今回のブログは、今年の4月に開催した明大土曜会での、明大土曜会沖縄ネットワーク沖縄訪問の報告である。
沖縄ネットワークでは、今年の3月2日から5日まで、土屋源太郎さんを団長として、「老学青」総勢18名で沖縄を訪問した。その訪問の報告と、土屋源太郎さんの挨拶、それに鹿児島県の馬毛島の基地反対運動をしている明大OBの投稿を掲載した。
明大土曜会は偶数月の第1土曜日に開催しており、毎回いろいろなテーマについて関係者から話を聴いたり、議論したりしている。参加者は明大のOBが中心とはなっているが、オープン参加で、他の大学OBや若い世代まで幅広い方々が参加している。
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【明大土曜会沖縄ネットワーク沖縄訪問の報告】(N氏のレジュメより))
3月2日(木)
早朝、沖縄・那覇空港に向け羽田空港を出発。現地でのレンタカー手配は各グループで行い、全体は14時にひめゆり記念館で集合とした。南部戦跡巡りを案内していただく沖本裕司さん(71年から沖縄移住平和ガイドをやっている)と合流。
ひめゆり記念館入口前の碑の前で、沖本さんから記念館の設立の経過やひめゆり部隊の基本的な事項の説明を聞いた後、記念館の中を見学。
続いて近くの「沖縄陸軍病院山城本部壕跡」を見学。大きなガマ(琉球石灰岩で形成された自然の洞窟)の中が本部となっていた。

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次に、辺野古新基地の埋め立てに使う土砂を採取する予定地となっている熊野鉱山を見学。戦争犠牲者の遺骨が今もなお埋まっている。業者から出された採掘許可が昨年県から降りたが、糸満市が農地法の手続きをまだ終了せず、採掘は始まっていない(北上田さんの情報では、それも近々終了し、3月末には開始される動きがあるとのこと)。
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周辺には沖縄戦で戦死した各県出身者の慰霊碑が点在。奈良県は「大和の塔」、和歌山県は「紀乃国の塔」など。その中で魂魄の塔は特別だ。ここは、敗戦直後、米須地区に移転収容された旧真和志村(現在の那覇市)の住民が米軍の許可を得て遺骨収集班を結成、道路や畑、丘、森に散っていた遺骨を集め建立したものだ。当時は「3万5千余柱」と沖縄で最多の遺骨が納められていたが、1974年、那覇市に1957年に建設された戦没者中央納骨所に移設されたとのこと。
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次に私たちは平和祈念公園を訪れた。まず1975年建立された韓国人慰霊碑へ。さらに沖縄戦で亡くなった人々の名前が出身県、国ごとに刻まれた平和の礎を訪れた。ここには、順次名前が追加されるという。中には名前が分からず「比嘉武栄の一子、二子」などと刻まれている戦死者もいる。

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もっと時間をかけて平和公園についての説明も聞きたかったが時間がなく、沖本さんと別れ次の予定地に。
17時半頃、なは市民協働プラザ到着。ここで、沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」の具志堅隆松さんのお話を聞く。パワーポイントを使って、遺骨収集を始めたいきさつや活動内容を説明。現在進められている辺野古新基地建設、琉球弧の自衛隊基地建設強化に対する厳しい批判の説明もお聞きした。初めて聞いたメンバーもいて、感銘を受けた様子。

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これで初日の行動日程を終了し、各自宿泊先に向かう。

3月3日(金)
この日はキキンプ・シュワブ前での座り込み、安和、塩川の埋め立て土砂搬入トラック阻止行動に参加の予定だったが、警備部隊が石垣島に行った為に工事が中止となり、同行動は中止。警察の警備がなければできない公共工事とは一体何なのだろうか?
そこで、各グループで独自行動に向かう。NグループN・Hさん(芝工大出身。沖縄移住)の案内で、まず嘉数高台公園に向かう。ここは、普天間飛行場が望める場所だ。オスプレイが6機ほど駐機していた。
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次に沖縄国際大学を訪れた。2004年8月に起きた米軍へリ墜落現場。
焼けただれた木が保存されているが、当時の場所から一般の人が見られる場所に移動されていた。
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その後、沖縄市(旧コザ市)に移動。1970年にコザ暴動が発生した「コザゲート通り(嘉手納基地の正面ゲートに向かう通り)」を歩く。通りの途中に沖縄市戦後文化資料展示館があり、沖縄市の戦後の歴史が日常生活や米軍との関係、文化・娯楽など詳しく展示、解説されている。もちろん「コザ暴動Jについても解説がある。
次に、かでな道の駅(嘉手納基地に隣接)に行き昼食(大変なボリューム!)。屋上から嘉手納飛行場が一望できる。セスナ機や軍用機が何度も飛んでいた。
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続いて、読谷飛行場跡地を経てチビチリガマを見学。
ここは、集団自決が行われた場所で、ガマの中には降りられるが、奥は遺族に意向現在は入れない。
15時過ぎ、全員がうるま市役所前に集合。「ミサイル配備から命を守るうるま市民の会」事務局長の宮城英和さんなどと合流。なんと、参議院議員高良鉄美さんも飛び入り参加してくれた。
そこから車で陸上自衛隊勝連分屯地正門前に移動。同分屯地では地対艦ミサイル配備とそのための隊舎建設などの工事が進められている。正門の外からも工事の様子が伺える。宮城さんから詳しい説明を受けた。資格のない白ナンバーのダンプが荷物を運ぶ、強風の中でもクレーン車を動かす、保安林を勝手に伐採するなど、露骨に法律を踏みにじって進められている基地建設の実態を知ることが出来た。
最後に全員で「ミサイル配備を許さないぞ!」などをシュプレヒコール。
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次に近くの米軍ホワイトビーチ基地を見渡せる高台に行く。宮城さんや現地で長く監視行動を行っている方から説明を受ける。同基地は米海軍と陸軍の桟橋があり、第7艦隊の兵站支援港、同艦隊第76機動部隊第1水陸両用群の母港だ。米原子力潜水艦や空母も停泊する場合がある。また北側が現在海上自衛隊の基地となっており、まさに日米軍事同盟を象徴する基地だ。
夜は、我々の仲間で、キャンプシュワブ前テントのスタッフをやっている橋本武志さんの紹介により、名護市の沖縄料理店「蓬来」で全員の交流会を開催。
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食べきれないほどの沖縄料理を堪能した。ここ名護市の基地の反対派のなじみの店で、店主の女性も基地反対運動に熱心とのこと。老労青学の活発な交流が夜遅くまで続いた。

3月4日(土)
11時からキャンプ・シュワブ前で開催された「止めよう!辺野古新基地建設第35回県民大行動」に全員参加。参加者589名。土屋源太郎団長が「ゲストスピーチ」として登場。「(基地が集中しているのは)本土で基地反対運動が高まり、沖縄への移駐によって生じた。申し訳ない気持ちがある」「今日の経験を持ち帰って共有し、沖縄と連帯じて運動を続けていく」という発言が多くの参加者に感銘、共感を与え大きな拍手が起こった(沖縄の人たちは発言者にこうした拍手をすることは珍しいそうです)。
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13時からは、汀間港から2グループに分かれグラスボートに乗船。船長は、特別に名護市議会議員の東恩納琢磨さんにやっていただき、大浦湾の大型サンゴを観察、詳しい説明を受けた。
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ここで全体は別れ、Nグループ、学生グループは高江に向かう。Yグループは那覇に向かう。
高江では、北部訓練場の正門前に行く。警備員が私たちの写真を撮ったで「肖像権侵害なので止めろ」と抗議。こちらから撮ったら逆に「止めてくれ」というので、「公務員なのでそうした権利はない」と言ったら「私は民間の警備員だ」というが「POLICE」と記されたジャンパーを着ていた。警察を僭称しているのか、民間人を装っているのか、ともかく態度が悪かった。
その後2017年米軍へリが墜落した現場を見渡せる高台に向かう。正確には見えなかったが、常に米軍機事故に晒されている現状を確認。
夜には、前日の交流会で予定が変更し参加できなかった前県議会議員の仲村善幸さん主催の交流会が前日と同じ「蓬来」で開催。Nグループと学生グループが参加、更に親交を深めた。Yグループは那覇で昔の友人と会い、旧交を温めた。

3月5日(日)
Nグループは那覇市に移動。午前中は首里城などを見学。
N、Yは首里城の地下に建設されていた第32軍司令部豪の入り口を見学。午後はそれぞれ自由行動。
16時45分沖縄を離れる。一路東京・羽田へ。
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まとめとして
今回のツアーは、Hさんが企画して以来、3年振りに実現したものだった。実施直前にHさんが急死して中断、再開しようとしたらコロナ感染の拡大で2回も中止となった。昨年末、コロナが収束に向かっているのではないかという「感触」により、改めて企画を立て準備してきた。ただ、当初から積極的に参加希望者を集め、昨年予定したツアーでは丁寧な企画、予定表を作成していただいた埼玉のTさんたちが、まだ公に呼びかけることに慎重となり、参加を見送ったことは非常に残念だった。
それでも、御年88歳の土屋源太郎さんを団長に現役の学生を含む20代の青年、後期高齢者、現役労働者など「老労青学」の20名近くの参加者を得られたことは大きな成果だった。また、沖本さんや橋本さんを始め、現地で活動している多くの方々の理解、協力によって充実したツアーを無事に終えることが出来た。
感謝に絶えない。今回の経験を今後の活動、沖縄連帯に活かしていきたい。皆さん、本当にお疲れ様でした。
※ 報告の中の具志堅隆松さんのお話については、後日ブログに概要を掲載する予定です。

明大土曜会沖縄ネットワーク沖縄訪問の報告の後、報告の中にあった3月4日のキャンプ・シュワブ前で開催された「止めよう!辺野古新基地建設第35回県民大行動」での土屋源太郎団長の「ゲストスピーチ」の映像を上映した。

●土屋源太郎団長の「ゲストスピーチ」<映像より>
主催者:本日、東京から参加していただいているグループを紹介して、連帯の挨拶をいただきたいと思います。
「伊達判決を生かす会」共同代表のお一人、土屋源太郎さんが参加されていますので、ご挨拶をお願いします。(拍手)
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土屋源太郎
こんにちは、土屋です。88歳でございます。(拍手)1957年、米軍立川基地に反対する砂川闘争に、学生運動のリーダーとして参加しまして、基地内に侵入して逮捕されました。その砂川裁判で、駐留米軍は日本政府が土地、建物等を供与している、それは当然日本の戦力に値する、いったん事があれば戦争に巻き込まれる、明らかに駐留米軍は憲法違反だ。憲法九条に違反する、という判決があった(「伊達判決」)。日米両政府は、その判決に大変驚いた。最高裁で謀議を行った上で否決したわけです。それが砂川闘争であり、それに対して私は国家賠償請求の戦いを現在も続けております。(拍手)
1950年、60年代、当時の米軍基地は、本土が80%、沖縄が20%。その後、50年代、60年代に本土での基地闘争を進めた結果、沖縄に70%の基地があり、本土に30%となった。沖縄の人たちには大変大きな負担と迷惑をかけております。私は、沖縄に基地が使われることを阻止できなかった。このことについては申し訳ないと思うと同時に、大いに現在も反省しております。沖縄の人たちと共に戦うという決意があります。
実は、今日この会場に、私の学生運動時代の母校の明治大学の後輩の仲間、そして沖縄の基地問題に関心のある学生さんの諸君と、そして50年末から60年にかけて、基地反対闘争と安保闘争を共に戦った戦友、全部で18人で参加しています。(拍手)
普天間基地、さらにはホワイトビーチなど各基地を回って、地元の人たちとも交流を進めてきました。そして、多くの事を学ばさせていただきました。今日この集会に18名が参加しています。
辺野古基地の建設、そして、いわゆる敵基地攻撃が出来るということで、沖縄諸島の自衛隊基地に、岸田政権は攻撃用のトマホーク等のミサイルを配備しようとしています。絶対に戦争をさせるわけにはいきません。(拍手)
私は今日の皆さん方の熱い集会の気持ちをしっかり受け止めていきたい。そして更に、沖縄の気持ちを本土にしっかり持ち帰って、残念ながら本土の運動は十分ではない。しかし我々は闘いをしっかり続けていく、そして闘いを粘り強く諦めない、これが大事だと思っています。そしてその中で、本土でしっかり今日の実態を伝えて、闘いを強めていきたい。それで皆さんと共に、闘いを連帯していきたいと思っています。
どうぞ頑張って戦いましょう。ありがとうございました。(拍手)
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(2023年3月7日付『東京新聞』より)

映像上映の後、土屋源太郎さんから沖縄訪問団長としての挨拶があった。
●土屋源太郎さんからの挨拶
今度の沖縄訪問について、Y君を始め土曜会の皆さんの本当に熱いご支援があって、何とか無事に沖縄に行くことができて、本当にありがとうございました。
我々のグループ6人は、Y君がリーダーで、大変心遣いが優しいM君、少々ゆるキャラなTさん、ちょっと固いなというRさん、それと美人で美声な紅一点のSさん、2日から5日まで、闘争に行ったつもりだったんですが、中身は大変楽しい旅でした。
さきほどのビデオで私が発言した内容ですが、これも6人で車の中で、私が「こういう内容で喋りたいんだけどどうだろう」と言うと、皆さんがいろんな角度からこうした方がいい、ああした方がいいと助言をいただいたものですから、なかなかいい話になったようです。
今度沖縄に行ったのは6年ぶりなんです。5回目です。6年くらい前は、本土から行っても、決して歓迎じゃないんだよね。むしろ、沖縄に来て応援に来たという名目を作るというよりも、本土でちゃんと運動をやってよ、沖縄に来るのもいいけど、むしろ本土でしっかりとした運動をしてください、という雰囲気が非常に強かった。だから本土からの発言を、ああいう集会で求めるとか、拍手が出るという雰囲気はあまりなかった。
沖縄が今、非常に難しい状況になっていることは事実。ご承知のとおり、「オール沖縄」が、保守系と言われる連中がほとんど抜けてしまった。残された、いわゆる革新系の運動をしている人たちの間でも、若干の意見が出てきている。正直言って、キャンプ・シュワブの座り込みも前ほど多くない。辺野古でテントを張ったり小屋を作ったりしていたんだけれど、それも右翼が来て壊したという経過があって、今の雰囲気は、どちらかと言うと本土から応援に来て欲しい、それで関心を持って持ち帰って欲しい、という感情が沖縄の人たちの中にあるんじゃないかという感じを受けました。
沖縄には多くの友人、知人がいるんですけれども、6年ぶりでいろんな人に会いました。話をした後で、男性、女性いろんな方が来てくれて、「土屋さんを見習ってもっと頑張らなければいけないよね」とか、いろんな方にお会いできました。これは大変僕も嬉しかったし、そんな思いで帰ってきました。
沖縄の問題は、辺野古基地の建設が非常に問題であると同時に、沖縄周辺地域に自衛隊基地が作られて、そこに迎撃用だけではなく攻撃用ミサイルまで設置するという状況になってきていて、県知事の玉城知事自身が自衛隊の誘致を認めましたから、当時は通信隊などを中心に派遣するという話だったのが、実際に蓋を開けてみたらミサイル基地になっていた。これは全くの約束違反だしおかしいんじゃないか、という意見も多分に起こってきている。
今、非常に危険なのは、石垣島とか宮古島に自衛隊のミサイル基地が作られている。残念ながら、沖縄の中心と島のほとんどの首長選挙で負けている、連敗続き。そういう状況ですから、もっと本土で沖縄の実態というものを、我々自身が自分たちの問題としてしっかり受け止めて、闘いを広げていく。なかなか本土では難しい問題がいっぱいありますけれど、是非そういう方向で行きたいと思います。
特に今回は、若い人の参加があった。これは大変に有難かった。本当に良かった。そういう意味で、若い人たちにきちっと繋いでいくことも大事なので、そういう意味でこれからも頑張っていきたいと思います。
どうもいろいろありがとうございました。

以上で4月1日の明大土曜会で沖縄訪問の報告は終りであるが、その後、鹿児島県の種子島で、馬毛島の基地反対の活動を続けている牧 洋一郎さん(明大農学部出身)から、基地反対運動の状況を知らせる投稿があったので、以下に掲載する。

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【鹿児島県種子島の属島・馬毛島は宝の島か、それとも金色夜叉の島か】
                                        種子島在住者  牧 洋一郎
 南西諸島の北部に位置する種子島の属島・馬毛島(西之表市から真西12キロメートル沖に浮かぶ8.2平方キロメートルの小島、無人島)では、南西諸島における離島防衛の一環として、自衛隊基地及び米軍FCLP(空母艦載機陸上離着陸訓練)基地を建設中である。昨年は前立腺がんを患い病気との闘いであったが、今年は順調に回復していることもあって、馬毛島の現状を一島民として見て見ぬふりはできぬと思い、基地反対運動に係わって生活している。
馬毛島の葉山港周辺一帯の約2ヘクタールは、西之表市の塰泊(あまどまり)浦集落の共有入会地(民法263条、共同体規制に制約された共同所有地)であり、今でも、他の浦集団にも利用されている極めて重要な漁業基地である。入会権の大家・中尾英俊教授とともに入会権の調査で訪れた島であるが、今は防衛省が基地建設を進めているので、島に上陸することができない現状である。現在、南西諸島の島々では中国の脅威を念頭に、軍事基地の強化・要塞化が進行しており、2019年11月、馬毛島では土地面積の約99%が、開発業者タストン・エアポート㈱から防衛省へ160億円で買収合意がなされ、熊毛地域(種子島・屋久島)の住民らは不安と期待の中で騒然とした状況にある。要するに、熊毛地域の住民らはこのような情勢に、如何に考え如何なる問題を提起せねばならないかを突きつけられているのではなかろうか。
殊に種子島(面積約450平方キロメートル、人口約2万8千人)では、馬毛島にての自衛隊基地及び米軍FCLP基地問題について、自衛隊と米軍の一体化すなわち集団的自衛権(自国に対する武力攻撃がなくても、同盟国が戦火に巻き込まれたときに、是非を問わず助けに入る権利)の行使が取りざたされる中、基地建設反対派住民らは、騒音被害、戦争への誘因・標的、米兵による乱暴狼藉の予想等を根拠に反対しているが、一方、賛成派住民らは、交付金による地域経済の浮揚、地域の活性化、自衛隊家族の転入による人口増加等に繋がると期待し賛成している。島内は基地建設反対派と賛成派の双方に分れている現状である。
それから、行政の対応についても注視すべきところである。2022年2月、西之表市長が防衛省に対し、米軍再編交付金を受け取る意向を示したことについて、新たな局面を迎えることになった(市長は未だに基地整備について賛否の明言を避けてはいる)。そして、屋久島(面積約504平方キロメートル、人口約1万3千人)であるが、基地計画の賛否について屋久島町長は「行政区は西之表市。首長の判断にとやかく言うつもりはない。」「屋久島は観光立島。計画がすすむなら、米軍機がルートを外れ島近くを飛ぶことのないよう、申し入れを続けるなど心しないといけない。」と述べるに留まっている。なお、中種子町と南種子町は基地建設賛成の意向を示している。
今、種子島の島民らにとって、馬毛島は基地建設反対派から見ても賛成派から見ても「宝の島」であることに変わりはないが、反対派からすれば島の自然や漁業を生かした宝の島であり、賛成派からすれば米軍再編交付金(2023年度の交付金28億円)が落ちる棚ぼたの宝の島ということである。また、種子島漁協は漁業権放棄について、防衛省に22億円で漁場を売り渡すことを圧倒的多数(出席漁協正組合員105人中99人の同意)で議決した。まさに馬毛島を巡って、種子島では金色夜叉の世界が訪れていることを意味するものである。
 熊毛の住民らは馬毛島基地着工により、島民の安全な暮らしが破られようとしている。中尾教授は、「平和を守る、あるいは平和を勝ち取ることは費用(カネ)もかかり疲れることである。しかしわれわれ(全人類)の生命を守り、国土を守るためにはそれをしなければならない。それこそが平和憲法を守る途なのである(日本社会と法)。」と論考されているが、然りである。このことを肝に銘じて、島での生活を続けたい。
                           2023年4月16日 

* 本稿は西南学院大学「ほうげん会」への投稿原稿「種子島の属島・馬毛島の基地問題」を加筆修正したものである。

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在12校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は5月19日(金)に更新予定です。