野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2009年05月

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前回の続きで、明治学院大学(写真は筆者撮影)の闘争の様子を紹介する。
明学大では1968年10月から校舎のバリケード封鎖が続いていたが、翌69年2月、機動隊が導入され封鎖は解除されてしまう。

【警官隊が封鎖解除 占拠学生、無抵抗で退去】毎日新聞1969.2.8(引用)
『(前略)警視庁は8日午前4時すぎ警官隊300人を出動させ、学生の排除とバリケードの撤去にあたった。(中略)
警官隊は午前9時すぎまでに封鎖6校舎のバリケードを撤去、大量の石、竹ヤリなどを押収した。大学当局は校舎内の立入りを禁止し、当分の間警官隊に警備を依頼して学生の再占拠を防ぎ、入試実施に全力をあげる。

明治学院大学では昨年10月、国際反戦デーの看板撤去をきっかけに、学生側が自治権の奪還、学生部の解体などを要求。反日共系学生を主体とする全学共闘会議が結成され、同月30日、同大中央の12階立て校舎ヘボン館をバリケード封鎖した。
その後、学生たちは本館、6号館、チャペルとつぎつぎに封鎖を拡大した。大学当局はついに7日、若林学長と武藤富男院長の連名で、高輪署長に対し「学内封鎖の解除と占拠者を排除してもらいたい」と正式に文書で要請した。

封鎖校舎には学生約230人が泊まり込み、“徹底抗戦”を叫んでいたため警視庁は警官隊300人を出動させ同大構内に入った。
大学の武藤富男院長、若林竜夫学長らがバリケード校舎の前に姿を見せ、占拠学生に校舎内からの退去を命じた。学生たちは無抵抗で本館、6号館などから出て、構内をデモしたが、まもなく正門付近で機動隊に規制された。

午前5時45分、学生たちは正門をかためた警官隊の人がきのなかを一人ずつ“首実験”をされながら“追放”されるように構外に退去した。ミッション系らしく学生のなかには、女子学生が約70人もいた。(中略)
大学当局は今後、職員や学生による“平和部隊”を組織して校舎を守るが、警官隊にも当分の間警備を依頼、学生が再占拠をはかれば、建造物侵入などで検挙してもらう方針。(後略)』

当時、明治学院大学文学部講師だった詩人の天沢退二郎氏が、朝日ジャーナルに明学大闘争について寄稿している。

【明学教授会の思想的破産 天沢退二郎】朝日ジャーナル 1969.4.13号(引用)
『(前略)昨年4月以来、さまざまな兆候や事件が起こっていたにせよ、<紛争>の直接の契機となったのは10月8日の応援団・学友会学生による立看板破壊事件であったが、その後の本館封鎖、ヘボン館封鎖、第二次本館占拠から機動隊導入におよぶ<紛争>のエスカレーションの過程は、当初の立看破壊が指標していた問題をこえて、明学全共闘による闘争が全国的な大学闘争の一環であることを証明した。
というのも、かれらの闘争過程がついにひきずり出したものこそ、学校当局=学校権力の暴力的正体であり、また、教授会なるものの反動的正体だからである(そしてまた、しばしば右翼体育会と結びついて、かれら全共闘のたたかいを分断し、阻害した民青自治会の対応もまた、全共闘がひき出した民青の正体暴露であり、全共闘のたたかいの正当性を立証するものだった。)(中略)

民青自治会はすでに第一次本館占拠のときから、その犯罪的な正体を明らかにしていた。
体育会系の学生と声をそろえて《あの破壊のあとを見よ!》と一般学生によびかけていた自治会幹部は、次にヘボン館を占拠した全共闘を、これも体育会系と結んで逆封鎖・水攻めにし、さらに学校側の設定した<全学集会>を<ヘボン館占拠への抗議集会>にきりかえ、多数決で<実力撤去>をとりつけてバリケードに迫ろうとした。
学長は一時は歓喜して《私が諸君の先頭に立って突っ込む》と叫んだのである。学校当局―民青―<一般学生>のファシスト的な結びつきは、そのとき一瞬あざやかなイメージを結んだといえる。
しかし、そのとき多数決で勝ったはずの民青執行部と行動をともにしようとした<一般学生>は、憤激して全共闘とともにバリケードを守ろうとした全共闘シンパよりもはるかに少なかった。
民青はこの失敗から、大衆団交議長団をリコールされ、全共闘はついにヘルメット・ゲバ棒の行動隊によって逆封鎖を粉砕し、民青と右翼を学内から放逐した。(中略)

不当にも学外に追われ、学生大衆とのコミュニケーションを引き裂かれた全共闘―現在は全闘連―諸君もいまは試練に立たされているが、攻撃的なバリケードの思想表現性と、物理的ゲバルトを支えるラジカリズムによって、自己を深化し、闘争を徹底的につきすすめねばならない。
教授会は国家権力と学校当局との結合に加担することをやめて自らの破産を認め、全共闘の要求項目をすべて受け入れねばならない。
学生大衆は<一般学生>という虚像のなかにひそむファシスト的素因と、ひとりひとり主体的に対決し全闘連を支えてたたかわねばならない。』

1969年6月25日夕方、全共闘系学生150人が正門、東門などを再びバリケード封鎖した。(終)

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1968年から69年にかけて、全国の大学で様々な闘争が行なわれ、当時の新聞や雑誌には、各大学の闘争の様子が連日のように報じられていた。
東大・日大闘争は写真集や本も出版され、マスコミにも取り上げられることも多いため比較的その内容が知られている。
しかし、私が在籍していた明治大学を含め、他の大学の闘争は、東大・日大闘争の陰に隠れて殆ど知られることがないまま、時の流れの中に忘れ去られようとしている。
「あの時代」を今に伝えるためには、明大のみならず他大学の闘争の状況もできるだけ紹介し、公表していく必要があると思う。
そのため、当時の新聞や雑誌の記事の中から関係の記事を探し出し、このブログで紹介していくことにした。

第1回は明治学院大学(写真は筆者撮影)の闘争について。
明治学院大学は東京・港区白金台にある1886年に設立されたミッション系の老舗大学である。
いわゆる“お嬢さん大学”というイメージの大学だったが、闘争はどうだったのだろうか。

【ルポ 紛争地帯を行く】サンデー毎日1969.2.20号(引用)
『大学本部をふくむ校舎の一部が学生に占拠されて二ヶ月あまり。明治学院大学の紛争も、ようやく大詰めにきた感じだ。(中略)1月28日には、機動隊の護衛つきで、大学周辺の道から敷石がすべて取払われ「いよいよ機動隊導入か」と、約200人のロウ城学生を緊張させた。
紛争が起こるとすぐ“病気療養”のため大学から姿を消していた若林竜夫学長も、先ごろ復帰。夜になるとスピーカーつきの車で大学付近にあらわれ、「バリケード封鎖をやめなさい」と、放送していくという。
2月26日からの入試をひかえて、ここ1週間が最後のヤマ場だ。

紛争の発端はごく単純な事件だった。昨年の10月8日、応援団と学友会系の学生約50人が“10.21アピール”の立看板を十数枚、強引に撤去して破壊したのが原因だ。
それば一般学生の目に「学生部とつながった言論弾圧」とうつり、抗議の火の手があがったものである。
だから、その直後に100番教室で開かれた抗議集会では「応援団の解散」と「学友会、体育会執行部の辞任」といった程度の要求しか出されなかった。闘うキリスト者同盟の赤松桂委員長(経3年)もこういっていた。
「なにしろ、うちは学生運動の不毛地帯で、自治会すらない大学なんです。だから、大学当局は“まさか、うちで・・”と安心しきっていたし、われわれも、ここまで闘えるとは考えなかった。」

他大学では簡単にケリがつくはずの問題が、こじれにコジレてしまった。「応援団解散を要求するわれわれに対して、大学当局は何と答えたと思いますか。」と、今度は共闘会議(河野英雄委員長)の学生たちが説明する。
「何も答えなかったのです。それどころか、応援団の暴力行為を目の前に見ながら、学生部長も学生課長もニヤニヤ笑っているだけでした。そして大衆団交を要求すると。RTD方式でなければダメだという。話にもなりません。」
RTD方式とは、“ラウンド・テーブル・ディスカッション”のこと。明治学院で昔から行われてきた話し合いの方法だ。
しかし、「そんなナマヌルイ方法では何も解決しない」と考えた学生側は、すぐ全学共闘会議を結成して、本館バリケード封鎖を決議、10月16日の午後、約120名の学生が本館を占拠した。

ところが、バリケード封鎖に抗議する一般学生の反発が強くて、この本館占拠はわずか1日しかもたず、あっさり失敗。
全学共闘会議といっても、どこのセクトにも所属していない“ノンポリ学生”が主体だ。しかも、活動家の層は薄くて、200人そこそこ、シンパを加えても全学生の1割に満たない人数だ。
10月30日、共闘会議の学生はスキをねらって、こんどはヘボン館を封鎖。わずか20人という“決死隊”だったが、そこで学生部の㊙資料を続々と発見した。
学生盗聴施設の存在とか、応援団員を供応した料亭の領収書など。
しかも、応援団・民青系の学生がヘボン館のロウ城学生を“逆封鎖”して、水や食料の差し入れをストップしたことから、それまで傍観者だった一般学生が共闘会議に同情、大学側のやり方に疑惑の目を向けはじめた。
そこで、共闘会議はさらに本館再封鎖へと手を伸ばし、これとは別に闘うキリスト者同盟の学生が、明治学院大学のシンボルともいうべきチャペルを封鎖しバリケードの中で年を越した。

要求項目もヽ慇孤長、学生課長の自己批判と辞任学則破棄・改正3慊紅輒箸覆鼻硲更猝棔匹砲佞れあがり、現在に至っている。その間、天達学長代理との間に大衆団交が行われたり、若林学長を団交の席に引き出すことにも成功したが、解決の糸口はまだ見つかってはいない。
そのうえ、若林学長の復帰と「学長の権限は教授会に優先する」という発言をめぐって教授の一部からも批判の声があがっており、事態はますます複雑になってきた。(後略)』

次回に続く。

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今年は東大安田講堂攻防戦から40年目であるが、69年明大闘争から40年目でもある。一昨年の12月からこのブログを始めたが、いよいよ明大全共闘について書く時が来た。

当時の私の記憶や明大新聞の記事などを頼りに、私の目から見た1969年初頭から1970年6月までの明大における学生運動、とりわけ明大全共闘の結成から崩壊までの過程を書いてみたい。
全共闘運動に対する想いは100人居れば100通りの想いがあると思うが、その中の1つとして読んでいただければと思っている。
当面、1ヶ月に1回程度の間隔で、闘争経過を月ごとに順を追って書いていく予定である。

明大の学生運動は1966~67年の学費値上げ闘争の敗北により大きな打撃を受けた。しかし、その後も学生運動は続き、67年10月8日の羽田闘争以降の激動の時期を経て、1968年10月21日の国際反戦デーには1日政治ストを行うまでになっている。
1969年1月の東大安田講堂攻防戦においては、学生会中央執行委員長の米田隆介氏をはじめとする明大の社学同も徹底抗戦組の一員として闘った。
また、安田講堂の闘いを支援するため神田・駿河台周辺で繰り広げられた“解放区”闘争では、明大学生会館も闘争の拠点となった。(連載No73の明大新聞の記事を参照)

明大では1月21日に東大支援の和泉・神田キャンパスでの政治ストが行われた。その時のルポが明治大学新聞に掲載されているので、それを見てみよう。(写真は明大新聞から転載)

【21東大支援ゼネスト 和泉・神田で1日スト 盛り上がりは見られず】
1969.1.30明治大学新聞(引用)
『1・21東大闘争勝利支援・機動隊学館乱入の抗議ストライキは21日のみ駿河台地区・和泉地区で決行された。
スト前日の20日には学生会中執・学苑会中執は“ストライキ宣言”の立看を掲げ、午後6時駿河台地区ではバリケード作りが着手された。5・6・7・10・11号館の入口、学館が机、長イスなどで封鎖されたが、当日は折りしも局瑤隆鐱?邯海僚蘰釗“せっかく試験勉強してきたのに”という一般学生の不満が、バリケード派学生に向けられ、一悶着が起きた。
ストライキをあくまで実行しようとする学苑会中執と、一般学生ならびに民青・体育会学生は乱闘寸前の険悪な状態になり、投石まで始まった。
両者の間に入って説得に当った教員が腹部に投石が当るなど“マロニエ通り”は緊張した雰囲気であった。
しかし、スト派学生も東大闘争・お茶の水騒動で大きくダメージを受けているだけに、人数的に少数で、抗議ストの説得もなしえず、この場は一般学生などに押し切られ、築かれた校舎のバリケードは一挙に撤去され、立看なども破壊された。
しかし、学校当局の「事実上試験実施不可能なため中止」という掲示がなされたので、学生も漸次帰宅し、9時過ぎには騒ぎも収まった。

また、局学生の居ない和泉地区では、静かそのもののうちに正門に1号館から運び出した机などでバリケードが作り上げられ午後10時過ぎには完了した。
社学同(ブント)、中核、ML、革マル、反帝学評、ベ平連など各セクト約200人がスト体制に参加し、“1・21学園ゼネラルストライキ決行中”の立看が正門に大きく据えられた。キャンパス内ではヘルメット姿の学生が立看作成に余念がなく、暗闇の中に動いていた。
一夜明けて21日、「学園ゼネラルスト」は文字通り決行された。試験のため登校した一般学生との衝突も当初懸念されていたが、大学当局の「本日試験中止」という早急な処理と、21日学長名で告示された「学館の機動隊乱入の抗議声明」が好作用したか昨夜と相も変わらぬ平静そのものでストライキ体制が続いた。(中略)

一方、昨夜スト決行で一波乱あった駿河台地区も、21日午前零時頃には本館のバリケード封鎖がなされ、正門ならびに通用門はバリケードで固く閉じられ、学生会中執名でスト宣言がはり出された。
そのほか各校舎入口にもバリケードが築かれた。これに対し、体育会は委員長名による“この本学園ストを断固許すな”という声明を発表、応援団も“檄文”と称して墨黒々と“中執の独善、専制を糾弾する”と立看が掲げられた。体連は午後1時、29クラブの主将会議を開き、「今後ストが続行するようならば果断な行動で示す」ことを決定した。

21日はお茶の水付近が反日共系学生のデモで騒乱状態が予想されるとの噂もとび、機動隊は午前4時に早くも明大通りに待機し、駿河台下の敷石をはがし始めた。
午後3時には中大で「東大奪回勝利集会」が東大の全共闘をはじめ、日大全共闘、中大全中闘のヘルメット学生2000人が講堂に結集した。本学スト隊も和泉での決起集会後中大に合流した。
午後6時集会終了。一時デモ隊は無届で明大前通りに進出したが、機動隊の強力な規制に阻まれて再び中大に退却。(後略)』
(つづく)

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