野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2008年09月

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1969年9月30日、東京・神田駿河台周辺で日大再占拠を目指す大規模な街頭闘争が繰り広げられた。
明大での集会の様子が明治大学新聞に掲載されているので見てみよう。

【火と水と石と 日大法・経奪還闘争】1969.10.2明治大学新聞(引用)
『(前略)午後2時過ぎから日大全共闘の学生は本学学生会館中庭に続々と集まり始め、その数は3時すぎには約2000に達していた。また、これを支援する全国全共闘傘下の各大学全共闘約2000人も学館中庭、あるいは記念館講堂へと集結、迎え撃つ警備の機動隊約2500人も含めて本学の周辺は騒然たる雰囲気に支配されていた。
記念館での集会を終えた中大全中闘、青学大・明学大全共闘などの学生は、4時半ごろから“ゲリラ要員”として10数人ずつの小部隊に分かれ、次々と駿河台下や中大方面へと散っていった。(後略)』
(写真は明治大学新聞から転載)

集会後の街頭闘争の様子が新聞記事に詳しく掲載されているので、引用する。

【学生街に火炎ビンの雨 日大奪還闘争】1969.10.1朝日新聞(引用)
『新戦術で警備の裏かく  あばれ、逃げ、またゲバ
追えば散る。そのくせ、またいつの間にか集まっては警備陣の手薄なところをねらって火炎ビンや投石、バリケード、放火。そして、またさっと逃げる。事前規制をしようにもヘルメットもゲバ棒も持たず、一般人と見分けがつかない。徹底した新手のゲリラ戦術に約1000人の警備陣はホトホト手をやいた。(中略)
この日の集会は大学側のきびしい監視下にある各学部のうち神田三崎町の法、経両学部を再占拠、「日大闘争を再び盛り上げよう」というよびかけで開かれ、各大学が支援した。(中略)
集会が終わった午後5時半すぎ、いきなり白ヘルメットの10数人がかけ出し、学生会館屋上の学生と呼応して火炎ビンを投げた。警備車1台が火につつまれ、規制にあたった隊員2、3人が火だるまになった。この激しい火炎ビン攻撃に機動隊もたじろいだ。
学生たちはこれと前後して、いくつかのグループに分かれ、国電御茶ノ水駅に通ずる明大前通りへ無届でデモに出た。
警視庁はこの日、学生が過激な行動に出るという情報で早朝、学生の拠点の明大を捜索、角材などを押収する一方、午後からは明大周辺に精鋭部隊を配置した。だが、学生たちはヘルメットをぬいで警戒の網をくぐって外に出るものもあり、火炎ビン騒ぎをきっかけに機動隊は放水とガス弾で規制、実行犯の逮捕というかたちで同学生会館などへはいり、新、旧両学館と明大11号館の中だけでも約180人を逮捕。新しい火炎ビン355本を再び押収した。そのなかには硫酸を試験管に入れてテープでゆわえた新型の火炎ビン270本が含まれていた。
騒ぎはこれでいったんおさまったかにみえたが、学生たちは警備陣の裏をかくように午後6時前、今度は明大から約500メートル離れた都電通りの駿河台下交差点に付近の商店、食堂などからゴミ入れ用のポリバケツなどを持ち出し、同交差点に並べてバリケードをつくる一方、この騒ぎを知って集まり始めたヤジウマを巻き込み、近くの神田署神保町交番に投石、ガラス窓をこわし気勢をあげた。
この間、別の100人は神田署近くの錦町交差点付近で、駐車中の無人の機動隊輸送車を横倒しにしてガソリンをまき放火、さらに文京区白山の東洋大に集まっていた約30人の学生も同6時半すぎ、近くの地下鉄工事現場から持ち出した鉄材などで白山通りにバリケードを築いたり、中大前の聖橋通りなどでも数ヶ所で次々と道路を封鎖、ここでも乗用車をひっくり返して火を放った。
午後7時すぎから、学生が明大前通りや聖橋通りなどでバリケードを築いたり、投石するたびに機動隊は約50人ずつの部隊でかけつけた。だが、学生はそのたびに散り散りになって路地や御茶ノ水駅などに逃げ、機動隊のいない所をねらって投石、バリケードの繰り返し。午後7時半すぎには御茶ノ水駅東口前に地下鉄工事現場の資材で再びバリケードを作って放火。規制にあたって取り残された機動隊員1人が学生につかまって袋だたきに合う一幕もあった。
午後8時をすぎても学生たちは御茶ノ水駅東口や明大、中大付近などになお計1500人が群がり、古い家の土台に使われていたコンクリートをこわして機動隊に向かって投げたり、持ち出した材木に火をつけたりした。』

当日、私も駿河台下にいた。機動隊の放水車と部隊が明大前通りに進もうとした時、ノンヘルの日大全共闘部隊が飲食店から持ってきた清涼飲料水の空き瓶を一斉に投げつけ、あわてた機動隊の部隊は、そのまま三崎町方面に後退していった。交差点にはバリケードが築かれ、「法経奪還!」の声が上がった。夜は中大付近から聖橋周辺に居たが、詳しい場面が思い出せない。あれから39年、忘却の闇の中に当時の記憶が沈んでいかないうちに、このブログに書き留めていかねば。

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前回に引き続き、1969年9月5日に東京・日比谷野外音楽堂で開催された全国全共闘連合結成大会の様子を紹介したい。
この日の大会には、全国78大学、26,000人(主催者側発表)が参加した。全国の全共闘の連合という名目ではあったが、実際は各党派連合の大会というのが実情であり、全共闘代表挨拶も各党派のメンバーだった。
当日の反代々木系八派代表挨拶は、中核派、学生インター、プロ学同、共学同、ML派、フロント、社学同、反帝学評の順で行われ、明大、神戸外大、秋田大、広島大、東京教育大などの全共闘代表から報告があった。
明治大学新聞に、当日の集会の様子が載っているので、見てみよう。

【全国全共闘結成大会ルポ】明治大学新聞 1969.9.18(引用)
『(前略)本学駿河台記念館と学館前でそれぞれ集会をもった本学一部全共闘200人、二部共闘100人も11時過ぎには日比谷公園に到着した。しかし、本学全共闘にまぎれ混んで会場に入ろうとした東大全共闘代表山本義隆君(全国全共闘連合議長に内定)は、警備の私服警官に検挙された。山本君は赤ヘルにうす茶のジャンパーというデモスタイル。逮捕状が出てから228日目であった。
12時過ぎ、既に野外音楽堂は満員となり、入り切らない数千人が外でデモなど繰返している。1時、開会宣言。引き続いて議長団の紹介が行われた。そして沖縄代表に始まる各団体からの挨拶が次々と述べられる中で、大会は序々に盛り上がっていった。演壇を囲むように数百本の赤旗が翻り、舞台の上にも学生がいっぱいにすわり込んで、立錐の余地もない。
セクト色の強い演説には反対派から激しいヤジが飛ぶ。さらに、会場から締め出しを食っていた社学同赤軍派100名もいつのまにか会場に入り込み、“赤軍”の赤旗をたらして社学同関東派とこぜり合いを始めた。こぜり合いのたびに会場が騒然となり、発言者の声もしばしかき消されてしまう。この“内ゲバ”に一般の参加者は眉をひそめた。
2時、議長団から「基調報告をする予定の東大全共闘代表山本義隆君が先ほど官憲によって不当逮捕されました。これは全国全共闘連合に対する権力の真向からの挑戦です。」との報告がなされた。それまで山本君の逮捕を知らなかった会場の大部分の学生は、その瞬間、「ナンセンス」と口々に叫び、いたるところで激しい抗議の声を上げた。しかし、山本代表の代役が基調報告を始めると、そのどよめきも次第に収まった。
大会はその後、各学生組織からの決意表明に移ったが、各派とも露骨にセクト主義を全面に押し出したため、激しいヤジが飛び交い、なかにはつかみ合いをする者もいた。とくに中核派と反帝学評の対立は激しく、議長団も収拾に手をやく始末。「全共闘はセクトを乗り越えた組織ではないのか・・」つんぼさじきのノンセクト学生がはき棄てるようにつぶやいていた。
社学同からの挨拶が行われていた時、それまでどうにか押さえられてきた赤軍派と関東派の“内ゲバ”が再燃(写真)。赤軍派は旗ザオなどで関東派を追い散らし、会場は再三、混乱した。さらに大会は各大学全共闘からの決意表明へと続いた。二番手に本学全二部共闘の本間議長、三番手に一部全共闘代表福田君が挨拶し、「明大全共闘は全国全共闘連合の先頭に立って闘う」と決意表明を行った。(後略)』

【全共闘 1万人デモ行進 一部は早大でもめる】1969.9.6朝日新聞(引用)
『(前略)大会は同2時半ごろ、会場入り口付近で社学同派内部の小競り合いはあったものの、ほぼ平穏に進み、同6時半「きょうここに結集した全国78大学の2万6千人は70年安保粉砕、沖縄闘争勝利の闘争をたたかいぬく。特に11月の佐藤訪米を実力で阻止する。」との大会宣言を採択。さらに全国全共闘連合に議長に予定どおり山本義隆東大全共闘代表(同日逮捕)、副議長に秋田明大日大全共闘議長(日大事件に関連して拘置中)を選出、会場でインターナショナルを合唱して閉会した。
その後、参加者のほとんどは午後7時ごろから代々木公園に向けてデモ行進に移った。約1万人の隊列が続き、反代々木系学生が集まったデモとしては60年安保闘争以来最大となった。機動隊の溜池、赤坂見附交差点などで規制しただけ。デモの学生たちは青山通りなどで道いっぱいにジグザグデモやフランスデモを続けた。(中略)
日比谷の会場からひと足先に地下鉄で早稲田へ向かった東大教養学部、日大、駒沢大など他大学を含む反帝学評(社青同解放派)の学生約600人は、新宿区馬場下町の地下鉄早稲田駅で外に出ようとして機動隊とぶつかった。(後略)』

この全国全共闘連合結成大会は、68-69年の全国学園闘争の節目の集会であったが、その後の反代々木系八派の内ゲバと全共闘の崩壊を暗示する集会でもあった。
そして、11月佐藤訪米阻止闘争を経て、時代は1970年へと流れていく。

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1968年の東大・日大闘争を経て、1969年には全国の多くの大学で全学共闘会議(全学闘争委員会などを含む)が結成され、バリケードが次々と構築された。
一方、政府は大学紛争の早期収拾を図るための大学立法(大学の運営に関する臨時措置法案)を強行採決して、8月7日に公布。施行日には、広島大学に機動隊が導入され、2日間にわたる砦戦が闘われるなど、各大学においても機動隊導入が予想される状況の中で、1969年9月5日、東京・日比谷野外音楽堂で全国全共闘連合結成大会が開かれた。

東京では、すでに全都の全共闘(約30大学)による統一集会やデモが行われていたが、この集会は70年安保闘争の最大の山場である、11月の佐藤首相訪米阻止の闘いを前に、反代々木系8派(革マル派を除く)と全国各大学全共闘の結集を図ったものであった。全国全共闘連合機関紙「全国全共闘」創刊号からその辺りの状況を見てみよう。

【全国全共闘基調報告】1969.9.5 全国全共闘創刊号(引用)
『<全国全共闘連合>の結成大会に結集した全ての学友諸君!更には苛酷な弾圧にも屈せず学園闘争を革命的に推進している全国の学友諸君!10・8羽田闘争以降の進撃を担ってきた全ての学友諸君!本日、われわれは10.8以降の実力闘争の高揚と全国学園闘争の深化拡大の継承発展の上に革命的左翼学生戦線の組織的表現として<全国全共闘連合>の結成を見んとしている。ここにおいてわれわれは、学生戦線の現在的到達点の確認と70年安保闘争への展望を踏まえたうえで、<全国全共闘連合>の任務を語らなければならない。本基調報告の目的は、なによりもそれを明らかにすることにある。政府ブルジョアジーが、大学立法を異常な決意のもとに、議会制民主主義を踏みにじってまでも強行成立せしめた意図は、明確に70年を軸とした革命的運動の全共闘運動としての高揚、とりわけ、68年、69年学園に爆発した学生のエネルギーを圧殺せんとするものであり、破産した帝国主義大学の再編の異常なまでの決意である。大学立法施行日、広大のバリケードにかけられた官憲の攻撃は、今すべての大学にかけられんとしている攻撃であり、それ故にこそ広大、中大等における徹底した闘いは、この9月全国の大学に、バリケードに総攻撃されんとしている弾圧に対する闘いの方向を示している。今や大学立法発効によって、個別大学における闘いは、単なるそれらの総和としてではなく、階級闘争の一翼として発展するに到っている。<全国全共闘連合>の結成は、まさにこの任務を果たすべき革命的学生戦線の決意の表現であり、10・8以降の闘いを乗り越える闘いを作り出すことにある。それは、11月佐藤訪米を実力で阻止し得る闘いを、大学の帝国主義的再編粉砕闘争の徹底化の上に全階級闘争との結合によって闘い抜く偉大な歴史的任務を有しているのだ。(後略)』

当日、私は駿河台の明大記念館中庭のヘルメット集団の中にいた。まだ夏休み中ということもあり、帰省している学生も多く、200名程度の人数だった。
中庭での集会後、会場である日比谷公園に向かい、地下鉄「霞ヶ関」駅で降りて公園に入ろうとしたが、入り口を固めた機動隊に無理やりヘルメットを脱がされ、1人ずつ機動隊の列の中を通された。
我々の隊列の中にいた東大全共闘代表山本義隆氏は、この時逮捕されてしまった。

【“親衛隊”も連れず 山本代表 あっけない逮捕】1969.9.5朝日新聞(引用)
『あっけない逮捕。山本義隆東大全共闘代表は、議長に選ばれることになっていた全国全共闘結成会場を目の前にして、機動隊の検問にあい、5日午後、日比谷公園に足を踏み入れたところをつかまった。得意の変装もせず、こざっぱりしたかっこうは、むしろつかまるために出てきた、とさえ見えた。明大反代々木系約150人のヘルメット集団の最後尾にまぎれこんではいたが、機動隊約60人が両側に並んだ“トンネル”を通りぬけられるはずもなかった。“親衛隊”もボディーガードもともなわず、抵抗もせず引き抜かれた逮捕劇に、まわりに居た学生たちさえ気づいた者はほとんどいなかった。 』

山本義隆東大全共闘代表は全国全共闘の議長に予定されていた。また、副議長には獄中の秋田明大日大全共闘議長が予定されており、「全共闘」を代表するこの2人の不在は、この全国全共闘連合が党派主導の連合であることをいみじくも象徴していた。
次回は、集会の様子を紹介します。

※ 日大全共闘結成40周年記念出版ということで、新版「叛逆のバリケード」日大闘争の記録が9月30日に刊行されます。詳しくはリンクの「1968年全共闘だった時代」を参照してください。

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