野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2009年06月

イメージ 1
前回に引き続き青山学院大学の闘争の様子を当時の新聞記事から紹介する。(写真は筆者撮影)

【青山学院大学の学園民主化闘争】毎日新聞1969.2.1(引用)
『冬休み明けの1月18日、大木学長の3月までの学長退陣(ただし学院長はそのまま)を前提に桜井信行学長代理と共闘会議との間に団交がもたれ、共闘会議が要求していた6項目について桜井学長代理が署名、はじめてバリケード封鎖が解かれ、やっと正常化が実現された。
確認書に盛り込まれた「1.“学長三告示”に関する大学側の自己批判。2.三告示に該当した昭和41年芝田法大助教授の講演強行事件の処分の白紙撤回。3.自治会設立。4.表現の自由。5.昨年12月20日の理工学部機動隊導入の自己批判。6.無用な器物破損と盗難を除き、今回の闘争について処分者をださない。」
の6項目は、今後教授会と共闘会議の主催する4月開催予定の学生大会の双方で確認された後、正式に効力をもつことになる。

<学生側の統一組織の必要性>
大学側の対応の仕方に一貫性が欠けていたのと相応して、学生の側にもかなりの意識のバラツキがあり、それがまた紛争をもたつかせたことも確かである。
共闘会議に結集した学生は少数だったし、11月30日の大木学長の発言の後でも、学内デモに参加したのは数百人にすぎなかった。
また、明確に共闘会議に対立する勢力として、学生懇談会が発足、大衆団交が全学生に徹底しなかった手続き上の不備を攻撃し、本当の青山学院大の学生の意思は共闘会議側にはないと批判を開始したのも、そうした動きの現われだ。
さらに厄介な問題はそのいずれの組織もが正式に学生の意思を反映し結集する代議員機関ではない変則状態にある。
自治会が存在し、機能していればこの種の混乱は避けられたであろう。
もちろん例によってその両方のグループいずれにも属さない多くの無関心組がいるのも見のがせない。
「まったく恥ずかしい話ですよ。いまごろ自治会設立闘争などという後進国的な闘争をやっているんですから。それにしてもこんな初歩的でしかも重要な基本的問題でさえ、無関心な学生が多いのは、結局のところ意識の低い学生を大量に培養した“三告示体制”の成果なんでしょうがね。」とは、ある学生の話だ。
大学側の不十分な対応と弱い学生基盤とが、なんとか辛うじて一致点を見出した感じの今回の紛争だが、もちろんまだ最終的な解決は依然として残されたまま。
教授の間の桜井学長代理の独走だという批判と、共闘会議の学生と一般学生との間の距離とは、事と次第によっては今後確認書を宙に浮かしてしまう懸念もある。
自治会の組織作りとともに、確認書の中には学長リコール制に関して今後学生との間で協議するといった取決めもはいっているので、学園民主化の次のステップが、4月からどのようなスケジュールで進行していくかが、当面の関心を集めることになりそうだ。』

これは69年2月段階の状況であるが、青学大のその後の様子を新聞記事と朝日ジャーナルから見てみよう。

【全共闘が無期限スト】毎日新聞1969.6.21(引用)
『「大学立法反対、大木金次郎院長の退陣」を要求する青山学院大学全共闘は20日から無期限ストにはいった。
同日、午後1時すぎから約1,000人が910番教室に集まって総決起集会を開いたあと、夕刻までに正門など6ヶ所の門をバリケード封鎖した。同日の授業は全共闘系学生によって封鎖された1号館を除き平常どおり行なわれている。』

【朝日ジャーナル 1969.6.15号「学園ハガキ通信」】(引用)
□無風地帯に変革の嵐(青山学院大)
『昨年10月以来、学生運動の無風地帯といわれた青山学院にも、変革の嵐がやってきた。全共闘によって暴露された大学当局の欺瞞性は三公示体制(中略)に代表されるキリスト教民主主義=反共民主主義であることを、青山学院に学ぶ1万学友が自ら認識した。
青学でも、明学でも、上智でも神は生きていた。
「俺は青学 ノンポリ育ち 何も見たくない 考えたくない
俺は青学 温室育ち 何もやりたくない 見たくない」
に代表される青学生は、いま大きな自己変革の過渡期にいる。
現在闘われているところの大学立法抗議全学ストライキは、学内民主化闘争から、反権力闘争への闘争へと発展していることは、かっての青山学院では考えられないことである。
青学大闘争は日大的泥沼闘争か大学改革かの2つの可能性をもちつつ、今後も闘われていくだろう。(大川章 経営学部)』
(つづく)

イメージ 1
時の流れの中に忘れ去られようとしている全国学園闘争を紹介するシリーズの2回目は、前回と同じくミッション系の青山学院大学。(写真は筆者撮影)
「蔦のからまるチャペルで 祈りを捧げた日・・・」とペギー葉山の「学生時代」に歌われた青学大にもバリケードが築かれた。
学園闘争とはまったく縁のなさそうな青学大にバリケードが出現したということで、当時の新聞にも特集で取上げられた。

【青山学院大学の学園民主化闘争】毎日新聞1969.2.1(引用)
『大学紛争も初期の段階では授業料問題、学生会館問題などの特定のパターンに限られていたが、今では一瞬即発の状況で、何が個別の問題として浮かび上がってくるかは予想もつきにくい。
女子学生が多く、最も紛争が起こりにくい大学だと考えられていた青山学院大学でも、あっという間にバリケードが出現、団交→確認書→バリケード封鎖解除のコースがとられた。
一般的に「学園民主化闘争」とよばれている紛争も、大学によっていかに大きな幅があるかを、この紛争は示している。

<条文廃止して内容残す大学>
青山学院大の共闘会議が取上げた要求項目の中心をなすものは、昭和35年6月17日付で大木金次郎学長が公示した、いわゆる「三公示」の撤回だった。
安保条約が混乱の中で衆議院で自然承認される直前のこの三公示は「1.本大学学生は全学連への加入は禁止する。2.学内における政治的実践は許されない。学園は各種の政党から中立でなければならない。3.学生は授業に出席する学生を妨害したり、欠席を強要するいかなる手段もとってはならない。」と、学生による政治活動の制限をねらうものだった。
共闘会議に結集する学生の要求を受けた大学は、昨年10月17日、この三告示を廃止する措置をとったが、それと同時に「本学の学生が外部の団体に青山学院大学をあらわす名称を用いて参加する場合は、従来の慣行どおり他の一般の団体(体育会、文化団体連合)と同様にする」と、条文は消去するものの公示の内容はそのまま存続させ、従来どおり活動は許可制とすることでワクをはめようとした。
さらに、文化団体連合、体育会、学生会とパラレルに並ぶ学友会(会長は学長)の組織を改め、自治会を作る呼びかけも、大学側によって並行して行なわれた。
この大学の一連の措置は、大学のねらいとは逆に学生側の反発をかうことになった。
条文は廃止するが内容はそのままというのでは積極的に廃止する理由にはなり得ないし、さらに問題は学生の要求が「三告示体制」の変革にあるのに反して、大学側の措置は体制をそのままにして公示だけを引っ込めるというスレ違いを意図した点にあった。
他方、自治会を作りたまえといっても、実質的な三告示体制の下では、学生が自主的に自治組織を作り上げることは他の大学の例を見るまでもなく不可能なのは明らかである。
11月26日、青山学院大学に初のバリケードが現れたのは、三告示廃止のこうしたあいまいさに抗議したものだったと考えられる。
このバリケードがあまりにも突然に出現したので、困惑したほかの学生はバリケードを包囲し、共闘会議の学生は半日で外に出たため、混乱は避けられた。

<学長の見解でかえって混乱>
一方、ことの経緯に関して明確な説明の必要を感じていた教授会の方でも、11月30日に全学集会を開き、大学側の見解を周知徹底させることに努力する。
しかし、集会の席上で大木学長は建学の精神であるキリスト教と唯物弁証法的世界観に立ち実践的行動主義を標榜する学生運動とは両立しないという見解を示したことが、また新たな問題を呼ぶことになる。
大木学長は同時に「ただ学生に対してキリスト教の信仰をもつようにと強要すべきものではない」としながらも、三告示については「昭和24年新制大学として発足以来、約20年の間に学生たちの自治意識がかなり向上したので、もはや禁止条項により束縛的な規定を存続するよりも、学生の良識と自主性に委ねることの方が、より教育的効果が望みうると判断」(“学生部だより”第7号)したと、以前と変わらない説明をし、建学精神に従わない学生は青山学院大には不必要だと見解を述べたことが、事態をまたこじらせた。
共闘会議の学生は「どこの大学でも事態が混乱してくるときまって古ぼけて役に立たない“建学の精神”なるものを持ちだしてくる。
うちの場合、キリスト教=政治活動禁止というのなら、キリスト教信者でないものは活動の自由が与えられていなければならないはずだ。すべての学生がキリスト教に帰依する必要はないと学長がいっている以上、大学側の発言は矛盾しているのではないか。
それでも、なおかつ禁止体制を押し通すなら、当然別の論理がなければならないはずだが、そうした論理はついに大学側からは得られなかった」と態度を硬化させ、12月12日夜、再び大学の中枢にあたる八号館封鎖へと闘争をエスカレートさせた。』

(つづく)

イメージ 1
連載No79の続きです。
私は1969年4月に明大に入学した。入学式は日本武道館で行われたが、第一部の大学側による型どおりの入学式が終わった後、第二部では学生会の主催で羽仁五郎氏の講演が行われた。新入生も半分は残って講演を聞いていたと思う。
羽仁氏は当時67歳の歴史学者。「都市の論理」という本を出しており、反日共系学生に絶大な人気があった。
2月11日に中大中庭で行われた「日大闘争勝利5万人大集会」では「最後の勝利者は、闘う学生きみたちのものだ!」とアジ演説を行っている。
そんな講演を入学式で聞いて、気持ちはすっかり全共闘支持に。

4月12日、69年明大闘争のきっかけとなるある事件が起こる。
【神田でまた“市街戦” 日大生追って明大に催涙弾 126人検挙】
毎日新聞 1969.4.13(引用)
『12日午後、東京・駿河台で校舎の再占拠をはかろうとした日大共闘会議の学生たちが機動隊に投石するなど“市街戦”を展開。明大学生会館に逃げ込んだ学生を追いかけて機動隊が同会館内に立入り、126人(うち女子21人)を公務執行妨害で検挙した。
機動隊が「会館内の学生は全員検挙」という強硬方針をとったため、会館内でサークル活動をしていた明大の学生も検挙され、会館そばの校舎にいた学生が騒ぎ出した。
このため、機動隊は投石学生の規制に続いて再度催涙弾数十発を明大校舎内に撃ち込んだ。
日大の学生は午後2時すぎから明大学生会館前で集会を開き、約600人が校舎の再占拠をはかろうと、午後4時すぎ、日大理工学部周辺の路地から明大前の大通りをデモした。
このため機動隊が規制に入ったが、学生たちは会館前の路上に立看板のバリケードを作りブロック塀を壊した破片や牛乳ビンを投げて抵抗した。
午後5時ごろ、機動隊が催涙弾を発射、明大学館内に逃げ込んだ学生を追って同会館になだれこみ、会館内にいた学生126人を逮捕した。
この“市街戦”で駿河台の明大周辺には明大、中大の学生や通行人など約3千人が集まり、“カルチェ・ラタン“に近い状態になった。
とくに明大の学生は学生会館横の11号館と向かいの7号館で4年生が就職予備試験中で、機動隊に「帰れ、帰れ」のシュプレヒコールを浴びせかけた。
機動隊はこれらの学生に向かって催涙銃をかまえて、騒ぎを静めようとしたため、7号館4階からイスを投げ落とすものも出た。
機動隊は催涙弾をこれらの校舎に向けて発射、学生を追い散らした。このほか明大校舎内から投石があったため、機動隊が同大構内に踏み込む騒ぎもあった。(中略)
この日、明大が受けた“災難”は日大の学生がとった行動のとばっちりを受けたわけで、松田孝同学生部長は「この日の警察の行動は大学の自治をおびやかすもので、抗議したい」と警察の姿勢に抵抗する考えを示した。』

学生会館にいた明大生で逮捕されたのは18人、そのうち4人は機動隊に暴行を受けた。いずれも一般学生で凶器は持っていなかった。また、全逮捕者のうち送検されたのは86人だが、拘置されたのは5人だけであった。

この機動隊の学館乱入に対し、同日午後6時すぎから学生会中執及び学苑会(局堯肪羲垢半湘蝶慇孤長との団交が持たれた。学生側から学生の不当逮捕に関し、学生部長としての行動を求められた松田学生部長は同日午後10時半から記者会見を開き、この記事に書かれたような抗議文を発表した。
さらに、学生会中執及び学苑会(局堯肪羲垢箸隆屬如孱慣遑隠監釮冒干悒好箸鯀箸爐茲Τ慊垢某文世垢襦廚箸いζ睛討粒稜Ы颪鮗茲蠍鬚錣靴拭

【時の人 4・14ストに奔走する学生会委員長代行の長善一】
明治大学新聞1969.4.24(引用)
『「学校側から独自の抗議集会を開く旨の連絡があったが、われわれはあくまでも学校側を巻き込んだかたちでの集会に持っていきます」。語気強く言い切った。「とにかく学校側がわれわれと別こに集会をやるようなことがあれば断固粉砕します」抗議集会は全教職員、学生が一体になってやらねば意味を成さないと強調する。
「すぐにバリケードを築いたりして右翼的な反感を買うようなことはしません」。なかなかの慎重論者でもある。』

4月14日、学内各組織・団体は抗議文を発表したが、全学ストを巡って対応が分かれた。
文化部連合会・研究部連合会「不当逮捕に全学ストで起つ」
理科部連合会「この全学ストは学生会の一般学生・クラスを無視したものであり、強く抗議する」
体育会「大学の建造物が破壊された事、多数の学生が逮捕された事に遺憾の意を表すると共に、4.12確約書を無秩序状態の中で締結した学生部当局と学生会・学苑会両中執に対し、断固抗議する。」

4月14日・15日に駿河台の明大記念館で学長との大衆団交が行われ、両日とも会場を埋め尽くすほどの学生が詰め掛けた。
(つづく)

↑このページのトップヘ