野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2008年08月

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手元に1枚の写真がある。撮影時期は1969年9月。バリケード封鎖中の東京・杉並区の明大和泉校舎旧1号館屋上を写した写真で、ヘルメット姿の数人が見える。屋上のポールに闘争委員会の旗を立てようとしているところだ。
このヘルメット姿の学生は414B統一戦線(私が参加していたノンセクト集団)のメンバーである。写真は旧3号館からK君が撮ったものだ。

414B統一戦線というのは変な名前だが、バリケード封鎖後、1号館4階の414B教室に集まった無党派の学生で構成する集団である。
私のクラスの闘争委員会は、バリスト後、1号館に部屋を確保できた。メンバーは私とN氏、それにカメラマンのK氏である。414B教室には、入り口に「出入り自由、来るもの拒まず」という貼紙を掲げたので、クラスやサークルの闘争委員会に参加していない個人の出入りもあり、10人前後のノンセクト集団が誕生した。
414B教室という場を共有し、明大全共闘に参加するということだけを一致点として活動していたが、70年安保闘争終了後は事実上解体し、それぞれ別の道を歩み始めた。
ノンセクトは「ノンセクト・ラジカル」というように先鋭的に語られることもあるが、党派からは「無展望・無方針・無節操」というように見られていた。
ノンセクトといっても、党派に属さないで活動する純粋無党派から、アンチセクト、セクトくずれまで、幅の広い層の学生がおり、表面的には確かにそのような傾向もみられたが、もともと闘争方針について議論し、考えの違う者は排除して意思統一して闘争を闘うということはしない。考え方が多少違っても、個々人がそれぞれ自由な立場で同じ目標に向かって連帯して行動するところにノンセクトの本質があるように思う。

明大全共闘結成から約1年間、一緒に活動したノンセクト集団414B統一戦線のメンバーについて紹介してみたい。

<414B統一戦線群像>
N君。商学部1-7のクラスメイト。2浪して大学に入ったが、浪人時代は浪共闘(灰色のヘルメット)で活動をしていた。414B統一戦線のヘルメットのマークや旗は彼のアイデアによる。ヘルメットに「ドン・キホーテ」と書いていた。
N君は70年安保闘争終了後も学館解放闘争を闘い、学館特別委員会などで4年間活動を続けた。卒業後は故郷の大阪に戻り親の会社を継いでいる。

K君。商学部1-7のクラスメイト。写真を撮ったカメラマン。70年の和泉祭実行委員となり、明大闘争の写真展示を行った。K君も70年安保闘争終了後、学館解放闘争に参加。卒業後は会社をいくつか代わり、小売業関係の会社に勤めたと聞いている。

S君。N君と同じ2浪組。商学部。「68・11・22では革命が起こるんじゃないかと思った」と言っていた。70年安保闘争終了後は活動していない。その後の消息は不明。

Y君。いつも彼女と一緒にいた。ある日、「オレは中核派と一緒にやる。おまえはいつもオレに批判的だったから、今日はゲバルトで決着をつけたい。」と言われ、和泉学館1階の運営委員会室前でお互いにヘルメットとゲバ棒を持ってY君と1対1で決闘することになってしまった。変な内ゲバだったが、結局、運営委員会室にいた仲間やY君の彼女が止めに入って終了。Y君はその後、姿を見かけなかったが、中核派に入ったのだろうか。

N君(クラスメイトのN君とは違う)。彼もいつもミニスカートの彼女と一緒にいた。70年安保闘争終了後は活動していない。その後、三重県のヤマギシ会に入ったと聞いている。

T君。父親が岡山県の動力車労組の組合員だったこともあり、動労のナッパ服を着てデモに行っていた。赤ヘルも被っていたかな?70年安保闘争終了後、学館解放闘争に参加したが、4年生になった時、「公認会計士になるので闘争はやめる。すまん。」と言って去っていった。

O君。414B統一戦線唯一の逮捕者。連載2で逮捕された後の東京拘置所での接見の様子を書いたが、釈放後は大阪に戻り、その後会っていない。彼から「浅川マキ」のレコードを借りっぱなしになっているがどうしたものだろうか。

もう1人のO君。72年の駿台祭実行委員会に私とともに参加した。連載21で、74年の日大講堂のコンサートで再会してビックリ。

D君。広島弁でいつも喋っていた。70年の和泉祭実行委員となったが、和泉祭後は見かけなくなってしまった。麻雀が好きだったからそれに溺れたか?

さらにもう一人のO君。地方公務員になったが、親父さんが亡くなって、その後を継ぐため退職。ビルの窓の清掃会社だった。いつか銀座でバッタリと会ったことがある。学生時代の仲間数人が一緒だったが、「大変だよ」とこぼしていた。
これで10人。

私はどうしたか?ほとんど授業に出なかったが卒業できた。卒業後はフリーターになったが、何とかあるところに職を得て、今は東京の片隅で暮らしている。

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ホームページを開設して1年余り、思いがけず明大ベ平連のK氏(仮名)からホームページのゲストブックに書き込みがあった。
K氏は1969年の明大全共闘結成から、一連の明大闘争を共に闘った仲間である。
36年ぶりの再会(メールでの)だったが、このように当時の仲間と出会えたのもホームページのおかげだ。ホームページを管理していくのも手間がかかり大変だが、開設していて本当に良かったと思う。

さて、その後、メールでK氏から大学時代のエピソードが送られてきたので、このブログで紹介してみたい。なお、人名は公にして差し支えのないものを除きイニシャルに変えてある。

【K氏のエピソード】
『70年から71年にかけて、当時の中核派全学連委員長松尾真氏が和泉校舎に来ていましたが、明治の中核派の勢いのなさを反映していたのか、自信なさそうな印象を受けました。松尾氏はその後、法政大学に乗り込み、黒ヘル活動家に暴力的な恫喝をかけるなど、その後の法政の運動に致命的な打撃を与えたようです。』
<管理人コメント:松尾委員長の件はK氏のメールを見るまで忘れていた。明大では中核派は第4党派であり、K氏の書いているとおり勢いはなかった。松尾委員長は和泉校舎にしばらく居たと記憶しているが、何故明大和泉に居たのか不明。>

『70年6月夜、駿河台校舎でML派が反帝学評の活動家がいた部屋を襲撃。たまたまその場にいなかった、のちの反帝学評議長の荻野氏は、新学生会館前の路上で猛り狂ってML派をつぶしてやると興奮していました。荻野氏は内々ゲバで亡くなりますが、結婚して姓を変えていたので、しばらく本人だとは知りませんでした。
71年ころ、和泉に革労協の中原一氏が来て『資本論』の学習会をやるというので、法学部自治会室に行きました。木訥とした印象でしたが、その後革マル派に殺されてしまいました…… 』
<管理人コメント:70年の4月から6月にかけて、和泉校舎でも全共闘のヘゲモニー争いからML派とブント・反帝学評の対立が繰返された。和泉では直接ゲバルトになることはなかったと思うが、日替わりで各党派が和泉を制圧するような有様で、一般学生が対立党派のスパイと間違われて拉致されそうになるような状況だった。>

『71年9月1日、関東大震災時の朝鮮人虐殺糾弾の集会が代々木公園でありました。その時、連合赤軍を結成したばかりだという遠山美枝子氏と会いました。私には面識がなく、同行した二部の活動家に声をかけたのですが、連合赤軍の機関誌「銃火」を買ってくれということでした。その冬、遠山氏は総括という名のリンチで亡くなりました。
72年6月16日朝、明治公園での社青同解放派と中核派の内ゲバの翌日、和泉校舎学生会館内にいた中核派の部隊と後から来た解放派部隊が石やビンを投げ合っていました。戦旗派のM氏はそれを見て、どっちも徹底的にやり合えとか言ってニンマリしていた。十数年後の後日談ですが、その時、中核派の部隊にいたという人と話をする機会がありました。その人は当時岡山大学の活動家で、夜遅く歩いて和泉まで来たこと、勝手が分からない東京での内ゲバで、とにかく恐かったとのこと。
72年の学費値上げ反対闘争で明大ベ平連からも逮捕者が出て、裁判闘争もありました。この闘争の影響で、その年の学年末試験がレポート提出になり、授業にほとんど出なかった私も卒業できることになりました。』
<管理人コメント:M氏は連載16に登場するM氏と同一人物である。学年末試験がレポートだったため、私もK氏と同様、授業にほとんど出なかったにもかかわらず卒業できた。このレポートになった原因は、学費値上げ反対闘争で、試験を行う教室のドアの鍵穴を強力瞬間接着剤で塞いだため、試験ができなくなったためらしい。>

『和泉校舎学生会館の管理人室にサイト管理者氏といたところ、戦旗派のM氏が来て、『経済学批判序説』にあるマルクス経済学の方法論(上向、下向云々)を説明してくれましたね。ご存知かと思いますが、M氏はその後、スターリン万歳の大武派に合流(その後除名された)しましたが、代々木公園のメーデーで会った際、私は「宗旨がずいぶん変わりましたね」と嫌味を言っておきました。
当時は、生きることは闘うことであるという信念がみなぎっていました。しかし、全共闘運動の解体や、党派政治の醜悪さを目にし、また働きながら学び闘う二部の学生や、学外の労働者との交流の中で、学生運動の狭さや限界、理論的確信の欠如などを自覚するようになりました。以来三十有余年、評価はいろいろあろうとは思いますが、節を曲げずに活動してきたつもりです。』
<管理人コメント:K氏は今もある団体で活動を続けているとのこと。私も、ささやかではあるが、このブログやホームページを根拠地として、あの時代の想いや息吹を、少しでも今の時代に伝えていければと思っている。>

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前回の連載で、1971年8月14日から17日まで三里塚で開催された「幻野祭」の新聞記事を紹介したが、その時の実況録音のCDと、「日本幻野祭・三里塚」というDVDのドキュメント映像がパックになった「幻野」(1971・8.14~16 幻の野は現出したか 71日本幻野祭 三里塚で祭れ)というCD・DVDが発売されている。
写真は、そのCD・DVDのジャケットである。
この「幻野」を見つけたのは、ホームページを作成中の時だった。エピソードに書くため、三里塚幻野祭のことを調べようと検索したところ、「幻野祭」のCDとDVDが発売されているということで早速注文して手に入れた。
大学時代、この「幻野祭」の最初のLPが発売され、明大和泉の学館運営委員会室でLPのジャケットだけ見たことがある。「幻野祭」の裏方で一緒に手伝っていた1年後輩のT君が持ってきたものだが、レコードプレーヤがなかったので、ジャケットの写真だけ眺めていた。

私は当日、ステージの後方の売店でカレーライスと清涼飲料水を売っていたが、肝心の音楽は売店でBGMとして聴くしかなかった。警視庁発表だと当日の参加者は1000人となっているが、「幻野」の解説によると5000から10000人。私の感覚でも数千人規模のコンサートだったと記憶している。
オリジナル・アナログ盤解説から、この「幻野」の収録曲を見てみると
1 「涙(ラ グリマ)」 高柳昌行ニューディレクション
2 論争(舞台上でのシンジVS聴衆1名)
3 I Weeping Love Grass The Fleet Circus  落合俊トリオ
4 論争2(聴衆1名VS青行)
5 論争3(反帝学評?VS青行)
6 Free 高木元輝トリオ
7 二人のブルース  DEW
8 夏は終わり  DEW
9 論争5(婦人行動隊VS青行)
10 悪い夢  ブルースクリエーション
11 論争6(聴衆VS青行)
12 盆踊り 武田節 婦人行動隊(+加藤登紀子)
13 世界革命戦争宣言  頭脳警察
14 銃をとれ      頭脳警察
15 セクト ブギウギ  頭脳警察
16 銃をとれ      頭脳警察
17 叫喚地獄      ロスト・アラーフ

ネットの紹介文には『ロスト・アラーフ(灰野敬二)、頭脳警察、ブルース・クリエイションといった日本のロック重要人物たちに加え、高柳昌行、高木元輝、落合俊ら先鋭的フリー・ジャズ・アーティストも出演し、日本のロック/前衛ジャズ史に大きな足跡を残したといえるイベントです。この音源には“ニュー・ジャズ”に対し、拒否反応をしめす当時の観客からの冷やかし、野次、嘲笑、ブーイングも収録。演奏中もさまざまな物がステージへと投げ込まれたという、血気盛んで生々しい現場の空気も残されています。』とある。また、収録曲の合間に論争ということで、ステージ脇での青年行動隊と反帝学評(?)の論争の様子なども収録されている。
これらの演奏の他に、DVDでは「ゼロ次元」の貴重なパフォーマンス(全裸儀式)の様子も見ることが出来る。おそらく市販されているビデオやDVDで「ゼロ次元」の映像が見られるのはこの「幻野」だけだろう。
「ゼロ次元」とは
秋山祐徳太子の「泡沫桀人列伝」(2002年 二玄社発行)によると
『名古屋市出身の加藤好弘氏と岩田信市氏によって1960年に結成された日本で最も過激な儀式集団である。(中略)ハレンチテロリストと称して、いつも全裸で儀式を決行した。加藤氏曰く「我々の儀式は世間にエログロ・ナンセンスのハレーションを突きつけることだ」という。確かに当時、週刊誌などにも常に登場し、世情をにぎわせていた。なかでも過激だったのが新宿・紀伊国屋書店の通路上で行った儀式である。防毒マスクをかぶり、全裸のまま右手を上げて行進していく。その不気味な姿に、居合わせた人々はただ呆然とし、行進を見送るばかり。まさに白日夢とはこのことだろう。(中略)そして70年の日本万国博覧会の「人類の進歩と調和」に対抗して、前年の69年に加藤氏が中心となり「万博破壊共闘派」が結成される。69年の年頭から全国的に反万博の行動を展開し、春には京大教養学部のバルコニー上にて全裸儀式を敢行。(後略)』
この京大のバリ祭でのパフォーマンスはアサヒグラフにカラーで掲載され、秋山祐徳太子を含め全員が逮捕されてしまう。
「幻野」では、全裸の男女がムカデのように数珠つなぎになり、足を交互に上げながら「ホイ、ホイ」と掛け声をかける「儀式」が見られる。(あの部分は修正されています。)

1972年8月16日、五山の送り火の日、三里塚ではなく京大で、「三里塚空港粉砕」をスローガンにした「第2回幻野祭」が開かれ、頭脳警察などが出演。
そして2008年6月21日、北海道洞爺湖サミットに反対する「NO-G8! 三里塚ライヴ~Return of GENYASAI~」というコンサートが三里塚で開かれたとのこと。
「幻野祭」は今も引き継がれている。

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ホームページのエピソード1971にも書いたが、1971年8月14日から17日まで、三里塚で「幻野祭」が開かれた。
反対同盟と機動隊が衝突した2月22日の第1次強制代執行と、9月16日の機動隊員3名が死亡した第2次強制代執行の間の闘争の渦中に開催された、三里塚芝山連合空港反対同盟青年行動隊主催による「まつり」である。
写真は赤瀬川原平氏が作成した「幻野祭」のポスター(「櫻画報激動の1250日」より転載)。「幻野祭」のカンパということで一枚1000円。この連載でもお馴染みの「櫻画報」がポスターとなっている。
このポスターは明大和泉学生会館運営委員会室にも貼ってあった。
さて、三里塚で第二次強制代執行が迫るこの時期に何故「まつり」だったのか?
この「まつり」の発案者である青年行動隊員の記事が新聞に載っているので引用する。

朝日新聞 1971.8.11 
【シンジの論理】(引用)
『シンジがとてつもないことをいい出した。「三里塚でまつりをするべえ」
シンジ。石井新二さん、23歳。彼は成田空港建設反対の青年行動隊員である。支援学生にいわせれば「アレは三里塚そのものだ」
シンジの論理によれば・・・
成田の農民にとって、反対闘争は日常化し、生活の一部だ。特殊のものではない。ふつうの生活には、時期がくればまつりがある。だから、三里塚にまつりがあってもおかしくはない。「民青みたいだ」との批判があった。シンジは答えた。「民青はもっと統制がとれてシッカリしてるよ」
期間は8月14日から3日間。具体的なプログラムは支援学生らが練っている。ロック、フォーク、前衛演劇・・・。「盆踊りもあるよ。おっかさんたちは練習してるぜ」
おそらく会場の何ヶ所かで、いろんなことが同時に行われるだろう。期間についても・・・
「電気をね、16日まで引く。だからそれがとまったら終わるべ」といった調子だ。
シンジは歌手、加藤登紀子を呼びたいと考えている。「東京でやるんならロック、アングラでいいけど、成田だべ。本当なら三波春夫にでも来てほしいとこなんだ」
ひとつ気になることがある。ある週刊誌が、まつりからひそかに騒動を起こす計画があるようなことを書いた。
「そんなことはねえんだ。だって、それじゃあ、まつりとはいえねえもん」 』

第二次強制代執行の前であっても、農民の生活の日常の一環として、「まつり」があってもおかしくない、ということである。ただ、この「まつり」には反対同盟や支援学生からの風当たりも強かった。

朝日新聞 1971.8.15 
【三里塚の反戦まつり 歌と踊りと論争と】(引用)
『成田空港建設に反対する三里塚・芝山連合空港反対同盟の青年行動隊が主催した「三里塚反戦祭」が14日午後6時半すぎから、千葉県成田市天神峰の草原で開かれ、約1000人(成田署調べ)の若者が参加した。三里塚でデモや集会は何度もあったが、お祭りは初めて。近づく秋の第二次代執行を前に「お祭りで疲れをいやし、戦うエネルギーを・・・」というねらいである。
闘争であけくれた三里塚に久しぶりに歌が鳴り響いた。一方、千葉県警は祭に便乗したゲリラに備え、空港公団成田分室に300人の警官を配置させた。集まってきたヒッピー風の若者の群れに、いささか戸惑い気味だった。祭りは17日未明まで続く。(中略)
<祭粉砕>
戸村一作反対同盟委員長
私は祭ということばの響きが好きじゃない。祭りというのは地方のボスやダンナが音頭をとって飲み食い、そして歌う・・・。体質的にあわないよ。祭りには思想がない。フーテンやピッピーがギターをかき鳴らす・・。それで人集めしたって・・・闘争はもっときびしいよ。三里塚農民の涙、怒声、旗、マイクの声、これが私の生活のなかの祭り。
祭りという復古化粉砕、反権力ということがわかっていないんだよなあ。
(中略)
穴を掘らせろ
「加藤登紀子、ナンセンス。知床旅情なんか歌うより地下ごうを掘らせろ。その方が反対闘争にとって意義がある。駒井野団結小屋の地下ごうからドロだらけで出てきた中核派の学生が言った。
「ロックで踊り狂うバカどもに毛沢東語録でも読ませろ。その方がよっぽど反対闘争にとって意義がある」。これは援農でスイカの取り入れをしていたML派学生。
常駐学生は祭りに批判的である。「第二次代執行に向けてなんらの意義がない」(後略)』

警視庁発表で1000名ということだが、実際は数千名の参加者があった。
「幻野祭」ではフリージャズ、ロックの演奏や盆踊りが行われ、ステージ周辺ではゼロ次元によるパフォーマンスや「まつり」を巡る論争も。混とん(カオス)という言葉が一番あてはまる、何でもあり、という「まつり」だった。
成田空港に反対する熾烈な闘いの現実と、この「まつり」を繋ぐものは何だったのだろうか。それは、この「まつり」の当事者である青行のメンバーしかわからない。

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1969年当時、全国の多くの大学で全共闘が結成され、大学紛争は百数十の大学に及んだ。また、高校でも紛争が起こり、全国の学園は紛争の渦中にあった。
私は明治大学で全共闘に関わっていたが、地方大学の紛争の実態は新聞情報を除けば、ほとんどわからない。この「朝日ジャーナル」の「学園ハガキ」通信は学生からの投稿ということで、他大学・高校の状況がわかる記事である。

「朝日ジャーナル 1969.4.13号 【学園ハガキ通信】(引用)
□ 教官の権威に幻想なし (長崎大学)
『長崎大学では4年前から学生会館の管理運営権を学生の手に求める闘いが続いている。4年生はストライキで入学しストライキで卒業した。昨年12月9日、学生会館の自主管理を求めて反代々木系の全学闘が学館を占拠した。1月16日には学長軟禁救出の名目で機動隊導入。2月3日全学闘(反帝学評系)と中核系が事務局占拠封鎖。2月6日学館・事務局封鎖解除の名目で機動隊導入。その夜、全学闘・教養生が教養部にバリケード構築。2月7日機動隊導入。教養部スト突入。期末試験中止。2月8日教養部再バリ貫徹。2月15日教養部期末試験を学外で強行。千数百人の学生阻止、二十数人が受験しただけ。3月5日教養部強制捜査で機動隊乱入。そして、現在20人余りが教養部バリスト貫徹のため泊り込んでいる。
学長は12月9日以来、大衆団交に応じない。そして、代表団交渉による話し合い路線により東大の加藤代行路線で収拾すると、学生にぬけぬけと明言する。当局の話し合い路線にそってクラス討論に入ってくる教官は、学生を説得できるどころか、自らの無責任性をさらけ出すばかりで、教官に幻想をいだいていた学生までも絶望させている。
現在、31人の逮捕者がでているが、活動家やノンセクト・ラジカルが自主管理闘争を支えている。(鶴丸春吉 教養部) 』

<管理人:注>
長崎大のバリケードは1969年9月12日、機動隊導入で封鎖解除となった。

□ なぜ闘争が激化するか  (広島大学)
『2月8日の学生大会で、教養学友会は、8項目要求に対するスト権を賛成1165票、反対1041票で確立。10日の団交を評議会が延期したため、教養部は11日無期限ストに突入。8項目の内訳は、生活協同組合の設立、寮問題、新学生ホール自主管理、東大入試中止による増募反対など。12日の評議会団交により、評議会がこれまで学外で開かれたことや、学長が数週間学内不在などの事実が明らかにされ、評議会と学長の間の責任回避や「慣行のため」と称する不明瞭な態度を何度も見せ付けられて、一般学生も大学への不信感を増し、スト賛成へと態度を変えていった。東大闘争で48人が逮捕され、中核派1人という全共闘を、今日まで支えてきたのは、他大学と違い、すべて一般学生である。その後、15日に学長辞任。19日の評議会団交以降、教養部との団交以外は、評議会の団交なし。2月26日、教養学部スト突入。今後も一般学生による静かな活動が続くだろう。(竹内善幸・工学部)』

<管理人:注>
東の法大、西の広大といわれた中核派の拠点校である。この記事によると中核派は1人だけになってしまったようだが、そんな時期もあったのですね。
当時、法政大には全国から中核派の学生が集まっていた。私も友人が法政大にいた関係で、よく法政大に出入りしていたが、広大の中核派学生とも話をする機会があった。「火炎瓶は機動隊の盾の下あたりをめがけて投げるんだ。そうすると炎が盾の後ろに回りこむ。」と、身振りを交えて話をしていたことを思い出した。
広大には1969・8・17~18にかけて機動隊が導入され、砦戦(写真)による激しい攻防の末、39名が逮捕されバリケードは解除された。

□ 立ち上がらぬノンセクト (愛知大学)
『県下唯一の革マル自治会のわが愛知大学豊橋校舎では、学生会館設立に関して、全学連支持の夜間部・短大との対立を残したまま春休みに入っています。
革マル系が単独で学長らと大衆団交すれば、夜間・短大などは生協・大学院生・寮生らといっしょになって別個の団交を重ねている状態。大学当局は、二つの組織が合致した点において着工をするというが、ふたつの組織の対立は、学館の議決権を、革マルは「学生数に対応し、比例配分せよ」といい、夜間等は「各自治会均等に配分せよ」といって、双方とも過半数の議決権を獲得しようとするところにある。反日共と日共の対立。一般学生は、早く設置してもらいたいのに、大学は双方の対立のために思案している。
ノンセクトのグループ結成は、かなり立ち遅れ、これらの2組織の中に入れない状態です。他の大学で、ノンセクトが立ち上がっているのに、わが校は“無意識”というか“活動家だけにまかしとけ”というか、まったくもって情けない。(林幸・一般社会研究会)』

学園ハガキ通信は、今後も紹介していきます。

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