
連載No79の続きです。
私は1969年4月に明大に入学した。入学式は日本武道館で行われたが、第一部の大学側による型どおりの入学式が終わった後、第二部では学生会の主催で羽仁五郎氏の講演が行われた。新入生も半分は残って講演を聞いていたと思う。
羽仁氏は当時67歳の歴史学者。「都市の論理」という本を出しており、反日共系学生に絶大な人気があった。
2月11日に中大中庭で行われた「日大闘争勝利5万人大集会」では「最後の勝利者は、闘う学生きみたちのものだ!」とアジ演説を行っている。
そんな講演を入学式で聞いて、気持ちはすっかり全共闘支持に。
4月12日、69年明大闘争のきっかけとなるある事件が起こる。
【神田でまた“市街戦” 日大生追って明大に催涙弾 126人検挙】
毎日新聞 1969.4.13(引用)
『12日午後、東京・駿河台で校舎の再占拠をはかろうとした日大共闘会議の学生たちが機動隊に投石するなど“市街戦”を展開。明大学生会館に逃げ込んだ学生を追いかけて機動隊が同会館内に立入り、126人(うち女子21人)を公務執行妨害で検挙した。
機動隊が「会館内の学生は全員検挙」という強硬方針をとったため、会館内でサークル活動をしていた明大の学生も検挙され、会館そばの校舎にいた学生が騒ぎ出した。
このため、機動隊は投石学生の規制に続いて再度催涙弾数十発を明大校舎内に撃ち込んだ。
日大の学生は午後2時すぎから明大学生会館前で集会を開き、約600人が校舎の再占拠をはかろうと、午後4時すぎ、日大理工学部周辺の路地から明大前の大通りをデモした。
このため機動隊が規制に入ったが、学生たちは会館前の路上に立看板のバリケードを作りブロック塀を壊した破片や牛乳ビンを投げて抵抗した。
午後5時ごろ、機動隊が催涙弾を発射、明大学館内に逃げ込んだ学生を追って同会館になだれこみ、会館内にいた学生126人を逮捕した。
この“市街戦”で駿河台の明大周辺には明大、中大の学生や通行人など約3千人が集まり、“カルチェ・ラタン“に近い状態になった。
とくに明大の学生は学生会館横の11号館と向かいの7号館で4年生が就職予備試験中で、機動隊に「帰れ、帰れ」のシュプレヒコールを浴びせかけた。
機動隊はこれらの学生に向かって催涙銃をかまえて、騒ぎを静めようとしたため、7号館4階からイスを投げ落とすものも出た。
機動隊は催涙弾をこれらの校舎に向けて発射、学生を追い散らした。このほか明大校舎内から投石があったため、機動隊が同大構内に踏み込む騒ぎもあった。(中略)
この日、明大が受けた“災難”は日大の学生がとった行動のとばっちりを受けたわけで、松田孝同学生部長は「この日の警察の行動は大学の自治をおびやかすもので、抗議したい」と警察の姿勢に抵抗する考えを示した。』
学生会館にいた明大生で逮捕されたのは18人、そのうち4人は機動隊に暴行を受けた。いずれも一般学生で凶器は持っていなかった。また、全逮捕者のうち送検されたのは86人だが、拘置されたのは5人だけであった。
この機動隊の学館乱入に対し、同日午後6時すぎから学生会中執及び学苑会(局堯肪羲垢半湘蝶慇孤長との団交が持たれた。学生側から学生の不当逮捕に関し、学生部長としての行動を求められた松田学生部長は同日午後10時半から記者会見を開き、この記事に書かれたような抗議文を発表した。
さらに、学生会中執及び学苑会(局堯肪羲垢箸隆屬如孱慣遑隠監釮冒干悒好箸鯀箸爐茲Τ慊垢某文世垢襦廚箸いζ睛討粒稜Ы颪鮗茲蠍鬚錣靴拭
【時の人 4・14ストに奔走する学生会委員長代行の長善一】
明治大学新聞1969.4.24(引用)
『「学校側から独自の抗議集会を開く旨の連絡があったが、われわれはあくまでも学校側を巻き込んだかたちでの集会に持っていきます」。語気強く言い切った。「とにかく学校側がわれわれと別こに集会をやるようなことがあれば断固粉砕します」抗議集会は全教職員、学生が一体になってやらねば意味を成さないと強調する。
「すぐにバリケードを築いたりして右翼的な反感を買うようなことはしません」。なかなかの慎重論者でもある。』
4月14日、学内各組織・団体は抗議文を発表したが、全学ストを巡って対応が分かれた。
文化部連合会・研究部連合会「不当逮捕に全学ストで起つ」
理科部連合会「この全学ストは学生会の一般学生・クラスを無視したものであり、強く抗議する」
体育会「大学の建造物が破壊された事、多数の学生が逮捕された事に遺憾の意を表すると共に、4.12確約書を無秩序状態の中で締結した学生部当局と学生会・学苑会両中執に対し、断固抗議する。」
4月14日・15日に駿河台の明大記念館で学長との大衆団交が行われ、両日とも会場を埋め尽くすほどの学生が詰め掛けた。
(つづく)