野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2008年02月

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前回の連載に出てきた、高校の同級生でウーマン・リブの運動をやっていたN子のその後である。少し私小説的に書いてみよう。

1971年9月、遅い朝食を家で食べて自宅で本を読んでいると、N子から電話がかかってきた。相変わらず九州なまりの言葉で「私が貸した本を返してもらいたくて電話したの」と言う。「じゃあ返すから御茶ノ水まで来いよ」というと、「御茶ノ水?私、お金が全然ないのよ。定期もないし。」と返事をする。
結局、N子は了解して御茶ノ水の喫茶店で落ち合うことになった。
9月だというのに、風が強く春先のように蒸し暑い天気の日だった。
御茶ノ水の喫茶店には、すでにN子が来ていた。久しぶりに会ったが元気そうだった。
型どおりの挨拶を交わして、借りていた詩集をN子に渡した。
「学校の方はどうなの?」とN子が聞く。「相変わらずさ」と私が答える。
「近頃、ウーマン・リブの活動はどうだい?」と聞いてみる。
「最近体の具合を悪くして親戚の家で休養していたから、活動の方とは大分遠ざかっているいるわ。でも、考えたのよ。やっぱり私は1人でやっていくって・・・・。他人のことは考える余裕がなくなって、自分のことしか考えられなくなったの。私は私なりにやっていくつもりだけど、それが私にとっては一番いいと思っているわ。」とポツリポツリと喋りだす。私はにがいコーヒーを飲みながら黙って聴いている。
昨年(1970年)の今頃は、女性解放運動のことでN子から追及されて答えに窮するようなこともあったが、今日はそんな様子はまったくない。
N子は夏に鎌倉に行ったこと、東京と鎌倉を毎日往復したこと、フランス語の勉強を再び始めるためにフランス語の学校(アテネフランセ)へ行くこと、ヌードモデルをやめたこと、SEXのこと、映画の話など、とりとめもなく、言葉を捜しながら喋っている。
気が付くと、もう6時。N子は時計を見て「もういかなくちゃ」といって席を立った。 
2人で喫茶店の外に出て空を見上げると満月が赤味を帯びて雲の間から光を放っていた。

別れ際にN子から渡されたガリ刷りの詩を紹介しよう。N子の心情が分かるような気がする。

【erosの長征へ向けて】
『あたい 昔 思ったものだ
世界地図 ひろげてベトナムをにらみ パレスチナをあおぎ
腕を組み 目を閉じて 世界を駆けめぐるあたいの心は
その日の朝の輝く光を待つ、夏草のつゆでぬれていた
「人間は解放されなきゃアカンのや」
見てごらん あたいの心は こんなに痛む メコンの川すじを流れる幼児の泣き声
廃墟にたたずむ 力なき民の群れ

セーラー服にとじこめられた あたいの身体は 怒りにふるえた
「敵はどこだ?敵は?」 ぶあつい書物が マルクスがレーニンが
資本主義制度という敵を教えてくれた
あの官庁に あの宿舎に 憎っくき敵が詭計をたくらんでいるんヤ
「ぶっ殺せ!ぶっ殺せ!」怒りの突撃!突撃!

惨敗 みじめさ しょぼくれる雨に 後足ひきずった かんおけの列が
幾度も 幾度も 街の雑踏の中に消えていく ちりぢりに
「人間は解放されなきゃアカンのや」呪文のごとく どの本のページにも書きつらなって
あたいたちは暗唱していた 「~ 解放されなきゃ ~」
血ばしった目は 解決の糸口をさがして ページからページを追って
世界情勢の上をさまよって 会議から会議をかけずりまわって
あたいたちの生気は失せていく

過激なことばを 機動隊のなまぐさいムチを 気付け薬に欲しがる
中毒症状が あたいたちを犯し続ける
セーラー服にとじこめられた あたいの身体は くさっていく
「人間は解放されなきゃアカンのや」と口ばしる あたいの身体は腐っていく

生身の腐乱する会議室をぬけ出し 静かに荒野へ歩き始めるのよ
草のさわやかな熱気を足裏に
その身に重いセーラー服をぬぎすてて 歩いていくのよ
黒い夜 裸身が群れて遊んでいた森
しげみの奥の狂熱に耳をすまし 歩いていくのよ
あたいたちが世界と出会う地平へ
                           ゆき』

ウーマン・リブの闘士だったN子も消耗してしまったようだ。N子とはこの後、会っていない。行方もわからない。

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1969年から70年にかけて、「男女は社会的には対等・平等であって、社会的・文化的につくられた性別による差別や区別の壁を取り払うべきだ」という考えのもとにウーマン・リブの運動が日本でも始まった。

当時は新左翼諸党派や全共闘の中でも、街頭闘争で機動隊とぶつかるのは男子学生、女子学生は後方支援で救対や食事の世話というように既成の男女の社会関係が残っていた。
新左翼は社会的な関係性の変革を目指していたと思うが、男女間の性別による差別という問題に目が向いていなかったため、「それはおかしい」と声を上げた女性達から「女は男の奴隷ではない」として問題を提起された。
中核派全学連大会で執行部が糾弾され、自己批判したことは有名な話である。

ウーマン・リブの提起した問題とは何だったのか。
「明大全共闘・学館闘争・文連」のホームページのリンクにある、「怒りをうたえ上映実行委員会」のサイトから引用する。

【70年ウーマン・リブからの糾弾とフェミニズム運動 池田祥子(いけださちこ)】
(「怒りをうたえ」第9号 1994年1月1日)(引用)
『(略)日頃、権力に刃向かっている男だけれど結局は最終的には女のもとで甘えて、癒されている。そういうもののなかに関係性がはめ込まれている。それ自身がインチキじゃないか、おかしいんじゃないか、もうちょっと男たちも一人で取り合えずしっかり生きて欲しいし、女たちは取り合えず、まず自分で生きてその上での関係を持っていこうじゃないか、そういう問題提起でした。(略)』

単なる社会制度の変革ではなく、社会的・文化的につくられた男女間の関係性の変革にまで変革の領域を広げるべきだという主張である。
逆に言うと、男女間の関係性の変革なくして社会は変えられないということでしょうか。

当時、私は明大全共闘とは別に、高校時代の仲間を中心としたグループでも活動していたが、その中にウーマン・リブ運動に関わっていた高校の同級生のN子がおり、男女間の関係性の変革という問題についてどう考えるのか議論を持ちかけられ、追及されることもあった。

そのN子だが、1970年10月21日の国際反戦デーで、歴史的にはウーマン・リブ運動の始まりとされているウーマン・リブの街頭デモに参加していたようだ。新聞の写真を見ると、「叛」の文字を書いた黒ヘルにサングラス、覆面というスタイルだが、一見、ジャニス・ジョプリン(注)のような雰囲気の女性なのでN子に間違いないと思われる。
その新聞記事を見てみると

朝日新聞 1970年10月22日 (引用)
【やりますわよ “おんな解放”】
【ウーマン・リブ銀座に “男は締め出せ”機動隊もタジタジ】
『銀座におんなだけのシュプレヒコールが響いた。約200人。ピンクや黒のヘルメットを被った若い女性がジグザグデモ。機動隊が規制しようとするたびに「おんな解放」「闘争勝利」の黄色い声に押し返された。米国などに広がっている女性解放運動「ウーマン・リブ」の日本版が始めて街頭に進出した。6月頃からセミナー活動を続けてきた「ぐるーぷ闘うおんな」「女性解放運動準備会」のメンバーで、ほとんどが20-25歳の会社員、学生。夕方5時半に銀座一丁目の水谷公園に集合したところたちまち報道陣、カメラマンに囲まれた。「マスコミは敵だ。わたしたちを見世物にしようとしている」と1人が叫ぶと、「ワー」と気勢をあげてカメラマンを追い出した。貼紙にいわくー「男性立入禁止、報道関係者も含む」
「古い家族を解体」「女の解放は人間解放だ」など、代表がぶつと、たちまち500人ほどの輪ができた。そのあと「女らしさってなあに」の横断幕を先頭にネオンの街にデモ。
「お母さん、結婚って本当に幸せ?」「男にとって女とは何?」などのプラカードをかかげ、数寄屋橋から新橋まで、派手なジグザグデモを繰りひろげ、そのあとをタクシーがノロノロ。「へえーこれがリブか」と通行人は目をシロクロ。(略)』

リブたちの主張する男女間の関係性の変革はもっともな話だが、議論がややもすると現在の社会は男社会=男は敵というような一面的な主張に流れていく傾向があり、私も彼女達の主張に馴染めない部分もあった。
個人的には男性も女性をお互いを尊重して支えあう「男女が相互に補完的分業をする本来的な人間関係のあり方」を構築することが必要ではないかと思う。

1970年から38年経ち、彼女達の運動はどのように受け継がれているのか。
「男女雇用機会均等法」という法律ができたことなど、女性が公平に雇用され働ける環境は整ったかのように見える。しかし、社会的・文化的につくられた性別による差別や区別の見えない壁は、まだ社会の中に深く存在しているのではないだろうか。

(注)ジャニス・ジョプリン:1960年代後半に活躍したアメリカの代表的女性ロック歌手。1970年に27歳で死亡。麻薬が原因といわれている。

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2月11日は「建国記念の日」(注1)である。今回はこの日に関係する話。

1971年2月11日、私は東京・杉並区の明大和泉校舎の学生会館運営委員会室に居た。当日は、日比谷野外音楽堂(写真は野音入口:1975年撮影)で「紀元節粉砕」の集会が開かれることになっており、私も集会参加の準備などをしていると、部屋に2階の学生会中執からブント戦旗派のM氏と数名が入ってきて、「ここに週刊誌はないか」と聞かれた。
部屋には読み終わった週刊誌が結構あったので提供すると、「ちょっと手伝ってくれ」と言われた。何をするのかと思いきや週刊誌を身体に巻きつける手伝いとのこと。野球のキャッチャーのプロテクターのように、身体に週刊誌を広げて紐で縛りつける。こんな格好で動けるのかと心配したが、今日の集会で戦旗派と叛旗派がぶつかるので、部隊の前面で竹ざおを構える要員にはこのような準備をさせているとのことだった。

M氏は作業を見ながら遊撃隊で殴りこむと息巻いている。M氏は戦旗派の中でも学館運営委員会室によく顔を出し、いろんな話をした間柄である。小柄で色黒、メガネをかけており、まさにゴリゴリの戦旗日向派(荒派)である。喋るときは「それはなー」と言って、こぶしを前後に動かすスッティング・スタイル(ガリ版を刷るポーズ)で喋る。
その後のうわさで、「暴力団対策法」反対の左翼と右翼、暴力団のデモを仕掛けた1人だったときいた。

その荒派の首領である荒 岱介は、この頃、和泉学館の2階に常駐しており、ボディーガードを連れて晴れた日でも長い雨傘を持ち歩いていた。(襲撃にそなえるため、傘の中に鉄パイプが仕込んであると噂されていた。)戦旗日向派(荒派)の学生部隊も十数人が常駐していた。

さて、日比谷野外音楽堂での集会はどうだったのか、新聞記事を見てみよう。
      
朝日新聞 1971.2.12
【建国記念日 対決ムード】(引用)
熱っぽく「奉祝」「反対」 三島事件(注2)が刺激に
『「建国記念日」の11日、全国各地で「奉祝」「反対」両派の集会や行事がさまざまに行われた。(中略)今年とくに目立ったのは三島事件をめぐる両派の“対決ムード”奉祝派は三島事件をきっかけに民族意識の高揚を図ろうとし、反対派の新左翼系学生の間からは「天皇制イデオロギー打倒」のスローガンも飛び出すなど、熱っぽいふんい気だった。(中略)また、反対派の全国全共闘連合、全国反戦派は日比谷野外音楽堂に約2000人が集まって「紀元節粉砕、労学市民中央総決起集会」。「侵略を賛美する靖国法案粉砕」「三里塚闘争勝利」「入管法粉砕」などさまざまなプラカードが並んだが、そのなかで「天皇制イデオロギー打倒」のスローガンが、学生運動の中で初めて登場した。
中核派のスローガン、必ずしも他派の同調は得られていないようだったが、同派の活動家は「安保自動延長の国家総動員体制の中で、それを支える思想は天皇制イデオロギーだ。三島事件で天皇制問題が改めて意識にのぼったが、この問題の解決なくしては革命はない。」と熱っぽく説明していた。』

【左右集会に9千人 東京】(引用)
『(略)これらの集会、デモの警備のため機動隊2000人も出動。日比谷公園の全共闘系集会に参加した共産同戦旗派と叛旗派の合わせて180人が竹ざおでなぐりあう内ゲバ騒ぎがあったが、全般に平穏だった。(略)』

日比谷公園の日比谷図書館前付近で両派は衝突した。叛旗派も戦旗派も一団となって低い姿勢で竹ざおをハリネズミのようにした陣形で激突。しばし、両派の竹ざおのバチバチという打ち込む音がしていたが、M氏ら数人が一斉に掛け声を上げながら脇から叛旗派を攻撃。それをきっかけに叛旗派はズルズルと後退し、総崩れとなった。
後には、叛旗派の小旗の付いた竹ざおとヘルメットが残された。
この日の内ゲバで勝負を分けたのは、戦旗派のM氏らの側面攻撃だろう。攻撃は最大の防御という言葉どおりの展開だった。
それとも、週刊誌のプロテクターのお蔭か?

ブント内の内ゲバはその後も続き、明大内でも戦旗派(和泉・本校)と情況派(生田)、
神田地区でも明大の戦旗派と専大の「さらぎ派」との間で抗争が行われた。
党派が内ゲバを繰り返す中で、明大の黒ヘルノンセクトは学内ロックアウト体制に対する闘いの中心となっていく。

(注1)「建国記念の日」:戦前は「紀元節」と呼ばれ、神武天皇(初代天皇)が即位した日を日本の紀元(歴史が始まる最初の日)としたことが始まりとされる。戦後、「紀元節」はなくなったが、1967年から「建国記念の日」として復活し国民の祝日となった

(注2)三島事件:1970年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の総監室で三島由紀夫が「楯の会」メンバー4人と共に総監を人質に取って籠城。三島自身がバルコニーで自衛隊決起(=反乱)を促す演説をした後、総監室で割腹自殺した事件。

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今回は新宿駅西口地下広場での「反戦フォーク集会」のその後の状況である。
1969年6月28日、機動隊突入。まず新聞記事を見てみよう。

朝日新聞 1969.6.29
【“土曜の夜”ついに爆発 新宿駅西口】(引用)
反戦フォークソング集会 交番メチャメチャ 機動隊がガス弾で規制
『28日夜、東京・新宿駅西口地下広場の名物“フォークソング集会”は約7千人にふくれ、新宿郵便局の郵便番号自動読みとり機の強行搬入の問題もからんでついに爆発した。
若ものの群集は機動隊と衝突を繰返しながら西口改札口を自由に出入りし、機動隊は地下広場にガス銃を撃ち込んで規制、学生ら64人が公務執行妨害などの疑いで逮捕された。
また、通りがかりの女性2人が巻き添えでけがをし、警官もけがをした。国電は平常どおり運転したが、広場から出るバスはいずれもストップ。夜遅くまで続いてビルの谷間の反戦歌は、ガス弾の煙の中で涙の大合唱に変わった。(略)』

この日は記事にあるように、新宿郵便局への郵便番号自動読みとり機の強行搬入の日とも重なり、全逓の反戦(ブント系)を支援するため明大の社学同も集会に参加し、駅構内でデモもしている。
また、「明治大学新聞」のY記者も現場で取材にあたっており、6月28日の集会の様子を記事にしている(注)。そこから一部引用してみると

明治大学新聞 1969.7.3
【容赦のない“警棒” 西口地下広場は人・人・人】(引用)
『(略)機動隊は地下広場や地上にいる群集に向かってもところかまわずガス弾を撃ち込む。それは頭の上を音を出して飛び、逃げ惑う人々の足元で爆発する。すさまじい光景である。
駅出入口付近まで機動隊が突進してきた。記者は持っていたカメラを向けた瞬間、走りすぎる機動隊の1人が蹴り上げたと思ったと同時に、顔面に衝撃を受けた。気がついてみると前歯が1本、半分ほどかけていた。(略)』

Y記者の現場での生々しい体験である。この記事を読んでガス弾の飛ぶ音を思い出した。そういえばMUP共闘のY氏は前歯が欠けていたかな?
写真はY氏が撮った1969.6.28の新宿駅西口地下広場の写真である。
この事件から1か月後、新宿駅西口地下広場はついに機動隊に制圧されてしまった。

朝日新聞 1969.7.27
【新宿西口“機動隊広場”に】(引用)
『東京・新宿駅西口地下広場の“土曜フォークソング集会”を実力で規制している警視庁と淀橋署は、26日も同広場に2200人の機動隊員を配置、群集が少しでも立ち止まると実力で押し出すというハード戦術をとったため、集会は先週に続いて、お流れとなった。群集は集まるスキさえなく、広場はこの夜、完全に“機動隊広場”となった。
午後8時頃、群集の一部が東口に流れて歌舞伎町方面へデモをしかけたが、これもあっさり規制された。この日、“機動隊広場”での警官とのこぜりあいで、6人が公務執行妨害の現行犯で逮捕された。』

これから約1年後の1970年6月6日、再び新宿駅西口広場に歌声が響く。しかし、警察の壁は厚かった。翌週の西口広場での集会は機動隊員2000人の規制により阻止され、その後、西口広場での反戦集会は実現していない。

2008年1月、新宿駅西口地下広場。反戦集会があった場所は「イベント・スペース」となっており、CDの販売や地方の物産展などが開かれている。人が集まっているのはここだけだ。それ以外の場所で立ち止まる人は少ない。立ち止まるのは、待ち合わせの人たちか托鉢僧くらいのもの。
広場を行過ぎる人波は昔も今も変わらないが、38年前、ここで若者たちが「アンポ・フンサイ」「闘争勝利」のシュプレヒコールを叫び、デモをして機動隊に「帰れ、帰れ」と叫んで騒然とした広場だったことを覚えている人たちは何人いるだろうか。

新宿駅西口地下広場という出会いの「広場」を我々が喪失してからずいぶん長い年月が経つ。しかし、今、インターネットという新たな出会いの場を私たちは手に入れた。
このブログもホームページも国境や国家に制約されることなく、全世界の人々に開かれ、つながっている。このインターネットが社会変革の「広場」としてどんな可能性を秘めているのか、また、そこで何が可能なのか私にはまだ分からない。

今日もまた、インターネットという未知の大海に私の小さな小舟を漕ぎ出して、遥か水平線の彼方にあるであろう、失われた希望や夢、想いが残る場所へと旅を続ける。


(注)「明大全共闘・学館闘争・文連」の明治大学新聞の記事の中に6.28新宿土曜反戦フォーク集会を取材したY記者の記事があります。




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