
1969年当時、全国の多くの大学で全共闘が結成され、大学紛争は百数十の大学に及んだ。また、高校でも紛争が起こり、全国の学園は紛争の渦中にあった。
私は明治大学で全共闘に関わっていたが、地方大学の紛争の実態は新聞情報を除けば、ほとんどわからない。この「朝日ジャーナル」の「学園ハガキ」通信は学生からの投稿ということで、他大学・高校の状況がわかる記事である。
「朝日ジャーナル 1969.4.13号 【学園ハガキ通信】(引用)
□ 教官の権威に幻想なし (長崎大学)
『長崎大学では4年前から学生会館の管理運営権を学生の手に求める闘いが続いている。4年生はストライキで入学しストライキで卒業した。昨年12月9日、学生会館の自主管理を求めて反代々木系の全学闘が学館を占拠した。1月16日には学長軟禁救出の名目で機動隊導入。2月3日全学闘(反帝学評系)と中核系が事務局占拠封鎖。2月6日学館・事務局封鎖解除の名目で機動隊導入。その夜、全学闘・教養生が教養部にバリケード構築。2月7日機動隊導入。教養部スト突入。期末試験中止。2月8日教養部再バリ貫徹。2月15日教養部期末試験を学外で強行。千数百人の学生阻止、二十数人が受験しただけ。3月5日教養部強制捜査で機動隊乱入。そして、現在20人余りが教養部バリスト貫徹のため泊り込んでいる。
学長は12月9日以来、大衆団交に応じない。そして、代表団交渉による話し合い路線により東大の加藤代行路線で収拾すると、学生にぬけぬけと明言する。当局の話し合い路線にそってクラス討論に入ってくる教官は、学生を説得できるどころか、自らの無責任性をさらけ出すばかりで、教官に幻想をいだいていた学生までも絶望させている。
現在、31人の逮捕者がでているが、活動家やノンセクト・ラジカルが自主管理闘争を支えている。(鶴丸春吉 教養部) 』
<管理人:注>
長崎大のバリケードは1969年9月12日、機動隊導入で封鎖解除となった。
□ なぜ闘争が激化するか (広島大学)
『2月8日の学生大会で、教養学友会は、8項目要求に対するスト権を賛成1165票、反対1041票で確立。10日の団交を評議会が延期したため、教養部は11日無期限ストに突入。8項目の内訳は、生活協同組合の設立、寮問題、新学生ホール自主管理、東大入試中止による増募反対など。12日の評議会団交により、評議会がこれまで学外で開かれたことや、学長が数週間学内不在などの事実が明らかにされ、評議会と学長の間の責任回避や「慣行のため」と称する不明瞭な態度を何度も見せ付けられて、一般学生も大学への不信感を増し、スト賛成へと態度を変えていった。東大闘争で48人が逮捕され、中核派1人という全共闘を、今日まで支えてきたのは、他大学と違い、すべて一般学生である。その後、15日に学長辞任。19日の評議会団交以降、教養部との団交以外は、評議会の団交なし。2月26日、教養学部スト突入。今後も一般学生による静かな活動が続くだろう。(竹内善幸・工学部)』
<管理人:注>
東の法大、西の広大といわれた中核派の拠点校である。この記事によると中核派は1人だけになってしまったようだが、そんな時期もあったのですね。
当時、法政大には全国から中核派の学生が集まっていた。私も友人が法政大にいた関係で、よく法政大に出入りしていたが、広大の中核派学生とも話をする機会があった。「火炎瓶は機動隊の盾の下あたりをめがけて投げるんだ。そうすると炎が盾の後ろに回りこむ。」と、身振りを交えて話をしていたことを思い出した。
広大には1969・8・17~18にかけて機動隊が導入され、砦戦(写真)による激しい攻防の末、39名が逮捕されバリケードは解除された。
□ 立ち上がらぬノンセクト (愛知大学)
『県下唯一の革マル自治会のわが愛知大学豊橋校舎では、学生会館設立に関して、全学連支持の夜間部・短大との対立を残したまま春休みに入っています。
革マル系が単独で学長らと大衆団交すれば、夜間・短大などは生協・大学院生・寮生らといっしょになって別個の団交を重ねている状態。大学当局は、二つの組織が合致した点において着工をするというが、ふたつの組織の対立は、学館の議決権を、革マルは「学生数に対応し、比例配分せよ」といい、夜間等は「各自治会均等に配分せよ」といって、双方とも過半数の議決権を獲得しようとするところにある。反日共と日共の対立。一般学生は、早く設置してもらいたいのに、大学は双方の対立のために思案している。
ノンセクトのグループ結成は、かなり立ち遅れ、これらの2組織の中に入れない状態です。他の大学で、ノンセクトが立ち上がっているのに、わが校は“無意識”というか“活動家だけにまかしとけ”というか、まったくもって情けない。(林幸・一般社会研究会)』
学園ハガキ通信は、今後も紹介していきます。