野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2008年03月

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今年は桜の開花が早い。東京・新宿の桜(写真)もすでに満開です。
さて、今回も前回に引き続き1969年春の高校の卒業式を巡る“造反答辞”の話である。「サンデー毎日」の記事からの引用。

「サンデー毎日」 1969年3月23号
【これが高校卒業式の“造反答辞”だ!】 (引用)
【式の最中に校長弾ガイのたれ幕がさがったり、式場がバリケードで封鎖されたり・・・このところ高校の卒業式は異変つづき。どうやら「仰げば尊しわが師の恩・・・」などと涙にぬれるのは時代おくれ。“わが師”を批判し政府・文部省を攻撃する“造反答辞”を読むのが卒業式の“ニューモード”になったようだが、いったい“造反答辞”は何を訴えようとしているのか。】
『京都府立鴨沂(おうき)高校
 (前略)現在、ほとんどの講座に於いて先生方は十年一日の如く同一の事項を同一の抑揚でもって語られ、その言葉は、私たちの耳もとをかすめるばかりで何ら私たちの心を喚起しない。この様な先生方は、自らが教えることの意味を述べられず、ただ教科書の文章を言葉に直されているだけである。そして現社会に関心を持つことを私たちに求めながら、文部省・PTA並びに一部商業新聞の見えざる圧力によって、主体的な授業を行えないように強いられている。しかし先生方はこの現状にあまんじ、「教師にも生活がある」と云って自らの非主体的且つ欺瞞的言動を隠蔽(いんぺい)しようとされている。これは先生方が精神的に老齢化し、圧力に屈せず情熱をもって物事に本質的疑問を投げかけるという教育者としての基本的態度を放棄されることを明確に表している。(中略)
こうした状況で本校に教育という名にふさわしいものがあり得るであろうか。元来、教育が「教師と生徒」という人間関係である以上、その前提として、相互に人格を認めなければならないのに、両者の間には不信感があるばかりである。・・・そして相互信頼が欠如し空洞化した授業が何らの反省なくして日々行われてきた。(中略)文部省で定められた無味乾燥な教科書を教えるような人間不在の非現実的教育を省みなかった先生方は、文部省ともに強く糾弾されねばならない。今日、社会的メカニズムの一歯車としての個人の存在価値が、機械文明の自己発展の中で真剣に問われ、旧来の人間関係が封建的秩序観とともに破綻をきたしている。そして東大・日大近くは京大・立命、海の向こうではパリ、カリフォルニア大学で学園紛争がおこり、学ぶ者が現教育体制の変革を自らの手で成そうとしている。また70年は間近く、私たちも日本人としてその民族的意志決定をしなくてはならない。こうした情勢を見て私たちは、主体性の議論の中で現状を批判するばかりで、何ら創造的変革の行動にでなかったことを反省しなくてはならないと思う。「受験体制を支えてきたのは。私たち自身の安易な人生観・世界観ではなかったか。」「政府の産学協同路線の一環としての高校教育多様化、並びに法的に認められている高校生の政治活動を一方的に抑圧する策動を許しているのは、私たち自身の我がままな政治アレルギーではないのか。」この批判を今こそ各自が自らに問うていかねばならない。私たちは管理されること拒否し、飼育されている現状を変革しなくてはならないのである。
学校側の答辞問題不当介入を糾弾し、当局に自己批判を求める。』

この答辞を読んで、私の高校にも教科書を読んでいるだけの教師がいたことを思い出した。教えることには全く興味がない様子で、生徒指導担当ということで生徒への監視の目だけを光らせていた。
この号の「サンデー毎日」の記事には、いくつかの高校の“造反答辞”が載っているが、他の答辞も受験体制の否定、教育の本質への問いかけなどにあふれている。

『大阪府立東淀川高校
(前略)社会の学歴偏重に起因する大学受験の激化のために、3年間、大学受験だけを目指し、とにかく、できるだけ良い大学へ入る教育を受けてきました。受験科目以外の軽視、大阪中で1、2を争うというテスト回数、能力別授業、クラブ活動などの生徒の自主的活動の不活発さ、全て、受験体制の生み出した矛盾なのです。そのような無理な体勢のもとでは、当然のように先生と生徒の信頼は失われ、不信感は学校全体をとりまきます。担任といっても、ただ教科書を解説してもらっただけで、このような先生方から、真の人間性あふれた先生を見出そうとする事自体、無理だったのでしょうか。
現在起こっている大学紛争など、私達にとって他人事ではないのですが、実際に起こっている事態に背を向ける事なく、なぜこのような紛争がおこっているのか、根本的に教えてくれる先生が欲しかったのです。(後略)』

答辞の記事全文を紹介したいが、ブログの字数制限のため、この2つの答辞だけ紹介した。
今の高校生の卒業式はどんな様子なのだろう。

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3月になると季節も一気に春らしくなってくる。家の周りを散歩していると、日差しや風の感触で季節の変わり目を実感する。冬の間、近くの公園の池にいたカモもめっきり数が減っている。この2~3週間、空を飛ぶカモの群れ(写真)を見かけたが、北の空に旅立っていったのだろうか。
さて、3月は旅立ちの月、卒業式の季節でもある。1969年3月12日、私も高校を卒業したが、この年の高校の卒業式は“造反卒業式”が相次ぎ、荒れた。
1969年の2月と3月の新聞記事には、全国の高校の“造反卒業式”の記事が載っている。

朝日新聞 1969年2月25日 (引用)
【高校卒業式にヘルメット】
【二校では開場を封鎖 延期や教室で分散実施】
『学園紛争は高校でもエスカレート。25日、大阪府下で行われた公立高校で行われた卒業式をねらい、茨木、阪南の両高校の反代々木系の高校生らが卒業式の自主運営や処分撤回をめぐって卒業式場や職員室をバリケード封鎖、占拠した。
東淀川高でも学校の“おしきせ答辞”に反対する生徒側が独自の答辞を読み上げる騒ぎがあり、卒業式に登場したヘルメット、覆面、角材に、父兄も教職員もはげしいショックを受けていた。大阪府教委の吉沢教育長は「なぜ起こったのか理解に苦しむ。卒業式の妨害そのものが目的としか考えられない。生徒指導の効果が十分あげられなかったことは反省している。」と、しぶい顔だった。(後略)』

朝日新聞 1969年3月2日 (引用)
【卒業証書破る 広島 高校の卒業式で総代】
『県立皆実高校で行われた1日の卒業式で卒業生総代の女生徒が校長から受け取った卒業証書を壇上で破り捨て、式は一時混乱した。この女生徒は普通科の総代で、大館校長が495人分の証書を手渡し一礼して1,2歩さがったところで、証書の束を投げ捨て、一番上にあった自分の証書を破り捨てた。さらにポケットから原稿のようなものを取出し、読み上げようとしたが、大館校長が「いいたい事はあとから聞きたい。先に卒業式をすませよう」といい、教諭数人が席に引き戻した。卒業生の一部には泣き出す女生徒も出たが、式は無事終わった。(後略)』

朝日新聞 1969年3月13日 (引用)
【卒業式場に乱入、占拠 都立武蔵丘高校 20数人、警官が排除】
『東京都立武蔵丘高校の卒業式が行われる予定だった13日の朝8時半過ぎ、ヘルメット、覆面姿の高校生20数人(うち女2人)が、一部は角材を持って同校に入り込み、窓からタレ幕をさげ式会場の講堂を荒らした後、校長室、職員室などがある同校の1号館を封鎖してとじこもった。(中略)午後零時15分、3人の先生が校門を押さえたのを押し切って制私服の警官約30人が入り、バリケードをこわして、とじこもっていた高校生を排除、校舎から連れ出した。
「反戦高協」は反代々木系中核派につながる都内最大の高校生組織で、大阪府下で起こった卒業式当日の占拠騒ぎも、同じ組織がやったといわれている。』

朝日新聞 1969年3月14日 (引用)
【九段高も大荒れ 批判の答辞、なぐりあい】
『14日、午前10時から東京都立九段高校で卒業式が行われたが、式の途中で卒業生約30人が「集会を開かせろ」などと叫んで演壇の上や周りにかけ集まった。このため、卒業式が中断、式の続行を主張する生徒との間で殴り合いも起こった。
式は開始直後から荒れ、「君が代」斉唱のとき卒業生の一部が「ナンセンス」などと叫びながらインターを歌った。卒業生代表が「高校教育の矛盾のうちにわれわれは3年間を過ぎしてきた」で始まる激しい学校批判の答辞を読み上げ、「意味のない卒業式をやめて、大衆的規模で自主卒業式を開こう」と叫び、それをきっかけに生徒たちが演壇にかけ上がる騒ぎとなり、後列の在校生席の生徒が横断幕を広げようとして他の生徒ともみあった。
(中略)卒業生400人のうち100人近くが先生の一部も加え独自に「自主卒業式」を行い、先生を詰問しては登壇して釈明を求めた。(中略)騒ぎを起こした中心は反代々木系社学同につながる「社高同」系の3年生約30人で、式に参列していた約30人の2年生の一部もこれに同調した。』

【高校卒業式の混乱 名門校含め56校に 首相指示「けじめつけよ」】
『佐藤首相は14日の閣議で、高校卒業式の一連の妨害事件について発言、坂田文相に対して「高校生を刺激してはいけないという考えから措置をあいまいにしておくことがかえって問題を広げているように思う。都道府県の教育委員長、教育長に助言、指導して、けじめをつけるようとりはからってもらいたい」と指示した。(後略)』

高校の“造反卒業式”に、当時の佐藤首相も対策を指示せざるを得なくなったということか。次回の連載では“造反答辞”の内容を紹介する。

※ 連載19の続き「全国大学紛争校一覧関東地区編」は4月の連載に変更しました。

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3月は春闘の季節。今から34年前の1974年3月17日、日大講堂で総評(注1)主催のロック、フォークコンサートが開かれた。当時の新聞を見てみよう。

朝日新聞 1974年3月18日 (引用)
【春闘コンサート音高く ロック、フォークに3000人】
【入場料99円が魅力 闘争無関心派   ダラ幹の思いつき “不満派”組合員】
『とらえどころのない若者を国民春闘に結集させようという「春闘勝利・若者総決起、1万人コンサート」が17日午後1時半から東京・両国の日大講堂で開かれた。目標の1万人には及ばないが、3千人以上がつめかけ、まずは盛況だったが、「シュントウってなんのこと?」と聞き返す女子中学生から「こんな甘ったれた催しにはただ反発するのみ」とぶちあげる組合活動家まで、会場の声はさまざまだった。
この催しの一番のお目当ては未組織の若い労働者への呼びかけ。「国民春闘を成功させるには、これらとらえどころのない若者たちをまとめる必要がある」と、一部の強い反対を押し切ってロック、フォークの人気バンド出演による総決起集会が実現した。(中略)
入場料99円、出演料などを支払うとしめて200万円以上も総評側の持ち出しとなるという。』

このコンサートの仕掛け人は前回の連載に出てきた「秀新」の元日大全共闘のマスターの知人である。「労働問題研究所」(?)というところの人で仮にA氏としておこう。
私が大学卒業後、フリーターのような生活をしていた1973年の秋頃、新宿の「秀新」で飲んでいたらA氏を紹介された。A氏はコンサート準備にあたって彼の助手を探していたらしい。
A氏から「総評でロックコンサートをやるから手伝ってくれ」と言われ、思わず「総評?」と聞き返してしまった。A氏が総評から春闘の企画を依頼され、提案したロックコンサートが通ったとのこと。少し躊躇したが定職もないし、総評+ロックコンサート+日大講堂という組み合わせに意外性を感じて引き受けた。この手のイベントがあると、あまり考えずに参加してしまう“悪い癖”(?)があり、この時もそうだった。反省・・・。
事務局は当時、東京・港区にあった総評会館内の春闘広報センター。広報センターの一角に場所を借りて準備が始まった。
ロックコンサートの内容の企画は、1971年夏に三里塚で行われた幻野祭をプロデュースした2人組が担当した。
主な出演者は内田裕也、山下洋輔、三上寛、長谷川きよしなど。

私は主に情宣担当ということでポスター貼りとビラ配りをした。ポスターは直接電柱に貼るのではなく、ベニヤの捨て看板にポスターを貼って、捨て看を電柱に針金で巻きつける方法をとった。夜中にライトバンに看板を積んで都内を巡りながら2~3人で手早く作業をしていく。(芝浦工大の第四インターの人との共同作業でした。)
ビラ配りはピアなどでコンサート情報を収集し、そのコンサート会場の入り口付近でビラ撒きをする。当時、明大に在学していた高校時代の同級生のN君を誘って各地でビラを配った。
新宿厚生年金会館では、ビラ配りをしていたら、知らない人が声をかけてきて、「待ち合わせの人が来ないので入場券をあげる」と言われタダでウイルソン・ピケット(注2)のコンサートを見た記憶がある。

このコンサートに関連して、何人かの明大関係者に出会った。
日本音楽著作権協会に著作権料の値引きの交渉に行ったところ、駿台論潮というサークルの「元祖黒ヘル氏」が出てきてビックリ。当時の話などして交渉したが、結局まけてもらえず。
当日の会場設営では、1970年の駿台祭実行委員会企画局長のO氏のグループが設営を請け負っていた。その中には、414B統一戦線に参加していたこともあり、1972年の駿台祭実行委員会企画部員だったO氏もいた。
会場で声をかけたら「何で総評にいるんだ」と警戒されたが、事情を話して納得してもらった。

さて、コンサート当日は会場の準備や出演者の案内などで「ここが大衆団交の学生達で埋まった日大講堂か」などと感慨にふける余裕もなく、あっという間に開場の時間に。入場料はタダだが99円をカンパ(税金対策)ということで、100円を入り口でもらうのだが、観客が入り口に殺到して100円玉が乱れ飛ぶ大騒ぎになった。
新聞記事にもあるようにコンサートそのものの春闘効果はほとんどなかったと思うが、総評というお堅い労働組合の団体がロックコンサートをやるということで話題となり、新聞やTVに取り上げられたので、それだけでも春闘のPR効果はあったのかもしれない。
1970年代前半、労働組合とロックコンサートが結びつかなかった時代の出来事である。

(注1)総評:日本労働組合総評議会の略。日本最大の労働組合組織だったが、1989年、現在の連合に合流し解散した。
(注2)ウイルソン・ピケット:黒人ソウルシンガー。「ダンス天国」などのヒット曲がある。

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1970年といえば、思い浮かぶのは「藤圭子」。(写真)
彼女の歌には新宿の匂いがする。
1969年のデビュー曲が「新宿の女」なので当然かもしれないが、「圭子の夢は夜ひらく」など他の彼女の歌を聴いても夜の新宿の街の様子が目に浮かぶ。
あのちょっとかすれたハスキーボイスとルックス、暗さや怨念を感じさせる歌いっぷり・・・。
私は部屋に藤圭子の顔のドアップで、片目から涙を流している大きなポスターを貼っていた。某自動車メーカーが系列販売店での宣伝用に作成したキャンペーンポスターであるが、アルバイト先のキャンペーン下請け会社で手に入れた。夜、寝る時、丁度このポスターが見えるような位置に貼って眺めていた。
そのポスターは今はもうない。
明大の中核派に藤圭子の大ファンがおり、たまたまこのポスターの話をしたところ是非欲しいということになり、彼のアパートで「猪鍋」をご馳走になる代わりにポスターを提供することになってしまった。「猪鍋」を食べるのは初めてだったが、とても美味かった。
でもポスターも惜しかったな・・・。

1972年、その元中核派の彼から突然電話があった。新宿の中華料理店でウエイターのアルバイトをしないかという誘いだった。彼はすでに大学も辞めて、その店でフロアマネージャーをやっていた。人手不足で私に声をかけてきたのだろう。
ウエイターはやったことがなかったので断ろうとしたが、とにかく1日でもやってくれということで、その店でアルバイトをやることになった。大学での活動もあるので、アルバイトは土日や繁忙期だけだったが、結局3年近く新宿に通うことになってしまった。その中華料理店は新宿伊勢丹の裏手にあった。
3年近くもアルバイトが続いた理由は何といっても食事。店が閉まった後、コックさんたちが残りの食材を利用して従業員用の夕食を作る。店に出すような料理ではないが、残り物とはいっても自分達も食べる料理なので量も多く、とても美味しい料理を作る。店の人たちは皆酒好きで、「マネージャー飲もうよ」といってビールを開けさせて飲みながら食事をする。結構飲ましてくれるし料理も美味い。こんないいアルバイトはないと当時は思っていた。営業中でも北京ダックなどの高級料理で客が食べ残したものは取っておいて、ウエイターやウエイトレス連中で店の裏手で味見をしていた。
そんな訳で中華料理(北京料理)についてはよく知っている。代表的なものは大体食べたことがある。でも「なまこ」の料理は苦手だったな。
この店には私の紹介で明大文連のメンバーも何人かアルバイトをした。文研のM君もアルバイトに来て、ウエイトレスにワイシャツに口紅を付けられたりしていた。

1973年の初め、同級生のN君から、N君の知り合いで元日大全共闘の人がマスターをやっている新宿の大衆割烹でアルバイトをしないかという話があった。店は新宿西口の新宿警察署の前のビルの地下にあり、「秀新」という名の店だった。卒業までの短い期間だったが、中華料理店と併行して、夜の数時間、そこで皿洗いのアルバイトをした。
その後、卒業してフリーターのような生活をしながら原宿の専門学校で勉強をしている頃、この「秀新」には客として通った。
「秀新」で飲んだ後は、マスターなどと一緒に新宿歌舞伎町にあった「ビレッジ・ゲート」という深夜営業の「ジャズ喫茶」(?)に何回か行ったことがある。
「ジャズ喫茶」というより、ディスコの前身のようなキャバレーを改造したような店だった。「秀新」のマスターの知り合いの青学の女学生たちとフロアで踊った記憶がある。彼女たちはプロ学同関係者だったかな?
この店も元日大全共闘のメンバーがよく利用しており、彼らと「これからの大衆運動の可能性」などということを酒を飲みながら論じ合った。
「秀新」には会社に就職した後もよく通った。店にあった日本酒の一斗樽を飲み干そうということで「一斗樽を空ける会」という会を作って、仲間を30人ほど集めて盛大に酒盛りをしたこともある(もちろん一斗以上飲んでしまった)。余談だが、この会の帰りに新宿西口で他グループと喧嘩となりパトカーや救急車が来る騒ぎになってしまった。反省・・・。

2008年、今日も雑踏の中をJR新宿駅の改札を通って会社に向かう。1969年の歌舞伎町コマ劇場裏のビラ配りから、今回書いた新宿伊勢丹裏の中華料理店のウエイター、新宿西口「秀新」での皿洗いまで、新宿はアルバイト生活の想い出の場所でもあり、現在の仕事場でもある。
今回の雑記に書いた当時アルバイトをしていた店は今はもう無い。新宿も1970年前後の様子と大きく変わり、当時の雰囲気も無くなってしまった。
でも、私にとって1970年前後の時代の記憶は新宿という街と切り離すことができない。


※「秀新」ではマスターの紹介で、あるイベントに関わることになったが、その話は次回の雑記に書く予定です。

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1969年2月、東京・国電「代々木」駅前に某予備校の大学紛争速報なるものがはり出された。警視庁からの情報をもとに、全国71大学の状況がバリケード封鎖・占拠・閉鎖、一部学生が入試阻止を叫んでいるもの、場合により入試阻止の可能性があるもの、スト、大衆団交などに分類され掲示された。
予備校なので、入学試験が受けられるのかどうか、という所にポイントを置いたものだが、それぞれの分類に挙げられている大学は
1 バリケード封鎖・占拠・閉鎖
  秋田大、山形大、東大、電通大など10大学
2 一部学生が入試阻止を叫んでいるもの、
  日大、中大、富山大など9大学
3 場合により入試阻止の可能性があるもの
  横国大、岡山大、上智大など10大学
4 スト
  群馬大、広島大、関大など9大学
5 大衆団交
 一橋大、神奈川大など15大学 
となっている。

私は当時、高校3年生で大学入試の真只中だったが、大学の紛争状況などあまり気にしていなかった。受験生も紛争大学を避けていたら受験する大学がなくなってしまっただろう。
1969年の大学入試は東大の入試が中止になるなど、波乱含みの展開。全国の大学に紛争が広がっていたこともあり、予備校の貼り紙と同じ時期に、週刊誌でも大学紛争特集号が組まれた。
この特集の中に全国大学紛争地図というのが載っていて、大学名、争点、紛争経過、闘争形態、指導セクト、見通しが一覧表になっている。
当時の大学の様子がよくわかるので、連載で何回かに分けて紹介したい。今回はとりあえず北海道・東北編

「サンデー毎日」 1969年2月20号【緊急特集 東大紛争から安保へ】 
【全国大学紛争校の一覧】(引用)
『一覧の見方:<大学名>~菘性∧響莊于甅F争形態せ愼灰札トジ通し

北海道地区
<北海道大学>
∥膤悗鯊膩親始が貫通する計画に反対大学が国や札幌市と交渉中散発的な学内デモ、現在は小休止状態て鋗Ψ呂亮治会コ搬腓靴覆ぬ詫
<北海道教育大学>
ゞ軌?陵冖簑雖∈鯒暮れに2週間のバリケード封鎖があった。共闘体制の確立を急ぐ。3愼皀妊癲⊇顕颪散見される程度て鋗Ψ呂亮治会ジ通し立たず。
<室蘭工大>
ヽ慇故世侶暙澣擇啀娠牒∈鯒2回のストがあり、大衆団交を要求中授業に影響がない程度の集会・デモて鋗Ψ呂領誓賢ツ拘銧修靴修
<北見工業短大>
[世隆浜?娠牒団交が連続的に繰返されている集会・デモ程度て鋗Ψ呂領誓賢ゼ?Δ

東北地区
<弘前大学>
‥貘臚?鄰羯澆砲箸發覆δ螳?佞蠅錣韻鉾紳亅火がついたばかり集会・街頭デモせ愼廓蛭兇鰐棲里任覆一般学生の盛り上がりゾ霎しだいで拡大しそう
<秋田大学>
ゞ詰楹愽新学部長不信任、選挙に学生の参加を要求▲機璽ル部屋変更を契機に学部長選挙、医学部問題がからみ激化、封鎖解除をめぐって日共系と反日共系が対立3愽長室占拠、バリケード封鎖ぜ卆墜厩餾歇腟素匹強いゼ?Δ慮込み立たず
<山形大学>
ヽ慇顕餞曚隆浜?娠牒大学祭予算問題に端を発し、団交は1回もたれたが以後、学長が病気となり再開の見込みなしバリケードをはらずに学館を占拠中、大学の運営には影響なしと芯覲愽勝⊆卆墜厩餾歇腟素畢ヅ?匹論鉄僉下火になりそう
<東北大学>
‥貘臚争に対する政府の不当干渉反対東北地区における日共系拠点大学として、地方自治会代表者会議を開催、反日共系は動かず3愼皀妊癲近く東北全域ストを計画て鋗Ψ廊ジ通しつかず
<福島大学>
ゞ軌?陵冖簑蝓⊃軍慊垢料挙問題県教委の教員採用試験でA段階(即時採用)がゼロだったため始まった。多数の学生が参加3愼癲Τ稿デモ、対県交渉せ愼嚇淒匹呂覆一般学生が多数参加ヂ亳交渉の結果しだい 』

この続きは3月22日の連載で関東地区の大学の状況を紹介する予定です。



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