野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2008年12月

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今回は久しぶりに「朝日ジャーナル」に掲載されていた「学園ハガキ通信」を紹介する。
大学の紛争の現状など大学生からの投稿を掲載していた記事である。

【朝日ジャーナル 1969.4.27号「学園ハガキ通信」】(引用)
□逆封鎖用の鉄柵完成(東洋大学)
2月中旬の地区別入試前、入試阻止のうわさがあったため、右翼体育会学生たちをつかって逆封鎖して入試が行われた。
川越移転をもくろんだものの実施できず、狭い白山の地に1万人をはるかに越える学生をつめこむ建物を必要としている状況だから、とても門などつくる敷地の余裕はありはしない。それで、入試当日はロープを張りめぐらし、テントの中で、右翼体育会学生らによる検問が行われた。ロープではあまりにおそまつと考えたのか、地区別入試終了後、当局は苦肉の策として、1号館横の通路に、とても「門」とはいえぬ。開閉可能の鉄柵をつくった。
この手回しのよさは、官憲導入時に少しも劣らぬ。なお、目下、当局は学生のためにと、1号館と2号館との間のわずかな空間に、接着剤でつくるような室をつくっていてくれる。ありがたいことである。
(匿名希望・文学部)

<管理人:注>
東洋大学は東京・文京区白山にある明治20年創立の老舗大学である。
写真は「毎日グラフ」1969.2.15号に掲載されていたものであるが、コメントに
「東洋大学 図書館・学生会館建設をめぐって昨年6月約200人の学生がすわりこみ、機動隊が導入され、これで全学休講のまま夏休みにはいりキャンパスの学生ものんびりヒルネ」とある。1968年夏頃の写真か?
同じ「毎日グラフ」に大学紛争一覧(現状と争点)というコーナーがあり、東洋大学については「一時小康をえていたが、社会学部の一部学生が同学部の一部を封鎖、急に険悪化してきている。」とのコメントがある。
「サンデー毎日」によると、当時の東洋大のセクトは社青同協会派(経・二文・二社)と民青(法)となっている。69年頃の集会で東洋大の部隊を見かけた記憶がないが、全共闘的な組織はなかったのかな?

□ポン大生復活(日大歯学部)
歯学部においても1月25日のスト解除以来、学校当局の居直りが進行中であるが、当の学生は、元学園正常化有志会(反スト派)の諸君を筆頭とし、日大闘争そっちのけで進級テストにむけて猛勉強中。
一方、歯学部闘争委員会は2月7日再封鎖闘争以後、学内での組織活動ができないばかりか、1月13日、学園正常化有志会責任者とのこぜりあいの件で、一部父兄会世話人に退学勧告をされ、さらには、現在まで闘争委6人が不当逮捕され拘留中である。
スト解除後に発足した学生会執行部は1月13日の問題をセンセーショナルに情宣し、「逮捕は当然」といい、「今後は暴力学生を排除し、教授会を信頼し、話し合いで民主化をやっていこう」と学校側もニコニコするような活躍ぶり。カンノン(完全ノンポリ)学生が学内を平和に闊歩するさまは、日大闘争前と全く同じ。ポン大生の復活・・・そして古田体制復活がそこにある。
(匿名希望・日大歯学部)

<管理人:注>
この投稿の背景となった事柄が「叛逆のバリケード(新版)」(三一書房)の年表に記載されているので引用する。
『1月13日:医学部で教職員、父兄、右翼学生によるスト破壊。学生委員会は策動によるスト解除を決議。スト続行を基本方針とする学生会(岡進委員長)は執行部の解散を宣言。
1月25日:歯学部 動員された右翼学生らが歯学部学生集会(500名)を開催。スト解除決議を採決。
1月27日:歯闘委、学生集会(500名)を開催。25日の集会は学部外から学生が動員され、また、採決にも不正があったとして、スト解除決議の無効を宣言。スト続行を決議。
1月30日:歯学部集会が世田谷体育館で開かれ、学部当局が一方的に「バリケード撤去・授業再開」を宣言し、閉会となる。
2月3日:歯闘委、歯学部学生大会で「スト解除。バリケード撤去を決議」。バリケードから日常闘争へ戦術を転換。闘争委員会がスト解除とバリケード解除を決議したのははじめて。
2月7日:歯学部のバリケード解除を実力行使した右翼学生集団150名と全共闘行動隊50名が衝突。官憲の弾圧で行動隊が排除される。』

今後も当時の各大学の状況を伝える「学園ハガキ」通信の紹介を続けていきます。

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前回の連載で、1969年12月14日に東京・日比谷野外音楽堂で行われた糟谷君虐殺抗議「人民葬」の様子を紹介した。その連載を書いている時に、当日、日比谷公園で出会い、そして数年後、突然別れてしまったN君のことを想いだした。

当日、日比谷野外音楽堂の入り口付近で党派や各大学のデモの隊列を見ていると、ジグザグデモをしている中央大学の隊列の後ろの方にノンヘルでやけに目立つ奴がいる。
よく見ると、高校1年の時の同級生N君である。
すぐに隊列に駆け寄って、「おいNじゃないか」と声をかけた。N君は隊列を離れ、「おう、久しぶりだな」と言って握手をした。中大の法学部にいるとのこと。お互いに連絡先など教えあって、その場は別れた。

N君は高校1年の時、神奈川県でも有数の進学高から都立第○学区内でも最低レベルの我が都立○○○高校に転校してきた。
私とN君の座席が近かった所為もあり、一度N君の家に遊びに行き、N君からウイスキー入りの紅茶を飲まされて、3日くらい二日酔い(三日酔い)で学校を休んだ記憶がある。N君は2年生になる前に別の学校に転校していったが、チョイ悪で個性的な生徒だった。

さて、私は当時、明大全共闘と併行して高校時代の仲間を中心としたグループにも参加していたが、N君も日比谷公園での再会の後、1970年に入ると我々の高校グループに参加するようになった。
一緒にデモに行ったり、メンバーのアパートで議論したりする小サークルのようなものだったが、仲間でいろいろと話しているうちに、N君が高校1年の時に同級生だったS子さんへの強い想いがあり、S子さんと同じ中大に入学したという話になった。(S子さんが中大に入るのを何故知っていたかは不明)
N君からS子さんへの強い想いを聞いて、「そういえばS子さんは高校時代、T君が好きだったらしい」というと、「誰だ、そいつは!」と恐ろしい剣幕で聞き返す。
「ローリングストーンズのミックジャガーに似ていた男だが、知らないか?確かT君も中大に入って、民青と思うが・・」N君はS子さんが好きだったというT君が中大の民青と知ると、「民青恐るに足らず、やっつける!」といって、やけに息巻いている。気迫十分。

70年の5月頃、そのS子さんをウーマン・リブのN子が我々の高校グループに連れてきた。S子さんは色白・小柄であまり喋らず、クールな感じの女性であるが、話をすると理知的な女性という印象を受ける。N君はそんなところに惹かれたのか?
彼女は、その後もN子と一緒に我々の高校グループに時々顔を出すようになった。
グループの集まりではN君とS子さんが顔を合わせる機会もあり、N君はS子さんにそれとなく想いを伝えていたようだが、結局、我々高校グループも71年には解散状態となり、N君とS子さんの距離が近づくことはなかった。
そして、S子さんは、ひょんなことからN君ではなく高校グループに居た私の友人と同棲するようになる。

私が大学を卒業して間もない頃、連絡も途絶えていたN君から突然電話があった。私と私の友人(S子さんと同棲している)と3人で話がしたいということで、数日後、都内の私鉄沿線の飲み屋で待ち合わせすることになった。
私と私の友人が飲み屋で待っているとN君が現れた。N君はそれほど変わっていなかった。大学卒業後、「便利屋」をやっているらしい。「便利屋」の話をしばらくした後、N君が「実はS子さんの情報を知りたい。君達なら何か知っていると思って来てもらったのだが」と切り出した。N君は私の友人がS子さんと同棲していることを知らない。
N君はS子さんへの想いを切々と語るが、私と私の友人はN君に何を言ったらいいのか分からず、ただ相槌を打ちながら話を聞いているだけだった。
話が途切れ、N君がトイレで中座した時、私と私の友人は「どうしようか」と顔を見合わせた。私が「この際、話した方がいいんじゃないか」というと、私の友人も頷き、N君が戻ってくるのを待った。
N君が席について、彼にビールを注いだ後、私の友人が「S子は俺と一緒に暮らしているよ」とポツリと告げた。
N君は「冗談だろ・・」と半信半疑の様子で我々を見た。私の友人が黙っているので、私が「実はそうなんだ。S子さんが彼と暮らしているのは本当のことなんだ。」と改めてN君に告げた。
私の友人がS子さんとの同棲の経過を淡々と話し始めると、N君はビールのコップを握り締めながら聞いていたが、ついにこらえきれなくなったのか、肩を震わせて「うー」と言って店を飛び出していった。
私と私の友人は、もうN君が帰ってくることはないと分かりつつ、ビールが半分残っているN君の飲みかけのグラスと、空っぽの座席をしばらく黙って見つめていた。

N君とは、それ以来会っていない。所在も分からない。
S子さんは、その後、イギリス人と結婚した。

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1969年12月14日、東京・日比谷野外音楽堂で、11月の佐藤訪米阻止闘争で亡くなった岡山大生、糟谷孝幸氏(プロ学同)の「人民葬」が行われた。
糟谷氏の死因については、67年の羽田闘争で亡くなった山崎博昭氏の時と同じように、デモ隊側と警察と主張が真っ向から対立した。弁護団は“糟谷君は逮捕時及び逮捕後の警棒の乱打によって虐殺された”と主張し、大阪府警は“警棒の傷と違う”として、学生の鉄パイプが当たったという説を主張した。
「週刊アンポ」にこの事件に関するドキュメント記事が掲載されているので見てみよう。

【糟谷孝幸はいかにして殺されたか アンポ・ドキュメント】
週刊アンポNo2 1969.12.1(引用)
『3万人が参加した11月13日、大阪扇町公園での「佐藤訪米阻止」行動のなかで、岡山大学法文学部2年、糟谷孝幸君(21)は逮捕され、その後に意識を失い死亡した。(中略)逮捕現場は扇町公園のむかい側、水道局前で、逮捕後、歩いて約1キロ先の曽根崎署に連行された。
曽根崎署では、指紋、写真、弁録書をとられたあとで、気分が悪いことを訴えた。警察の発表によると、午後7時に救急病院に指定されている行岡病院に連れていかれたことになっているが、病院側は8時50分と発表している。
行岡病院の院長は行岡忠雄氏で、現在、自民党の市会議員である。また、この病院には脳神経科はなく、その専門医もいない。
糟谷君は病院でしだいに意識を失っていき、14日午前1時にはほぼ完全に意識を失った。情報を知った関西救援連絡センターと樺嶋弁護士、葛岡医師が病院にかけつけたが、病院側は一切受け付けなかった。
この時点では、病院の看護婦の証言によると、脳内の血腫の有無を調べる血管撮影さえ行っていない。
午前2時20分、樺嶋弁護士と葛岡医師は、ようやく病室に入ることができたが、このときには糟谷君は麻酔注射はされていたが、血管撮影に必要な造影剤の注射はされていなかった。
手術が始められたのは午前4時。逮捕されてから実に10時間近くたってからであった。手術担当は行岡病院の松木康氏で、松木医師は整形外科専門医で脳神経科の専門ではない。
午前5時20分に、京大病院の佐藤耕造医師(脳神経科)が協力を申し入れたが病院によって拒否された。
この拒否の態度は、糟谷君が病院に運び込まれたときからのもので、病院の玄関にバケツや工事用テントをうちつけるなどして一切応対に出ないというものであった。
手術は6時20分に終了したが、この手術の際、カルテは書いていないことを8時45分の段階で、弁護士と佐藤氏は確認している。
手術後、糟谷君はほとんど意識を回復することがなかった。
糟谷君の身元は、14日午後7時までわからなかったが、救対センターの努力で判明することができた。
しかし、同日午後9時、糟谷孝幸君は死亡した。(中略)
解剖は午前1時30分から5時30分までかかり、その結果、死因は頭部打撲による脳機能障害と発表された。(中略)
当日のデモの目撃者の話では、逮捕の際に機動隊員によって火炎ビンの燃えさかる中を引きずられたり、警棒で乱打されたりする者がかなりいた。(後略)』

12月14日の「人民葬」当日の様子はホームページのエピソード1969に書いたが、まさに「合戦」という言葉がぴったりするような大規模なゲバルト(写真は朝日新聞から転載)であった。
【焼香代わり内ゲバ騒ぎ 岡大生の人民葬 1700人が衝突】
朝日新聞 1969.12.15(引用)
『全国全共闘連合は、先月13日、大阪・扇町公園で開かれた佐藤訪米抗議集会で機動隊に逮捕され、翌日死んだ岡山大生糟谷孝幸君の「人民葬」を14日午後2時半から東京・日比谷野外音楽堂で開いた。学生、反戦青年委、市民など約3300人(警視庁調べ)が集まったが、同3時半ごろこれに参加しようとした革マル派約700人と、会場外で待機していた中核派、ML派、反帝学評、フロントの学生など約1000人が衝突。公園内一帯で投石と旗ざおのなぐり合いがあった。革マル派と他派の“内ゲバ”は再三起こっているが、これほど大規模なのは始めて。同3時45分から機動隊が規制に入り、187人を凶器準備集合、暴力行為の現行犯で逮捕し、騒ぎは静まった。』

連載57のコメントに文理\(^o^)/学科さんが、当日の様子を書き込みしているが、この記事のように、1700人近くのヘルメット部隊があの広い日比谷公園内で激突。機動隊の乱入後は3者入り乱れての大乱戦となった。私の高校の友人もこの時逮捕されたが、私は何とか逃げ延びた。
明大では、生田で近くの大学の革マル派とドンパチやっていたようだが、和泉には革マル派がいなかった(公然と姿を現さなかった)ので、革マル派とのゲバルト経験は、これが最初で最後でした。

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