野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2008年07月

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今回も前回の連載の続きで、桜画報社員となった「構造」編集部の広告戦線での戦いを「構造」1971・6月号から見てみよう。
写真は朝日ジャーナルに掲載が却下された「構造」の広告である(「構造」からの転載)。

【「桜は咲いたか」 泰平小ゥ僧】(引用)
『3月26日に広告掲載についての連絡があった時、私達は3つのことを考えた。〆まで通りの形式で広告を載せる。回収に対する抗議のボイコット。なんらかのかたちで回収に触れた広告を作る。であった。
私達は討議のうえを選んだ。△離椒ぅ灰奪箸蓮△燭正馮櫃鬚靴燭世韻如6?鮃告ができるわけではなく、別の広告がそこを埋めてしまう。抗議は広告代理店を通って朝日新聞社には伝わるかもしれないが、読者には何一つ知られることはない。回収の問題は単に朝日新聞や朝日ジャーナル編集部に抗議して済む問題だと私達は考えない。第一、それではあまりにつまらない。独占的大新聞社の横暴に対し断固抗議する良心的ジャーナリストという構図はまったく醜悪である。
結末の獲得物を予想しての大風呂敷をここで広げるのは恥ずかしいからやめよう。ただ、回収についての追及が朝日新聞社の中からも外からもなされず、すべてがこのまま封じ込められて行くだけであった時、回収号広告の再掲載というのは“桜の民”にとって最後のチャンスであると思えた。かかるしだいで、広告はなんらかのかたちで回収のことに触れ、できれば赤瀬川原平氏に描いてもらいたいということになった。その結果、赤瀬川氏もその“桜の思想”故に共鳴され、相談もトントン拍子に進展し、次のような関係をイメージして作られた。
―「4.30朝日ジャーナル」に経済構造社の広告が載る。ところが、広告平面を全面的に桜画報号外が乗っ取っている。しかたなく経済構造社は桜画報社にたのみ契約をして全面広告を掲載。-
桜画報はその平面を乗っ取ることにより、3・19回収号分を挽回する。経済構造社も、ジャーナル広告は毎月1回であるのになぜに、4月号だけ2回なのか、その原因と理由を読者の前に解明し、と共に5・6月号の宣伝をする。念のために全体にキリトリ線を付けた。この号がまたもや回収されないとも限らないので、その時はキリトリ線の外を切り取ったうえで回収せよ。という意味である。この理論的根拠は“あくまでも朝日ジャーナルは桜画報の包み紙=パッケージで、本品は桜画報である、”というかの「赤瀬川のテーゼ」に依拠している。
なお、キリトリ線が広告代理店を通して朝日新聞社出版広報部から断られたのは別の理由からであった。朝日新聞社にはそれぞれの発行物に対して広告掲載の規定があり、キリトリ線については、その広告の全長の何パーセントだかに決まっていて、それに抵触するということだった。(これが無規定だと、見本進呈などに使うキリトリ線がエスカレートしてしまう恐れがあるからだそうである)
こうして広告原稿が作られ、版下にされ4月16日に広告代理店に手渡された。
「広告はそのメディアの存在構造を語る」といういくらか有名な一文がある。広告が本文か、本文が広告か、という問を発した人がいたが、これは認識がまちがっている。広告と論文が本文を構成しているのである。私達は新聞にしても雑誌にしても、広告は広告であるとして記事にのみ目を向ける習性を身につけているが、これが問題である。広告はそのメディアの重要な構成要素である。(中略)』

総会屋のオーナーと雑誌編集部との関係も比喩的に書かれているので引用する。

『たとえば親の職業が株主総会指導業でもしていれば、小僧が1人いるってことは、たくさんの会社から小僧の養育費をくださいといって金をいただく立派な理由になる。小僧が学生運動なんかをやっているとかえって多くもらえたりする。第一、スキャンダルやエロ・グロで育てるより「左」で育てた方が小僧の成長も速い、すぐに大きくなれる。大きくなればそれだけ養育費をもらえる。でも銭がたくさん集まってても小僧を育てている保母さんには全然銭はまわってこない。左の保母は左らしく肥やさず貧しくあってこそ左の小僧を育てられようというものだ、との親心らしい。たしかに!正しい!そんなに肥りたがる保母なら解雇する、場合によっては小僧と縁を切ると親はいうのです。子ほど親は立派ではないのが世の常です。
造反有理、理路整然、全面展開は明日のジョーにまかせ、好奇心旺盛責任感皆無の“桜の民”は、ひやかしたり、するふりをして他の暴動心をそそるのです。
とにかく、ぼくらは明後日のジョーである!』

「構造」編集部の広告戦線の闘いは終わった。そして、この「構造」という雑誌も1971年6月号を最後に廃刊となった。
街頭からヘルメットも野次馬も追放されていくような状況の中で、明後日のジョーである「構造」編集部は、その後、どこを乗っ取ったのだろうか。

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連載32で取り上げた「朝日ジャーナル」回収事件の原因となった「桜画報」の作者、赤瀬川原平氏。そして、前回の連載で取り上げた雑誌「構造」の編集部。この両者が「朝日ジャーナル」回収事件を契機に共闘し、「桜画報」による「朝日ジャーナル」誌上乗っ取り作戦を敢行する。
果たして、その成果はいかに・・・。

連載32で朝日ジャーナル回収事件を取り上げたが、回収された「朝日ジャーナル」1971年3月19日号には、前回紹介した雑誌「構造」の4月号広告(写真右)が掲載されていた。回収の補償として、広告代理店から「構造」編集部に広告を再度「朝日ジャーナル」に無償で再掲載するかどうかの問い合わせがあった。
「構造」編集部では再掲載する旨広告代理店に回答したが、その再掲載に際して、朝日ジャーナル回収事件の原因となった「櫻画報」の作者である赤瀬川原平氏と会見して再掲載する広告の内容を相談し、広告戦線の戦いへと打って出る。その顛末が前回の連載で紹介した雑誌「構造」1971年6月号に記事となって載っている。

その記事を紹介する前に、赤瀬川原平氏による「櫻画報激動の千二百五十日」(青林堂)(1974年10月15日発行)の中「主筆デスク日記」から関係箇所を引用する。
『3月17日
 先週出た「桜画報」31号を最後に、8ヶ月間乗っ取っていた「朝日ジャーナル」をやっと乗り捨てたわけでホット一息。(中略)ひと息いれてこちらもハナクソでもほじろうと、右手ヒトサシ指を鼻の穴に挿入したトタンに「ヂリリリーン」と電話。(中略)その電話によると朝ジャ3.19号が急きょ回収されているという。朝ジャ3.19といえばわが「週刊桜画報」最後の包紙。コレハいったい何ゴトが起こったというのだろうか!?「アノー、結局、表紙のヌードと、あの赤セ川さんのアカイ、アカイ、アサヒ、アサヒというのが常務会で・・・」なるほど、ヨシわかった。つまりその常務会とやらは、やっとわが「桜画報」の愛読者となった、ということだろう。これでは遅すぎる。こちとらもう乗り捨てたというのに、なにが今ごろ愛読者だ。(中略)
4月20日
(中略)ところで、広告といえば、朝ジャ3.19回収号の広告掲載主には無償で再掲載の権利が与えられることになり、それに該当する「構造」より密使到来。このしゃらくさい権利をいかに逆転するかといいう問題について慎重に検討を重ねた結果、このスペースを「桜画報」が号外として乗っ取った上でさらに全面広告として「構造」に提供することを決定。「構造」よりの密使は一瞬にして桜画報社員となって、ふたたび「構造」の中に潜りこむ。(後略)』

ということで、密議は終わり、桜画報社員となった「構造」編集部は広告戦線へ打って出る。
「構造」1971年6月号に掲載された記事  
【「桜は咲いたか」 泰平小ゥ僧】(引用)
『4.16・金 
昼すぎ、広告代理店に再掲載用広告版下を提出(写真図1・右から2番目)。約1時間後、「この広告は検討の余地があるので・・」と広告代理店より連絡がある。
数十分後、桜画報の題字、文章、キリトリ線の3点について修正してほしいと広告代理店より申し入れあり。ただちに編集部では検討。3点を塗り潰したり切り抜いた修正案を提示(写真図2・右から3番目)。6時すぎ、それまでの修正によって改めるやり方を御破算にしていつもの形式にしてほしいと朝日新聞社出版広報部より電話で最終回答がある。
4・17・土
朝、広告代理店の「構造」広告担当者と朝日新聞社出版広報部員が来社。正式に回答伝えられる。
夕方、「展望」広告代理店に朝日ジャーナル不許可の広告版下を提出(写真図3・右から4番目)。
4.19・月
朝日ジャーナルに対し編集部で検討後、いつもの形式に直した広告を提出。
4.20・火
昼すぎ、「展望」より広告不許可の連絡が電話である。
4.21・水
10時半、筑摩書房より宣伝担当者、雑誌編集担当者が来社。会談。丁重に断られる。
以後、桜画報型広告でのキャンペーン続行。断られた場合、理由を問うと共に話し合う機会を持ち、それでもダメな場合はあえて今まで通りの形式に直し提出。前と同じ形式でもそれはこれからは新しい意味を持つことになる。自主規制のシンボルである。(後略)』

掲載を拒否された「桜画報」号外の構造全面広告は、5月中に様々なメディア(日大学生新聞1971.5.15号、情況1971.6月号など)に登場するが、その総括がこの6月号の記事であった。

ブログの文字数制限の関係で、この記事の続きは次回の連載で紹介します。

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「構造」という名前の雑誌があった。
1970年1月号が創刊号で、この写真の1971年6月号で廃刊となってしまった。通算18号で消えていった雑誌である。いわゆる総会屋の雑誌。
創刊号の特集は「安保70年の課題と展望」、その後「内乱における軍事問題」「新左翼諸党派70年代の戦略」「プロレタリア独裁」などの特集を経て、廃刊のきっかけとなった6月号の特集は「革命・戦争・ゲリラ」。

特集記事の目次を見ると
「革命武装勢力の概略と問題点」世界赤軍兵士 上野勝輝
「小さな火も広野を焼きつくすことができる」京大レーニン研・教養部戦線
「遊撃戦争の戦略的問題」日本共産党(革命左派)神奈川県委員会
「薔薇の詩」(中南米の左翼ゲリラが作成した爆発物に関する知識の案内書)

この雑誌のすごいところは、このような極めて新左翼的(極左的)・反体制的内容の記事と、掲載されている広告のミスマッチにある。掲載されている広告は当時の日本を代表する大企業ばかり。
ホンダ、日産、いすゞ、富士銀行、第一銀行、三井銀行、三菱銀行、大成建設、大協石油、東京ガス、日本通運、シオノギ製薬、新日本製鉄、山一證券、日興証券、野村證券、大和証券、キリンビールなど。
「革命武装勢力の概略と問題点」の記事の中には日本鋼管、三菱製鋼の広告、「小さな火も広野を焼きつくすことができる」の記事の中にはアサヒビール、富士電機、サッポロビールの広告。
もちろん左翼系雑誌によく登場する広告もある。救援連絡センター、情況出版社、思想の科学、映画批評、模索社などなど。
蜂起・ゲリラ戦争・人民戦争―革命戦争などという記事の中に「明日の力をはこぶー日本鋼管」などという広告が出てくるので、新左翼と大企業が連帯して革命をやろう!というようにも思えてくる。
総会屋雑誌なので、企業側はたぶん雑誌の内容に殆ど注意を払っていなかったのだろう。

さて、編集者達は「薔薇の詩」という当時では超A級の危険な資料を載せており、半ば廃刊覚悟のヤケクソで編集したようにも思える内容だが、編集者達はどのように思っていたのだろうか。
編集後記を覗いて見てみよう。

構造 1971年6月号 編集後記 (引用)
『革命・戦争・ゲリラ・・・おっとろしーい。でも本におさまってしまえば活字の行列になってしまうんでしょうねえ。しかし、なにかあるかなあ。東京はモヤモヤってしているから、なにかあるとおもしろいかもしれない。学校を出て(中途だけど)会社に入ったボク。ボクのこの会社はどうも変だぞ。ボクはこうしてペンをとって、この総会雑誌のしめくくりを書いている。幕が閉じるのか、さてこれから始まりなのかは誰も知りはしない。ボクだけが知っている。こんなボクにだってボク自身のことを知る権利はあるさ。
でも君はいう。「そうかい?」  (F) 』 

当局からの圧力を感じていたのかもしれないが、やはり廃刊覚悟の編集のようだ。
次号7月号は「アナーキズム」の特集が予定されていた。
1971年6月17日、「構造」6月号の発行と歩調を合わせるように、明治公園の中核派系集会のデモで手製爆弾が使用された。警官の重軽傷者37名。
この日以降、新左翼系の爆弾闘争が本格化する。「薔薇の詩」の影響だろうか。
この「薔薇の詩」は、当時、アングラで出版されていたものだが、それを雑誌に掲載して全国の本屋で売ってしまおうというのだから当局もだまって見ているわけにはいかなかったのだろう。廃刊の経緯は一部マスコミにも取り上げられたと記憶しているが、定かではない。

私が当時、よく買った雑誌は「朝日ジャーナル」や「情況」だったが、「現代の眼」や「構造」も時々買っていた。「構造」は数冊持っていたのだが、現在、手元にあるのはこの1冊のみ。
この「構造」という雑誌は編集者も書いているように、読んでいると何か変な感じのする雑誌だった。総会屋雑誌ということで、左翼系雑誌に見られる貧乏症的なところは微塵もなく、堂々とした雑誌でありながら内容は極めて左翼的。広告と記事の内容のアンバランスにより不思議な感覚にとらわれる雑誌である。
この手の雑誌が書店で公然と売られていたのだから、やはり1970年前後の時代はすごい時代だった。

この「構造」1971年6月号は多くの人の手に渡ったと思われるが、古本サイトで捜しても見つからない。多分入手不能。



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今回も前回の連載の続きで、「朝日ジャーナル」の「学園ハガキ通信」から引用する。

朝日ジャーナル 1969.4.6号 【学園ハガキ通信】(引用)
□ 対立する学生勢力 (和歌山大学)
『後期試験前日、全共闘が学館自主管理など7項目の要求を掲げて、経済学部封鎖に突入した。新制地方大学のご多分にもれず、和大も学芸、経済の2学部のみで学舎も離れているため、日共、反日共の対立が学部間対立の様相を呈している。全共闘は結成時のセクト克服ならず、闘争する部分の結集がとくに学芸で沈滞しているため、再三再四学芸において集会を開催。一方、民青は自らの勢力維持に狂奔し、学部ナショナリズムと“暴力学生帰れ”のスローガンで対応し、さらには全共闘大衆団交への学芸評議員出席阻止の団交を開くありさま。
しかし、学芸の流動化も激しく、民青の中教審答申粉砕、学園民主化案が否決されるほどであった。民青の焦燥は3月4日のゲバルト行使に端的に現れた。その前日の学芸での全共闘勝利集会は翌朝8時まで続行していた。
長時間のため30余人に減った集会に、黄ヘル部隊75,6人が左右から突然来襲し、全共闘の学生1人に重傷を負わせた。一時撤退した全共闘は50人の部隊を組織して学芸で3・8集会を開き、おそれをなして逃走した民青から、百余の黄ヘル、ゲバ棒を奪取。現在、全共闘のバリケードの窓には黄ヘルが空しくぶらさがっている。 (石原享一 経済学部)』

<管理人:注>
投稿では学芸学部となっているが、1966年に教育学部に改称している。
1969年3月の新聞に「紛争中の和歌山大学で、2月25日経済学部の反代々木系学生が教育学部本館封鎖に押しかけ、対立する教育学部民青系学生と乱闘。封鎖はならず引き上げる。」というコメントでゲバルトの写真が載っている。
この投稿記事は、その後の学内の状況について書いたものだろう。和歌山大学のセクトは社学同と思われる。

□ 壁塗り競争 (神戸大学)
『文学部の学舎は、鉄筋4階建のごくありふれた建物。内部の壁は白と淡いグレーのツートンカラーである。文学部が無期限ストにはいって1ヶ月。最近、各学科の読書室(学科ごとに設けられた学生用の部屋)の壁を塗るのが流行している。
先駆者は文学部闘争の始まる以前に、読書室の壁をグリーンに塗った哲学科。数日前には、芸術学科が、扉の内側とついたてを赤に、内部の壁を赤と紫とに、ペンキの色も鮮やかに塗り分けた。遅れをとらじと、日ごろおとなしい英文科も、ペンキを大量に買い込んで塗り始めたのが、白と淡いブルーのツートンカラー。「やはり、やることが常識的な英文科のセン」とは、のぞきにやってきた大方の評。
「自己変革の手段として」壁を塗るのか、「マッジクインキで書かれた落書きをかくすために」壁を塗るのか、それとも「ストになって他にやることがないから」壁を塗るのか、とにかく続く壁塗り競争・・・。 (R・N 文学部)』

<管理人:注>
神戸大のバリケードをめぐる記事が5月の新聞に掲載されているので引用する。
【神戸大も職員らが封鎖解除】朝日新聞1969.5.24(引用)
『反代々木系学生による封鎖が続いている神戸大学で、23日夜、封鎖に反対する学生、教職員ら約200名がヘルメットをかぶって角材を持ち、六甲第二学舎と第二実験室のバリケードを撤去して封鎖を実力で解除した。反代々木系学生は少数で、拠点となっている大学本部に逃げ込んだため、抵抗はなかった。(後略)』』

□ 墜落抗議、すでに下火 (金沢大学)
『東大徹底抗戦を知った1地方大学生が劣等感にとらわれ、「恥ずかしい」と述べた、とどこかで読んだ。幸い金沢には、ジェット機が落ちたので学生は救われた。九大のそれに比べると、驚くほど基地反対の声は世間に受け入れられていないのがわかる。
金沢の保守性は強い。学生は現状批判の問題意識を根底に抱かずに、強制された学問を楽しんでいる。
事故の起こったのは、残念ながら後期試験の直前であったので、一般学生は勉強に励んだ。そして過激派はデモによる免罪符を枕に安眠した。
足元が大地ではなく、機械の動かすエスカレーターであることを多くの人が認識するまで、金沢は平和である。 (H・F 教養部)』

<管理人:注>
金沢でジェット機が落ちた、というのは1969年2月8日、正午、金沢市内の住宅地に航空自衛隊小松基地のジェット戦闘機が墜落した事件のこと。
墜落により住宅3戸が吹っ飛び、全焼13戸、半焼や破損100余戸を出し、死者4名、重軽傷者19名を出した。
九大にアメリカ軍のファントム戦闘機が墜落したのは1968年6月のことである。
このファントム戦闘機の残骸の一部が1969年8月に大阪で開催された「反戦のための万国博」(通称ハンパク)の会場で展示され、話題となった。
当時、金沢大は文・工・教養を革マル派が握っていた。

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