
3月になると季節も一気に春らしくなってくる。家の周りを散歩していると、日差しや風の感触で季節の変わり目を実感する。冬の間、近くの公園の池にいたカモもめっきり数が減っている。この2~3週間、空を飛ぶカモの群れ(写真)を見かけたが、北の空に旅立っていったのだろうか。
さて、3月は旅立ちの月、卒業式の季節でもある。1969年3月12日、私も高校を卒業したが、この年の高校の卒業式は“造反卒業式”が相次ぎ、荒れた。
1969年の2月と3月の新聞記事には、全国の高校の“造反卒業式”の記事が載っている。
朝日新聞 1969年2月25日 (引用)
【高校卒業式にヘルメット】
【二校では開場を封鎖 延期や教室で分散実施】
『学園紛争は高校でもエスカレート。25日、大阪府下で行われた公立高校で行われた卒業式をねらい、茨木、阪南の両高校の反代々木系の高校生らが卒業式の自主運営や処分撤回をめぐって卒業式場や職員室をバリケード封鎖、占拠した。
東淀川高でも学校の“おしきせ答辞”に反対する生徒側が独自の答辞を読み上げる騒ぎがあり、卒業式に登場したヘルメット、覆面、角材に、父兄も教職員もはげしいショックを受けていた。大阪府教委の吉沢教育長は「なぜ起こったのか理解に苦しむ。卒業式の妨害そのものが目的としか考えられない。生徒指導の効果が十分あげられなかったことは反省している。」と、しぶい顔だった。(後略)』
朝日新聞 1969年3月2日 (引用)
【卒業証書破る 広島 高校の卒業式で総代】
『県立皆実高校で行われた1日の卒業式で卒業生総代の女生徒が校長から受け取った卒業証書を壇上で破り捨て、式は一時混乱した。この女生徒は普通科の総代で、大館校長が495人分の証書を手渡し一礼して1,2歩さがったところで、証書の束を投げ捨て、一番上にあった自分の証書を破り捨てた。さらにポケットから原稿のようなものを取出し、読み上げようとしたが、大館校長が「いいたい事はあとから聞きたい。先に卒業式をすませよう」といい、教諭数人が席に引き戻した。卒業生の一部には泣き出す女生徒も出たが、式は無事終わった。(後略)』
朝日新聞 1969年3月13日 (引用)
【卒業式場に乱入、占拠 都立武蔵丘高校 20数人、警官が排除】
『東京都立武蔵丘高校の卒業式が行われる予定だった13日の朝8時半過ぎ、ヘルメット、覆面姿の高校生20数人(うち女2人)が、一部は角材を持って同校に入り込み、窓からタレ幕をさげ式会場の講堂を荒らした後、校長室、職員室などがある同校の1号館を封鎖してとじこもった。(中略)午後零時15分、3人の先生が校門を押さえたのを押し切って制私服の警官約30人が入り、バリケードをこわして、とじこもっていた高校生を排除、校舎から連れ出した。
「反戦高協」は反代々木系中核派につながる都内最大の高校生組織で、大阪府下で起こった卒業式当日の占拠騒ぎも、同じ組織がやったといわれている。』
朝日新聞 1969年3月14日 (引用)
【九段高も大荒れ 批判の答辞、なぐりあい】
『14日、午前10時から東京都立九段高校で卒業式が行われたが、式の途中で卒業生約30人が「集会を開かせろ」などと叫んで演壇の上や周りにかけ集まった。このため、卒業式が中断、式の続行を主張する生徒との間で殴り合いも起こった。
式は開始直後から荒れ、「君が代」斉唱のとき卒業生の一部が「ナンセンス」などと叫びながらインターを歌った。卒業生代表が「高校教育の矛盾のうちにわれわれは3年間を過ぎしてきた」で始まる激しい学校批判の答辞を読み上げ、「意味のない卒業式をやめて、大衆的規模で自主卒業式を開こう」と叫び、それをきっかけに生徒たちが演壇にかけ上がる騒ぎとなり、後列の在校生席の生徒が横断幕を広げようとして他の生徒ともみあった。
(中略)卒業生400人のうち100人近くが先生の一部も加え独自に「自主卒業式」を行い、先生を詰問しては登壇して釈明を求めた。(中略)騒ぎを起こした中心は反代々木系社学同につながる「社高同」系の3年生約30人で、式に参列していた約30人の2年生の一部もこれに同調した。』
【高校卒業式の混乱 名門校含め56校に 首相指示「けじめつけよ」】
『佐藤首相は14日の閣議で、高校卒業式の一連の妨害事件について発言、坂田文相に対して「高校生を刺激してはいけないという考えから措置をあいまいにしておくことがかえって問題を広げているように思う。都道府県の教育委員長、教育長に助言、指導して、けじめをつけるようとりはからってもらいたい」と指示した。(後略)』
高校の“造反卒業式”に、当時の佐藤首相も対策を指示せざるを得なくなったということか。次回の連載では“造反答辞”の内容を紹介する。
※ 連載19の続き「全国大学紛争校一覧関東地区編」は4月の連載に変更しました。