野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2007年12月

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今回も前回の続きということで、催涙弾がひどかった1971年6月17日のデモについて書いてみたい。

1971年6月15日~17日は、6月17日に控えた沖縄返還協定調印を阻止する連続闘争として、全国で集会・デモが繰り広げられた。都内では6月15日に明治公園で全国全共闘・全国反戦の集会が開催されたが、中核派と反帝学評の内ゲバにより統一した集会が開けず、党派間の分裂が決定的となった。1970年初頭から形骸化していた全国全共闘は、この日で実質的に消滅した。この日以降は各党派による統一集会は開催されていない。

6月17の集会は、中核派系が明治公園、反帝学評系が宮下公園、べ平連が中央区坂本公園とそれぞれ独自の集会を持ち、中核派系のデモでは手製爆弾により機動隊員37名が重軽傷を負うという事件が発生している。
この3日間は新左翼運動の1つの転換点だったといえる。
明大の黒ヘル部隊は宮下公園の反中核系集会に参加したが、宮下公園の集会・デモも荒れた。当時の新聞記事を見てみよう。

朝日新聞1971.6.18社会面(要約引用)
【都心で火炎瓶、放火 全共闘系 国電一時ストップ】
「全国全共闘系の集会は分裂集会となった。中核派とわかれた反帝学評、フロント、プロ学同などのグループは渋谷区宮下公園で7800人が集会、デモに移ると間もなく、一部学生がデモコースから外れて国電渋谷駅付近の繁華街へ吹き出し、火炎瓶を投げて荒れた。
さらに約300人は同公園近くの山手線に乱入、線路上で激しい投石、このため山手線は一時、内、外回りともストップした。」

新聞記事では、さらりと書いてあるが、この時の機動隊は催涙ガス弾を水平撃ちにより、デモ隊列に次々と撃ち込んできた。
その時の様子はリンクしている「明大全共闘・学館闘争・文連」のエピソード1971に書いたが、被害状況について明大弾圧対策委員会が書いた文書があるので引用する。

【告発】(要約引用)
「権力の催涙ガスを使った弾圧はますますエスカレートしている。6・17のあの雪のように降りかかる白い粉の中にいた諸君は、これがまったく殺すことさえいとわぬ、権力の狂気じみた拷問的発想であることは確認できるだろう。催涙弾は今や頭部、頚部を狙い撃ちし、眼前で炸裂して、白い毒粉をあびせかけるといった恐るべき凶器となっている。
 当日にも数百発の毒ガス弾が放水とともに撃ち込まれ、ほほを直撃され、口内まで貫通した者、毒ガスによるひどいやけど、中毒症状をおこしている者など多数が催涙弾によって受傷している。
各所の隊列に向けての直撃、至近距離での爆発でデモ参加者ほとんど全員が大量の粉をあびており、即日、あるいは1週間、2週間たってから、顔、首、肩、胸、足などに、しっしん、水泡ができ、その後さらに全身に症状が広がり、リンパ腺がはれあがり、全身がだるく、37~39度の熱が出て、痛み、かゆみで不眠、食欲不振におちいっている。
検査によれば検診者全員に尿と白血球の異常が認められたという。当然のことながら逮捕者の多数が毒ガスにひどくやられている。特に6月17日逮捕の上野128号は上半身から左足ももにかけて、水泡、全身赤くただれ、熱も39度のまま、睡眠、食事もとれず、治療を要求すると五箇所の病院をつれまわされた。結局、あまりのひどさに警察は完黙の彼女を釈放した。最近急激に濃度が強められ、催涙ガスの使用基準は拡大される一方である。(法務省令では、人体に向かっての直撃禁止、警告の義務を明記している。)」

確かに6・17の催涙弾はひどかった。当日、私も全身に催涙弾の粉を浴びたことは間違いない。弾対の文書にあるような症状が出たかどうか記憶にないが、目の調子が悪いのはその時の所為だろうか。
一方、警察の見解はどうか。連載No8で紹介した「過激派殲滅作戦」から引用する。

【過激派殲滅作戦】―公安記者日記― (要約引用)
「6月30日:きのう、救援連絡センターが記者会見し、15~17日に使われた催涙ガスは高濃度の新型で重症ヤケド続出と発表。担当記者から警視庁側のコメントを要求してきた。(中略)警備のいうように、おそらくガスの種類、濃度に変化はないだろうが、低濃度のものでも一定地域で大量に使った場合、高濃度と同じ効果をもたらすわけだから、あのときの乱戦ぶり、特に17日の明治公園の様子からすると、センター側の発表は理解できる。」

おそらく被害の原因は警察の見解のように新型の催涙弾が使われた影響ではなく、多量に、それもデモ隊列に直接撃ち込んで使われたことによる影響だろう。1971年ごろになると、デモの規制には大量の催涙弾が使用され、その使われ方も銃を撃つようにデモ隊列に向かって直撃するような撃ち方が普通となったように思われる。
あの催涙ガスの何とも言えない独特の臭いが記憶に蘇ってくる。

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前回の連載で芝公園の話が出たので、今回は芝公園での苦い思い出について書いてみたい。
芝公園は東京・港区にあり、東京タワーや増上寺を取り巻くような形の細長い公園である。その中に芝公園23号地(写真)というやや広い場所があり、集会やデモの解散地として利用されていた。

1971年のデモ(前回の話に出てきた10.21国際反戦デーのデモだったかもしれない。)に参加し、デモの解散地点である芝公園23号地付近まで来たとき、公園近くの機動隊と反帝学評が衝突。衝突の混乱の中で、反帝学評が近くのプリンスホテルに投石して窓ガラスを壊したことから、機動隊が放水車から着色液を放水した。解散地点である芝公園23号地にデモ隊が入る時、公園の入り口を両側から固めた機動隊の列の間をデモ参加者が1人1人通され、足元をライトの明かりで照らされて、靴に青い色の着色液が付いた学生は次々とその場で逮捕されていった。

やっと解散地点に辿り着いてほっとしたと思ったのも束の間、デモ隊でごった返す公園内に向けて機動隊が催涙弾(注)を次々に打ち込んできた。
公園の園内灯を見上げる、霧雨が降ってくるように催涙弾の粉がデモ隊の上に降り注ぎ、あまりの量の多さに咳きと呼吸困難で窒息するかと思うほどひどかった。

そんな状況の中、突然機動隊が公園内になだれ込んできたことから、公園内は大混乱となった。公園は背後が斜面になっており裏手は寺院の墓地になっていた。公園の入り口からは脱出できないので、デモ参加者は皆、公園の斜面側に追い込まれた。そのため、公園の斜面をよじ登り、高い鉄条網を乗り越えて裏手の墓地から避難しなければならなかった。
皆、夜の暗い中で鉄条網をよじ登っていたので私もそれに続き、何とか裏手の墓地に入り脱出することが出来た。
仲間数人と地下鉄で帰ったが、衣服に染み付いた催涙ガス独特の匂いが電車の中に充満しているような感じだった。電車に乗り合わせた人も迷惑だったでしょうね。

次の日、大学に行くと両手を包帯で巻いた学生に結構出会った。聞いてみると鉄条網の針が手に刺さってかなりの怪我をしたらしい。私は針と針の隙間に手をかけて、慎重に鉄条網をよじ登り何とか逃げおおせたのでよかったが、ひどいデモだった。1971.6.17の渋谷・宮下公園での沖縄返還協定を巡るデモに劣らず、私が参加したデモの中では最悪のデモだった。(機動隊の規制もひどかった!)

(注)催涙弾:催涙弾からはクロロアセトフェノンといた催涙ガスが噴き出し、これを吸い込むと激しい咳や、涙が出て行動が難しくなる。
この時使用されていた催涙弾は、粉を飛散させる粉末タイプのものだったのだろう。
催涙剤を皮膚に付着した状態で放水、催涙剤入り放水を浴びると、化学火傷、角膜白濁等の後遺症の原因になるとされる。


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前回の黒ヘルの続き。黒ヘルは一般的には党派に属さないノンセクト活動家と考えるのが正解と思うが、必ずしも左翼とは限らず、右翼民族派も黒ヘルを被っていた。1971年頃、御茶ノ水駅周辺で何の表示もない黒ヘル学生がビラを配っていた。ビラを受け取って読んでみると、どうも変なビラである。「家畜人ヤプー」(※)のことが書いてあるビラで、左翼のビラにしてはおかしい。よく読んでみると中大の右翼民族派のビラだった。黒ヘルを被っていたので、てっきり左翼と思い込んでいたのと、「家畜人ヤプー」の内容だったことで、記憶に残っている。

黒ヘルは左翼だけでなく右翼も被っていた。そして黒ヘルについてもう1つの事実が明らかに・・・。
こんな本がある。

「過激派殲滅作戦」―公安記者日記―
1973年3月31日発行

この本は1971年6月から1972年5月まで、警視庁の公安・警備担当記者として勤務した時の経験を綴った日記を公表するというスタイルをとっている。
この時期は70年安保闘争終焉後の新左翼運動の分化と先鋭化を物語るような事件が次々と起こっている。

1971・ 6 中核派集会が開催された明治公園周辺でのデモ中、鉄パイプ爆弾により機動隊37名が負傷。以後、爆弾事件が続く。
1971・ 9 三里塚で神奈川県警機動隊が白ヘルの反対派グループ約500名に襲われ隊員3名死亡
1971・12 警視庁警備部長宅に小包爆弾。夫人死亡。新宿伊勢丹前交番にクリスマスツリー爆弾。12名重軽傷。
1972・ 2 連合赤軍による浅間山荘事件。
1972. 5 赤軍派によるテルアビブ空港乱射事件。

このような時期の警視庁公安課の動向がよくわかる本であるが、この本の中に以下のような写真がある。タイトルは

【71年の10.21国際反戦デーの際、東京・芝公園で黒ヘル姿の警官に逮捕される女性】

その写真に関する部分を引用すると
「一見すると「叛」と書いた黒ヘルの男と機動隊員が、ジーパン姿の若い女性を引っ張り合っている写真だ。しかし、よく見ると、黒ヘルの男は女の両足首を両腕でかかえ、マル機は女のえり首を片手でつかみ、両者で女をぶらさげている。しかもまわりに他のデモ隊の姿は見えないし、他のマル機は落ち着いた表情でこの三人を見守っている。つまり、黒ヘルの男がマル機といっしょに、抵抗する女性を逮捕し、ひきたてているシーンというわけだ。現場は芝公園で反中核系各派の解散地だ。
警備実施がある日、デモスタイルに変身した若い男女(警官)が警視庁から出かけるのはしばしば見ているが、検挙活動にまで加わっているというのは初耳。しかもバッチリ写真にとったというのも初めてだ。この写真、当局にぶつけたら“犯人の奪い合いだ”と強弁するだろうが・・・・。写真部は時間のズレもあるしタイミングを失したということで、結局ボツにしたというが、残念。」

つまり、警官が黒ヘルを被ってデモ隊に紛れ込み、検挙活動を行っていたということである。警官であるという証拠はないが、公安・警備担当記者としてある程度の確証を持っていたのだろう。
黒ヘルを隠れ蓑にした公安(警察)の活動があったとすれば、当時、ノンセクト黒ヘルだった私としては複雑な気持ちになる。

※「家畜人ヤプー」:1956年より「奇譚クラブ」に連載されて、その後断続的に発表された沼正三の長編SF・SM小説。何故、民族派学生のビラに登場したのかは、日本民族の起源についての部分に関係していると思われる。


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私が1969年当時、学生運動で被っていた黒ヘルメットの絵である。ヘルメットの前にVのマーク、後ろに414Bと白文字で書いてある。Vの意味はVictory(勝利)。
「ベ平連」や「文サ連」というヘルメットも被ったが、それも黒ヘルである。
大学入学当初、杉並区にある明大和泉校舎の中庭で昼休みの学生集会が開かれ、その時、初めて黒ヘルを見た。「駿台論潮」というサークルのヘルメットで、黒に白地で大きく駿台論潮と書かれていた。人数は数人だったが、それまで黒ヘルは見たことがなかったのでとても印象に残っている。
その後、クラスの同級生のN君などと414B統一戦線というノンセクト集団を結成し、ヘルメットの色やデザインをどうするかという話になったとき、N君から「黒ヘルにVのマーク」という提案があり、それに決まった。

当時はまだ黒ヘル=アナーキスト(注1)と見られる傾向にあったが、黒ヘルを被る私の気持ちは「黒ヘル=ノンセクト(党派に属さない個人)」ということで、党派に入って活動しようとは思わなかった。414B統一戦線も同じ場(和泉校舎1号館414B教室)に集まった個人の集合体という感じだった。
1969年当時、明大では黒ヘルは我々も含めて結構多かったが、各大学が集まる集会に行くと全体としては小数派だった。しかし、新聞記事を見てみると1971年頃になると集会参加者全体の1割以上を黒ヘルが占めるようになったと書いてある。

1971年5月28日朝日新聞社会面の記事(要約引用)
【デモあおる“黒ヘル”-実態ナゾ第3の過激派?】
沖縄の返還協定調印を前に、これに反対する全共闘系デモの中に、これまでになく黒いヘルメットの集団が目立ち始めた。数人から多くて20人のこの黒ヘル集団の行動は、これまでのセクトにないアナーキーなうえ過激で、デモの混乱に乗じて交番に放火するなど機動隊をてこずらせることもしばしば。警視庁公安部ではまだその組織の実態をつかんでいないが、全体としてこれまでの全共闘系8派や赤軍派など急進3派に次ぐ“第3”の過激派グループに成長する恐れが強いとして警戒している。
黒ヘル集団は4.28沖縄デーから目立ち始め、警視庁が5月19日の沖縄ゼネスト支援闘争が行われた清水谷公園で黒ヘル集団を追跡調査したところ、参加者5500名中、836名が黒ヘルだった。

1971年6月15日朝日新聞社会面の記事(要約引用)
【デモあおる「黒ヘル集団」は全共闘の別動部隊】
警視庁は全共闘系のデモをあおる“第3”の過激グループ「黒いヘルメット集団」の実態解明を急いでいたが、14日までの調べでさらに増加する傾向があるうえ既成の全共闘系セクトが「別動隊」としてもぐり込ませて混乱をあおることに利用していたことがわかった。5・30沖縄闘争の際、黒ヘル集団について追跡調査したところ1350名にふくれあがっていることがわかった。

この新聞記事によると、黒ヘルは党派の別働隊とか第3の過激派などといわれているが、それはあくまでも公安当局の捉え方である。黒ヘルを被って集会に参加している学生の多くは、あくまでも党派に属さないノンセクトだった。
1971年5月28日の記事では、追跡調査の結果として836名といやに細かい数字が出ているが、本当に数えていたんですかね。

また、黒ヘルに書かれているマークについて、「叛」「建」の文字や「CL」「C」「NON」「MUR」「TS」などのローマ字、「π」「∞」などの記号が見られる、と書いてある。
私は1971年には414B統一戦線の「V」マークの黒ヘルはもう被っていなかったが、この頃、何のマークの黒ヘルを被っていたのか思い出せない。

明大も1971~72年頃になると党派部隊より黒ヘル部隊の数が上回り、集会では200名を超す黒ヘル部隊が集まった。黒ヘルを被っていたのはマップ共闘、史地共闘、入管闘、文化サークル連絡会議、べ平連、教育研究会、明大弾対などだが、その中には、中大などと連携した反大学戦線という武闘派黒ヘル部隊もおり、ブント戦旗派とゲバルトをするなど黒ヘル党派的な存在だった。

(注1)アナーキスト:無政府主義者

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 写真はシカゴ(注1)の1970年のヒット曲、「長い夜」(25or6to4)のシングルジャケットの写真である。
 明治大学和泉校舎の学生会館とシカゴの曲とどういう関係があるのか。
 
 1969年から1970年の2年間、私は学生会館運営委員の1員として東京杉並区にある明大和泉学生会館や御茶ノ水の駿河台学生会館で活動していた(リンクしている「明大全共闘・学館闘争・文連」のエピソード1969参照)。運営委員の活動としては、会議室の貸し出しや、電話呼び出しの館内放送、蛍光灯の取替えなど学生課との連絡、学館内サークルの運営会議開催などである。

和泉の学館運営委員会室には館内放送用の設備があり、ラジオ放送も聴けたので、何もすることがない時はラジオを聴いていた。主に聴いていたのはFEN(注2)。大学の受験勉強をしていた時にBillboardやCashBoxのポピュラーソングのヒットチャートをFENで聴いてチェックしていたこともあり、FENの全米TOP40などを聴いていた。喋っている英語の意味はよくわからなかったが、英語のリズムやポピュラーミュージックはBGMとして最適だった。その時、FENラジオからよく流れていたのがこのシカゴの「長い夜」である。私はこの曲がかかると音をすこし大きくして聴いていた。
この曲を聴くと、当時の和泉学生会館の様子が想い起される。

和泉学館には運営委員会室にピンク電話が1台しかなく、それが外部からの唯一の連絡窓口になっていた。現在のように、皆が携帯電話を持っているような時代ではなかったので、電話がかかってくると用件を取り次ぎ、放送設備を使って館内放送で呼び出しを行った。
サークルの中には、党派と関係あるサークルもいくつかあり、例えば「中国研究会」はML派、「西洋史研究会」は反帝学評、「歴史科学研究会」と「哲学研究会」は社学同などである。サークル名で呼び出せば問題ないのだろうが、一度、「反帝学評の人」という呼び出しがあり館内放送したところ、2階の学生会中執の部屋から社学同の学生が降りてきて、「他党派の呼び出しはするな!」といわれたこともある。
このピンク電話もバリスト後、鍵が壊されて電話代がなくなるなどしたため、電話代が払えなくなり、撤去されてしまった。その後、学館に電話が設置されたかどうか記憶にない。

当時の学館運営委員会のメンバーは数名いたが、私を除いて全員社学同だった。その中で私に学館のことや活動家として読むべき本のことを教えてくれたのは社学同のK氏だった。
K氏は九州出身で、当時少年マガジンに連載されていたジョージ秋山の漫画「ほらふきドンドン」によく似ていたので、皆からそうあだ名を付けられていた。
本名で呼ばれることはあまりなく、大抵はあだ名で「ほらふきドンドン」といわれていたが、実際はほらを吹くような人ではなく、1969年10月9日の機動隊導入に抵抗した明大大学院徹底抗戦組の社学同メンバーとして逮捕されている。
K氏は保釈された後、和泉学館に頭をまるめてスッキリした表情で現れ、タバコを美味そうに吸って「しばらく国に帰る」と言っていたが、それっきり姿を見なくなってしまった。
大学院徹底抗戦はK氏なりの明大闘争への決着の付け方だったのだろう。

もう1人、文学部の社学同M氏がいた。真面目でシャイなところがあったので、社学同の女学生から女性関係の話題でからかわれていた。卒業後、どこかのテレビ番組で、東京多摩地区の市民運動の代表として出演しているのを見たことがある。こんなところで活躍しているのかと思って懐かしくなった。

社学同のメンバーが学館運営委員会室に入れ替わり立ち代り現れていたこともあるのだろうが、K氏とM氏以外の学館運営委員会メンバーはよく思い出せない。
この頃出会った社学同の多くの人たちは、あまり理論をどうこう言う人は少なく、人間味があってよかったですね。
 
(注1)シカゴ:1969年に「クエスチョンズ67-68」でデビューし、今も現役で活動を続けているアメリカのロックバンド。

(注2)FEN:Far East Network(駐留米軍放送。米軍横田基地内にスタジオがあり、日本に駐留しているアメリカ軍人向けの放送局。1週間の放送時間の半分以上が音楽番組。)


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