野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2008年11月

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2008年11月22日土曜日、快晴。
1968年11月22日に東大安田講堂前で開催された「11・22東大日大闘争勝利全国学生総決起大会」から40年。東大近くの某ホテルで日大930の会の「拡大同窓会」が開催された。私にも日大930の会から案内状が届いたので、参加させていただくことにした。

日大930の会の同窓会なので、面識のない方が殆どということで、多少の不安を抱えながらホテルに入ると、1階のソファーに座っている秋田議長の顔が見えた。
その横を通りすぎ地下に降りると、受付周辺にはすでに大勢の方が来ている。「他大学全共闘」の受付のところでウロウロしていると、930の会世話人のS氏から「Yさん、来てくれてありがとう」と声をかけられ、ホットする。S氏とは2回顔を合わせているので、よかった。
会場の隅の椅子に腰掛けていると、「おー、Y君!」といって農獣医のS氏が近づいてきた。39年ぶりの再会である(ホームページのエピソード1969「レポ」に出てくるS氏)。「今日はN君も来るんだって?」と言われ、「N君が来るとは聞いてないけど」と言って特製名刺を渡すと、「ホームページはN君ではなくて君がやっていたのか。じゃあN君は来ないのか。」
S氏は明大全共闘ホームページの管理人が参加すると聞いて、管理人がN君だと思っていたらしい。確かに414B統一戦線のリーダーはN君だったので、間違えるのも無理はない。「君とはアルバイトの帰りに田町駅で別れたのが最後だったな。」と言われたが、殆ど記憶にない。S氏は抜群の記憶力と聞いていたが、そのとおりでした。

この会に参加した目的の1つ目が、私のホームページに書き込みをしていただいている方々に直接会ってみたいということだった。
50代の後半になって一念発起して「明大全共闘・学館闘争・文連」というマイナーでマニアックなホームページを作り、インターネット上で公開している訳だが、やはり読者の反響というか書き込みがあるとうれしい。会場ではホームページに書き込みいただいている何人かの方々と直接会って話すことができた。ネット上の書き込みを見ている所為か、初めて会ったような気がしない。
ネットはヴァーチャルな世界ではあるが、現実の私たちを繋ぐ大きな手段であることを実感した。

私の知り合いに文理学部社会学科闘争委員会で銀ヘルを被っていたN氏という人がいる。
昨年の11月22日にN氏からメールをもらったが、その中でN氏は「ところで、今日は何の日かご存知ですか?(イイ 夫婦の日?)11.22こそ、輝く68年のT大・N大闘争連帯大集会の記念すべき日であります。あの時、安田講堂前広場に全国から結集した学生とともに、民青の武装部隊と教育学部前で激突した記憶が鮮明に残っています。地方から出てきてまだ2年目の19歳でした。それにしても、あの夜は・・・寒かった!」とあった。
そんなこともあり、N氏にも今回の会に一緒に行こうと誘ったのだが、残念ながら都合がつかないという。N氏からは「会に行けないので、文理の大先輩であるK氏に私のことを聞いてみてくれ。多分知っていると思う。」と言われ、K氏にN氏のことを聞いてみることにした。N氏からは「日大全共闘は他大学の全共闘とは違って、上下関係が厳しいところなんだ。」と言われていたので、69年組の私としては「あのーNさん知ってますか。私の知り合いですが、今日は来られないのでKさんに聞いてみてくれといわれたもので。」と丁寧に尋ねたところ、「Nは知っているよ。彼は途中で色付きに(青)なったが、俺は最後まで色付きにならなかった。」という返事。
そこで、あらかじめ用意しておいたN氏の連絡先を書いたメモをK氏に手渡し、N氏とK氏を繋ぐことができた。これで、この会に参加した目的の2つ目を達成。

そして、3つ目の最も重要な目的は何か?
今、私の立っている「場所」を確認すること。全国学園闘争・70年安保闘争から40年近くが経ち、皆、それぞれの場所でそれぞれの生活を送っている。この40年近い歳月はあまりにも長い。時の流れの中で、今、私が留まっている場所はどこなのか、どこまで流されてしまったのか確認したかった。
この日、「こだわり」を持った多くの人たちの報告などを聞き、当時の「志」が生きていることを再確認できた。「志」を忘れず、時の流れに抗して私も何とか今の場所に踏みとどまっていなければ。

家庭の事情で二次会開始のシュプレヒコールを聞いた後、退席させていただいたが、皆さんあれだけ元気なら10年後の50周年も可能じゃないでしょうか。

※ yamamotoさんにネットで知り合った人たちということで、aaghさんや藪さんと一緒に前に呼ばれて挨拶をした。人前で喋るのは余り上手ではないので焦りました・・・。

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連載55と56で、1969年11月16日の佐藤訪米阻止闘争について書いた新聞記事を紹介したが、今回は「11月決戦」の反代々木系各派の総括集会の様子を書いた新聞記事を紹介する。 (写真は週刊アンポ第3号より転載・東京蒲田)

【「勝った勝った」の反代々木 首相訪米阻止の総括集会】
朝日新聞 1969.12.15(引用)
『「各派とも大入り満員 “勇敢戦闘”のカラー映画」
<カラー映画>
「10・11月決戦後、最初に総括集会を開いたのは革共同革マル派。先月29日、早大で「大政治集会」を開き、主催者発表で約4千人が集まった。次いで今月4日夜には、東京・品川公会堂でML同盟の「11月決戦報告大政治集会」が開かれた。公会堂の座席は1300だが、つめかけた学生、労働者はざっと1500人。
さらに8日夜には同公会堂で革共同中核派の「大政治集会」。ヘルメット姿の学生や若い労働者が廊下やロビーにまであふれて熱気がムンムン。「2500人も入りました」と公会堂の管理人をびっくりさせた。11日夜には、川崎市の労働会館で社青同解放派の「全関東労学政治集会」が開かれ、約600人が会場をうめた。
これらの集会では、自派の“勇敢な戦いぶり”を描いたスライドやカラーの記録映画が上映されるなど、手のこんだ演出。自派のヘルメット部隊が火炎ビンを投げて機動隊と衝突する場面が登場すると、会場から「ウオー」というどよめきがあがり、しばらくは激しい拍手とかん声のうず。
<勝利と敗北>
ところで、肝心の「10・11月決戦」の評価という点になると、派によってマチマチ。ML派と中核派が「勝った勝った」と威勢のいい総括をすれば、社青同解放派は「敗北」といった具合。佐藤訪米の阻止に失敗しても勝利とはーと首をかしげたくなるが、ML同盟にいわせると「佐藤首相が羽田に自動車で行けずに、ヘリコプターで、しかも空港を機動隊で埋めつくしてやっと出発できた。敵をそこまで追い込んだ。これが勝利でなくてなんだ」ということらしい。中核派の方は「革命の本隊である労働者が初めて武装して立ち上がった。革命への道が切り開かれた」と自画自賛。
「“三里塚決戦”打出す」
<ゲバ路線>
ゲバルト路線への自己批判はどこでも聞かれなかった。中核派の集会では、北小路敏政治局員が「マスコミはゲバルト路線の破産なんて騒いでいるが、とんでもない。佐藤訪米を阻止できなかったのはわれわれの力が弱かったためで、われわれの力がもう少し強かったら機動隊をせん滅し、訪米を阻止できた。したがって今後も機動隊せん滅、街頭武装闘争の方針は変わらない」と強調した。
また。ML同盟の集会では、鈴木迪夫書記長が「敵は自警団を組織するに至った。われわれも人民の武装を進めなければならない」とひときわ声を張り上げ、社青同解放派の集会でも、滝口弘人代表が「われわれはあくまでも革命的暴力主義に徹すべきだ」と叫んだ。
そればかりか。各派の集会では「正規軍の建設」「軍団の強化」など、勇ましい言葉が飛びかった。
<次の決戦>
では、そのゲバルト路線はいつどのような形で再登場してくるのか。総括集会でそれをハッキリ打ち出したのは中核派だ。まず、来春に予想される千葉県成田市三里塚の新国際空港の本格的な工事を実力で阻止。次いで春闘を“バリケード春闘”で闘い、“6月安保決戦”に進撃するという。社青同解放派の集会でも“三里塚決戦”が打出された。
<内ゲバ>
各派の対立も激しくなりそうだ。なかでも内ゲバ寸前の様相を呈しているのが革マル派と他のセクトで、ことし1月の東大闘争以来の対立がさらに深まった感じ。ことの起こりは革マル派が機関紙で「佐藤訪米阻止闘争が明らかにしたものは、武装ほう起宣伝集団(中核派、赤軍派、ML同盟のこと)のみるも無残な敗走であり、山ネコスト待望派(社青同解放派や構改系諸派)の反革命的とん走であった」と他派をやっつけたこと。
このため、中核派の集会では「革マル派の粉砕」が叫ばれ、社青同解放派の集会では、「醜悪な革マル派を粉砕するために闘争資金が必要です」とカンパの訴えが出る始末。一方、中核派とML同盟の間では「10・11月決戦でどちらが勇敢に戦ったか」をめぐって互いに相手をこきおろし、対立はエスカレートするばかり。』

「11月決戦」は勝利だったのか敗北だったのか、党派の見解は分かれ、革マル派と他党派の対立は決定的なものとなった。
その後、12月に日比谷野音で開催された糟谷君虐殺抗議集会では、革マル派と他党派が日比谷公園内で衝突し、大規模なゲバルトに発展した。

ところで、11月16日、蒲田周辺をウロウロしていた軟弱ノンセクトとしては「11月決戦」の総括をする立場にはない。

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前回に引き続き、1969年11月16日の佐藤訪米阻止闘争の様子をドキュメント風に書いた新聞記事から紹介する。(写真は週刊アンポ第3号より転載・東京馬込)

【11.16東京 】 朝日新聞 1969.11.17(引用)
『(前略)
6時36分:国電品川駅ホームで反戦高校生ら約400人がデモ。
7時すぎ:京浜急行平和島駅で降りた反戦系の約200人が「平和島」に突入しようとして機動隊と衝突、駐車中の乗用車を横倒しにしてバリケード作成。
7時15分:平和島駅近くの道で手製爆弾1個発見。
7時30分:大森署の沢田交番と富士見橋交番を約300人の学生らが投石、角材などで襲う。
7時40分:上野不忍池の弁天島を歩いていたアベックが、二人づれの若い男に短刀で脅され、腕時計と千円を奪われた。
8時すぎ:ML派学生やヤジ馬など約500人が品川駅から歩いて蒲田駅付近に到着。
8時20分:ベ平連を中心とする約400人が、京浜急行北馬場駅構内の踏切上で集会、電車をとめた。約30人逮捕。
9時すぎ:地下鉄馬込駅わきの環状七号線で、学生ら約150人がデモ。立ち往生した大森行きの都バスから乗客や運転手を下車させ、バスをガード下まで引きずってバリケード作成。環七通りは交通ストップ。
9時25分:歌舞伎座の新海老蔵襲名興行夜の部で、満員の観客に「助六」の成田屋が「なんだなんだその棒は。オレの体に当たるが最後、五丁町へ死人の山を築くぞ」と大見得を切った。観客数2216人。
10時35分:「学生が大井署を襲撃中」の情報が警視庁へ。ヘルメット姿の町の自警団が付近を通りかかったのを誤認したと判明。
10時50分:下丸子駅近くで右翼の防共挺身隊十数人と学生十数人が口論。
11時30分:国鉄蒲田駅がシャッターを開き、客扱いを再開。「30分に1本ぐらいしか運転できないが、それでもよければ」とアナウンス。』

私は当日の夕方、「とりあえず現場へ!」とうことで数人の仲間とともに「蒲田」に向かった。交通機関はストップしていたので、「大森」近辺から徒歩。
池上のあたりで「蒲田へはどう行けばいいのでしょう」と地方から出てきたらしい学生に尋ねられ、だいたいの方角を教える。
「蒲田」に近づくにつれ、自警団らしき集団を頻繁に見かける。
結局、「蒲田」までたどり着けず引き返すが、池上線沿線の駅近くで右翼の防共挺身隊の街宣車にヤジを飛ばす。

【千六百余本の火炎ビン押収】 朝日新聞 1969.11.17(引用)
『警視庁最高警備本部は17日、午前1時、過激派学生らの暴力行為による被害状況や発見された凶器の種類点数などを次のように発表した。
<警察の被害>
警察署2、交番13、警備車5
<一般>
乗用車など6、バス2、消防車1、投石を受けた電車2、投石された銀行1、道路などバリケードを作られた箇所10、街路灯2
<発見された凶器>
ダイナマイト1、手製爆弾3、火炎ビン1607本、石油18リットル、硫酸ビン6本、重油4リットル、鉄パイプ68本、シンナー5缶、角材859本、あきビン230本、ジャックナイフ1』

丁度、この時期、1969年11月に若松孝二監督の「現代好色伝/テロルの季節」という映画が公開された。
ストーリーは「元全学連活動家の男が二人の恋人と団地での同棲生活を続けることにより、闘争とは無縁の存在になったかのように見せかけ、監視する公安刑事を欺く。首相訪米の新聞記事を読んだ男はダイナマイトを体に巻きつけて羽田空港へ向かっていく。閃光と爆発音が響きエンドとなる。」というものである。
映画の解説にはこう書かれている。「そして最後において、羽田空港へと自爆攻撃に向かう直接行動は、武装路線を激化させていった共産主義者同盟赤軍派の闘いと平行していると言えるだろう。赤軍派は、時の首相である佐藤栄作が、日米安保条約延長交渉のためにアメリカに向かうのを阻止するために、誘拐作戦を計画し、それを実行するために大菩薩峠で武装訓練を行うが、69年11月5日にキャンプを襲撃され、大弾圧を受けることとなる。それ以外の様々なグループも阻止行動のために空港へと向かうが圧倒的な機動隊の物量の前で果たせず、結果的には70年6月、日米安保は自動延長を迎えることになった。そうした意味で「テロルの季節」は、当時の運動が果たせなかった行動を映画という表現によって描き、想像力において実現させようとしたのだ。」

想像力は誰にも奪われることはない。想像力は抵抗の拠点地なのだ!

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1969年11月17日、当時の佐藤栄作首相は、日米間で2年間続けられてきた沖縄返還の交渉を仕上げることを目的として訪米した。21日、佐藤首相とアメリカ・ニクソン大統領との日米首脳会談において、アメリカは安保延長と引き換えに沖縄返還を約束した。

訪米の前日の16日、社会党、共産党、総評や反代々木系各派は全国210箇所で抗議行動を行い、12万人(警視庁調べ)が参加した。
このうち反代々木系各派は「11月決戦」として、この佐藤首相の訪米阻止闘争を70年安保闘争の最大の前哨戦として位置づけ、羽田空港に近い国電「蒲田」駅や京浜急行「京浜蒲田」駅など東京・城南地区を中心に激しい街頭闘争を繰り広げ、東京で1640人もの逮捕者を出した。
また、蒲田近辺では地元自警団が公然と登場し、反代々木系学生らと乱闘を行うなど、機動隊の活動に協力していた。
67年10月から続いた機動隊との正面戦、大規模な街頭武装闘争は、この日の大量逮捕により、大きな転換を迎えることになる。

当日の様子をドキュメント風に書いた新聞記事があるが、ブログの字数制限があるので、2回に分けて紹介する。(写真は中核派機関紙「前進」より転載・蒲田駅前の様子)

【11.16東京 】 朝日新聞 1969.11.17(引用)
『午前8時59分:ヘルメット姿の学生らしい男を乗せた舟、約20隻が隅田川を下っていった、と110番。東京・水上署員が調べたところ港湾作業船と判明。
10時:明治神宮の七五三参拝者が早くも四万人に。日曜日と快晴が重なり昨年より50%増と、これまで最高の人出。
10時:羽田空港の駐車場内に警視庁最高警備本部羽田前指揮所が置かれ、三千人が配置につく。
11時すぎ:社会党、総評、中立労連の中央抗議集会が代々木公園で始まる。主催者の調べでは、予想の五万人を大きく上回る七万人が参加。
11時30分:警視庁に若い男の声で「午後三時に羽田空港のロビーを必ず爆破する。警備車三台の一緒にやる」と電話。この種のいやがらせ電話が多い。
11時50分:台東区の蔵前署に学生風の男十数人が火炎ビン30本と石を投げ込んだ。火炎ビンは不発になったが、用務員が軽いけが。
午後1時16分:青森―東京駅伝トップ東京チーム最終走者がゴールイン。警視庁の指示で決勝点を従来の読売新聞社前から足立区の西新井大師前に変更。
1時45分:恵比寿駅前で京都ナンバーのマイクロバスから投石・ガス弾よけのベニヤ板が降ろされ、反帝学評の学生や反戦青年委に配られた。
2時20分:渋谷駅から渋谷署に「学生のなかにカービン銃らしいものをもったのがいる」との情報。まもなく、途中で「火炎ビンらしい」が「カービン銃らしい」にすり替わったことが判明。
2時45分:新宿駅5番ホームで学生ら70人が電車の網ダナをこわしはじめる。
2時50分:東京駅5・6番ホームに学生解放戦線と反帝学評の学生約500人が集まり、ホーム上で集会を始めた。
3時30分:競馬「菊花賞」レースでアカネテンリュウが1位、連勝1550円、東京の場外馬券の売り上げは十六億一千八百三十万三千六百円で史上最高。
3時30分:国電京浜東北線に乗り込んだ中核派の学生約400人が蒲田駅手前5-600メートルのところでいきなり非常コックを引き、電車をとめて線路に飛び降り、じゃりを拾って蒲田駅へ。乗客はア然。
3時30分:都内25ヶ所で行われた初のコンピューター技術試験、無事終了。蒲田会場も平穏。受験者18000人の30%は学生。
3時53分:東京駅ホームに機動隊が入り、規制開始。このため、国鉄は京浜東北線南行き、山手線外回り、中央線をストップした。
3時55分:大田区西蒲田3-13-11吉場荘というアパートで、ミカン箱30箱につめこんだ火炎ビン1468本を発見。
4時すぎ:京浜蒲田駅前で和服姿の女性、白トランクにかくした火炎ビンを学生らに渡し逮捕。
4時5分;京浜蒲田駅が学生に襲われ、京浜急行線はストップ。
4時25分:蒲田駅に学生が乱入。国鉄は東海道線、京浜東北線をストップ。また、東急目蒲線は下丸子で、池上線は池上でそれぞれ折返し運転開始。
4時25分:中核派の学生200人が国電大森駅で降り、蒲田方面に向かって線路を歩いてデモ。
4時30分:蒲田駅東口交差点付近で学生の投げた火炎ビンをさけようとした通行人約20人が将棋倒し、数人けが。蒲田本町通りで警備輸送車2台炎上。
5時すぎ:品川署に学生約500人が押しかけ、火炎ビンや投石。銀座、有楽町周辺でベ平連ら約500人がデモ、シュプレヒコール。日曜の銀ブラ族2-3000人も集まって1時間あまり騒ぎが続いた。
5時8分:東京体育館の全日本女子バレー選手権大会で、ヤシカがチーム結成以来10年ぶりの初優勝。5千人の観衆が拍手で祝福。選手はうれし涙。
(後略)』

続きは次回の連載で。

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