野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2008年10月

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10月から11月にかけては大学祭の季節である。1972年の大学祭では、多くの大学で日活ロマン・ポルノが上映された。
日活ロマン・ポルノは1971年11月からスタートしたので、丁度1年目を迎えた時期だったが、1972年に『恋の狩人・ラブハンター』など4本が警視庁から摘発される事件が起こり、表現の自由への権力の介入ということで新聞や雑誌などでも話題となっていたため、大学祭で一気に30本も上映されることになった。
当時の新聞記事にその様子が載っているので見てみよう。
(写真は朝日新聞1972.11.2に掲載された明大駿台祭の立看板・筆者製作)

【日の目みた日活ポルノ ただし大学祭で 】朝日新聞 1972.11.2(引用)
『日活映画のロマン・ポルノがこの秋、あちこちの大学祭でにわかに“日の目”をみている。明、慶、立、学習院、日本女子大・・・映画会社の集計によると、東京の12大学で延べ30本前後が上映され、“ポルノ討論会”“エロチシズム・ティーチイン”が目白押し。
「文化サークルの資金かせぎだろ」「表現の自由への権力介入に対する反発姿勢ですよ」「なんです!大学で、あんなものを・・・」一般学生の反応はさまざまだが、このキャンパスでのポルノ・ブーム、果たして突然変異なのか、それとも72年の時代を反映した“必然”なのか・・・。
<見ておきたい>
まず、なぜ上映するのか。日本女子大映画研究会の鈴木すみれさん(社会学部3年)は、こう説明する。
「いかがわしい、ひどい・・・などと世の母親はマユをしかめるけど、そんな人たち、1回も見ないで意見をはさむのは許せません。わたしたちも将来、母親になるのだし、あんなに警察が介入したり、言論界で騒がれているロマン・ポルノを、まずどんなものか知っておきたい、そんな希望も多くて・・・」
同研究会は最初、大学創設者の記念講堂での上映を計画したら、学校側から「電源のアンペアが低い」という理由で、やんわり断られた。次に附属小学校の講堂も職員会議で反対された経緯がある。
同研究会は「女子教育の“聖域”を荒らされたくない、というつもりなのでしょうが、女に社会への目を開かせない深窓教育なんてナンセンス」とさらに折衝、大学の教室で2本を上映することになった。
<問題意識?>
学習院の大学祭実行委員(文学部2年生)は「いまからもう人生のいきつく先が見えているようなボクらの世代は、映画にしても世の中からソッポを向かれている作品を見て、その中から“人間”や“真実”を探してみたい気持ちが強い。これが大スターや有名監督のものでない日活のロマン・ポルノを選んだ理由です」と話した。
同大学でも「学習院の伝統を守ろう」という学内グループから横ヤリが入り、上映会場でトラブルが起こる可能性もあるという。
慶大三田祭実行委員の1人も、日活や映倫への権力介入を問題にする立場を説明した。
また、上映はしないが「表現の自由」の問題として、東大・駒場祭はシンポジウムを計画、すでに13人の学生が2日間、合宿してポルノを徹底的に考えたという。
<映画界の反応>
ことし1月から2度、警視庁の摘発を受け、今回、どっと12の大学から作品貸付けの申込みを受けた日活本社は、一般上映館での好況に加えて思わぬ“援軍”を得た表情。
この事件で起訴されている村上覚映画本部長は「迫害を受けている、というので学生さんから判官びいきされているとは思いません。セックス描写抜きの、道徳的とされる作品では、いまの若い人たちの実生活や意識からみて、そらぞらしいものに感じられるのでは・・・」と分析した。
もっとも多く大学に貸し出された作品「しのび泣き」「しなやかな獣たち」などを撮った加藤彰同社監督は「製作費が安い、製作期間も短い。したがってチャチで薄手な作品になりやすい。そこで、作る側は猛烈に知恵を働かせる。その一生懸命さが、買われるのではないか。」(中略)
大学祭での討論会などに招かれている日活女優の田中真理さんはこういった。「なんつうのかな。一口でいうと世の中、平和なんじゃないかしら。理解してもらったのは、すっごくうれしいけど」』

確かに1972年は、田中真理の言うように世の中、平和になっていたのだろう。でも、それは1970年に比べれば、である。世の中、平和だからロマン・ポルノでも見てということではない。70年安保闘争の敗北や、全国学園闘争の後退戦という時代状況を背景に、権力や政治の世界に絡めとられていないサブカルチャーの世界の中に、権力に立ち向かう望みを見出そうとしていたのかもしれない。

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3回連続となるが、69.10.10集会の様子を紹介する。高校生、全共闘系学生の様子を朝日ジャーナルの記事から見てみよう。

【特集・佐藤訪米阻止10・10統一集会】
朝日ジャーナル1969.10.26(引用)
『「第4勢力・高校生パワー」
港区の清水谷公園には、正午前から色さまざまなヘルメットがわき出るようにふえていった。統一集会に先立って開かれた「10・10全都高校生総決起集会」。高校生が独自の集会を持つことは、昨年あたりからもはやめずらしくなくなったが、この日の約1500人は、かって例をみない最大規模の結集となった。
公園の前、ドブ川をへだてた道路には、ものものしい装備の機動隊員数十人がタテを並べ、そこここの木陰には私服あるいは教師と思われる背広姿が数十人見守りつづける。
赤ヘルの高安闘委(ブンド系)、赤と白の高校生解放戦線(ML系)、緑ヘルの安保高戦(フロント系)、同じ緑ヘルの全高闘連(プロ学同系)、黒ヘルのプロ軍高協(プロ軍系)、白ヘルの反戦高協(中核系)の順に、リーダーが数分ずつのアジ演説。めずらしく、ほとんどヤジが飛ばない。これら六派は9月27日、同じ清水谷公園で「高校生安保共闘会議」を結成している。(中略)
集会が六派共闘ラインで進行していたとき、別のマイクが割って入った。「ノンセクトの持つ運動能力を、セクト的野合の中に埋没させてはならない。大衆闘争を放棄して、戦術をエスカレートするばかりでは、われわれ自身の解放はない。教育闘争に力点を置いた地点に立って、未来をみつめよう・・。」と、きれぎれに叫ぶ。六派共闘を離れてもう一つの集会が始まっていた。
ヘルメットの文字は「全共闘」「××高」「××高ベ平連」「さすらい派」「叛」「NON」「キ」「狂瀾怒涛派」「民殺派」「○○高越屍協会」「野次馬」「反戦集団」「ニャロメ派」「KG」などなど。色も黒、ピンク、茶、オレンジなど雑多な集団が数百人、そしてちょうどまん中に座っていた青ヘルの反帝高評(反帝学評系)百数十人も、六派共闘側の集会に背を向けてノンセクト側に向き直ったために、数の上でも六派側を圧倒する集会となった。
集会は分裂したまま、デモ行進も二分した。そして明治公園の統一集会では、ほとんどばらばらに数万人の参加者の中へ分散していった。この日の高校生の動きは、統一戦線を旗印にして発足した全国全共闘が、その理念とはうらはらな混迷の中にある姿を、そのままに反映しているようであった。』

私の出身高校の後輩たちも、この清水谷公園の集会に参加している。私も明治公園の統一集会へ参加する前に、この集会の様子を見に行った。
この記事のとおり、狭い公園はギッシリ。やっと出身高の旗(ノンセクト側)を見つけたが、とてもそこまで行けず、遠くから様子を見守った。
全共闘系学生の様子も記事にあるので紹介する。

『「学生戦線は統一の多様性」
(前略)10.10までに、法政、明治など東京での学生たちの拠点は機動隊の手で壊滅させられていた。東大全共闘の残された唯一の拠点、東大文学部も前夜機動隊が導入された。だから、当日、多くの大学の学生はバラバラに会場に集まる形となった。(中略)学生の参加者数は6.15を下回るのではないかと一部で予想されていたが、その予想は完全にはずれた。
ある学生は「きょうの集会は新聞で知ってきました」と語っていた。すでに闘う舞台からロックアウトで追われ、長い闘争に消耗してブラブラしていたが、どうしようもない焦燥感のハケ口を、この集会に求めてやってきたのだという。(中略)
もう一つ目立ったのは、中大全中闘にみられるように、セクトを離れて、ノンセクトだけが独自の集会をもっていたグループや、セクトのヘルメットの影がうすいグループが多く見られたことだ。ノンセクトが組織的にも自己主張を始めたのである。日大全共闘のリーダー(ノンセクト)はこう語っていた。
「日大も1・18.19以降、セクトがヘゲモニーをにぎる過程で、大衆が散っていきましたが、最近また少しずつ盛り返してきました。でもこれからは、単に古田がけしからんという自然発生性に依拠しているだけでは、権力側の攻勢の前にはもちません。やはり各大学間の統一戦線、また、地域的結合をはかりながら、最終的にはわれわれ自身の前衛党を形成するというところまで考えなくてはならない状況になってきました。その場合、大衆の組織化はあくまでも日大闘争を闘う中でしか不可能で、それをぬきにした政治闘争は考えられません。日大闘争そのものが政治闘争なのですから。」(後略)』

3回に分けて10・10集会の様子を紹介してきたが、1969年後半の新左翼の状況がよくわかると思う。この集会に結集した数万に及ぶ学生・市民・労働者は70年闘争をどのように闘ったのだろうか。そして、その後、どのような人生を送っているのだろうか・・・。

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前回に引き続き、10.10集会の様子を紹介する。この集会では反戦青年委員会と高校生に注目があつまったが、今回は反戦青年委員会の集会の様子を朝日ジャーナルの記事から見てみよう。

【特集・佐藤訪米阻止10・10統一集会】朝日ジャーナル1969.10.26(引用)
『「噴出する反戦青年委の隊列」
当日、もっとも早くから独自の集会をもったのは反戦青年委員会であった。正午すぎには会場の日比谷公園野外音楽堂は色とりどりのヘルメットに埋め尽くされ、「羽田闘争二周年10・10全国青年労働者決起集会」と書かれた横断幕のかかる壇上にまですわる部隊が出るほど。反戦青年委の全国集会としては、4・28沖縄デーを控えて催した4・20集会いらい二度目だが、その4・20とくらべ、とくに目をひいたのは参加者の多彩さと、数の増加だった。
演壇正面には中核の白ヘルメットの大部隊、すぐ右どなりが赤ヘル、左側上方には青ヘルと旧三派系反戦のほか、青い制服に身を固めた国鉄労働者など、その数は八千を優に超えていた。
「オリジン電気労組」、「石油・化学反戦」など、目新しい旗もチラホラ。急速に増えている銀ヘルメットは、戦闘的構革左派といわれる“主体と変革派”グループ。「4月にはわずか十数人の代表しか送れませんでしたが、今日は70人が参加しました。」-長崎県反戦代表の誇らしげなあいさつにも示されるように、参加者数は4・20のざっと2倍。北海道が長沼ミサイル基地反対闘争に加わって参加できなかったほか、名古屋、京都などでも集会が開かれたため参加者は予定を下回って32都府県14,000人、と主催者側は発表したが、その数は警視庁の予想をはるかにしのいだ。
さらに、参加人数の増加にもましてこの集会を特徴づけたには、制服姿で拍手を浴びた国労、動労など総評の主力単組である大組織の労働者たちであった。
羽田闘争をきっかけに各セクトを中心に新左翼的に再編された反戦青年委は、地域の中小企業労働者が主体となり、もともと大単産の組織労働者はごく少数であった。そのうえ総評はこの集会に先立ち、現在の反戦青年委員会を「反安保・反戦青年中央協議会」に編成がえする方針を決め、旧三派の影響を強く受けたいまの組織を「悪い反戦」ときめつけ、「10・10集会には参加しないよう」強い指示を出していた。にもかかわらず、国労、動労、自治労などの青年労働者はその指示をはね返して、青婦部などの機関決定で参加してきた。機関決定で反戦集会に参加したのはもちろんはじめてであった。
壇上に立った各代表のあいさつは、そうした背景もあって、これまでの組合運動の激しい批判に集中した。(中略)
反戦青年委がきびしい制約のなかで戦闘性を強めると同時に、その輪を着実にひろげていることは、わたしたちにもハッキリ読み取れた。会場で「10月21日は、できれば生徒と共同で行動を起こしたい」と語った教育反戦のある高校教師は、「近く神奈川県にも同じような組織ができますよ」と言っていたし、明治公園わきで会った4、5人の労働者は「きのう反戦をつくったばかりですが、どこへ参加したらいいのでしょうか」とわたしに問いかけた。会社からはもちろん、組合からも締め出しをくい、クビになる危険をおかしてまでも反戦を結成する労働者がふえている事実を、総評はもっと素直に受け止めるべきではなかろうか。
それはともかく、この日の集会は、いつもの学生の集会に聞かれる、ののしり合うようなヤジはほとんど聞かれなかった。学生と労働者の置かれている環境のちがいとも無縁ではないだろう。あるいは、きびしい職場のしめつけをはねのけて参加した同志としての連帯感、公園入口や駅近くにしかれたものものしい警備が端的に示す、体制側の圧迫に対する危機感が辛うじて統一を保たせているともいえようか。そして、その“あやふやな統一”はもっと“雑然たる統一”を示した明治公園での統一集会にもちこされるわけだが、それに向けてのデモが山崎博昭、由比忠之進両氏の遺影を先頭(写真)に、機動隊の青い隊列に見送られて出発したのは午後1時半だった。(後略)
警視庁が、大学問題が一段落したあとの警備の重点を反戦の置く方針を決めていることは、参加者のほとんどが知っていることでもあった。そして、逮捕されれば職場を追われるかも知れないことも彼らは自覚していたはずである。そうした自らの位置を認識しながら、はるばる参加した活動家の中には、この日の集会を11月決戦の皮切りとして「実力闘争辞せず」の決意を固めていた者も少なくなかったろう。
彼らにとってあの屈辱的ともいえるジュラルミンのトンネルを突破できなかったことは、心残りだったにちがいない。(後略)』

この集会後の10・21国際反戦デー、そして11月佐藤訪米阻止闘争と反戦青年委員会の労働者たちは実力闘争の中心部隊となっていく。

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今日は10月10日、以前は東京オリンピックを記念した「体育の日」として祝日であったが、法律の改正により祝日が月曜日に移ってしまったため、休みではなくなってしまった。ところで、私が10月10日で連想するのは東京オリンピックではなく、今回連載の1969年の大集会である。(写真)
この集会の前日の10月9日、バリケード封鎖中の明治大学に機動隊が導入され、東京・駿河台の明大大学院に立て篭った社学同、ML派、反帝学評の7名の学生が逮捕された。
明大では6月22日のバリケード・スト突入以来、100日以上が経過していたが、明大が9月30日の日大法経奪還闘争の出撃拠点となったことや、10.21国際反戦デーの拠点となることを恐れた大学当局により機動隊導入、ロックアウトの措置がとられた。
機動隊導入直後ということもあり、10月10日の集会では、明大全共闘の隊列に1000名を超える学生が結集した。
会場となった東京・明治公園は人波で溢れ、同年6月15日の反安保集会を上回る数万人規模の大集会となった。また、革マル派も参加したベ平連・新左翼の統一行動としては最初で最後の集会であった。

【新左翼 初の統一行動 10.10集会都内で21人逮捕 】
朝日新聞 1969.10.11(引用)
『ベ平連、全国全共闘連合、反戦青年委員会、反代々木系諸派など、いわゆる「新左翼」各派は「ベトナム反戦・安保粉砕・沖縄闘争勝利・佐藤訪米阻止」を掲げて10日、全国各地で始めての統一行動を繰り広げた。これは1昨年10月8日、反代々木系学生が佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止しようとして引き起こされた第1次羽田事件2周年を記念して行われたものだが、各派ともこの10.10集会・デモを皮切りに、10月21日の国際反戦デー、来月中旬の佐藤首相訪米に向けて闘争を盛り上げようとしており、「新左翼」各派の「10.11月闘争」の幕開けとなった。(中略)
なお、こうした「新左翼」の統一行動について、社会党はとくに態度を決めなかったが、総評は6日の幹事会で「いっさい参加しない」と決定。共産党は「首都武装制圧を叫ぶ暴力集団各派の挑発集会である」と論評した。』

【分断されたデモ 10.10集会機動隊が“厚い壁”】
朝日新聞 1969.10.11(引用)
『赤、青、ピンクと、色とりどりの旗。おばさんたちのベ平連からヘルメットに覆面の高校生、「外人ベ平連」の青い目までー10日新左翼集団の10.10集会が開かれた東京・明治公園は、数万人の人波であふれた。会場内は各団体、各派ごとにアジ演説の花ざかり。雑然とした“統一”ぶりだ。午後4時半ごろからベ平連を先頭にデモ行進にはいると、たちまち機動隊とこぜり合い、ガス弾発射。青山通りでも全共闘系学生が道路いっぱいにフランス・デモ、交通マヒ、またガス弾。有楽町、銀座など都心部は、機動隊や私服警官が厳重に警戒したが、大勢は平穏で、夜7時すぎから解散地点の日比谷公園で次々流れ解散した。
統一集会は午後4時すぎからはじまったが、会場には代々木、日比谷、清水谷の各公園で集会を開いていた反戦青年委、革マル派、学生、高校生などが次々と合流した。
統一集会のはじまった会場は2万人を超える参加者で超満員。あとから会場に到着した革マル派千3百人は会場内にはいれず、わきの仙寿院交差点通りで集会を開いたほど。
日比谷公園へ向けてのデモ行進が午後4時半すぎからベ平連を先頭に始まった。しかし、ベ平連のあとにつづいた全共闘は会場を出るとジグザグデモをはじめ、待機していた機動隊の制止にあってたちまちこぜり合い。会場に残っていた学生たちもこれを見て色めきたち、会場内に落ちていたコーラや牛乳ビンを一斉に機動隊めがけて投げ始めた。機動隊のガス弾を放って応戦。デモ行進はスタートから波乱含みの雰囲気のなかで始まった。
明治公園を出た全共闘のデモは、青山通りの地下鉄外苑駅前付近からいきなりかけ足デモに移り、先頭をデモ行進していたベ平連のデモ隊のなかに割込んだ。
全共闘の後方の学生や、それに続く反戦青年委のデモも手をつなぎ合って道路いっぱいに広がるフランス・デモを。青山通りの各所でおこなった。
赤坂見附交差点には、デモ隊を平河町から国会方面に向かわせないため、約100メートルにわたって機動隊のジュラルミンのタテによる壁がつくられた。平河町方面に約50メートル離れたところには、さらに二重のタテによる阻止線。全共闘のデモ集団は、青山1丁目付近から機動隊に約100メートルごとに分断されたうえ片側に押し付けられ、機動隊のカベにつつまれるようなかっこうで通過した。(中略)
解散地の日比谷公園に着いたデモ隊は、噴水や野外音楽堂の近くで各派ごとに総括集会を開いた。』

次回から「朝日ジャーナル」に掲載された10.10集会の様子を2回に分けて紹介します。

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