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1969年11月17日、当時の佐藤栄作首相は、日米間で2年間続けられてきた沖縄返還の交渉を仕上げることを目的として訪米した。21日、佐藤首相とアメリカ・ニクソン大統領との日米首脳会談において、アメリカは安保延長と引き換えに沖縄返還を約束した。

訪米の前日の16日、社会党、共産党、総評や反代々木系各派は全国210箇所で抗議行動を行い、12万人(警視庁調べ)が参加した。
このうち反代々木系各派は「11月決戦」として、この佐藤首相の訪米阻止闘争を70年安保闘争の最大の前哨戦として位置づけ、羽田空港に近い国電「蒲田」駅や京浜急行「京浜蒲田」駅など東京・城南地区を中心に激しい街頭闘争を繰り広げ、東京で1640人もの逮捕者を出した。
また、蒲田近辺では地元自警団が公然と登場し、反代々木系学生らと乱闘を行うなど、機動隊の活動に協力していた。
67年10月から続いた機動隊との正面戦、大規模な街頭武装闘争は、この日の大量逮捕により、大きな転換を迎えることになる。

当日の様子をドキュメント風に書いた新聞記事があるが、ブログの字数制限があるので、2回に分けて紹介する。(写真は中核派機関紙「前進」より転載・蒲田駅前の様子)

【11.16東京 】 朝日新聞 1969.11.17(引用)
『午前8時59分:ヘルメット姿の学生らしい男を乗せた舟、約20隻が隅田川を下っていった、と110番。東京・水上署員が調べたところ港湾作業船と判明。
10時:明治神宮の七五三参拝者が早くも四万人に。日曜日と快晴が重なり昨年より50%増と、これまで最高の人出。
10時:羽田空港の駐車場内に警視庁最高警備本部羽田前指揮所が置かれ、三千人が配置につく。
11時すぎ:社会党、総評、中立労連の中央抗議集会が代々木公園で始まる。主催者の調べでは、予想の五万人を大きく上回る七万人が参加。
11時30分:警視庁に若い男の声で「午後三時に羽田空港のロビーを必ず爆破する。警備車三台の一緒にやる」と電話。この種のいやがらせ電話が多い。
11時50分:台東区の蔵前署に学生風の男十数人が火炎ビン30本と石を投げ込んだ。火炎ビンは不発になったが、用務員が軽いけが。
午後1時16分:青森―東京駅伝トップ東京チーム最終走者がゴールイン。警視庁の指示で決勝点を従来の読売新聞社前から足立区の西新井大師前に変更。
1時45分:恵比寿駅前で京都ナンバーのマイクロバスから投石・ガス弾よけのベニヤ板が降ろされ、反帝学評の学生や反戦青年委に配られた。
2時20分:渋谷駅から渋谷署に「学生のなかにカービン銃らしいものをもったのがいる」との情報。まもなく、途中で「火炎ビンらしい」が「カービン銃らしい」にすり替わったことが判明。
2時45分:新宿駅5番ホームで学生ら70人が電車の網ダナをこわしはじめる。
2時50分:東京駅5・6番ホームに学生解放戦線と反帝学評の学生約500人が集まり、ホーム上で集会を始めた。
3時30分:競馬「菊花賞」レースでアカネテンリュウが1位、連勝1550円、東京の場外馬券の売り上げは十六億一千八百三十万三千六百円で史上最高。
3時30分:国電京浜東北線に乗り込んだ中核派の学生約400人が蒲田駅手前5-600メートルのところでいきなり非常コックを引き、電車をとめて線路に飛び降り、じゃりを拾って蒲田駅へ。乗客はア然。
3時30分:都内25ヶ所で行われた初のコンピューター技術試験、無事終了。蒲田会場も平穏。受験者18000人の30%は学生。
3時53分:東京駅ホームに機動隊が入り、規制開始。このため、国鉄は京浜東北線南行き、山手線外回り、中央線をストップした。
3時55分:大田区西蒲田3-13-11吉場荘というアパートで、ミカン箱30箱につめこんだ火炎ビン1468本を発見。
4時すぎ:京浜蒲田駅前で和服姿の女性、白トランクにかくした火炎ビンを学生らに渡し逮捕。
4時5分;京浜蒲田駅が学生に襲われ、京浜急行線はストップ。
4時25分:蒲田駅に学生が乱入。国鉄は東海道線、京浜東北線をストップ。また、東急目蒲線は下丸子で、池上線は池上でそれぞれ折返し運転開始。
4時25分:中核派の学生200人が国電大森駅で降り、蒲田方面に向かって線路を歩いてデモ。
4時30分:蒲田駅東口交差点付近で学生の投げた火炎ビンをさけようとした通行人約20人が将棋倒し、数人けが。蒲田本町通りで警備輸送車2台炎上。
5時すぎ:品川署に学生約500人が押しかけ、火炎ビンや投石。銀座、有楽町周辺でベ平連ら約500人がデモ、シュプレヒコール。日曜の銀ブラ族2-3000人も集まって1時間あまり騒ぎが続いた。
5時8分:東京体育館の全日本女子バレー選手権大会で、ヤシカがチーム結成以来10年ぶりの初優勝。5千人の観衆が拍手で祝福。選手はうれし涙。
(後略)』

続きは次回の連載で。