
連載22で、1969年春の高校卒業式をめぐる闘いの新聞記事を紹介したが、1969年2月から3月にかけて高校の卒業式が全国で荒れていたことから、新聞でも高校生の特集記事が組まれた。
朝日新聞の2月の新聞記事に「ヘルメット高校生」という特集記事が3回にわたり連載され、その中で、ある活動家の日記が紹介されている。
1967年から1969年までの、主要な闘争に参加した活動家高校生の心情がよくわかるものなので、引用する。
朝日新聞 1969.2.15 「ヘルメット高校生」(引用)
【変身 戸惑いつつ体当たり 受験教育に持てぬ希望】
『42年10月8日、<(第1次羽田事件)オレと一緒に行動した人が死ぬなんて。同志山崎の死をむだにしてはならない。この日は忘れられない。先輩に誘われて恐る恐る大学生のシリについて行った羽田。燃える装甲車。もうもうと上がる黒煙。投石の音。かん声。赤旗の波。オレは疑わない。革命の日が来ることを。>
12月×日<民青を除名された。加盟して半年もたたないのに、いつかの会合でー問トッロッキストってなに?答右翼から金をもらって動く連中さ。ナンセンス。オオカミとなるもハイエナとなるな。>
43年1月17日<(佐世保事件)学校の仲間2人と日比谷公園へ。激しいジグザグ。高校生50人。わが校4人>
1月21日<1人で横須賀へ。機動隊にめった打ちにされた。権力が憎い>
2月20日<初めてヘルメットをかぶり王子集会へ。デモの前の方についたら機動隊の猛攻撃にあった。ヘルをとられ、さんざんけられたが、こちらもクソ度胸がついてきた>
(中略)
4月9日<成田、王子の衝突で学友2人入院。だのにオレは日和(ひよ)った。こわいのだ。あのジュラルミンのタテのガチャガチャふれあう音が。>
6月8日<キョウハFコトデイト。成田デモサボリマシタ。1時、新宿。突然、海が見たくなった。3時、品川ふ頭。この広い世界にいるのは2人だけ。見渡す限り倉庫、クレーン、トラック。雨が降りだした。外国船が1隻、そーっと走っていった。>
6月11日<闘争。それは理論が思想がすべてだ。思想性の弱さがオレの行動を日和らせる。反省。マルクス「共産党宣言」から読み直せ。身辺の矛盾を的確に捕えろ。>
6月12日<高校生活でわれわれは、どんな目標を持てるか。試験で良い点とって有名大学に入ることぐらい?その大学はあのざまだ。>
6月15日<われわれのビラは、いつも教室の床に散らばり、踏まれている。クルマの話、女の話に埋没した享楽派。授業妨害しやがって生活破たん者め、といった目つきでオレたちを見るガリ勉屋。みんなぬくぬくと生きている。オレだけが疲れる。みんなにいやな顔されて。それでもオレは配る。>
6月16日<F子、君だけはオレをわかってくれ。苦労してビラをつくるのに、オレのどこが間違ってるんだ。安保まであと2年。どうなるんだ。>
7月×日<大学のバリケードの中で夜をあかす。たった2個のあのにぎりめしの味。ゲバルト。連帯感。指導部への信頼感。すばらしい。>
7月×日<デモスタイルのまま学友のキャンプに参加。しかし、この目的のない集団の生活と、きのうの大学コミューンの緊張と満足の生活との落差。これに堪えることにオレはいらだつ。>
(中略)
8月20日<レーニン「帝国主義論」要約完成近し。マルクス「ドイツ・イデオロギー」「ヘーゲル法哲学批判」「フォイエルバッハ論」を読破する。人間とは?存在とは?意識とは?愛とは?新島淳良「毛沢東における弁証法の諸問題」毛沢東「老三編」を読む。>
9月4日<オレの将来は?大学に入って運動するか、高校を出て労働者になるか。>
9月7日<生まれて初めてゲバ棒を持ち、日大闘争に参加。素振りでヤル気を確かめた。警備車に思い切り投石。オレの自己変革の産物、ゲバ棒。>
11月18日<10月21日の新宿闘争の後、騒乱罪事後逮捕の恐れから、日記も隠した。新宿では1年前の10・8に見られなかった高校生が300人ほど集まった。>
44年1月23日<東大安田解放講堂落城。お茶の水バリケード。荒廃しきった精神と疲れきった肉体をいやしてくれるのは、赤旗とヘルメットとインター。あゝ、オレたちが報われる日はいつ。
オレは綱を渡る 迷ってはいけない よそ見をしてはいけない ただ一途に淡い炎に向かって 弱い1本の綱に オレをかける > 』
記事によると、この日記を書いたのは、ある高校生セクトの幹部。1969年2月現在で、高校2年生ということである。
この日記の最後の詩には、闘争を続ける者の孤独、そして遠くに見える「淡い炎」へと向かう強い意思を感じる。彼にとって「淡い炎」とは何だったのだろうか。
革命、連帯、希望、愛・・・・。答えは個々人で違うだろう。
私にとって「淡い炎」とは何だったのだろうか。そして、あの時代(とき)の君にとっては・・・。