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時の流れの中に忘れ去られようとしている全国学園闘争を紹介するシリーズの2回目は、前回と同じくミッション系の青山学院大学。(写真は筆者撮影)
「蔦のからまるチャペルで 祈りを捧げた日・・・」とペギー葉山の「学生時代」に歌われた青学大にもバリケードが築かれた。
学園闘争とはまったく縁のなさそうな青学大にバリケードが出現したということで、当時の新聞にも特集で取上げられた。

【青山学院大学の学園民主化闘争】毎日新聞1969.2.1(引用)
『大学紛争も初期の段階では授業料問題、学生会館問題などの特定のパターンに限られていたが、今では一瞬即発の状況で、何が個別の問題として浮かび上がってくるかは予想もつきにくい。
女子学生が多く、最も紛争が起こりにくい大学だと考えられていた青山学院大学でも、あっという間にバリケードが出現、団交→確認書→バリケード封鎖解除のコースがとられた。
一般的に「学園民主化闘争」とよばれている紛争も、大学によっていかに大きな幅があるかを、この紛争は示している。

<条文廃止して内容残す大学>
青山学院大の共闘会議が取上げた要求項目の中心をなすものは、昭和35年6月17日付で大木金次郎学長が公示した、いわゆる「三公示」の撤回だった。
安保条約が混乱の中で衆議院で自然承認される直前のこの三公示は「1.本大学学生は全学連への加入は禁止する。2.学内における政治的実践は許されない。学園は各種の政党から中立でなければならない。3.学生は授業に出席する学生を妨害したり、欠席を強要するいかなる手段もとってはならない。」と、学生による政治活動の制限をねらうものだった。
共闘会議に結集する学生の要求を受けた大学は、昨年10月17日、この三告示を廃止する措置をとったが、それと同時に「本学の学生が外部の団体に青山学院大学をあらわす名称を用いて参加する場合は、従来の慣行どおり他の一般の団体(体育会、文化団体連合)と同様にする」と、条文は消去するものの公示の内容はそのまま存続させ、従来どおり活動は許可制とすることでワクをはめようとした。
さらに、文化団体連合、体育会、学生会とパラレルに並ぶ学友会(会長は学長)の組織を改め、自治会を作る呼びかけも、大学側によって並行して行なわれた。
この大学の一連の措置は、大学のねらいとは逆に学生側の反発をかうことになった。
条文は廃止するが内容はそのままというのでは積極的に廃止する理由にはなり得ないし、さらに問題は学生の要求が「三告示体制」の変革にあるのに反して、大学側の措置は体制をそのままにして公示だけを引っ込めるというスレ違いを意図した点にあった。
他方、自治会を作りたまえといっても、実質的な三告示体制の下では、学生が自主的に自治組織を作り上げることは他の大学の例を見るまでもなく不可能なのは明らかである。
11月26日、青山学院大学に初のバリケードが現れたのは、三告示廃止のこうしたあいまいさに抗議したものだったと考えられる。
このバリケードがあまりにも突然に出現したので、困惑したほかの学生はバリケードを包囲し、共闘会議の学生は半日で外に出たため、混乱は避けられた。

<学長の見解でかえって混乱>
一方、ことの経緯に関して明確な説明の必要を感じていた教授会の方でも、11月30日に全学集会を開き、大学側の見解を周知徹底させることに努力する。
しかし、集会の席上で大木学長は建学の精神であるキリスト教と唯物弁証法的世界観に立ち実践的行動主義を標榜する学生運動とは両立しないという見解を示したことが、また新たな問題を呼ぶことになる。
大木学長は同時に「ただ学生に対してキリスト教の信仰をもつようにと強要すべきものではない」としながらも、三告示については「昭和24年新制大学として発足以来、約20年の間に学生たちの自治意識がかなり向上したので、もはや禁止条項により束縛的な規定を存続するよりも、学生の良識と自主性に委ねることの方が、より教育的効果が望みうると判断」(“学生部だより”第7号)したと、以前と変わらない説明をし、建学精神に従わない学生は青山学院大には不必要だと見解を述べたことが、事態をまたこじらせた。
共闘会議の学生は「どこの大学でも事態が混乱してくるときまって古ぼけて役に立たない“建学の精神”なるものを持ちだしてくる。
うちの場合、キリスト教=政治活動禁止というのなら、キリスト教信者でないものは活動の自由が与えられていなければならないはずだ。すべての学生がキリスト教に帰依する必要はないと学長がいっている以上、大学側の発言は矛盾しているのではないか。
それでも、なおかつ禁止体制を押し通すなら、当然別の論理がなければならないはずだが、そうした論理はついに大学側からは得られなかった」と態度を硬化させ、12月12日夜、再び大学の中枢にあたる八号館封鎖へと闘争をエスカレートさせた。』

(つづく)