
引き続き、1969年1月18日と1月19日の安田講堂攻防戦をめぐる新聞記事を紹介する。
【東大、警察力で占拠排除 安田講堂に突入】朝日新聞1969年1月18日(引用)
『(前略)警視庁は18日午前7時を期して放水車など96台の車両と機動隊員を学内に入れた。警視庁は、占拠学生の激しい抵抗を予想し、ヘリコプター、防石車、ガス弾1万発を用意するとともに、万一の事態に備えて学園紛争では初のピストル武装の部隊も編成した。(後略)』
【ガス弾うず巻く安田講堂 火炎ビンと投石の雨】朝日新聞1969年1月18日(引用)
『(前略)講堂への攻撃は午前8時ちょうどに始まった。警視庁のヘリコプターが1機、講堂の屋上すれすれに近づいていった。乗員がからだを乗り出し。手に持ったガス弾に火をつけてねらいをつけた。時計塔すれすれに旋回した瞬間、投下。屋上に落ちた。すぐに学生が走り寄って拾い、下に投落してしまった。ヘリコプターは何回も旋回してはガス弾を投下する。屋上を走り回る学生の中にスカート姿の女性もみえる。
8時半ごろ、ケヤキやクスの木をタテに講堂に近づいた機動隊員のガス銃一斉射撃が始まった。講堂の屋根の上をガス弾が右に左に飛びかい、発射音とさく裂音がこだまして響き、くろぐろとそびえる時計塔はたちまち白煙に包まれた。広場から人は消え、誰もが物かげに身をひそめて屋上を見上げる。』
【10時間を越す攻防 安田トリデ“落城”せず】朝日新聞1969年1月19日(引用)
『(前略)18日、東大・本郷構内は機動隊の導入で工学部列品館、法学部研究室などにたてこもっていた学生は、次々と排除されていったが、反代々木系学生の最後のトリデ、安田講堂の学生の狂気の抵抗はすさまじく、火炎ビンと石は講堂前広場にたえまなくふりそそいだ。
石は風を切る音がするだけで、どこに飛んでくるのか全くわからない。10時間を越す攻防ののち、「危険」と判断した機動隊は実力排除を一時中止、講堂はついに1日中持ちこたえた。工学部列品館、法学部研究室での学生の抵抗はすさまじく、火炎ビンを機動隊めがけて投げつけるだけでなく、建物の一部にも放火するほどの過激さ。しかし、午後1時すぎ、列品館の学生が“降伏”すると、機動隊の主力は安田講堂へ。
その最も本格的な実力行使は午後3時15分にはじまった。まず警備車2台が、正門玄関車寄せに近づいたが、屋上から猛烈な火炎ビン攻撃を受けて退いた。最初は火を付けずにビンを投げ、ガソリンを車のまわりに散らし、次に火のついたビンを投げ、火を大きくしようという手口だ。
時計台放送がうわずった声で叫ぶ。「君たちがバリケードに近づくことを絶対に許さないぞ」。3時40分、決死隊が猛烈な投石の雨をかいくぐって車寄せにたどりついた。援護のガス弾射撃がさらに激しくなり、空からは大型ヘリコプターが屋上の学生めがけて粉末ガスを撒く。3時55分、車寄せの短いヒサシのかげに身を寄せ合って、バリケードこわしに懸命の隊員の背中に火炎ビンが落ちた。炎をまともに受けた隊員の背中が、激しく燃え上がった。さいわい、火はすぐ消えた。
この間、裏口の用務員室の窓から機動隊員が講堂に突入した。しかし、夜がせまっている。放水でぬれ、夕やけに染まって輝いていた時計台が、夕やみの中に沈みはじめた。「もう一息だ。早く、早く」と、機動隊員の間にあせりの声も出る。投光器の光が時計台を照らした。しかし、飛んでくる石はもう見えない。屋上や窓に現われた姿などから判断してわずか100人ほどがたてこもっているだけの“安田城”はついに1日では落ちなかった。』
【東大封鎖すべて解除 安田講堂も制圧】朝日新聞1969年1月20日(引用)
『18日早朝から東大・本郷構内で反代々木系学生の占拠排除、学内捜索に乗り出した警視庁機動隊は、19日も約3000人を動員、午前6時すぎから安田講堂の反代々木系学生の排除を再開した。占拠する学生の抵抗は激しく、各階に通ずる狭い階段にはロッカー、机、イスなどで厚いバリケードを築き、投石、火炎ビン、竹やりなどで警官隊に立ち向かった。
これに対し、機動隊は投石よけの即製渡り廊下を講堂内につくり、講堂内でもガス弾を多数発射、ロープや電気ドリル、切断機を使ってバリケードを次々に撤去した。正午ごろには2階にいた30数人を、午後3時半すぎには、3、4階の講堂内にいた200数十人を不退去罪、公務執行妨害などで逮捕した。
しかし、このあとも一部の学生は時計台のある塔屋や屋上にたてこもり最後の抵抗を続けたが、午後5時半すぎ機動隊は塔屋部や屋上にはいることに成功、残りの学生を逮捕し、封鎖を解除した。同講堂の封鎖解除は昨年7月2日の再封鎖以来半年余ぶりである。(後略)』
次回は安田講堂攻防戦外伝です。