今回のブログは、月刊誌「実話時代」に掲載された「よど号」ハイジャック・メンバーの1人である赤軍派の故田中義三氏の獄中からの寄稿記事である。

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2002年4月号から7月号まで及び2003年4月号に掲載された。
この「実話時代」は「ヤクザの情報誌」といわれる雑誌であることから、獄中での任侠界の人たちとの出会いと交流を軸に、「たとえ社会の正道なるものからはずれても法なるものを犯すことがあっても、 人間としての道に逆く非道は歩まず」という田中氏の信念が語られている。
また、当時の社学同、赤軍派の様子やハイジャックについても語られている。
この記事は、すでに「明大全共闘・学館闘争・文連」のホームページに掲載したものであるが、このブログにも掲載することにした。
この記事の掲載にあたっては、明大二部のK氏からご協力をいただいた。また、「実話時代」の当時の編集長から記事掲載の了解を得ている。(「実話時代」は2019年9月に休刊となっている)

<故田中義三氏のプロフィール>
1948年青森県三沢市に生まれる。1968年明治大学二部(夜間部)入学。社学同から赤軍派に加わり、1970年3月、日航機「よど号」をハイジャックして北鮮に。1996年3月、「ニセドル」事件でタイ当局に拘束されて裁判。その後日本に送還され、2002年2月、ハイジャック事件等で懲役12年の判決を受ける。
その後熊本刑務所に服役していたが、2006年12月肝臓癌のため刑の執行停止となり、2007年1月逝去。享年58歳。

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【「嗚呼!!任侠ボルシェビキ」第1回】
「侠道に生きる人とは根本的に住む世界が違うのであり、敵対することはあっても心が触れ合うことなど絶対にありえない」これはたぶん学生運動にのめり込む頃から私の頑なな「信念」となっていた気がします。
振り返って見れば私の生れた環境はそうでもなかったのです。
父母は今の朝鮮からのいわゆる引揚者です。戦後は、本州の北端、青森の三沢に居をかまえながら父は、東北各地で、ダ厶、干拓用水路等の土木工事現場で親方として働いていました。
私もその三沢市(当時、上北郡大三沢町)で生まれました。
飯場には社会の底辺で生きる土方衆がうごめき、いわゆる在日の朝鮮、韓国人も多かったようです。幼い時ながら気性の激しい人達が、彫った入れ墨を隠しもせず、飲んだり大声を出したりしていた時の情景が断片的ながら記憶に残っています。
しかし私が小学校二年にあがるや否や父は工事現場で事故死してしまいました。それからというものは侠道の人達がまわりにいる騒々しい雰囲気から一変して母が細腕で内職(和服の仕立や縫い)しながら五人の子供を育てていく物静かな生活となりました。
親戚を頼りに父母の故郷である熊本に引っ越してからの中学、高校時代、私には派手に喧嘩するとかいった勇気や根性もなくひたすらバスケットボールのクラブ活動に熱中していました。一時はバスケットボールでの人生も考えたことがあったのですが、高校二年の夏頃、背の仲びがとまると同時にその夢も消え、情熱も失われていきました。進学校といわれていましたが、中途半端な私はいつか勉強の方も落ちこぼれはじめました。一方でベトナム戦争や中国の文化大革命といった時代を揺がす政治問題に強い関心をもちはじめ、反政府的な文集「えりーと」を仲間たちと作ったりもしました。
御多分に漏れず、大学受験の軌道から遠くはずれてしまい、その頃からタバコを吸いはじめたり、酒を飲みはじめるといったささやかな不良の真似事の生活も始まりました。
高校をやっとのことで卒業するや、田舎を早く離れたい一心で上京しました。そして昔、父親の下で仕事をしていた人をたよって、中央高速道路の工事現場で土方として働きはじめたのです。
ペンより重いものをもったことのない人間にはじめての肉体労働は厳しいものでしたが、必死に働く日々は、新しい世界を歩みはじめた気がしてきたものです。そして、何年かでそれなりにまとまった金をつくり,自力で事業を起こしてみようという小さな夢も描いたりしていたのです。
ところが、その年、即ち1967年10月8日、新左翼の三派全学連といわれた学生たちによって、佐藤首相の外遊を阻止する第一次羽田闘争が起き、京都大学の一人の学生が機動隊の装甲車に轢かれ犠牲となりました。私はその衝撃的な事件のテレビのニュースを釘付けとなって見ていました。有名大学の将来有望な学生が命をかけて闘っているのに私は自分の個人的な未来にしか関心がないのかと思うと、自身の生き方に非常に恥ずかしい気がしたのです。そしてその日、何か魔物にでもとりつかれたかのように、ただ学生運動をやる「資格」を得るために大学入学を決意しました。

入学はしたものの、授業などには一度も出席することなく、まるで学生運動に就職したかのように熱心に活動をはじめました。その頃は、大学でも左翼系活動家と右翼体育会系の学生との暴力的衝突が日常茶飯事となっていました。また中小零細企業の労働争議を支援にゆくと、会社に雇われ臨時ガードマンと化したヤクザとの暴力沙汰もひんばんに起きていました。
ヤクザ、侠道界もすべて右翼として考えていた私は、彼等とは怨念に満ちた宿敵との対決であるという思いが益々強まるのみでした。
1970年3月31日学生運動の最先端を突っ走ったまま、私は、8人の仲間と日航機「よど号」をハイジャックして、大阪「万国博」の上空を越え朝鮮民主主義人民共和国に政治亡命しました。そこはヤクザ、暴力団といわれる人とは無縁の世界であり、侠道はたまに日本から送られて来るビデオ映画や本の中での物語でした。
1996年3月、私がカンボジアで貿易業をはじめようとした時に、アメリカの謀略機関に拉致されタイに強制連行されました。そして「ニセドル」事件と称される裁判獄中生活を強要されました。(詳しくは、拙著『よど号朝鮮タイ、そして日本へ』(現代書館刊)を御覧下さい)
そのタイの刑務所(タイでは刑務所と拘置所の区別がなく未決でも労働させられる)においてタイ人をはじめ諸外国人、そして何人かの日本人を含め侠道界の人達とのやむを得ない接触がはじまりました。
土、日そして祭日、タイの刑務所は、日中、敷地内を放し飼いのように自由に行動できます。にわかじこみの彫り師たちが、トイレの裏、行水する水槽の後ろ、建物の陰などで、また夜は囚人一房(独一房はなく三十人から百人位がつめ込まれている)の中で、看守への逆見張りをたてながら、入れ墨商売に精を出しています。簡単なのはコーラー瓶(三十円)から本格的なのは千円ぐらいの料金です。バラの花、虎や龍、女性といったものですが、仏教国だけに仏像や仏教関係の文字を彫っているのが多いといえます。タイの囚人のほぼ六割が大小の差はあれ、入れ墨をしています。顔にまで入れ墨しているのも珍しくはありません。
タイの刑務所にも当然広域的なヤクザから地場ヤクザまで数多く入っており、時には、支配利権をめぐり激しい抗争がくり広げられます。(例えば、敷地内に売店があり、その経営は囚人にまかされている。キックボクシングの賭博も派手に行われており胴元が活躍している)
命までも奪い合ぅ事件を何度か目撃しました。またタイの三カ所での刑務所生活期間中に、超VIP待遇の人も見かけました。携帯電話所有、面会完全自由、土日には秘密裡に外出するといった元警察最高幹部クラスだった囚人。ボディーガードを連れ歩き、冷蔵庫付きの完全自飲生活、テレビカラオケ設備を所有し、房内で衛星テレビを見る元将軍、ヤクザ組織の幹部。
私はその間、一万人は下らない囚人たちと接しました。
あらゆる不正、腐敗が横行するあの苛酷な状況の中で、鮮やかな渡世人として、華々しく、そして命がけで生きている見上げた侠道人といえる人も三、四人はいました。もちろん言葉が自由自在でないのですから自ずから限界はありますが…心がひきつけられたさわやかな人たちが、強烈な思い出と共に今でも時々浮かんできます。

私の事件なるものについては、夕イのテレビ新聞等で大々的に報道され、一時は特別警備体制がしかれたこともあり、看守はもちろん、ほとんどの囚人も知っていました。しかし政治目的で飛行機を奪い利用するハイジャックという意味をうまく理解してもらえず、私も英語やましてはタイ語でそれを正確に説明しえず苦労しました。結局「飛行機ドロボー」と呼ばれていました。まあ似てはいるのでしょうが…。
タイの刑務所には、オートバイ、自動車強盗のプロフェッショナルが、うようよしているのですが、田中というのはケタ違いの飛行機が相手だということで親指をたててほめられました。部品に解体して売りさばきすごい金になるということになり、なかには、どこで解体するのか具体的な場所や方法を教えてくれと真剣にせがまれ往生したのも懐かしい過去となりました。
ところでタイの刑務所に入って来た日本人たちのことです。滞在期間中に約十五人ほどと出会うことになりました。その半分はヤクザ世界に身を置く現役かその出身者などでした。どうしても人間的に親しくなれば、立ち入った話にもなり、更には、色々と他の囚人からその人物の個人情報も伝えられてきます。
四十代にも届こうとするあるヤクザのことです。タイに事務所なるものを構え、片言のタイ語も話しながら現地人と組んで日本から来る客を相手に少女売春を本格的にやっている人でした。現地で日本人が経営するバーやカラオケとも手を組みながらその商売が結構金になるのだと自慢していました。日本の客は、秘密さえ保持できることが明確になれば、出張して来る外務省の官僚をはじめ、大手商社、大企業のお偉いさんたちは金に糸目はつけないそうで、十代前後の少女にさえ喜んで大金を払うというのです。自分自身もタイ、ベトナム、中国等の女性をとっかえひつかえしては、ハーレ厶生活をしていると得意気に話していました。タイ国内でも相当怒りや反発を買いはじめていたので、彼の仲間が大金を出し事件そのものをもみ消し保釈せずにいたら、半殺しになっていたかも知れません。多くのタイ人の貧しい生活を支えてやっている面があるのだとうそぶくこの男には、どんな過去があっても出来る限り先入観をもたずに付きあおうとした私ですが、許せませんでした。差し入れられる贅沢な食事に度々さそわれましたが、いっしょにメシを食う気になれなかったものです。
またある現役のヤクザは日本が余りにも不況だからと、ニセブランド時計の運び屋でひとかせぎしようと昔の舎弟分を頼り、出かせぎに来たということでした。ところが舎弟分のタイ人仲間のいざこざから、現地人にチクられて私が収監されていた刑務所に入ってきました。保釈金が日本から送られてくるまでの四、五日、刑務所にいましたが、その間にニセブランド時計の受け渡し価格の実態を知り、信用していた舎弟分から三倍もふっかけられたと怒っていました。舎弟分なる人間が今や全く変わり果ててしまった事実を知り、「タイはヤクザの来るところではないなぁ」とつぶやいていたのが印象的でした。タイで羽振りをきかせている日本ヤクザの救いようもない腐敗の一端を知る思いがしました。
もちろん、それなりの筋の通っている人間もいます。
私とほぼ同世代でタイでの生活も長かった人のことです。最後は、日本の親企業に、そして商売仲間に完全に裏切られ、それこそ体ひとつになって刑務所に入ってきました。苦楽を共にするなかで義兄弟のような関係が生まれ、今では自由の身となってあれこれと私の裁判を支えてくれています。
また十代のなかばで侠道界に入り、組の部屋住みまでしたという若者も入って来ました。ある抗争で親分が逮捕され、組は解散においこまれ、やむを得ず鉄筋業の下請け会社をはじめたそうです。一時はなんとかなったのですが、この不景気の中で、やる気をなくしていた丁度そんな時、中学時代からの悪ガキ仲間(薬中毒者)に誘われタィに遊びに来たのでした。遊行気分に浮かれ小遣いかせぎにと「保険金詐欺」を試みたのですが、ホテルに警察が来て確認中にその仲間のカバンから薬が発見されヤブヘビとなってしまいました。まるでマンガのような話です。
「保険金詐欺」で三力月の即決判決を受け入ってきた彼の背中や腕には立派な入れ墨が彫られていました。妻との離婚や子供の養育問題、将来の生き方など色々と人生相談にのっているうちに自然と肉親のような情が生れてきました。そうした二人の関係がタイ人や他の外国人の目には珍しく、日本の侠道における特徴ある礼儀や節度をわきまえた親分、子分の関係に見えたようです。結果的に私は「権威」を高めることにもなりました。田中は政治犯、飛行機ドロボーなのに、鳴く子も黙るヤクザまでが一目おいているととらえたようです。このように侠道界の味をしっかりと持った人と初めて直に接するなかで当然興味もわいてきたし、違った側面から理解していく契機となりました。

次に日本に帰国し、警視庁での留置場生活が、私に侠道の世界をのぞかせる機会となりました。
男性の留置場は大きく二つの場所にわけられており、一方は全室個室、もう一方は二人の雑居です。常時二十五人位がおり、少なくてもその三割は侠道界関係者といえます。
偶然ですが彼等の言動を詳しく観察することができました。
私が最初に同居した人は、間もなく還暦になろうとする人でした。空前のへロインを扱ったとかの容疑で終身刑の可能性が大なのですが、獄死を覚悟し黙否を貫いていました。
最後の願いは何ですかと尋ねると、仲間が「黙否観音」を建ててくれることだと笑っていました。小さな体に似合わずなかなか芯の強い胆のすわった人で、ユーモアにもあふれていました。その次に同室となったのは、老舗組織の「突破者」で、実に印象的な人でした。九州福岡という侠道界の産地の出にふさわしい若者で、今後の人間的成長を期待させてくれる人でした。
留置場での生活期間中十人位のヤクザと知り合いましたが、傑出していたのは、なんといっても「獄同塾の星」となっている高原陣君でしょう。侠道界の大部屋、主流派所属でもあり、少しもものおじしたところがなく、あの若さでは珍しいほど泰然としていて留置場生活も実に慣れたものでした。礼儀も知らず、生活もだらしない者と同部屋にされると、場所柄仕方なしに同居し続けるしかないのですが、彼はどういう手をつかうのか、その相手を部屋から追い出してしまうのです。その一方で、面会もなく生活に困っている中国人などには、タバコや服の面倒まで見てやります。また看守が少しでもなめた真似をすると、入り口や便所のドアを蹴りとばしたりもします。一度は朝の洗面の時ですが、陰険な看守が小バカにした態度をとったのに怒り、本気で殴りかかろうとして必死にとめられていました。暫くその看守は、私たちの場所の担当からはずされていました。これは譲れないという時の嗅覚、いざという時の覚悟、根性、これがなければ侠道界は務まらないだろうという、何か先天性を見る思いがしました。ただ誠に不思議で今もって解明しえていない髙原君への疑問は、三十代なのに、私の世代はもちろん、そのひと昔前の流行歌まで知っていることです。留置場では、物わかりのよい看守の時などは小さな声で「歌合戦」をして時間をすごしたのですが、彼が知らない歌は一曲もないのです。軍歌については、民族派の運動にも参加していたので理解しえるのですが…ひょっとして、年齢をさばよんでいるのではとも思うのですが、風貌はどう見ても若者なのです。彼がカラオケの常連で歌手なみの歌唱力をもっていることだけは間違いありません。
又、同年輩の人ですが、私が「有名人」だということで、朝の運動や洗面時に何かと話かけてくる地場ヤクザがいました。「田中さん、いよいよ東拘移管ですね、差し入れは、まかせて下さい。ただ、あそこは、一 回三千円までだよなぁ」と皆の前で声を一段と高めていましたが、その後全く音沙汰もありません。
一方、私にまだ接見禁止処分がついている時から返事のあるなしに関係なく、東拘移管のあいさつ状、クリスマスカード、年賀状と節目には必ず丁寧な手紙を送ってきたのが高原君でした。そして接禁が解除されるや否やその彼から「近々面白いものが届きます」という手紙があり、手元に送られてきたのが「獄同塾通信」だったのです。
この東拘であっても人間の心の交わりを完璧に防ぐことはできません。
一切の私語が禁じられている中ででも、風呂や運動、面会の行き帰りに瞬間的にふれあう目と目であらゆるものを察し、万感の思いを交わすのですが、一見してそれなりの風格と人間味を漂わせている極道者がいます。この数秒のわずかな触れあいの中で、今まで全く見知らぬ人と、同じ境遇者としての同情が友情にかわり、下獄してしまった後も、彼の奥さんを通じて、時々励まし合う、そんな人も生れました。
こうして、少なからぬ侠道界の人たちを知る中で、人間味、義理、良心といった面において、むしろ左翼といわれている人をはるかに凌駕している人も多くいるということにやっと気付きはじめたのです。
(つづく)

【お知らせ その1】
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『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その2】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は3月25(金)に更新予定です。