イメージ 1
今年は東大安田講堂攻防戦から40年目であるが、69年明大闘争から40年目でもある。一昨年の12月からこのブログを始めたが、いよいよ明大全共闘について書く時が来た。

当時の私の記憶や明大新聞の記事などを頼りに、私の目から見た1969年初頭から1970年6月までの明大における学生運動、とりわけ明大全共闘の結成から崩壊までの過程を書いてみたい。
全共闘運動に対する想いは100人居れば100通りの想いがあると思うが、その中の1つとして読んでいただければと思っている。
当面、1ヶ月に1回程度の間隔で、闘争経過を月ごとに順を追って書いていく予定である。

明大の学生運動は1966~67年の学費値上げ闘争の敗北により大きな打撃を受けた。しかし、その後も学生運動は続き、67年10月8日の羽田闘争以降の激動の時期を経て、1968年10月21日の国際反戦デーには1日政治ストを行うまでになっている。
1969年1月の東大安田講堂攻防戦においては、学生会中央執行委員長の米田隆介氏をはじめとする明大の社学同も徹底抗戦組の一員として闘った。
また、安田講堂の闘いを支援するため神田・駿河台周辺で繰り広げられた“解放区”闘争では、明大学生会館も闘争の拠点となった。(連載No73の明大新聞の記事を参照)

明大では1月21日に東大支援の和泉・神田キャンパスでの政治ストが行われた。その時のルポが明治大学新聞に掲載されているので、それを見てみよう。(写真は明大新聞から転載)

【21東大支援ゼネスト 和泉・神田で1日スト 盛り上がりは見られず】
1969.1.30明治大学新聞(引用)
『1・21東大闘争勝利支援・機動隊学館乱入の抗議ストライキは21日のみ駿河台地区・和泉地区で決行された。
スト前日の20日には学生会中執・学苑会中執は“ストライキ宣言”の立看を掲げ、午後6時駿河台地区ではバリケード作りが着手された。5・6・7・10・11号館の入口、学館が机、長イスなどで封鎖されたが、当日は折りしも局瑤隆鐱?邯海僚蘰釗“せっかく試験勉強してきたのに”という一般学生の不満が、バリケード派学生に向けられ、一悶着が起きた。
ストライキをあくまで実行しようとする学苑会中執と、一般学生ならびに民青・体育会学生は乱闘寸前の険悪な状態になり、投石まで始まった。
両者の間に入って説得に当った教員が腹部に投石が当るなど“マロニエ通り”は緊張した雰囲気であった。
しかし、スト派学生も東大闘争・お茶の水騒動で大きくダメージを受けているだけに、人数的に少数で、抗議ストの説得もなしえず、この場は一般学生などに押し切られ、築かれた校舎のバリケードは一挙に撤去され、立看なども破壊された。
しかし、学校当局の「事実上試験実施不可能なため中止」という掲示がなされたので、学生も漸次帰宅し、9時過ぎには騒ぎも収まった。

また、局学生の居ない和泉地区では、静かそのもののうちに正門に1号館から運び出した机などでバリケードが作り上げられ午後10時過ぎには完了した。
社学同(ブント)、中核、ML、革マル、反帝学評、ベ平連など各セクト約200人がスト体制に参加し、“1・21学園ゼネラルストライキ決行中”の立看が正門に大きく据えられた。キャンパス内ではヘルメット姿の学生が立看作成に余念がなく、暗闇の中に動いていた。
一夜明けて21日、「学園ゼネラルスト」は文字通り決行された。試験のため登校した一般学生との衝突も当初懸念されていたが、大学当局の「本日試験中止」という早急な処理と、21日学長名で告示された「学館の機動隊乱入の抗議声明」が好作用したか昨夜と相も変わらぬ平静そのものでストライキ体制が続いた。(中略)

一方、昨夜スト決行で一波乱あった駿河台地区も、21日午前零時頃には本館のバリケード封鎖がなされ、正門ならびに通用門はバリケードで固く閉じられ、学生会中執名でスト宣言がはり出された。
そのほか各校舎入口にもバリケードが築かれた。これに対し、体育会は委員長名による“この本学園ストを断固許すな”という声明を発表、応援団も“檄文”と称して墨黒々と“中執の独善、専制を糾弾する”と立看が掲げられた。体連は午後1時、29クラブの主将会議を開き、「今後ストが続行するようならば果断な行動で示す」ことを決定した。

21日はお茶の水付近が反日共系学生のデモで騒乱状態が予想されるとの噂もとび、機動隊は午前4時に早くも明大通りに待機し、駿河台下の敷石をはがし始めた。
午後3時には中大で「東大奪回勝利集会」が東大の全共闘をはじめ、日大全共闘、中大全中闘のヘルメット学生2000人が講堂に結集した。本学スト隊も和泉での決起集会後中大に合流した。
午後6時集会終了。一時デモ隊は無届で明大前通りに進出したが、機動隊の強力な規制に阻まれて再び中大に退却。(後略)』
(つづく)