今回のブログは、前回に引き続き「続・全共闘白書」Webサイトの「学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録」コーナーに投稿のあった「僕の全共闘時代」という記事の紹介である。
 この記事は東京・武蔵野市にある成蹊大学での闘争を中心に書かれたものであるが、230ページにも及ぶ労作なので、その中から1968年の成蹊大学での活動の部分を抜粋して掲載することにした。また、この寄稿文には1969年1月以降は書かれていないため、1969年の全共闘の部分は追加で寄稿していただいた。
抜粋しても25ページくらいになるので、前編と後編の2回に分けて掲載する。
成蹊大学は、先日亡くなった安倍元首相の出身大学である。

【僕の全共闘時代(抄)】(後編)
ー僕の全共闘時代(抄)前編より続くー
アジテーションと失語症
六八年秋の成蹊での出来事で思い出深いのに「法・経の分離にともなう説明会」というのがある。この年、法学部が設置され、従来の政経学部は法学部と経済学部に分離されることになったが、その一回生が二年に進級し、専攻別にクラス編成されるにあたって学校側が説明会を開いた。法経自治会と文学部代議員会はこれに異議を唱え、説明会をつぶしてやろうという方針で会場にのりこんだ。その理由は、総合大学化計画は高度成長にともなう社会の再編成に見合うように大学を近代化させようというものであり、それは資本の都合のいいように教育全体を改編させることに他ならないというところにあった。実際一九六〇年代を通して日本の戦後社会は大きく変化していた。成蹊の工学部設置(一九六二年)に始まる総合大学化もまたその変化に沿ったものだった。この変化の中で従来の大学の理念であったアカデミズムの伝統やそれを背景にした「大学の自治」論はとっくに時代遅れになっていた。つまり利益社会のあくせくした生活から超然としたアカデミズムの理念の下で、実際はごく近代的な、資本の変化と発展―それは常に「社会の変化と発展」と言い換えられるのだがー に見合った大学の改編が進行していた。その古い理念と新しい再編工事の両方に徹底的に異を唱えたのが東大闘争であり、とりわけそれを理論的にリードした助手共闘・院生共闘だった。むろん全国に勃発していた学園闘争もそうした大きい枠組みの中で、個々の大学の実情に沿い様々な形をとって闘われていたのだった。従って今度の成蹊の「説明会粉砕」も、闘争としてはかなり珍奇だったけれど、やる方はそれなりに大真面目だったのである。なかでも僕は最も大真面目だった。
会場に入ってみると、そこにはジュースやビールが並び、さながら立食パーティーだった。この光景がまず僕を憤激させた。何だ、これは!飲み食いさせて懐柔しようという策じゃないか。何人ものメンバーが会場の前面に出て、学校側の説明をくい止め、論争を吹っかけていた。僕も積極的に発言した。その内容は一言で、
「ビールなんかの供応を受けて、それで君たちは恥ずかしくないのか」
だった。ある法経の一年生はこの時のことをずっとあとまで覚えていて、「ずいぶん純粋なヤツがいるな」と思ったそうだ。僕もそう思う。自分にもこんなに純粋な時があったとは、今となっては信じ難いほどである。
僕たちの妨害が功を奏して、学校側もついに「説明」をあきらめてしまった。説明会は首尾よく粉砕されたのである。僕たちは勝利の凱歌をあげ、法経自治会室に戻ったが、その時あきれたことに上級生の活動家たちは会場から余ったビールとジュースを持ち出してきた。自治会室で酒宴が始まった。僕は一人ムスッとしていた。供応の手段である汚(けが)れたビールなど飲んで、けしからん!という気持だったのだ(今の僕なら率先してピールを運んでくるだろうな)。
それはともかく、この時のアジ演説は僕が秘かに「我が生涯の三大アジテーションの一つ」と呼んでいるほどの出来栄えだった。いわゆる活動家口調ではなかったけれど、思っていること、感じていることが単純・率直に口をついて出ていたという気がする。説明会場を出て自治会室に向かう途中、上級生の荒木戸が独特の皮肉っぽい口調で冗談まじりに、
「おまえアジがうまいな。アジテーションがうまいと官僚になれるんだぞ」
と話しかけてきた。活動家としての僕の将来は洋々たるものがあった。
ところがこれを最後に、僕は失語症に陥ってしまったのである。洋々たる未来はすぼみ、学生官僚への道は通行止めになってしまった。失語症の直接の原因は、ロラン・バルトの『零度の文学』を読もうとしたことだ。これは今では『零度のエクリチュール』という名で知られ、七〇年代から八〇年代にかけ、構造主義やら記号論やらのブームで有名になった本だが、当時はまだ「エクリチュール」という言葉がはやっていなかったので、このような題名になったわけである。
とにかくこの本は難しかった。何が何やら全く理解できなかった。『鏡の国のアリス』だったか、文法はたしかに英語なのに、全く意味をなさない言葉をしゃべる奇人が出てくるが、この本もそれと同類に思われた。
「<文学>もまた、何事かを標示しなければならないのであるが、そこで標示されるのは、<文学>の内容やその個人的な形式(フォルム)とは異なるものであって、<文学>自身の垣根であり、まさにそれが<文学>としてものをいう所以のものなのである。そこから、思想や言語体や文体とは関係なしに与えられ、あらゆる可能な表現形式の厚みのなかで、慣例的な言語の孤独を規定することに充てられた諸標章の総体が由来する」
これは一ページ目の終りから二ページ目にかけて出現する文章だが、たぶん当時の僕はここから先には一歩も進めなかったに違いない。失語症に陥って以来、僕はこの本を押入の奥にしまいこんで二度と手を触れようとはしなかった。なんだか表紙を開いただけで失語症が再来するような気がしたからだ。そんなわけで今、二十六年ぶりにこの本を開けてみたのだが、やはり僕が使っているのと同じ国の言葉だとは思えない。
これを境に僕はほかの本も読めなくなってしまった。すべての本がやたら難解なものに思えてきて、一つ一つの言葉に拘泥していると一歩も先に進めなくなってしまう。枝葉ばかりに目が行って、本全体が見えないという近視眼症状である。特に接続詞がいけない。AとBの文章の間にある「そして」や「しかし」や「にもかかわらず」は、なぜ「そして」や「しかし」や「にもかかわらず」なのか?他のものではいけないのか?いや時には他のものでなければいけないのではないかとさえ思えてくる。ずっとのちになって、多くの場合この悩みの原因は著者がデタラメな接続詞をいい加減に使っているせいだとわかったが、当時は書かれたものはすべて正しいと思いこんでいたから、考えれば考えるほどわからなくなり、文脈などどこかに行ってしまい、結果として全然本が読めなくなってしまったのだ。
書かれたものが理解できなくなるとともに、話されたものも理解できなくなり、当然話すこともできなくなった。雑談や趣味の悪い冗談だけは前と変らずに口をついて出てくるのだが、昔から苦手だった真面目な話が特にダメで、アジテーションなど夢のまた夢となった。
考えてみると、僕の人生は『南回帰線』以来、躁状期にあったようだ。受験勉強への反逆も学生運動の端っこにくっついたこともこの精神の躁乱あればこそだったが、その反面で失語症に陥るまで僕は人の話を、自分の世界とは異なる他人の世界を理解する鍵としては聞いていなかった。ムード的に右の耳から左の耳へと聞き流し、その中で自分に都台のいいものと悪いものを取捨選択するだけで、他人の言葉によって自分の世界が変革されるということがなかった。むしろ他人の内面と直接触れあうことによって、自分の内面が震えたり傷ついたりすることを恐れていた(もっともそれは今でも同じだが)。
読むという行為の場合もそれは同じで、要するにそれまではムード音楽的に読み流していたのだ。それが『零度の文学』という難解な本と出会ったのをきっかけに、世の中には自分の理解を超えるものがあるという当り前の事実に気づいたわけである。とにかくこれを境に、僕の人生は躁状態から沈黙期へと転化してしまった。相変わらず軽口はたたくものの、どちらかというと黙々とデモに出かける肉体派―ただし臆病な肉体派―という色彩が濃くなって行った。

ブント出現
反帝学評の一元支配状熊だった成蹊にもついに他党派―ブントーが登場したのもこの頃だったろうか。ブントができるきっかけも反戦学評同様、一人の女子学生が他大学からオルグをつれてきたからだった。それは上野というエキセントリックを絵にかいたような女性で、彼女も最初の頃は桶宙らと一緒に運動していたようだが、問もなくそりがあわなくなり、中大から活動家を呼び寄せることになったのだという。そんな事情のせいか、最初の頃は反・反帝学評にこり固まったような女性活動家が二、三人のみの、上野サークルというに過ぎなかった。なぜ上野たちが反・反帝学評にこり固まったのかはわからない。ただ、僕の目にはそれは全く思想的なレベルの問題でなく、単なる人関関係上の行きがかりに過ぎないように見えた。
もっとも上野を評価している人間もいる。それは彼女にオルグられたこともある僕と同学年の森という男で、彼によれば「あれはすごい活動家だよ」ということになる。
たしかに上野はある意味ですごいことは事実だった。ある日、僕が文学部で一番広い教室で鶴見和子の社会学を受けようと座っていたところ、上野がやって来て、いきなり教壇の前で猛烈なアジ演説を始めた。政治的経験も何もない一年生を前にして、例の活動家口調でとうとうとまくしたてたのだから、相当に異様な光景だった。おまけにその目的がはっきりしない。アジテーションのためのアジテーションという感じで、みんなあっけにとられていた。そんな調子で鶴見助教授を教壇の横に待たせ、延々と叫んでいたものだから、しまいには勉強好きなバカ学生から「出て行け」と怒鳴られるようなしまつだった。さらに、これは自分の目で見ていないのだが、一号館前で桶宙らを相手に一人で投石合戦を演じたこともあったらしい。その話を聞いて僕は「アー、見なくて良かった」と思ったものだ。
結局成蹊のブントが党派らしくなったのは、須磨という人材を得てからだろう。須磨は六八年次生で文学会の部員だった。小柄だがガッチリした体格で色浅黒く、いつもチロリアン・シューズをはいていた。大江健三郎の読書会をやった時だったか、何ページにもわたって細かい字で何やらびっしり書きつけたノートをひろげ、一年生の分際で独演会をくりひろげたことがあった。この時は結果的にそうなった按配だったが、この「独演会ぐせ」が党派活動家としての須磨の特徴になっていった。
この須磨を中心に文学会に少し根をのばしたというのが、六八年秋のブントの状況だった。それはまだ党派というよりはグループに毛が生えたに近かった。
ついでながら、僕も上野のオルグ対象の一人だった。しかし残念ながらあまり強くはオルグされなかった。ある日、たぶん文学会のメンパーに誘われて、ブントのアジトにオルグられに行ったことがある。僕としては反帝学評以外の党派に興味津々だったので、むしろ積極的に出かけていった。それは当時ならどこにでもあったような六畳ほどの木賃(もくちん)アパートの一室で、僕たちはゴロゴロしながら上野を待った。しかし待てども待てども上野は来ない。僕は所在ないのでそこらに転がっている赤ヘルメットをいじっていた(のちに須磨が語ったところによると、「うれしそうにヘルメットを撫でてはニタニタしていた」。たしかにその頃の僕はヘルメット集団の一員になれただけでうれしかったので、そんなこともあったかもしれない)。一時間ほども待ったろうか、ようやく上野が到着して、例の調子でしゃべり始めた。それは対話というより一方的なアジテーションだった。もちろん公衆を前にした時のような激した調子ではなかったが、一本調子な演説であることに変わりはなかった。当然頭には何一つ入らない。おまけにその日、僕には予定があった。そこで演説をさえぎってもう帰らなくてはならないと言うと、彼女は一瞬照れ臭そうに笑った。この時の表情からすると、彼女は意外と気の弱い人間なのかもしれない。そして気が弱いからこそ、それを克服するためにはエキセントリックにならざるを得なかったのかもしれない。上野のオルグはこの時が最初で最後だった。そして上野はやがて成蹊から姿を消した。噂によれば、中大からの活動家と仲たがいを起したということだ(真偽のほどはわからない)。
ところで、もしもっと説得力のある人物にオルグられていたら、僕はブントになっていただろうか?仮定話ではあるが、どうもそうはならなかったのではなかと思う。その頃の反日共系の党派というのは、むろん各々の政治主張や路線をもっていたわけだが、かといって言っていることや行動の大枠はそれほど隔たっているわけではなかったから、甲大学に入っていればA派のメンバーになっていただろう人間が、たまたま乙大学に入ったのでB派になったということもあり得た。特に三派系の諸派はその傾向が強かった。何よりも僕たちは活動の「場」を求めていたのだ。しかし人間には自ずから向き不向きがあるわけで、そういう観点から見ると、僕はあまりブントに向いていたとは思えない。
僕の印象では、ブントは新左翼潮流の中でも最も革命的ロマンティシズムの傾向が強かった。そして「革命論好き」でもあった。そしてこの二つの資質から現代世界をロシア革命から来るべき世界革命への過渡期として「革命的に」位置づけてみせたわけだが、あまりに壮大すぎて僕にはどうも革命ごっこをしているような感じがした。言葉を換えれば、現実の社会に対する切実な感情が足りないように思えた。
もっともこれは僕が既に反帝学評の人間関係に組みこまれていて、そこからブント的な世界を見ていたからこう思えるのかもしれない。いずれにせよ、成蹊のブントが完全に党派らしくなるのは、六九年になって一年生を吸収してからのことである。

秋の闘争 惨めなだけの10・21
(中略)

10・21 も機動隊と衝突しなかった
この日、東京都公安委員会はあらゆるデモを不許可にしていた。総評・中立労連の集会のみが明治公園に場所を移されて許可された。この結果、当日は各派バラバラに行動し、反帝学評は明治公園の集会に参加して、ここから国会を目指すことになった。一方、中核・ML派は新宿へ、ブントは丸太を数人でかついで防衛庁へ(この丸太で防衛庁の正門をブチ破ろうというのだ)、革マル・フロントは東大での集会ののち、国会へ向かった。しかし成蹊の部隊にはそれ以前に一波乱が待っていた。

校内図
(構内図)
この日成蹊の反帝学評は初めて大学本館前の欅並木で集会を敢行した。この意味を理解するためには、それまでのいきさつを知っておく必要がある。既述のように大学当局はビラ・掲示物のたぐいに学生部の許可を求め、それに違反したM君を六七年に退学処分にしていた。しかし六八年には学生側が規制を無視して立て看・ビラまき・集会を強行したため、これらは既成事実として黙認されるまでになった。しかし立て看・集会の場所にはまだ制限が残っていて、本館に向かって左横の一号館前までが当局が黙認する限界となっていた。その公式の理由がふるっていて、大学本館前には理事たちが車で乗りつけるため、そこに立て看があったり集会をやっていたりすると、彼らの気分を害するというのだ。しかしこんな理屈に誰も納得するわけがない。要するに成蹊を政治的な無風状態にとどめておこうとするか否か、彼我の力関係のみが立て看の範囲を決めるというわけで、10・21 を機に、欅並木集会を敢行したのである。
しかし下っ端活動家である僕は、当日までこんな形で集会をやることを知らなかった。朝、学校に来てみると、欅並木の通路をふさぐ形で立て看が立ち、ごていねいにもその前には椅子まで並べてある。「いいのかね~」僕は心の隅で思ったが、やはり良くなかった。反帝学評の首脳部(?)は秩序派の数を見くびっていたのだ(逆に言えば、成蹊の学生の知的レベルを高く見積もりすぎていたのだ)。集会が始まる前から、あたりには秩序派の人垣ができていた。そして集会が始まるとたちまち難癖をつけ、しまいには集会そのものをブチ壊そうとしてきた。
ま、秩序派の気持もわからないではない。彼らも僕同様、朝、学校に来てみたら通路が集会用の椅子と立て看でふさがれていて驚き、次いで憤激したのに違いない。その点で確かに反帝学評の行為には「民主的法手続き」という点からいえば正当性を欠く部分がなかったとは言えない。では欅並木に立て看を置かせず、集会を開かせないという論理に「民主的法手続き」はあるか?要するにこれは民主的手続き以前の権利のための闘争なのだ。
それに秩序派の言う「通路をふさぐな」という論理にも、実際上はほころびがあった。というのは、欅並木横の芝生には斜めに法経・工学部方面への近道がついていて、そちらを使う人数の方がずっと多かったのだ。多めに見ても並木を使うのは半数といったところだろうか。並木の横にはやはりわき道があって、舗装がないので歩きやすいとは言い難かったが、そっちを通って通れないわけでもなかった。つまり集会は確かに一つの通路をふさいでいたが、人の通行を完全に遮断しているわけでもなかった。要するに秩序派の言う「通路をふさぐな」は、「本館前の、成蹊の象徴とも言うべきメインロードで集会を開くな」というのに限りなく近い「通路をふさぐな」であり、彼らの本音がそこにあることを僕たちは本能的に察知していた。彼らの論理はまた「理事の気分を害して云々」という大学当局の詭弁に沿うものでもあった。
しかしこの日の秩序派の言っていること、やったこと、暴力行為の数々は、こうした正当 不当論の範囲をはるかに越えるものだ。きっかけこそ「通路をふさぐな」だったが、それはすぐ「成蹊が嫌なら出て行け成蹊は俺たちのものだ 」になり、政治集会そのものの破壊へと突っ走って行った。だからこそ僕たちもまた全力で集会を守るために立ち向かったのである。
当時の反帝学評の最大動員力はせいぜい五十名ほどだったろうか。いや、それより少なかったかもしれない。一方、秩序派は二~三百名はいたように思う。要するに僕たちは完全に秩序派によって包囲されていた。秩序派は立て看を蹴倒し、スピーカーを奪おうとし、一人一人に暴行を加え始めた。僕たちはわめき、罵倒し、何とかこの場を死守しようとした。残念ながらこのあとの細部は覚えていない。集会は粉砕され、おそらく僕たちはスクラムを組んで二重三重に取り巻く秩序派の波を突っ切ったのだろう。完全な敗北だった。もう「通路をふさぐことの道義性」なんてことはふっとんでいた。秩序派のむき出しのエゴイズム、自分のエゴイズムを客観的に点検しようとしない(彼らの後輩、安倍晋三のような)最低のエゴイズムの前に、論理など何の力も持たなかった。
(中略)
この日のデモでは成蹊で初の起訴者が出た。それは反帝学評ではなく、ブント系の防術庁闘争に参加した笹蒲という男で、当時三年生か四年生、僕が一時所属していた文学会の部長をやっていた。全く政治的な人間ではなく、口調に田舎なまりの残る、やや気弱な好人物だった。起訴された理由というのがいかにも彼らしくて、赤ヘルメットの海の中に一人だけ黒ヘルメットをかぶっていたので目立ったというのだ。笹蒲としては「自分は社学同ではなくノンセクトの学生である」ということを示したくてあえて黒ヘルメットをかぶっていたのだろうが、この律儀さが裏目に出たといえる。善人はバカを見るという典型だろう。
この人はあくまで悪い星の下に生まれていたとみえて、もう一つの可哀そうなエピソードがある。僕がまだ文学会に出入りしていた頃のことだが、ある日、彼は吉祥寺の駅前を歩いていた。すると横にいた小学生の一団が突然、
「あっ、殺人犯だ!殺人犯が歩いてる」
と騒ぎだし、駅前の派出所にかけこんだ。笹蒲は驚いて飛び出してきた警官によって、そのまま派出所に連れこまれてしまった。何でも派出所の横に貼ってあった指名手配写真の一人に似ていたというのだが、小学生の言うことだからあてにはならない。それにしても指名手配写真に似ている人間は世の中にいくらでもいると思うが、いきなり街角でこんな目にあう人も珍しいだろう。この話でみんなに笑われている時も、彼はべつに小学生に対して怒るそぶりを見せるでもなく、照れ臭そうに笑っていた。起訴されたのち、彼がどうなったかは全くわからない。

秩序派だらけの成蹊大学
10・21 の騒乱罪は直接的には新宿での騒ぎに適用されたのだが、累はこっちにも及ぶかもしれないとの桶宙の危機アジリにより、翌日は重要書類― なんてものは実はなかったのだけれど ―隠滅のため、文代周辺はてんやわんやの状能だった。他方、集会破壊への怒りは未ださめず、これをクラス討論へともちこんで大衆的に問題化していこうということになった。右翼秩序派による集会破壊は政治行動・言論表現の圧殺にほかならず、これは一人反帝学評だけでなく、学生大衆全体の問題であるーこれは僕たちには自明の理だった。しかし肝心の学生大衆にとっては一人反帝学評だけの問題だったのだ。
その日僕はクラス全員分のレジュメまで切って、大いに〝空気の入った〟状態で授業におもむいた。それはクラス担任であり、文学部長でもあった福与教授による英語の授業だった。レジュメには10・21新宿闘争の総括―と呼べるほどのものでないことは言うまでもないのだがーから秩序派による集会破壊の犯罪性までを全面展開した、僕なりの力作であった。ただし新宿闘争の総括とは、一言で言って「ナンセンス」だった。これは一つには新宿に行かなかった反帝学評の党派的見解の受け売りだったが、同時に「恐ろしいことが起った」というおびえによるものでもあった。これが自分で最盛期の新宿に行ってその熱気にあてられていたら全く違った評価になったのかもしれないが、マスコミ報道によってしか知り得なかったため、よけいに拒絶反応が強まったのだった。いずれにせよ、僕の新宿闘争に対する感想は「米タン輸送阻止という目的がどこかに行ってしまい、騒ぎを起すという面のみが表に出た」というものだった。ただしこれは正確な政治認識による分析では全然なく、先に言ったように恐怖心・日和見意識・無秩序な暴動に対する嫌悪感などがないまぜになって出てきた臆病者の反応だったように思う。
クラス討論を行うためには、まず福与教授に交渉し、授業時間をさいてもらう必要があった。が、話はここからつまずいてしまった。福与教授は頑固に授業を行うことに固執した。一方、僕は 10・21 の間題は重要だから、何としてでも時間をくれと主張する。緊張した論争になったところに女子学生が発言した。授業を行う方に賛成する意見であった。僕の方は孤立無援だった。おまけに議論が変な方にずれてきて、
「あなたも10・21 はナンセンスだと言ってるんでしょう」
というような具合になってきた。僕としては主題は秩序派による集会破壊なのだが、なまじっかレジュメに10・21 闘争の総括などをのっけてしまったため、話がそっちに行ってしまったのだ。つまり彼らの頭の中にはマスコミの報道による秩序なき、無目的な騒乱へのアレルギーがデンと座を占めていて、そんなもののために授業を犠牲にするなどとんでもないという気分だったのだ。一方僕が強調する集会破壊の方は「一部の政治好きの人たちの問題でしょ」ということだったに違いない。
こうしてクラス討論は泡となって消えてしまった。一人だけクラスから浮き上がった気分だった。屈辱的な敗北感を噛みしめながら、僕は教室の椅子に座り、福与教授が何事もなかったかのように英語の授業をつづけるのを呆然と見つめていた。授業のあと、僕はその足で法経自治会室に行き、部屋の壁に次のように大書した。
「大衆は絶対信じない!」
10・21の後遺症はこれだけではすまなかった。大勝利に勢いを得た秩序派により、以後立て看が破壊される事態が頻発したのである。それも深夜秘かに破壊するという姑息なやり方だった。そこで反帝学評はブントの連中もかり集め、ある夜徹夜で張り番の態勢をつくった。全員を五~六人編成の班に分け、一時間交代くらいでキャンパスをくまなく巡回して歩くのである。むろんへルメットをかぶり角材を手にして、怪しい人物がいれば絶対に捕まえてやるという意気ごみだった。破壊の手口からして、犯人はキャンパスの北にある体育会の部室からやってくるものと思われたので、そっちの方まで足をのばした。しかし成蹊の秩序派は正面から攻撃してくるほどの道義性も確信もないとみえて、結局見張りは空振りに終った。何度目かの巡回の時、僕はふっと暗がりの方に踏み入ってみた。何を思いついたのか知らないが、まあそんな気になったわけだ。とたんに足元に何もなくなった。ズボッ!見事に野壺にはまってしまったのだ。幸い小さな野壺で、人っていたのは雨水だけだったため、被害はズボンの片足が裂けただけですんだが、これがこの夜の唯一の事件だった。翌朝、僕はズボンが破れて脛がむき出しになった情ない姿のまま、パスに乗って家に帰った。
こうしてせつかくの徹夜態勢は成果もなく終ってしまったが、別の夜、ついに犯人を捕まえることに成功した。七時か八時だったろうか、まだサークル活動などで学生が残っているような時刻、僕たちも何かの用事で法経自治会室に集っていた。そこに突然自治会の会計をやっていたHがかけこんできた。
「誰かが立て看を運んで行ってるよ」
その言葉が終ってから一番敏捷なやつが立ち上がるまで、半秒もなかったのではなかろうか。僕たちは文宇通りおっとり刀でかけつけた。犯人の行方は体育会の部室の方に決まっている。案の定、立て看のあった場所からそっちの方角へ数十メートルほど行った暗がりの中で、立て看を運んで行く四~五名の男を捕まえた。男たちはこんなことをしでかしたにしては、いやにのほほんとしていた。僕たちは十名ほどもいたろうか。それだけの人数が足音も高くかけつけたというのに、立て看を捨てて逃げるでもなく、まさに立て看を盗んでいくそのかっこうのままで捕まったのである。自分がやっていることの重大さを認識していないのだ。同時に我々はその程度になめられてもいたわけである。
さっそく暗がりの中で一悶着始まった。しかしいきなり乱闘になったわけではなく、全体としては口論のレベルにとどまっていた。そのうち騒ぎに気づいた学生が集ってきた。それはたまたま帰宅途中の学生だったかもしれないし、ひょっとしたら仲間が捕まったのを知って、かといって犯人の一味と思われたらまずいので他人のような顔をしていた秩序派だったのかもしれない。あるいは両方の人間が入り乱れていたのかもしれない。その中に一人の薄気味悪い男がいた。男は立て看を取り巻いている僕たちの間を、ヘラへラ笑いながらウロついていた。そして口論とは無関係に、僕のような下っ端活動家の一人一人を捕まえては、ポケットから小さなナイフをちらつかせ、
「おい、今度はこれでやろうや」
というようなことを言っていた。男の口調はヘラへラ笑いと同様にまるで冗談を言っているかのようだったが、異常に冷血で無道徳なものを感じさせた。ほかの秩序派は秩序派なりの正義感―たとえそれが私益を守るための大義名分だとしてもーに基づいて行動しているように見えたが、この男にはそんなものはカケラもないように思われた。その時、機を見るに敏なやつが男を見つけて大声で叫んだ。
「おい、あいつナイフを持ってるぞ!」
さすがに秩序派はあわてたようだった。そしてヘラへラ男をどこかに隠してしまった。これで口論の大勢は決まったようなものだった。秩序派をやっつけたというには程遠いが、集まってきた学生の仲裁もあって、全体としては勝利のうちに立て看を取り戻した。
不思議なことに、このヘラへラ男は二度と姿を見せることはなかった。この時の雰囲気はそれほどさし迫ったものではなかったため、男がナイフをちらつかせても恐いという感じはしなかったが、それでも「あいつがまた出てきたら、いささか気味が悪いな」という気はした。思うにヘラへラ男はこのあとどこやらの部室でこっぴどく叱られ、逆に成蹊の秩序派の軟弱さに嫌気がさしたのではなかろうか。ヘラへラ男は明白なチンピラ右翼だったのだろうと思うが、成蹊の秩序派は自分たちを右翼だとは思っていなかった。それどころか、僕たちが「右翼」と呼ぶと、「俺たちは右翼じゃない」と憤慨したほどだ。たしかに成蹊の秩序派は右翼思想を持っていず、また日大の体育会系右翼のようにナタやチェーンで武装することもなかった。しかしやっていること、言っていることは本質的に日大の右翼と同じだった。上から与えられた秩序を無条件に守るのが正義だと思っていること、人学→ 進級 →就職という私益を「学園を守れ」という大義名分で表現していること、「学園」は自分たちのものだと確信していること、批判そのものを否定していること等々、日大の右翼と変わるところがない。にもかかわらず自分は右翼とは違うと思っている。要するに成蹊の秩序派は右翼にもなれない軟弱集団なのであり、そんなところにヘラへラ男は嫌気がさしてどこかに行ってしまったーというのが僕の推測なのだが ・・・。(ただし、たまたま成蹊にいた他大学の学生である可能性もある。)
翌日、僕たちがこの立て看持ち去り事件を大々的にアピールしたことは言うまでもない。そしてその際「ナイフちらつかせ」の件を最大限に利用したこともまた言うまでもなかろう。とにもかくにもこれで秩序派による計画的な犯行であることが明白になったわけで、立て看破壊は表現の封殺への第一歩だという認識が急速に広まった。そこで各学部自治会の共催で立て看破壊をめぐる討論集会を開くことになった(文化会も加わったかもしれない)。場所は大講堂だったが、けっこう人が集まった。これは立て看破壊に対する関心が、少数の左翼をはるかに越えて高まっていることを示していた。集った中には秩序派っぽいのもいたが、圧倒的多数は秩序派の行為を非難するものだった。むろん最も張り切って発言したのは反帝学評とそのまわりに結集するメンバーたちだった。この日僕はたまたま学生服を着ていた。この頃はまだ大学生が学生服を着ていてもそれほど奇異ではなかったのだ。高校時代まではむろんお仕着せの詰め襟服など好きではなかったが、大学生になって「お仕着せ」の要素がなくなると、学生服というのは意外と便利なのに気がついた。特にデモに行くのに便利だった。まず機動隊に少しくらい引っ張られても破けないほど丈夫である。第二にあの黒色は意外にも汚れが目立たない。転んでもほこりを払えばいい。第三に一般学生っぽく見えて、捕まる可能性が低いように思えなくもない ―そんなわけでこの日も学生服を着ていたのだが、どうやら隣に座った男は僕を秩序派と間違えたらしかった。
「ねえ、君、どうして近経の人間は発言しないのかね」
「え?」
「いやね、マル経の連中ばかりが発言しているじゃないか。近経の人間がいるといいんだけどなあ」
僕としては立て看破壊と経済学のセクトなど関係ないと思うのだが、こういう頓珍漢な人もいたのである。この直後、僕が秩序派の発言を野次りだすと、この人は黙ってしまった。
それはともかく、この討論集会は大成功だった。秩序派は左のみならす中間派からも非難されて、しまいには何も言えなくなり、大衆的に恥をかいたかっこうになった。たぶん彼らは成蹊には立て看は似合わないという論理が通用すると思っていたのだろうが、普通の人は言いたいことを目立つ形で発表するのは基本的な権利だと考えているということが確認されたわけである。おかげで以後、立て看破壊はやんだ。
成蹊ビラ2
(「中教審・大学紛争処理法を粉砕せよ!」成蹊大学全学共闘会議 1969.5.23)

一九六九年
 東大・日大闘争が一応の終息を見た一九六九年の四月三日、学生の各家庭(保証人)宛てに成蹊学園より一通の書簡が届いた。大学の経営が苦しく、「設備充実費」二万四〇〇〇円を払い込んでほしいという要請文だった。全国で学園闘争が沸き立とうとしているこんな時に何をバカなことを言っているんだと僕たちは驚いたが、これは実質的な学費値上げだとして急遽自治会運動に関心のある学生をかり集め、新学期開始の日に学園当局の本拠がある本館前で集会を組織した。そしてそのまま本館内に突入し、たまたま居合わせた丹羽総長代行を引っ張り出し、三〇人前後で取り囲み、吊し上げた。しかし当然ながらその場では設備充実費撤回とはいかず、我々は払い込み窓口の経理課に押し込み、占拠し、簡単なバリケードを築いて封鎖した。同時に全学共闘会議を結成した。
 この一連の集会・封鎖で驚いたことは、前年より少数のブントが登場したものの、ほぼ反帝学評の独り舞台と思われた成蹊大に、中核派とフロントがいたことだ。つまり彼らは以前からひっそりと陰で活動していたらしいのだ。
 この経理課封鎖の結果、学校側はあっさりと設備充実費の一時停止を決め、それを受けて封鎖も解除された。しかし全共闘と文学部代議員会(自治会)は単なる一時停止でなく、白紙撤回と学生会館建設・大衆団交開催などの四項目要求を掲げ、十二日には文学部が成蹊史上初めてのストライキに突入した。また六月二日には大衆団交(学校側によれば「説明会」)の決裂を受け、学長室及び付属する部屋を占拠・封鎖した。その結果六月十二日、学園理事会が既に徴収した設備充実費の返還を決定、全共闘は封鎖を自主解除した。
 この頃には東大・日大闘争の警察力による圧殺に反撥する学生により、全国の大学で大規模な学園闘争が拡大しつつあった。運動の高まりの中で六月二十四日、三多摩地区の全共闘を糾合し、成蹊で「三多摩学生総決起集会」を開催することを計画し、実行に移した。各大学の学生たちが次々に成蹊にやって来た。だが大学はこの集会を禁止し、正門を閉ざして学生の入構を防いだ。同時に秩序派を大動員し、構内から施錠された正門を開放しようと突撃する全共闘に襲いかかった。前年の10・21欅並木集会の再現である。大学と秩序派の精神構造は「成蹊を守れ」、つまり社会の荒波から成蹊学園だけは無関係でいたい、現状の中で自足していたいというせせこましい学園ナショナリズムである。全共闘側は数において五倍とも十倍とも見える秩序派の壁を突破できず、「総決起集会」は敗北に終った。またこの衝突の中で学外にいた東京女子大の学生が秩序派の投げた石にあたって負傷した(ちなみに彼女は今でも救援連絡センターで元気に活動している)。

三多摩集会1 (1)
(三多摩学生総決起集会)

三多摩集会3
(三多摩学生総決起集会)
 全国に拡大した学園闘争の嵐は最盛期で全大学の八割に当たる165校に及び、学生の怒りを理解しようともしない自民党政府は闘争つぶしと大学の管理強化を狙って大学立法(大学の運営に関する臨時措置法)の上程を決定、八月三日に参院で審議を省略したうえで強行採決した。これはまた七〇年安保闘争の帰趨を決する十一月の佐藤訪米阻止決戦に向け、大学の拠点化つぶしの治安立法でもあった。
 全国で巻き起った大学立法粉砕闘争は成蹊にも及んだ。
成蹊ビラ3
(「ストで起て!」文学部代議員会 1969.6.30)
 七月十一日ごろ、文学部は学生大会で大学立法粉砕の無期限ストライキを議決した。そして1号館を占拠し泊まりこんだが、季節は夏休み。ストライキは名目的なものと化し、当時のビラによれば「その内実は無人化したバリケード、クラス・ゼミの拡散、諸個人の分断であった。」そして夏休み明けの九月十日、文学部学生大会が開かれた。そこに全共闘が提起した問題に何の関心もない秩序派(形式上は大学生と言いながら、実体は知性の欠落した群衆)が集結、ストはあっさりと解除された。その夜、全共闘は全員で侃々諤々の会議を開くが、論議はああでもないこうでもないと行きづまった。煮詰まったような空気で沈黙が支配する中、リーダー格の学生が突如、「よし、やろう!」とひと吠え。煮詰まった空気は解放感へと一転、机を引き剥がし、長椅子と組み合わせ、今度は本格的なバリケード構築にとりかかった。安田講堂のバリケードづくりの経験が役に立った。このバリケードにはアメリカン・フットボール部がヘルメット姿で破壊せんとちょっかいを出したが、屋上からこぶし大の石を投げ落として撃退。しかし九月二十二日の夜、警察無線を盗聴していた国際基督教大の学生が自治会室を訪れ、翌朝、機動隊導入があることを教えてくれた。大きな大学と違って、「断固としてバリケードを死守」の声は一つもなく、全共闘は成蹊を退去、東大三鷹寮に亡命政権をつくった。(武蔵野美術大もちょっと前に亡命政権をつくっていた)
 以後、何度か正門前、井の頭公園、善福寺公園で抗議集会を開くも、間もなく全共闘は解体・分散状態になって行った。活動家集団はそれぞれの党派に分かれ、10~11月の佐藤訪米阻止闘争へとなだれ込んだ。

まとめ
結局、成蹊の運動の困難性はこの大学が歴史的に民主的基盤が薄く、時代と社会に敏感な学生がきわめて少ないところにある。民青すら育たないのだ。特に法学部・経済学部・工学部にその特徴が強い。この環境で育った一人に安倍晋三がいるのもむべなるかなである。安倍の知的貧困には成蹊の土壌が強く影響していると、私は確信する。
また全共闘運動全体を振り返ってみれば、要するに僕たちは自分たちを苦しめていた受験戦争の元凶である大学を破壊したかったのだとつくづく思う。授業料値上げとか学館の管理運営権などの目標は言ってみれば口実であり、本当は大学と教育を破壊したかったのだ。今にして思えばこれが本音であった。そしてだからこそ全共闘運動は革命的であったのだ、と自信をもって言おう。
だが全共闘が革命的だったのはここまでだった。70年になると活動家は激減。支持者の前でかっこ良くアジっていた者ほど引くのは早かった。71年の三里塚・沖縄闘争まで残ったのはほんの数人だった。その中の一人も73年に自殺した。
その後の展開は皆様ご存知のとおりである。結局新左翼を含む戦後革新派は、70年代以降に何も生み出すことができなかった。そして21世紀も五分の一を過ぎた現在、戦後民主主義と革新派は深刻な分解過程に直面している(と僕は見る)。ある者はウクライナ戦争について「ゼレンスキーは平和のために武器を置け」と言って実質的にプーチンの侵略を容認し、ある者は米国の覇権主義とプーチンの侵略を「どっちもどっち」と相対化し、ある者は「専守防衛は違憲ではない」と以前の自民党の地点まで後退している。立憲民主党の堕落は目をおおうばかりだ。
しかし目を世界に転じれば、全く異なった光景が見えてくる。いわゆる「新自由主義」とグローバル資本主義の矛盾は露わになり、資本主義の繁栄は飽和点に達している。22世紀には世界の人口が減少に向かう。世界GDPも減少に向かう。世界の若者はこれらの矛盾に果敢に抵抗している。日本だけが沈没に向かっている。
このような状況の中で、僕たちはいかに残り少ない人生を送るべきなのか。先日(2022年5月24日)の戦争法(安保法制)違憲国賠訴訟の東京高裁判決を前にして、60年安保世代とおぼしき女性が「無駄な死に方はしない。子供たちに無駄な死に方はさせない」と発言していた。自分のやるべきことを静かに行い、静かに去って行くだけなのだろう。
(終)

【6月4日の開催の「重信房子さん歓迎の宴」で販売された本の紹介】
IMG_7655-2

『戦士たちの記録 パレスチナに生きる』」(幻冬舎)重信房子 / 著 
(幻冬舎サイトより)
2022年5月28日、満期出所。リッダ闘争から50年、77歳になった革命家が、その人生を、出所を前に獄中で振り返る。父、母のこと、革命に目覚めた10代、中東での日々、仲間と語った世界革命の夢、そして、現在混乱下にある全世界に向けた、静かな叫び。
本書は、日本赤軍の最高幹部であった著者が、リッダ闘争50年目の今、"彼岸に在る戦士たち"への報告も兼ねて闘争の日々を振り返りまとめておこうと、獄中で綴った"革命への記録"であり、一人の女性として生きた"特異な人生の軌跡"でもある。
疾走したかつての日々へ思いを巡らすとともに、反省を重ね、病や老いとも向き合った、刑務所での22年。無垢な幼少期から闘争に全てを捧げた青春時代まで、変わらぬ情熱もあれば、変化していく思いもある。彼女の思考の軌跡が、赤裸々に書き下ろされている。
さらに、出所間近に起きたロシアのウクライナ侵略に対する思いも、「今回のウクライナの現実は、私が中東に在り、東欧の友人たちと語り合った時代を思い起こさせる。」と、緊急追記。元革命家の彼女に、今の世界はどう見えているのか。
定価 2,200円 

9784792795887

『重信房子がいた時代』(増補版)(世界書院)由井りょう子/ 著
(紹介)
2022年5月28日、日本赤軍の重信房子が20年の刑期を終えて出所した。
フツーの女子大生が革命家になるまでの足跡を、本人、家族、娘、同級生らの証言を丹念に聞き取ったノンフィクション。
重信房子を通して、あの時代の熱量を再現する。

目次
第一章 戦後民主主義の申し子
四〇年ぶりの再会
戦後民主主義に育つ
父とのささやかな遠出
理科と文学に親しむ
貧乏は恥ではない
デモも貧乏も嫌い
文豪に会いに行く
夢は先生になること

第二章 学生運動の季節
大学入学
スーツで座り込み
自治会活動
政治の季節
ブントの重信
救対の重信
一〇・八 
同人誌『一揆』
神田カルチェラタン
教師になりたい
大学祭

第三章 父と娘の革命
本気の革命
父は右翼
血盟団事件と父・末夫
全共闘運動
学生運動の変質
赤軍派でも救対
国際根拠地づくり

第四章 アラブに生きる
和服を着て大使館のパーティーに
山口淑子との出会い
父の毅然とした態度
父と娘
母・房子

第五章 娘に託した希望
アンジェラという名前で
メイ十六歳の誕生日
房子の逮捕
母の国、桜の国
日本、娘の日本

嘘  
 重信房子 
 高校三年生の時の小説

あとがき 
 もうひとつのあのころのこと
 重信房子 

(著者プロフィール)
由井りょう子  (ユイ リョウコ)  (著/文)
1947年12月、長野県生まれ。
大学在学中から雑誌記者の仕事を始め、主に女性誌で女優や作家のインタビューを手がける。
著書に作家・船山馨夫婦の評伝『黄色い――船山馨と妻・春子の生涯』(小学館)
共著に『戦火とドーナツの会い』(集英社)ほか、
編纂に『革命に生きる――数奇なる女性・水野津太――時代の証言』(五月書房)
がある。

定価1,800円+税

9784755403194_1_2

『私だったかもしれない ーある赤軍派女性兵士の25年』(インパクト出版)江刺昭子/ 著
(紹介)
1972年1月、極寒の山岳ベースで総括死させられた遠山美枝子。
関係資料と周辺の人びとの語りで、複雑な新左翼学生運動の構図、彼女が学んだ明治大学の学生運動と赤軍派の迷走を描く。

目次
第一章 2018年3月13日横浜相沢墓地
第二章 重信房子からの手紙
第三章 ハマッ子、キリンビール、明大二部
第四章 バリケードの中の出会い
第五章 「きにが死んだあとで」
第六章 赤軍派に加盟
第七章 遠山美枝子の手紙
第八章 新しい世の中を作るから
補 章 伝説の革命家 佐野茂樹

(著者プロフィール)
江刺昭子(エサシアキコ)
1942年岡山県生まれ
広島で育つ。女性史研究。
著書に『樺美智子 聖少女伝説』などがある。

定価2,000円+税

d9e4c43ddbf21a239d98c1b959ea2d30

『歌集 暁の星』(皓星社)
連帯の火矢! 重信房子第二歌集
(皓星社サイトより)
テロリストと呼ばれしわれは秋ならば桔梗コスモス吾亦紅が好き
 
元日本赤軍リーダー・重信房子が21年に及ぶ刑期を終え、この5月に出獄する。
本書は獄中で書き溜めてきた短歌をまとめた第二歌集。著者は革命の日々を、連合赤軍事件で粛清された友・遠山美枝子を、現在の世界の悲惨を、二十数年にわたり詠み続けて来た。
本書の歌は、著者のもがきと葛藤の発露であると同時に、歴史の証言でもある。

海外で暗躍すること四半世紀を超え、国内での潜伏と獄中の日々、重信は一体、この斬新で清潔な文体をどこで獲得してきたのだ。
……戦い死んでいった同志への哀悼に、柔らかな心の襞を涙で濡らし続けてきたのだろう。(福島泰樹「跋」より)

アネモネの真紅に染まる草原に笑い声高く五月の戦士ら
空港を降り立ち夜空見上げればオリオン星座激しく瞬く
雪中に倒れし友の命日に静かに小さな白き鶴折る
津波燃え人家逆巻き雪しきり煉獄の闇 生き延びし朝
パレスチナの民と重なるウクライナの母と子供の哀しい眼に遭う

定価2,000+税

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在12校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ  その2】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は8月12(金)に更新予定です。