
今回は1969年1月17日と1月18日の安田講堂攻防戦をめぐる新聞記事を紹介する。まずは攻防戦前日の様子から。
【あらゆる手使う 防衛固める安田講堂】朝日新聞1969年1月17日(引用)
『17日朝の東京大学は、一般学生の姿はほとんどなく、正門からイチョウ並木で、何に使うのかセメントのようなものをしきりに運んだり、立看板づくりを急ぐ反代々木系学生のヘルメットがゆれるだけ。正門や赤門付近でのビラ配りもない。「ダイナマイトやニトログリセリン、劇薬が大量に運び込まれた」とうわさされる安田講堂は不気味に静まり返り、かえって危機感を高めていた。(中略)
共闘会議の山本義隆代表は、17日午前10時すぎの記者会見で「われわれは入試を断固阻止する。7学部集会は認めないし、紛争の根本的な解決もせずに入試を実施し、あらたな学生を入学させることなど許されない」という。(中略)
「安田講堂を中心とする防衛体制は固まりつつある。18日には第2波の労学総決起集会、21日にはゼネストで政府、文部省、大学当局の闘争圧殺をはねのけていく」と激しい言葉を続けるが、“最後の瞬間”が次第に近づいていることを意識してか、その表情には思いつめたものがただよっていた。また、昼ごろ反代々木系学生約40人が、正門の外の歩道の敷石をはがし始めた。機動隊約100人が出動したため、学生たちは学内に逃げ込んだが、敷石800枚以上が学内に持ち込まれた。』
【警視庁、東大出動を決定 占拠学生を排除へ】朝日新聞1969年1月18日(引用)
『(前略)加藤一郎総長代行は17日午後11時、大学の許可を持たないものすべてに学外退去を求める「退去命令」を全学共闘会議(反代々木系)、東大民主化行動委員会(代々木系)に電話で通告するとともに、広報車で学内につたえた。(中略)
東大構内の代々木系学生は17日夜、拠点の教育学部本部からほとんど姿を消した。』
【“安田トリデ”死守の構え 逮捕覚悟で400人】朝日新聞1969年1月18日(引用)
『機動隊の東大導入が時間の問題となった17日夜、“完全武装”した安田講堂はヤミ夜に黒々とそびえ立っていた。深夜まで響くカナズチの音、コンクリートを砕く音、革マル派や各派幹部の大部分はすでに脱出、ろう城するのは逮捕覚悟の“決死隊”約400人といわれ「時計台を本丸にして。10日間は戦い抜いてみせる」と豪語する。警察の情報では講堂内にはニトログリセリンはないとわかったが、ダイナマイト、火炎ビンなどがあることが確認され、学生たちが玉砕的抵抗に出れば、惨事も起こりかねない。どうしたら死傷者を出さずに、要さい化した講堂を攻め落とすことができるか、警視庁は同夜おそくまで攻城作戦の秘策を練った。(中略)
いままで共闘会議の主要派閥だった革マル派は、講堂外の文学部校舎に移り、講堂にたれさがる各派の旗の中から革マル派は消えた。さらにこの派は他派と意見が分かれ、17日までに構内から大部分が早大に移ってしまった。(後略)』
革マル派の安田講堂からの“逃亡”は、その後の他党派との対立の決定的な要因となる。明大・和泉でも1969年4月の時点では、まだ数人の革マル派が中庭でアジをしていたが、すぐに社学同に囲まれ論争に。4月の大衆団交でも数人の革マル派が記念館内にいたが、同じように論争で追い出されていた。その後、革マル派のヘルメットは見ていない。当時はゲバルトでなく、あくまでも論争での勝負だった。
東大闘争といえば本郷の安田講堂が注目されていたが、東大駒場では全共闘が窮地に
【共闘派、全く孤立 駒場の第八本部】朝日新聞1969年1月18日(引用)
『おびただしい“武器”を運び込み徹底抗戦の構えをみせる安田講堂とは対照的に、東京・駒場の東大教養学部では全共闘(反代々木系)の拠点、第八本部は無党派、代々木系陣営の中で糧道を断たれ、落城寸前の“弧城”といった様相だ。(中略)
無党派、代々木系学生は15日の昼すぎ、第八本部に突っ込んで一部の封鎖を解いた際、電源やガス、水道の元せんを切った。周囲には昼夜ぶっ通しで見張りが立ち、中に立てこもった50人足らずの全共闘学生は、出ることも食料の運び込むこともできなくなった。
(中略)駒場共闘は全部で150人ぐらいといわれる。だが大半は15日、本郷構内での総決起集会に出かけ、帰ったときには駒場校舎を無党派、代々木系学生に“制圧”されており、現場に戻れなくなった。いまは近くの明治大学に身を寄せているとのこと。(中略)
全共闘シンパらしい学生の1人は「兵糧攻めなんてえげつない」とつぶやいた。』
1月21日、駒場の全共闘は第八本部から撤退。(ホームページの「全共闘機関紙」コーナーに東大全共闘機関紙「進撃」を掲載していますが、1969年2月4日号で駒場の撤退の状況が分かります)
次回は1月18・19日の攻防戦の新聞記事です。