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前回に引き続き、1969年11月16日の佐藤訪米阻止闘争の様子をドキュメント風に書いた新聞記事から紹介する。(写真は週刊アンポ第3号より転載・東京馬込)

【11.16東京 】 朝日新聞 1969.11.17(引用)
『(前略)
6時36分:国電品川駅ホームで反戦高校生ら約400人がデモ。
7時すぎ:京浜急行平和島駅で降りた反戦系の約200人が「平和島」に突入しようとして機動隊と衝突、駐車中の乗用車を横倒しにしてバリケード作成。
7時15分:平和島駅近くの道で手製爆弾1個発見。
7時30分:大森署の沢田交番と富士見橋交番を約300人の学生らが投石、角材などで襲う。
7時40分:上野不忍池の弁天島を歩いていたアベックが、二人づれの若い男に短刀で脅され、腕時計と千円を奪われた。
8時すぎ:ML派学生やヤジ馬など約500人が品川駅から歩いて蒲田駅付近に到着。
8時20分:ベ平連を中心とする約400人が、京浜急行北馬場駅構内の踏切上で集会、電車をとめた。約30人逮捕。
9時すぎ:地下鉄馬込駅わきの環状七号線で、学生ら約150人がデモ。立ち往生した大森行きの都バスから乗客や運転手を下車させ、バスをガード下まで引きずってバリケード作成。環七通りは交通ストップ。
9時25分:歌舞伎座の新海老蔵襲名興行夜の部で、満員の観客に「助六」の成田屋が「なんだなんだその棒は。オレの体に当たるが最後、五丁町へ死人の山を築くぞ」と大見得を切った。観客数2216人。
10時35分:「学生が大井署を襲撃中」の情報が警視庁へ。ヘルメット姿の町の自警団が付近を通りかかったのを誤認したと判明。
10時50分:下丸子駅近くで右翼の防共挺身隊十数人と学生十数人が口論。
11時30分:国鉄蒲田駅がシャッターを開き、客扱いを再開。「30分に1本ぐらいしか運転できないが、それでもよければ」とアナウンス。』

私は当日の夕方、「とりあえず現場へ!」とうことで数人の仲間とともに「蒲田」に向かった。交通機関はストップしていたので、「大森」近辺から徒歩。
池上のあたりで「蒲田へはどう行けばいいのでしょう」と地方から出てきたらしい学生に尋ねられ、だいたいの方角を教える。
「蒲田」に近づくにつれ、自警団らしき集団を頻繁に見かける。
結局、「蒲田」までたどり着けず引き返すが、池上線沿線の駅近くで右翼の防共挺身隊の街宣車にヤジを飛ばす。

【千六百余本の火炎ビン押収】 朝日新聞 1969.11.17(引用)
『警視庁最高警備本部は17日、午前1時、過激派学生らの暴力行為による被害状況や発見された凶器の種類点数などを次のように発表した。
<警察の被害>
警察署2、交番13、警備車5
<一般>
乗用車など6、バス2、消防車1、投石を受けた電車2、投石された銀行1、道路などバリケードを作られた箇所10、街路灯2
<発見された凶器>
ダイナマイト1、手製爆弾3、火炎ビン1607本、石油18リットル、硫酸ビン6本、重油4リットル、鉄パイプ68本、シンナー5缶、角材859本、あきビン230本、ジャックナイフ1』

丁度、この時期、1969年11月に若松孝二監督の「現代好色伝/テロルの季節」という映画が公開された。
ストーリーは「元全学連活動家の男が二人の恋人と団地での同棲生活を続けることにより、闘争とは無縁の存在になったかのように見せかけ、監視する公安刑事を欺く。首相訪米の新聞記事を読んだ男はダイナマイトを体に巻きつけて羽田空港へ向かっていく。閃光と爆発音が響きエンドとなる。」というものである。
映画の解説にはこう書かれている。「そして最後において、羽田空港へと自爆攻撃に向かう直接行動は、武装路線を激化させていった共産主義者同盟赤軍派の闘いと平行していると言えるだろう。赤軍派は、時の首相である佐藤栄作が、日米安保条約延長交渉のためにアメリカに向かうのを阻止するために、誘拐作戦を計画し、それを実行するために大菩薩峠で武装訓練を行うが、69年11月5日にキャンプを襲撃され、大弾圧を受けることとなる。それ以外の様々なグループも阻止行動のために空港へと向かうが圧倒的な機動隊の物量の前で果たせず、結果的には70年6月、日米安保は自動延長を迎えることになった。そうした意味で「テロルの季節」は、当時の運動が果たせなかった行動を映画という表現によって描き、想像力において実現させようとしたのだ。」

想像力は誰にも奪われることはない。想像力は抵抗の拠点地なのだ!