野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2009年02月

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大学ゲリラの唄 ―落書東大闘争―(三省堂新書・1969.5.20発行)という本がある。
当時、東大農学部助手であった岡本雅美氏と村岡行一氏が採集した東大闘争に関する「非論理的」な資料をまとめたものである。「非論理的資料」とは、ビラ、落書、替歌などである。
本のあとがきには「己の情念や理念を十分に表現しうる言葉を、いまだもちえぬ者たちが、既製の理論的な言語や枠組みを盗んで語るとき、理論的表現のもらたす普遍化、定式化に蚕食されてかき消えてしまう何ものかを、この書に採録された詞文から読みとられることを願う」とある。
今回は、そのうち落書編を紹介する。写真は、かの有名な「連帯を求めて孤立を恐れず 力及ばずして倒れることを辞さないが 力を尽くさずして挫けることを拒否する」という落書の写真である。

では、この本から安田講堂内のいくつかの落書を見てみよう。
【大学ゲリラの唄】(引用)
『○永続的 非妥協的バリケードを構築せよ!
○君もまた覚えておけ 藁のようにではなく ふるえながら死ぬのだ
 1月はこんなにも寒いが 唯一の無関心で通過を企てるものを 俺が許しておくものか
○団交は一般的に暴力を意味しない 大衆の確認の中で行われるからだ!
 敵対者(人民と支配者)が対等でない時の戦う人民の表現形態にすぎない。
○悪魔も寄りつかぬ静寂の中で ドン・キホーテは夢を見ていた
 しかし僕等は自己を主張するに不可欠なハンマーを見ている
 反革命分子よ 気をつけるがいい
 血と肉をもった存在が今や 鉄槌なしには主張され得ないのだ
○万国の労働者 被抑圧人民団結せよ!
  世界に新しい共産党をつくれ
○東大・日大は連帯して闘うぞ!
  日共・民青の反革命粉砕!
○静寂は闘いの中に 平和は闘いの中に 秩序は闘いの中に
○真黒に汚れた手の中に ごそごそもぐりこむ硬いベットの上に 僕達は革命の夢を見る
○戦闘的な社学同の同志よ 反戦青年委員会は 君達と共に最後まで闘う
○俺は行くぞ!! 重い!重すぎる
 軽くするために行くんだ 遠くまで行くんだ 己のために 君の為に
○女性の自立をめざして 日本女性解放同盟は死ぬまで闘うぞ!!
○ローザの心は革命の心 おせばパトスの泉わく
 社会主義の情熱と人間的感性 それが革命の生命なのです
○中核の部隊は最後まで勇敢に戦い抜くであろう。だが我々は玉砕の道を選んだのではない。我々の後に必ずや我々以上の勇気ある若者たちが、東大において、いや全日本全世界において、怒涛の進撃を開始するであろうことを固く信じているからこそ、この道を選んだのだ。そうだ、我々はみずから創造的人生を選んだのだ。 
中核第二軍団第五小隊
○とめて下さいお母さん 背中の銀杏も笑ってる 女々しき東大 どこへも行けない
○労働者諸君 学生はここまで 後は君達の出番だ
○未来を怖れて現実を避ける君 君に未来はない 君に現在がないから
 君には現在も未来もない 君にはLifeがない 君の腕の時計の針が回るだけ
 君にあるのはそういう君だけ 君に見えるのはそういう君だけ
 君がするのはそういう君を守ること
○運命のままに生きることを拒否し 新世界を求めてぼくは旅立った
 もとより幻想など持たぬから 困難に直面しても悲愴にもならず
 英雄を気取ることもなかった この歓喜の合唱のための闘いを
 未完成に終わらせてはならない(駒場第八本館)』

バリケード内の落書は東大に限らず、どの大学のバリケード内でも見られた光景である。
明大のバリケード内も壁のいたるところに落書や党派のスローガンがあふれていた。
国鉄のストの時にも電車にスローガンがペンキで書かれていた。当時はスローガンと落書の時代でもあったのだろうか。
明大のバリケードの中で「孤立を求めて連帯を恐れず」という落書を見かけた。「連帯を求めて孤立を恐れず」のパロディーみたいな落書であるが、1970年以降の闘争の先鋭化や内ゲバを予想したような落書だった。
安田講堂攻防戦以降の闘争の後退戦の中で、党派を中心に、70年安保闘争に向けて闘争の質的な発展を図るためには、安易な連帯を拒否し、闘う強固な組織を作っていこうという流れがあった。そういった流れの中で闘争の先鋭化と孤立化が進み、果てしない党派間・党派内の内ゲバという呪縛へと落ち込んでいく・・・。
そういった時代の予感を的確に表した落書といえよう。

でも「孤立を求めて連帯を恐れず」には賛同しない。やはり「連帯を求めて孤立を恐れず」が正しいと思う。
それが全共闘運動の精神だから。

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1月から東大安田講堂攻防戦の籠城学生の様子や新聞記事などを紹介してきたが、攻め手である機動隊員へのインタビュー記事が朝日ジャーナルに掲載されているので紹介する。

【TPO‘69 機動隊員たち】朝日ジャーナル1969年2月9日号(引用)
『60年安保から東大へ。“鬼”とよばれる機動隊。2日間延べ13,500人を動員した安田講堂の攻防戦。各所にたむろする青ヘルメット。上級者と共にいる時は絶対口を開かず、仲間同士少人数で巡回、警備の時、ようやくナマリの多い、重い口調で。平隊員平均年齢26歳。小雨の合間。
―東大の感想はー
A わたしは外での衝突ばかりだったので構内にはいるのは今日はじめて。広いなあ。それと、破壊が予想以上ひどい。
B ひどいもんだった。(タキ火をかきたてながら)こんなにタキモノが出るほどだからなあ。これは別に掃除をしてやっているんじゃない。ただ警備しているのは寒いからねえ。
―衝突で一番怖かったのは?-
C やはり投石。どこから飛んでくるかわからんからなあ。火炎ビン、たいしたことない。角材もまあ怖いといえば怖いが(同僚の顔を見ながら)、まえ見えているので防ぐ手段はある。
D 学生たちの戦術がだんだん拡大してゆく傾向がある。(ちょっと上を見て)わたしのすぐそばでも隊員が3,4人やられた。投石だ。2人は重症らしい。
―学生たちをどう思うかー
A さあ(沈黙1、2秒)なんといったらいいかなあ(同僚を見る)
E 世間でみんな“学生さん学生さん”といっているから、まあわれわれも学生さんとは思っているけど・・・・。
F 学生は学生だろうが、われわれと衝突する時の行動なんかは、やっぱり学生らしくないといっていいな。
―家族の反響はー
B 私は関西の田舎の出身だが(目がやわらぐ)衝突があるたびに、気をつけろケガするなといってくる。こう事件がつづくと返事も書いてられないしねえ。
G(毅然として)私の所へは手紙なんて全然こない。家族も親戚も一応覚悟してるから(声を落として)まあ帰郷の時はよくいわれるが、テレビなんかでこっちの情勢がすぐわかるから心配するんだ。
―体力、気力の自信は?-
E 安田講堂封鎖解除開始以来、ずっと1日、2,3時間の睡眠。疲労はしてるんだが、やはり興奮してるのかなあ。
A (ブ然とした表情で)自分でもよくこれだけ体力つづくと驚いてしまう。
C 本部からの給食じゃ、やはりこれだけの重労働には不足だ。
D みんな小遣いでパンを買ったりしてるんだ。(口辺だけの笑いで)まあ、出動の時は多少小遣いも多くくれるからいいけれど・・・。
E いくら小遣いをくれても、やはり衝突はないほうがいいよ。
A 闘志っていうが(困惑した表情)簡単にはわかないものだ。こっちから手をだしちゃいけない、防御第一ってことでもあるしね。』

攻め手の機動隊員の素顔がチラッと見えるようではあるが、インタビューなので公式的な発言に留まっているような印象を受ける。
彼らも攻防戦では個人の“機動隊員”から組織としての“機動隊”という暴力装置に組み込まれ、防御第一という建前を捨て、ガス銃を武器に激しく攻めこんでいく。

【失明や口蓋破裂 ガス弾当り重傷者続出】朝日新聞1969年1月19日号(引用)
『18日の東大構内での反代々木系学生排除の際、機動隊のガス弾が顔にあたり、このため目をえぐられたり、くちびるが裂けた重症の学生5人が出た。
ガス銃撃は医学部中央館屋上でまず始まり、塔屋の学生に百発近いガス弾をあびせた。(中略)ガス弾は長さ約20センチ、直径約4センチ、プラスチックの弾体の先端に木部と長さ約1センチの鉄パイプがついている。重さが約150グラムあり、20メートル離れてベニヤ板を打ち抜くほどの威力。
警視庁は「仰角30度に、できれば50メートル離れてうつよう指導しており、直撃させたことはない」といっている。』

また、東大全共闘機関紙「進撃」では
【進撃1969年2月20日号】(引用)
『機動隊が使用したガス弾射撃は、明らかに15メートルから20メートルの至近距離から機動隊指揮者の「顔をねらえ」という命令に応じて水平射撃されている。』
『逮捕者は講堂や屋上で手錠のまま機動隊員に鉄パイプや棍棒で1人1人なぐられ、ガスを抜いたガス弾で至近距離から顔面をねらい打ちされるという蛮行を受けた。』

1月18日の新聞の夕刊には「ねらい撃ち 工学部列品館屋上にたてこもる学生に、法文1号館屋上からガス弾を打ち込む機動隊員」という説明文とともに、ガス弾水平撃ちの写真が掲載されている(写真は朝日新聞から転載)。
写真は事実を語っているが警察は認めない。建前と実際の現場における事実との間の大きな落差。攻撃者の論理である。

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引き続き、1969年1月18日と1月19日の安田講堂攻防戦をめぐる新聞記事を紹介する。

【東大、警察力で占拠排除 安田講堂に突入】朝日新聞1969年1月18日(引用)
『(前略)警視庁は18日午前7時を期して放水車など96台の車両と機動隊員を学内に入れた。警視庁は、占拠学生の激しい抵抗を予想し、ヘリコプター、防石車、ガス弾1万発を用意するとともに、万一の事態に備えて学園紛争では初のピストル武装の部隊も編成した。(後略)』

【ガス弾うず巻く安田講堂 火炎ビンと投石の雨】朝日新聞1969年1月18日(引用)
『(前略)講堂への攻撃は午前8時ちょうどに始まった。警視庁のヘリコプターが1機、講堂の屋上すれすれに近づいていった。乗員がからだを乗り出し。手に持ったガス弾に火をつけてねらいをつけた。時計塔すれすれに旋回した瞬間、投下。屋上に落ちた。すぐに学生が走り寄って拾い、下に投落してしまった。ヘリコプターは何回も旋回してはガス弾を投下する。屋上を走り回る学生の中にスカート姿の女性もみえる。
8時半ごろ、ケヤキやクスの木をタテに講堂に近づいた機動隊員のガス銃一斉射撃が始まった。講堂の屋根の上をガス弾が右に左に飛びかい、発射音とさく裂音がこだまして響き、くろぐろとそびえる時計塔はたちまち白煙に包まれた。広場から人は消え、誰もが物かげに身をひそめて屋上を見上げる。』

【10時間を越す攻防 安田トリデ“落城”せず】朝日新聞1969年1月19日(引用)
『(前略)18日、東大・本郷構内は機動隊の導入で工学部列品館、法学部研究室などにたてこもっていた学生は、次々と排除されていったが、反代々木系学生の最後のトリデ、安田講堂の学生の狂気の抵抗はすさまじく、火炎ビンと石は講堂前広場にたえまなくふりそそいだ。
石は風を切る音がするだけで、どこに飛んでくるのか全くわからない。10時間を越す攻防ののち、「危険」と判断した機動隊は実力排除を一時中止、講堂はついに1日中持ちこたえた。工学部列品館、法学部研究室での学生の抵抗はすさまじく、火炎ビンを機動隊めがけて投げつけるだけでなく、建物の一部にも放火するほどの過激さ。しかし、午後1時すぎ、列品館の学生が“降伏”すると、機動隊の主力は安田講堂へ。
その最も本格的な実力行使は午後3時15分にはじまった。まず警備車2台が、正門玄関車寄せに近づいたが、屋上から猛烈な火炎ビン攻撃を受けて退いた。最初は火を付けずにビンを投げ、ガソリンを車のまわりに散らし、次に火のついたビンを投げ、火を大きくしようという手口だ。
時計台放送がうわずった声で叫ぶ。「君たちがバリケードに近づくことを絶対に許さないぞ」。3時40分、決死隊が猛烈な投石の雨をかいくぐって車寄せにたどりついた。援護のガス弾射撃がさらに激しくなり、空からは大型ヘリコプターが屋上の学生めがけて粉末ガスを撒く。3時55分、車寄せの短いヒサシのかげに身を寄せ合って、バリケードこわしに懸命の隊員の背中に火炎ビンが落ちた。炎をまともに受けた隊員の背中が、激しく燃え上がった。さいわい、火はすぐ消えた。
この間、裏口の用務員室の窓から機動隊員が講堂に突入した。しかし、夜がせまっている。放水でぬれ、夕やけに染まって輝いていた時計台が、夕やみの中に沈みはじめた。「もう一息だ。早く、早く」と、機動隊員の間にあせりの声も出る。投光器の光が時計台を照らした。しかし、飛んでくる石はもう見えない。屋上や窓に現われた姿などから判断してわずか100人ほどがたてこもっているだけの“安田城”はついに1日では落ちなかった。』

【東大封鎖すべて解除 安田講堂も制圧】朝日新聞1969年1月20日(引用)
『18日早朝から東大・本郷構内で反代々木系学生の占拠排除、学内捜索に乗り出した警視庁機動隊は、19日も約3000人を動員、午前6時すぎから安田講堂の反代々木系学生の排除を再開した。占拠する学生の抵抗は激しく、各階に通ずる狭い階段にはロッカー、机、イスなどで厚いバリケードを築き、投石、火炎ビン、竹やりなどで警官隊に立ち向かった。
これに対し、機動隊は投石よけの即製渡り廊下を講堂内につくり、講堂内でもガス弾を多数発射、ロープや電気ドリル、切断機を使ってバリケードを次々に撤去した。正午ごろには2階にいた30数人を、午後3時半すぎには、3、4階の講堂内にいた200数十人を不退去罪、公務執行妨害などで逮捕した。
しかし、このあとも一部の学生は時計台のある塔屋や屋上にたてこもり最後の抵抗を続けたが、午後5時半すぎ機動隊は塔屋部や屋上にはいることに成功、残りの学生を逮捕し、封鎖を解除した。同講堂の封鎖解除は昨年7月2日の再封鎖以来半年余ぶりである。(後略)』

次回は安田講堂攻防戦外伝です。

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今回は1969年1月17日と1月18日の安田講堂攻防戦をめぐる新聞記事を紹介する。まずは攻防戦前日の様子から。

【あらゆる手使う 防衛固める安田講堂】朝日新聞1969年1月17日(引用)
『17日朝の東京大学は、一般学生の姿はほとんどなく、正門からイチョウ並木で、何に使うのかセメントのようなものをしきりに運んだり、立看板づくりを急ぐ反代々木系学生のヘルメットがゆれるだけ。正門や赤門付近でのビラ配りもない。「ダイナマイトやニトログリセリン、劇薬が大量に運び込まれた」とうわさされる安田講堂は不気味に静まり返り、かえって危機感を高めていた。(中略)
共闘会議の山本義隆代表は、17日午前10時すぎの記者会見で「われわれは入試を断固阻止する。7学部集会は認めないし、紛争の根本的な解決もせずに入試を実施し、あらたな学生を入学させることなど許されない」という。(中略)
「安田講堂を中心とする防衛体制は固まりつつある。18日には第2波の労学総決起集会、21日にはゼネストで政府、文部省、大学当局の闘争圧殺をはねのけていく」と激しい言葉を続けるが、“最後の瞬間”が次第に近づいていることを意識してか、その表情には思いつめたものがただよっていた。また、昼ごろ反代々木系学生約40人が、正門の外の歩道の敷石をはがし始めた。機動隊約100人が出動したため、学生たちは学内に逃げ込んだが、敷石800枚以上が学内に持ち込まれた。』

【警視庁、東大出動を決定 占拠学生を排除へ】朝日新聞1969年1月18日(引用)
『(前略)加藤一郎総長代行は17日午後11時、大学の許可を持たないものすべてに学外退去を求める「退去命令」を全学共闘会議(反代々木系)、東大民主化行動委員会(代々木系)に電話で通告するとともに、広報車で学内につたえた。(中略)
東大構内の代々木系学生は17日夜、拠点の教育学部本部からほとんど姿を消した。』

【“安田トリデ”死守の構え 逮捕覚悟で400人】朝日新聞1969年1月18日(引用)
『機動隊の東大導入が時間の問題となった17日夜、“完全武装”した安田講堂はヤミ夜に黒々とそびえ立っていた。深夜まで響くカナズチの音、コンクリートを砕く音、革マル派や各派幹部の大部分はすでに脱出、ろう城するのは逮捕覚悟の“決死隊”約400人といわれ「時計台を本丸にして。10日間は戦い抜いてみせる」と豪語する。警察の情報では講堂内にはニトログリセリンはないとわかったが、ダイナマイト、火炎ビンなどがあることが確認され、学生たちが玉砕的抵抗に出れば、惨事も起こりかねない。どうしたら死傷者を出さずに、要さい化した講堂を攻め落とすことができるか、警視庁は同夜おそくまで攻城作戦の秘策を練った。(中略)
いままで共闘会議の主要派閥だった革マル派は、講堂外の文学部校舎に移り、講堂にたれさがる各派の旗の中から革マル派は消えた。さらにこの派は他派と意見が分かれ、17日までに構内から大部分が早大に移ってしまった。(後略)』

革マル派の安田講堂からの“逃亡”は、その後の他党派との対立の決定的な要因となる。明大・和泉でも1969年4月の時点では、まだ数人の革マル派が中庭でアジをしていたが、すぐに社学同に囲まれ論争に。4月の大衆団交でも数人の革マル派が記念館内にいたが、同じように論争で追い出されていた。その後、革マル派のヘルメットは見ていない。当時はゲバルトでなく、あくまでも論争での勝負だった。

東大闘争といえば本郷の安田講堂が注目されていたが、東大駒場では全共闘が窮地に
【共闘派、全く孤立 駒場の第八本部】朝日新聞1969年1月18日(引用)
『おびただしい“武器”を運び込み徹底抗戦の構えをみせる安田講堂とは対照的に、東京・駒場の東大教養学部では全共闘(反代々木系)の拠点、第八本部は無党派、代々木系陣営の中で糧道を断たれ、落城寸前の“弧城”といった様相だ。(中略)
無党派、代々木系学生は15日の昼すぎ、第八本部に突っ込んで一部の封鎖を解いた際、電源やガス、水道の元せんを切った。周囲には昼夜ぶっ通しで見張りが立ち、中に立てこもった50人足らずの全共闘学生は、出ることも食料の運び込むこともできなくなった。
(中略)駒場共闘は全部で150人ぐらいといわれる。だが大半は15日、本郷構内での総決起集会に出かけ、帰ったときには駒場校舎を無党派、代々木系学生に“制圧”されており、現場に戻れなくなった。いまは近くの明治大学に身を寄せているとのこと。(中略)
全共闘シンパらしい学生の1人は「兵糧攻めなんてえげつない」とつぶやいた。』

1月21日、駒場の全共闘は第八本部から撤退。(ホームページの「全共闘機関紙」コーナーに東大全共闘機関紙「進撃」を掲載していますが、1969年2月4日号で駒場の撤退の状況が分かります)

次回は1月18・19日の攻防戦の新聞記事です。

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