2022年10月8日は、1967年の10・8羽田闘争から55年目となる。この日は羽田・弁天橋での黙祷、萩中公園近くのお寺での法要、そして蒲田で記念集会があった。
前回のブログでその参加報告を掲載したが、今回は、前回省略した記念集会の詳細を掲載する。

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記念集会は以下の内容であった。
1.主催者挨拶                        
2. ドキュメント『プロジェクトの歩み』上映        
3.発起人紹介と挨拶 「プロジェクトの8年間を振り返って」 
(休憩)
4.若い世代からの発言                       
5.プロジェクトの会計報告と今後の活動について 

記念集会は休憩を挟んで前半と後半に分かれるが、今回は前半部分を掲載する。

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【10・8羽田闘争55周年記念集会】
大田区消費者生活センター2階 大会議室
2022年10月8日(土) 午後6時~午後8時30分
「10・8羽田闘争55周年―山﨑博昭プロジェクトがめざしたもの」
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司会:佐々木幹郎(詩人、大手前高校同期生)
10・8羽田闘争55周年「山﨑博昭プロジェクトがめざしたもの」を開催します。
今日11時半に、たくさんの方が集まっていただいて、弁天橋で黙祷し、そして橋の近くにある、私たちが「山﨑地蔵」と呼んでいる小さなお地蔵様、これは発起人一同がお金を集めて建立したものですけれども、そのお地蔵さまにお参りをし、そして14時から福泉寺で55回忌の法要を済ませました。そしてまた、福泉寺の境内にある墓碑に向かって全員がお祈りをするということを済ませ、そののち、今日のこの集会に至ったわけです。
朝から参加しておられる方は、かなり疲れておられるだろうと思いますけれども、1日に55年目の山﨑博昭を思い出す、そして10・8羽田をもう一度蘇らせるという、この会の願いはたった一つ、「戦争に反対する」という単純な一つの叫びを実現するためには、山﨑博昭の生と死が示したように命がけであるということ、そして今現在ウクライナも含めて起こっている、そしてこれから起こるであろう戦争に対しても、私たちは一人ひとり、その心構えを持つということを、もう一度このプロジェクトを通して皆さんで確認したい、そのことが今日の大きな目的であります。
今日の集会ではいくつもイベントを抱えていますが、代島監督がこれまでの山﨑プロジェクトの8年間の歩みを、20分近くの映画『プロジェクトの歩み』にまとめてくださいました。それを上映させていただいた後、今日参加されている発起人に壇上に上がっていただいて、さまざまな8年間の思いを語っていただき、その後、若い人との討論ということで進めていきたいと思います。
最初に山﨑建夫さんから挨拶をお願いします。

【主催者挨拶】
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山﨑建夫(山﨑博昭兄)
本当に朝から皆さんお疲れ様です、ご苦労様です。
今日の夕刊に載っていましたが、岡山の陸上自衛隊「日本原演習場」の中で牛を飼っている内藤秀之さんの映画(『日本原 牛と人の大地』黒部俊介監督)ができたんです。
監督は初めての作品という若い青年ですが、その方たちと僕たちは出会ったことがあるんです。粕谷プロジェクトというのが出来る時に相談を受けて、糟谷孝幸、69年の11月に大阪の扇町公園で殺された、その糟谷君の知り合いであった内藤さんがその事をきっかけに、50周年になるので、山﨑プロジェクトがやっているように糟谷君を何とか追悼し伝えたいということで、「一緒にやらないか」ということで、僕らがやってきたことを全部お話しました。
それで立派な本(『語り継ぐ1969 糟谷孝幸追悼50年ーその生と死』社会討論社)もできたし、彼らなりの50周年が終わって解散したんですけれども、このプロジェクトをやってきて、そういう風に糟谷君の事にも役に立ったということはすごく嬉しかったです。よかったなと思います。

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(『日本原 牛と人の大地』チラシ)
映画は見に行くつもりだったんですが、「山崎さん、あんたも出ている」と言われて映画を観に行きました。粕谷プロジェクトの立ち上げの時の場面で、チラッと映っていました。
この『プロジェクトの歩み』を観ていて、こつこつやってきたけれども、すごいことをやってきたんやなと思ってびっくりしています。中でもベトナムに行けたことが大きいし、今度も糟谷プロジェクトと繋がることができたし、外につながっていったことがすごく嬉しいです。
今後とも頑張って行きたいと思いますので、よろしくお願いします。

【ドキュメント『プロジェクトの歩み』上映】
司会:佐々木幹郎
次は代島監督による『プロジェクトの歩み』の上映です。

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代島治彦
代島です。『プロジェクトの歩み』をまとめたんですけれども、僕が正式に映像を撮り始めたのが2017年の(50周年の)建碑式からで、その前は撮っていないんですね。ですから、その前の映像はないんです。2014年の7月から始まって、その後、いろんな方が講演したところは映像では抜けております。
映画にはなっていません。映像の記録です。よろしくお願いします。
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【発起人からの挨拶と発言―プロジェクトの8年間を振り返って】
司会:佐々木幹郎
今日来ている発起人の方、壇上に上がってください。
この8年間、このプロジェクトを続けて、そして自分自身がどういうような思いを持ったのか、短い形でそれぞれ喋っていただければと思います。
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(写真:左から山本義隆、水戸喜世子、北本修二、新田克己、福井紳一、代島治彦、三橋俊明、辻恵、小林哲夫の各氏)

山本義隆(科学史家、元東大全共闘代表、大手前高校同窓生)
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山本です。この8年間を振り返って、めざしたものがあって、さっき佐々木君がプロジェクトは3つの目的をめざしたと言って、3つというのは何かと言うと、たぶん記念碑を作る、記念誌を作る、それからベトナムの展示会をやるということになっていたと思うんやけどね、僕が入った時は違ったですよ。
僕が最初に誘われて入った時は、3つの目的というのは記念碑を作る、記念誌を作る、もう一つは10・8の真相究明だと、そう言われたんです。その真相究明と記念誌を作るのが一緒になったと思うんです。それで3つ目のベトナムでの展示会というのは、これは事実を言いますと、佐々木君と辻君が(ベトナムの)戦争証跡博物館に行って、せめて山﨑君の遺影を展示してもらいたいという話をした時に、館長さんから「日本でそんな運動があったのは知らなかった。いっそのことここで展示会をしなさい」と言われて帰って来たのが始まりなんですよ、本当の事を言うと。
それでその話を聴いて、これは本気出してやらないとできないなと思いました。それで僕は駿台(予備学校)に勤めているんですが、駿台の若い日本史科の先生と話し合って、まず資料集めから始めました。それで実際に立川、相模原、大泉等の闘争をやった人に会いに行って、話を聴いて、資料をもらってきて、そこから始めたんです。
それで僕は出来っこないと思いながら、日本で展示会をやれないかと言い出したんですよ。出来っこないというのは、画廊を借りるのが大変で、画廊を1日借りたらだいたい10万円、1週間借りたら7~80万円かかります。それでとても出来ないけれど、出来たらいいなという感じで言ったら、救援連絡センターの山中幸男さんが「画廊はあるよ」と言って、救援連絡センターの関係で彼がその画廊を使っていたことがあって、(台東区)谷中の画廊をオーナーさんの好意でタダで使わせてもらいました。

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(谷中での「ベトナム反戦闘争とその時代」展)

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(展示された資料の一部)
それで1週間やって、僕は毎日行って、正直言って楽しかったです。毎日朝から行って、みんなで集まってワアワアガヤガヤして、いろんな思いがけない人が訪ねてきて、その感じが昔バリケードの中で生活したその感じそっくりだったんです。それを何十年ぶりかで思い出して、闘争というのはこういうことなんだと。皆で寄ってたかって力を合わせていろんな作業をやって、そんなに難しい入口なんかないですよ。久しぶりにその思いがしたんですよね。実際にいろんな方が訪ねて来られて、いろんな人に会うことが出来ました。
更にそれが京都精華大で拡大して出来たんですよね。京都精華大の時はすごかったですよ。だいたいこの広さ、これよりまだ広かったかもしれんくらいの画廊を全部使ってやれました。それで、その事でベトナムでやれるという感じを持ちました。

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(京都精華大学での展示)

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(京都精華大学での展示)
それでベトナムの事についてもうちょっと言っておきますと、それから300点近く資料を集めて、それをベトナムに送るために全部英文で説明文を書いて送ったんです。実際にベトナムでは70点くらいしか展示できませんでした。何でかと言うと、これは誤解されている面もあるんですけれども、実力闘争の部分を撥ねられたとか。そうじゃなくて、早い段階で目録を送れと言われて、その時に出来ている70数点の目録を送ったんですよ。後から増やせばいいと思っとったんですよ。そしたら向こうでは「その目録を基にしてホーチミン市の人民委員会がOKを出した。だからその目録に書いているものしか展示出来ない」と言われて、えらいこっちゃなと思ったんですけど、結局300点全部は展示できなくて70数点しか展示できなかったんですけれども、そういう点では官僚国家なんだな。ただ館長さんがおられたらもっと別の判断をされたと思います。たまたまその時館長さんがおられなかったんですよ、だから杓子定規になった。ただ、山﨑君の遺影だけは目録に入っていなかったんだけれど、さすがにそれは置いてくれました。

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(ベトナム戦争証跡博物館)

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(博物館での展示の様子:関西運営委員会FBより転載)
それでさっきの映像でベトナムのアオザイを着た若い女性が山﨑君の写真を指してベトナム語で説明していたでしょ。あれは何かと言うと、ベトナムでの展示会のオープニングの集会の後だったと思うんですけれども、オープニングに来ていた日本領事館の領事とか、ホーチミン市の人民委員会のお偉いさんもいたんだと思うんです。それから越日友好協会の会長さんとか、そういう10人くらいを引き連れて「今から説明しますから」と言って、博物館の職員が言った内容は、おそらく「日本の青年山﨑が、アメリカのベトナム侵略と、それから日本政府のベトナム訪問に抗議して殺された」という説明をしたと思うんです。その時、僕は「ああやってよかった」とつくづく思いました。
だから僕はずっと展示会をやって、展示会をやった時の気分が、何て言うですかね、バリケードの中の生活を思い出して、東京と京都でやって、いろんな新しい人、知らなかった人に会えて話が出来て、それでベトナムまで行ってベトナムであれをやり切ったというのは、率直に言って僕は自分でもよくやったと思います。(拍手)最後のベトナムの展示会でベトナムの女性があれをベトナムの偉いさんに説明した時に、「ああやってよかった」とつくづく思いました。だから8年間を振り返って一番印象に残っているのはそれです。何か自分勝手なことばかり言いましたけれど、まあそんなんで。(拍手)

水戸喜世子(十・八羽田救援会)
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今の続きで言いますと、私は精華(京都精華大学)の展示会に行ったんですね。そうすると本当に来る人が、50年間言いたいことをずっと胸の中にしまっていたということを吐き出すように喋ってくれるんですね。本当に私も場の雰囲気というか、みんな10・8以来こういう場がなかったがために、みんな一人ひとり胸の中にしまい込んでいたんだなって、あれは本当に私も感動して、あの展示会をやってよかったんだなという思いを強く持ちました。
あの展示会は山本さんがいなかったら絶対に出来なかったことで、山本さんというのは、自分の身体で枠を作って注文するところから全部なさるんですね。足りなければ人の手をお借りになるんでしょうけれど、本当にあれは山本さんの作品だなという思いを強くしました。
私はと言えば、2014年にこのプロジェクトが始まったんですよね。2014年に実は私は福島の「子ども脱被ばく裁判」に関わっていまして、それが2014年、ちょうど同じ年なんですね。私は山本さんに手紙を書いて口説いて、(プロジェクトに)入ってくださいとお願いして、山本さんが入っていただいて、そして私の念願だったお墓(墓碑と記念碑)も出来て、私はもう役割は終わったと思いまして、私は専ら原発にその後突っ込んでしまって、裁判は今年8年目を迎えているので、今高裁段階ですけれども、子どもをとにかく被ばくさせるなというで始まった裁判なんですけれども、その裁判が来年の3月に原告がいなくなっちゃう。ということは、義務教育を受けている子どもを原告にしたものですから、8年の間にみんな小学校、中学校を卒業しちゃって原告がいなくなっちゃうから、訴えられていた行政、郡山市とか福島市とか、訴えられた人たちはもう弁解する必要が無くなる、罪を背負う必要が無くなってしまう。ということで、もう大変な事態、8年間何であったのか、そういう事態を迎えて、実は「子ども人権裁判(行政訴訟)」という義務教育の子どもが原告になっている裁判と、もう一つは国家に無用の被ばくをさせられたことに対して損害賠償しろという国家賠償訴訟(「親子裁判」)との抱き合わせの裁判だったんですね。それを分離させろという闘いを始めました。その時、弁護団は全部諦めていたんですね。打つべき手を全部打ったけれども、その裁判長(仙台高裁)は受け入れなかったんです。だから弁護団は全員が悲観的であきらめていた。私はそこで諦めなかった。とにかくここで諦めたら元も子もないじゃないか。

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(「子ども脱被ばく裁判」支援チラシ)
私はやっぱりその時、山﨑君の絶対にこの橋を渡らせてはいけない、ここで守るんだ、命を懸けても守るんだというその思い、やっぱり10・8精神みたいなもの、私は絶対にこの裁判は最後まで継続させるという思いを強くしたんですね。それで皆さんからいろんな知恵を借りて、いわゆる普通のお手紙ではなくて、一人ひとり住民の思いを4,500枚、その訴えを出して、それで私たちの要求が全面的に認められて(裁判の)分離が行われて、来年には(「子ども人権裁判」の)安全なところで義務教育を行わなくてはいけないということに対する判決が出る。それから11月14日には「親子裁判」、福島県知事とか教育委員会だとか、子どもを無用に被ばくさせた直接の責任者を法廷に引っ張り出して尋問をするということを来月やるんです。ですから皆が本気になれば市民の力で変えられるんだということを体験しました。
やっぱり山﨑君の思いというのは私の中で生きているし、そういう闘いをこれからもしていかなくてはいけないと思っています。(拍手)

北本修二(弁護士、大手前高校・京都大学同期生)
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北本と申します。55年前の10月8日ですけれども、山﨑君と一緒に弁天橋の橋の上で戦っていました。60年代というのは今振り返ってみると、壮大な時代だったと思うんです。日本でも山﨑君の死と戦い、10・8闘争がきっかけになりまして、東大、日大を始め全国で学生たちの動き、反戦と世の中の改革をしようという動きがありました。でも、これは日本だけではなかったんです。この山﨑プロジェクトでもアメリカからマーク・ラッドさん(元米学生運動リーダー)に来ていただきましたけれども、世界中で同じような若者の叛乱が起きました。フランスでも5月革命、アメリカでも大学占拠闘争がありましたし、ドイツでも起きているんですね。60年代の社会運動というのは、その後、70年代に収束していったと一般的には言われるんですけれども、しかし歴史を考える時には、非常に重大なものとして残していく、あるいはこれから残らなければいけないと思っています。

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(来日したマーク・ラッド氏)
ところが2014年、このプロジェクトを始めた頃、日本の現代史の中で60年代の社会運動というのはあまり触れられていなかったんですね。発起人になっていただいた福井さんが日本史の専門家ですので、日本史の本の中で60年代闘争の事を触れていただいていますが、ほとんど消し去られていたというところがありました。
しかし、この山﨑プロジェクトの動きをきっかけにしまして、改めて60年代に日本社会であるいは世界で起きたことについて振り返ってくる、改めて歴史の中に刻み込むというようなことが(出て来たのは)、私たちの運動が関わった一つの成果なんだろうと思っております。
個人的に言いますと、山﨑君が亡くなったのは18歳、私も18歳でありまして、その後55年間何をして生きてきたんだと言われますと、恥じ入るばかりでしかないんですけれども、自分の能力とか気力とか出来る事は本当に限られて恥じ入るばかりなんだけれども、それでも今の時代、再び反戦平和という問題が本当に現実の問題になってきて、ひょっとしたら世界が滅びるかもしれないという時代が、今目の前に来ているわけです。
改めてこの10・8闘争の意義をもう1回刻み込み、私たちの個人的な追憶だけではなくて、社会の記憶として残していくということについては、大変意義がある運動ではないかと思っています。そのために、古い仲間たちとか、多くの先輩たち、若い人たちが集まってくれて、こうやって集まる場が出来た、そういう中で、山本さん、水戸さん、私たちの先輩が先頭になって動いていただいていることについて、大変感謝しております。
55年目になりますが、山﨑君の闘いは歴史の記録に残していきたいということで、何らかの事は続けていきたいと思っております。ありがとうございました。(拍手)

新田克己(予備校講師)
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新田です。山﨑博昭君が羽田で殺された時、僕は同じ京大の2回生でした。京都では2年生と言わずに2回生と言いますが、1年先輩にあたります。僕は意識の低いノンポリの学生だったんですけれども、山﨑博昭君が殺されたというのが非常にショックな出来事でした。
55年前の10月8日、確かその5日後だったと思うんですけど、京大の時計台の下にあります大教室で山﨑博昭君追悼の全京大学生葬というのが行われて出席しました。非常にたくさんの人が集まって山﨑君を追悼した、そのまま初めて街にデモに出た、そんな経験がありました。
それからほぼ半世紀経って、この10・8山﨑博昭プロジェクトに出会いました。何か運命的なものを感じて、ご一緒に活動させていただくことになって、今関西のプロジェクトの事務局長という役をさせていただいているんですけれども、晩年になってから有意義なことが出来ているなという意識で、非常にありがたく感じています。戦争を無くすために命を懸けた山﨑博昭の志を後世に伝えていく、引き継いでいくということが我々の役割だろうと思って活動をしております。
少し関西の話をさせていただきたんですけれども、さきほどから京都精華大学の展示会が話題になっていました。非常に広いギャラリーをお借りして、実はそれも無料でお借りしました。ただ、その無料には条件が付いていまして、山本先生、僕は駿台(予備学校)の後輩にあたるので、山本先生と言う方がしっくりくるので山本先生と言っちゃいますけれども、その山本先生の講演を大学主催でやらせていただきたい、それを条件にしてギャラリーは自由に使ってください、という申し出がありまして、山本先生にお願いしたら喜んで引き受けていただいて、展示会の最中に1日取っていただいて、一番広い部屋でしたね、そこで山本先生の講演、500人超えていましたね。ちょっとした事件という雰囲気だったです。
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(山本義隆氏の講演告知看板)

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(山本義隆氏の講演会)
さきほどおっしゃったように、展示会も毎日出て行って、いろんな方のお話を聴いたり、展示物を直したりというのがとても楽しかった。学校で学園祭でいろんなことを楽しむような気持もあって、その後なんですが、京都大学の11月祭にプロジェクトとして参加させてもらおう、それを手伝てくれる京大の方もおられたので、3年前の京大の11月祭で部屋を借りて、「ベトナム反戦闘争とその時代」の展示会をやりました。
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(京大での展示会:関西運営委員会FBより転載)
その時、とても楽しい思いをして、是非これは続けたいと思っていたら、次の年からコロナでできなくなってしまったんですけれども、そんなことで関西は関西独自の活動を続けて、関西は関西、東京は東京じゃなくて、一つのプロジェクトとして一緒にこれからも頑張っていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。(拍手)

福井紳一(予備校講師)
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福井と申します。ベトナム戦争は僕にとって小学校から大学まではずっとベトナム戦争でした。そして60年代、70年代のあの時代の、ある意味で激動なのか、あるいは既成の価値観が崩れていくのか、新しいものが出てるか、そういったものは結局そういう空気というものが、結局この歳まで一生自分を捉えていて、そして今に至っているという感じがします。
樺美智子さんのお父さんが祖父の友人だったので、あの樺さんが殺された時の家の空気というのは子どもの時から非常に大きな印象としてありました。そしてまた、歳の近い叔父が京大全共闘だったので、夏休みに遊びに来る度に非常に楽しい話をいっぱい持ってきてくれまして、早くそういうところに行くんだ、早くヘルメットを被って街頭に出たいということだけを考えていましたけれども、そういう中で1970年に、1年上の先輩たちが全国の戦う中学生の共闘会議、全中共闘を作って、それで翌年から合流していくという形で現在に至るという形になってしまいます。
日本の近現代の思想史を研究しているんですけれども、そんな中で自分の生きた時代というものを、もう一度この山﨑博昭プロジェクト、そして山﨑さんの死の衝撃というものを、僕は自分の人生の中で一つのきっかけだという形でも感じられていました。それで作業が出来てよかったと思います。
さっき山本先生がおっしゃっていたんですが、佐々木さんと辻さんがベトナムに行って、山﨑さんの遺影だけじゃなくて展示会までやれるかもしれないという話を持ってきたというので、それで山本先生が来て「これ大変なことになった。本当にやるなら腹をくくってやらなければ。俺は腹をくくった」という話をして、僕も駿台(予備学校)で日本史を教えていますけれども、日本史の若手の人たちを動員して協力してもらって、山本先生と一緒に「60年代研究会」というのを作って、様々な諸闘争、相模原とか立川とかベ平連の活動とか、直接話を聴いて、新たな認識と経験をさせていただきました。

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(「60年代研究会」の皆さん:谷中での展示会場前にて)
山本先生なんですけれども、実は非常に器用な方で、展示会のパネルとかほとんど山本先生一人で作ってらっしゃる。気が付かないうちにいつの間にかパネルとか作ってらっしゃる。それの少しでもお手伝い出来たと思っています。
それで『日本原 牛と人の大地』の映画なんですけれども、黒部夫妻、旦那さんが監督、奥さんが製作をやっていますけれども、奥さんは教え子なんですね。映画を観ましたけれど、とてもいい映画で、牛との生活の中で学生時代の友人の死と自衛隊問題に向き合った、それを淡々と、そして温かい目で撮っている映画なので、是非観ていただければと思います。(拍手)

代島治彦(映画監督)
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代島治彦です。僕は第2ステージから発起人に加えていただき、そのお陰で『きみが死んだあとで』という映画を2019年に撮影して2021年に公開することが出来ました。僕自身は福井さんとあまり年齢が変わらないんですが、あの時代の空気を吸って中学校、高校と育っていったんですけれども、福井さんとは違って何もせず、闘争もせず、大学に入った時は、ちゃんとシラケて生きてきました。

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でもずっと引っかかっていたのは、何で自分が就職した会社を辞めて、ルンペンというかフーテンみたいな生活を60過ぎるまでしてきたのかなと思うと、やっぱりあの時代の空気を吸っていたからで、そういう風に自由に生きたいと思ったことを貫いてしまったんだなと、組織には絶対に属したくないと思って生きて来た、その原因を突き止めるためにというか、お兄さんやお姉さんにこのプロジェクトで出会ったから映画を作ったというところがあります。
やっぱり山﨑博昭さんが、当時高校を卒業して京大に入って弁天橋に向かう時に握っていたバトンというのは輝いていたと思いますね、時代のバトンが。それが70年代に入って何で血に染まってしまったのか。僕ら遅れてきた世代は、その血に染まった汚されたようなバトンは拾わなかったんですね。そのバトンが次の世代に手渡せなかったことによって、山﨑さんが切り開こうとした60年代の運動の地平、そういうものまで見えなくなってしまっている。『きみが死んだあとで』という映画を作りながらずっとそのことを考えていましたし、このプロジェクトで第2ステージ何ができるだろうと考える時も、いつもそんなことを考えてやってきました。
実は今、次の映画を作っておりまして、その映画は内ゲバをテーマにした映画なんですけれども、それもやっぱりこのプロジェクトに参加し、山﨑博昭さんの死とちゃんと向き合った結果、そこに向かって行っているんだなと、何故山﨑博昭さんが握っていたバトンが血で汚されてしまったのか、そのことをちゃんと、当時の言葉で言うと総括と言いますか、説明が出来ないと、山﨑博昭さんが握っていたバトンを今の若者たちに手渡すことはできないんじゃないか、そんなことを考えています。それで今映画を作り始めて、来年公開するつもりで、今編集に取り掛かっているところです。
(この映画は)樋田毅さんが書いた『彼は早稲田で死んだ』という本を入り口にして作っているんですけれども、その本のタイトルのままになるか、まだ分かりません。プロジェクトの皆さんや山本さんやいろんな人と出会いながら『きみが死んだあとで』という映画を作りましたけれども、何かやっぱりやりながら、皆さんは社会の悪い夢を食ってくれる獏(バク)のように見えたんですね。だから獏というのが付くタイトルにしようかなとも思っていまして、社会の悪い夢を食い過ぎて腹を壊してああいう事態になってしまったのかなとか、いろんなことを考えながら作っています。(拍手)

三橋俊明(文筆家)
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日大全共闘の三橋と申します。第2ステージは、隣にいます代島監督の『きみが死んだあとで』という映画に取り組んだわけですけれども、『きみが死んだあとで』の「きみ」が山﨑博昭さんのことであることは皆さん同じように思いを一つにしていただけると思うんですが、日大全共闘にとっては、この「きみ」は山﨑博昭さんであると同時に中村克己のことでもあるんですね。
少し中村克己の話をさせていただくと、中村克己は日大の商学部の学生で、日大全共闘として日大闘争を戦いました。68年に始まった闘争が70年になった時、70年の2月25日ですけれども、京王線の「武蔵野台」という駅で全共闘のビラを配布している時に、右翼から襲撃を受けて重症を負います。そして3月2日に亡くなりました。22歳でした。
私はこの25日の襲撃で中村克己が重症を負ったこと、そして3月2日に亡くなったことを、府中刑務所の独房の中で、日大全共闘の救対が私に打ってくれた電報で知ることになります。僕は中村克己の友人でもあったので、その後はとても辛い日々でした。今でも独房の中で中村克己が死んだという電報を受け取った時の光景というのは忘れられません。

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(中村君虐殺弾劾日大全共闘葬)
中村克己のことは、その後、3月11日に日比谷公会堂で日大全共闘葬を行い、次の年に八千代台に墓碑を建立いたしました。その墓碑の前で集まりを持って以降50年間、50回墓参を続けてまいりました。その墓参を50回で終えて、今は有志の墓参として続けているんですけれども、昨年の山﨑プロジェクトの秋の集会で、中村克己君墓碑委員会の方から、今お話ししたようなことを含めた報告をさせていただきました。大変ありがたいことだったと思っています。
これからも、山﨑博昭さんの反戦への思い、また中村克己の日大闘争勝利への思いを一人でも多くの方に伝えていきたいと思っております。(拍手)

辻 恵(弁護士・大手前高校同期生)
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大手前高校で山﨑博昭君と同期だった辻恵です。私は中学時代は皇国主義者みたいな、たいした思想的な深みがあるわけではないんですが、神戸の湊川神社に毎年正月にお参りに行くとか、「楠木正成頑張れ」みたいな感じでやっていたんですけれども、大手前高校に入って、周りからいろいろ刺激を受け、高校2年くらいの頃からいろいろ考え始めていたというところだったんですけれども、当時は自分は勉強を本分にすべきだみたいに思っていたので、自分としては競争相手として山﨑博昭を意識していた、というようなとろこがありました。
高校3年で社研の動きとかいろいろ耳にして、山﨑も参加しているらしいということで、僕はその時「大学に入ったら学生運動に突っ込むんだろうな」とかなり傾いていたんですけれども、参加はしなくて、横で佐々木なんかを見ている、お互い口も利かないでガンを付け合うというような、そんな高校時代でした。
大学に入って、三派全学連で砂川からずっとデモとか行っていて、10・8は僕は行けなかったと言うか、このまま行くと深みにはまるんじゃないかと思って、ちょっと一呼吸置こうということで旅に出て、仙台の駅前で朝、朝刊を見たら山﨑が死んでいるということがあって、僕は大衝撃で一生忘れられない、ここを外れて自分は生きていけないなと思ったのがあります。
2014年の3月8日に、初めてこの山﨑博昭プロジェクトを作ろうという動きの集まりがあって、弁天橋に行ったりしたんですけれども、その時僕が思ったのは、やっぱり10・8とは何なのかということを、もう1回自分なりに振り返りたいし、日本の中で、歴史の中でもっともっと知ってもらいたいというか、残したいというか、何だったのかというのを、もっと自分で突き詰めて、しかもそれを残していきたいという思いがありました。
だから積極的に関わろうと思って、私の法律事務所を連絡先にして、プロジェクトの預金口座を作ったり、いろいろなことを僕はやっていたんですけれども、その時に思ったのは、一つには「轢殺だ」みたいなことに社会的にはされてしまった真相について、はっきりさせたいと。これはその後の闘いもそうだし、60年安保の樺さんも殺されたに間違いないわけだから、そういうような真相究明をちゃんとやるということ、このプロジェクトの活動の中で出来る範囲のことをやっていきたいと。それで事務局の方が中心となって、僕もそれに少し関わらせていただいて、真相究明をある程度進めることが出来たのが、一つの成果だったと思っています。

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あと、僕は山﨑プロジェクトに関わろうと思った時に感じていたことは、10・8羽田の闘いが我々の世代にとっては記憶というか、ショックの現象だったということになっているんですけれども、それはそれ以降の72年の連合赤軍事件とかの中でグチャグチャにされて、もう終わったものだという風にされていることについて、やはり復権したい。実力的に戦おう、実力闘争で戦おうというのが10・8羽田だったと僕は思うんですね。単に賛成とか反対ということで留まるのではなくて、やはり押し留めることのできない怒りというか、それが歴史を動かすんだという、そういう実力闘争のあり方を、さまざまなその後の、僕は間違いとかいろいろあったと思うから、それを教訓化しながら、その中に最初の萌芽が10・8の闘いの中にあったんだということを、もっともっと解明していきたいし、そこを感じておられる様々な人との繋がりを是非創り出していきたい。それを後世の世代に残していきたいと思ったというのがあります。
第2ステージは、10・8羽田闘争50周年の記念誌を作り上げたから3つの課題を成し遂げたということがあったんですけれども、やっぱり当時の闘いは72年の沖縄闘争までが一つの区切りだったということがあるから、記念誌を作って終りにするのではなくて、72年(の50周年)まで第2ステージとして山﨑プロジェクトを活動しようという話が事務局の中であったし、皆の確認になっていた。
日本の当時の学生運動に留まらない、実力闘争が持っていた普遍性というか、そういうものが伝わっていくような闘いがその後広がっていった、その前からもあったと思いますけれど、そういう人たちとの関係を山﨑プロジェクトとしては意識的に広げていきたいと思っていて、マーク・ラッドさん(元米学生運動リーダー)に来てもらったのも、その一環だと僕は思っているし、在日の人たちや沖縄の問題について、もっと正面から関わらなければいけない。これはまだ緒に就いたばかりなんですよね。やっぱりそれを、私としては山﨑プロジェクトのチームのみんなの中で取り組んでいきたいと思っています。
そしてもう一つは、若い世代に継承していきたいということで、一番最初の取っ掛かりは、若い世代とうか下の世代の研究者の人たちとシンポジウムで関係を持って行ったということがあって、そこから学生の皆さんとの繋がりも出来つつある、というようなことがありますので、ここは大切なところなんじゃないかと思います。
山﨑博昭だけではなくて、さっき出た中村克己さんもそうだし、糟谷孝幸君もそうだし、今関西で考えているのは、東山薫さん(1977年成田空港反対闘争の中、機動隊の催涙弾の直撃を受け死亡)について、ちゃんと思い起こして、掘り起こして一緒に検証していくみたいな、殺された仲間をもう1回歴史に取り戻すみたいなことがやれればいいなと思います。韓国の200人の烈士みたいな形にはなかなかいかないかもしれないけれども、それが日本のどうしようもない、なかなか権力と戦わないような流れを、少しでも変えていくような、そのベクトルに向かうように、山﨑博昭プロジェクトを何か機能させることが出来ればいいなと僕は思っているんですね。
僕は内心忸怩(じくじ)たるものがありますけれども、2003年に国会議員になって、2期国会議員になって、最初は民主党だったけれども、離党して「日本未来の党」に行って、今はこの間の衆議院と参議院の選挙に「れいわ新選組」から出て、どちらも落ちましたけれども、自分としては筋は曲げていないつもりなので、やはり日本の政治を変えていきたいと思って、日本の政治を変えることが出来たら、(韓国の)ムン・ジェイン(文在寅)がクアンジュ(光州)蜂起を正義の闘いだったということで検証しているというような、そういうような日本の当時の闘いを検証できるような政治に日本も変えていきたいなと思っています。以上です。(拍手)

小林哲夫(教育ジャーナリスト)
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ジャーナリストの小林哲夫と申します。この間の安倍晋三元首相の国葬の時に、武道館と国会の前に行ってきました。反対の声を上げる方はやっぱり年配の方が多いのですが、その中にも大学生、高校生、そういう若い方もいます。このことについて、僕はずっと注目というか気にしていました。
2010年代、反原発運動、特定秘密保護法、安保関連法案で国会前に集まる方々はやっぱり年配の方が多いのですけれども、若い方もいます。その方々に話を聴くと、やっぱり「おかしい」と。16歳、17歳の高校生、18歳19歳の大学生がいます。「声を上げたいけれども、どうしたらいいのか」と言う方もいました。
山﨑さんは18歳、今の18歳の学生で考える方もいます。僕はすごくここにこだわりを持っています。10代で物心が付いて、初めて社会と向き合って、疑問を感じて、考え、議論して、アクションを起こす。生まれてから初めてそういう行動を起こした10代の人たちの運動を、私はフォローしてきました。

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(2021年秋の東京集会で「高校生と大学生が語る―いまやっていること、やりたいことー」の司会をする小林哲夫氏)
彼らと話をしていて、やっぱり学生運動を含めた社会運動の歴史を知りたい、10・8羽田を知りたい、10・21新宿反戦デーを知りたい、騒乱罪を知りたい、安田講堂を知りたい、連赤も知りたい、運動の歴史というものを知りたいという10代の方がいます。その方々にできるだけ、まだ元気でいらっしゃる方々の話を、辻さんは「継承」という言い方をされたんですけれども、なかなか言い方が難しいんですけれども、運動を引き継ぐということではなくて、まず基本的にどう伝えたらいいのか、事実関係はどうなのかということと、何故社会と向き合い、そういうアクションを起こしたのか、もっと言うと何で石を投げたのか、その辺のことは10代の人は全く理解できないと思います。その辺の理解できない部分と、それを当たり前のようにやってきた世代の中に、少しでも私が入ればいいなということで、私はこのプロジェクトの中で、できるだけ多くの高校生、大学生に声を掛けてきました。それは引き続きこれからもやっていきたいと思いますので、若い方に対して期待していいです。よろしくお願いします。(拍手)

司会:佐々木幹郎
どうもありがとうございました。ここで10分間休憩を取ります。
(休憩を挟んで後半に続く:後半は12月9日に掲載予定です)

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【お知らせ その1】
11月23日 渋谷ロフト9で開催!
Z世代と団塊世代、雨宮処凛、全共闘が「私たちに迫りくる戦争」を徹底的に語り合う!
シンポジウム「私たちはいま 戦争にどう向きあえばいいのか」
「ロシアのウクライナ侵略戦争」・「北朝鮮の核ミサイル」・「台湾有事」・「領土問題」」を理由にして「防衛費倍増」・「アメリカ軍との核共有」・「憲法9条改正」に世論を導こうとする日本政府。世界に蔓延する「ナショナリズムの拡大」・「軍拡」の嵐の中で「反戦・非戦・不戦」の松明を私たちは掲げることができるのか!
私たちはどのような未来を提案・創造することができるのか!
【第1部出演者】
雨宮処凛(格差・貧困問題に取り組む「反貧困ネットワーク」世話人 「週刊金曜日」編集委員 「公平な税制を求める市民連絡会」共同代表)
糸井明日香(高校生時代に校則・制服問題に取り組み、大学生時代には学費問題に取り組む 現在は社会問題をビジネスで解決する株式会社ボーダレスジャパンメンバー)
中村眞大(ドキュメンタリー映画「北園現代史」監督 校則問題・社会問題をテーマに映像発信する大学生ジャーナリスト)
安達晴野(ドキュメンタリー映画「北園現代史」に出演 校則問題や政治問題について発信する大学1年生)
吉田武人(2015年安保に反対した「T-nsSOWL」に中学1年生で参加 現大学2年生)
伊集院礼  (元 未来のための公共・2015年安保に反対した「T-nsSOWL」メンバー)
【第2部出演者】
三宅千晶(1989年沖縄県那覇市生まれ。被爆三世。早稲田大学卒業(水島朝穂ゼミ)。弁護士。日本弁護士連合会人権擁護委員会基地問題に関する調査研究特別部会員)
元山仁士郎(1991年沖縄県宜野湾市生まれ。一橋大学大学院法学研究科博士課程。「辺野古」県民投票の会元代表。SEALDs/SEALDs RYUKYU立ち上げ・中心メンバー)
船橋秀人(来春から京都大学大学院生 規制緩和による非正規雇用者の増大をもたらした竹中平蔵による授業、そして実学偏重の大学に反対して抗議活動を行う 反戦運動アクティビスト)
田中駿介(「旧土人部落」と呼ばれた地区で中高時代を過ごす。2014年「北の高校生会議」発起人。東京大学大学院生 慶大「小泉信三賞」、中央公論論文賞・優秀賞を受賞)
 塩野谷恭輔(宗教学・旧約聖書学研究者 第5期「情況」編集者 第6期「情況」編集長)
【ファシリテーター】
金廣志(元都立北園高校全共闘メンバー・元赤軍派メンバー・塾講師)
安田宏(元都立上野高校全闘委メンバー・元慶應大学日吉自治会副委員長)
渋谷LOFT 9
渋谷区円山町1-5 キノハウス1F
11月23日(祝日)
OPEN 12:00 / START 13:00(END 16:00予定)
[会場チケット] 
前売¥1,800 / 当日¥2,000 / 学割前売¥800/ 学割当日¥1,000
(飲食代別 1ドリンクオーダー要)
[配信チケット] ¥1,000
https://www.loft-prj.co.jp/schedule/loft9/233437

【お知らせ その2】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在12校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その3】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は11月25(金)に更新予定です。