだような私どもの家に、一点の灯をつけてくださったのは、あなたさまのお手紙でございました」と、手紙を読んで泣きながら受け取り記したことを建夫さんは記しています。こうした文は、当時知りませんでした。「女性自身」編集部は、光文社闘争前で進歩的人々も多かったのでしょう。こうした真心こそ新聞は載せるべきなのに。第四には「チラシ」。第五には10・8羽田闘争の山﨑さんの死を扱った「詩、短歌、評論、エッセイ、小説」などからの抜粋です。当時、読んだものはほとんどありませんでしたが、大江健三郎さんが、大新聞の記事「仲間による轢死」を信じて自分の文章に触れたとのこと。その後、ドキュメンタリーの「羽田闘争の記録」を観て、暴力は学生側でなく、官憲側だと告発して、のちに自らの一文を批判していて、大江さんらしい誠実さを読みました。第六に、当時の「追悼文」「識者の声明文」が再録され、第七に「羽田10・8救援活動の記録」、これは水戸巌さん、喜世子さん御夫妻が10・8闘争直後から、どの学生にも分け隔てなく権力から守り、病院への支払いにカンパにと奔走した献身的な姿がわかります。この活動によって救援連絡センター設立につながり、現在に至っているわけです。
 最後の章で「50年を経て」として、ベトナム・ホーチミン市戦争証跡博物館での顛末などが記されています。ベトナムでの展示は、8月から10月だったものが、11月まで延長されて、8月20日から11月15日まで開催され、281,951人の(ベトナム人49,748人、外国人232,203人。この戦争証跡博物館は、ベトナムで最大のの博物館で、毎年70万人の入場があり、70%が外国人とのこと)世界の人々が見学されたと佐々木幹郎さんの報告に記されています。報告によると、日本からの60名の訪ベト団に対して、「虎の檻」に24歳から42歳まで囚われ死刑判決を受け、3回脱走を試みて失敗し、戦争終結で奇跡的に生き残った82歳の男性が、淡々と当時の闘いを語ってくれたとのことです。佐々木さんは「最後に彼は『あなたたちの運動のおかげで、一日でも早く戦争が終わったことに感謝します』と結びました。その時、聴いていた私たちによろめくような感動が襲ったことを忘れることができません」と記しています。思わず胸が熱くなりました。山本義隆さんは、このベトナムの博物館展示開催の挨拶の中で「この時代は、日本の無名の民衆が世界史の動きに直接関わりを持った、日本の歴史において稀有な時代だったのです」と述べています。稀有な時代・・・。私が不在の日本を、改めて知る思いです。資本の海外進出からグローバル化への時代の変化の中で、逆に「世界」を日本で消費し、世界史の動きが変革と結びつかない時間が長かったのだろうと思います。
 ベトナムの博物館の館長は、こうした活動があったことを、現在のベトナムの若者たちに伝えたいと言われ、このプロジェクトに関わってこられた人々もまた、記録・資料を準備する中で、もともと若者たち(ベトナムや日本の)へと発信することが「10・8山﨑博昭プロジェクト」の役割と発見させられ、文化運動・表現運動としての磁場になっていることを発見したと、後書きで述べています。特に日本では、権力側の発表をうのみにするメディアによって、当時の事実がゆがめられてきました。その過去があいまい化されて今へと引き継がれてはならないと強く思います。未来に、「過去」となった現在が公文書改ざんで歪まないことと同じように。
 本書に収録されたの多様な豊かな表現は、複眼的視座から当時の歴史が、どんな時代で、山﨑さんの死がどんなに権力側に脅威となり、事実を隠蔽しようとしたのか、マスコミ操作総動員の「学生が学生を轢き殺した」というフレームアップと暴徒キャンペーンの中で、どれだけ多くの良心が真実を追求し求めたのか、この本の中身はその氷山の一角にあたるといえるでしょう。佐藤首相のベトナム訪問こそ糾弾されるべき平和と反戦の敵対行為であったこと、それを権力側からの物語に埋没させまいと、学生運動・反戦闘争の当時の正当性を山﨑さんの無念の死と共に歴史に刻んでいる本です。
 50年前の10・8闘争とその時代を生のまま伝える手段として、この資料篇は歴史書として広く読まれるべきだと思いました。
10月21日記
注:本は10月17に落手しました、感謝と共。  重信房子

イメージ 2


【本の紹介】
「かつて10・8羽田闘争があったー10・8山﨑博昭追悼50周年記念記録資料篇」
待望の「記録資料編」!
記録が語る、資料が語る!
10・8羽田闘争と山崎博昭君の死をめぐる関連資料全170余点を収録!
半世紀前の激動が、いま、甦る。
政府・警察・マスコミのけたたましい暴力学生キャンペーン、それに対する透徹した冷静な論説、ベトナムからの連帯表明、欧米の反響など、1960年代後半の日本社会の風景が浮かび上がる。
四六判640頁+巻頭写真16頁 定価=本体3900円+税 発行-合同フォレスト 発売-合同出版
……………………………………………………………………………………………
[主な執筆者]
大江健三郎  高橋 和巳  松下  昇  鈴木 道彦  立松 和平  
岩田  宏      黒田 喜夫  長田  弘  三枝 昂之  福島 泰樹  
北井 一夫(写真撮影)         小長井良浩  水戸  巌  水戸喜世子  
山崎 建夫  山本 義隆  三田 誠広      辻  惠     佐々木幹郎
[収録内容]
●巻頭:記録写真集(全16ページ)
●序文
●概説・10・8羽田闘争とその時代
●現認&裁判記録
●一般紙、機関紙、大学新聞
●週刊誌、雑誌
●チラシ
●詩、短歌、評論・エッセイ、小説
●追悼文
●声明
●羽田10・8救援活動
●50年を経て
●後書

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は12月7日(金)に更新予定です。