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全国学園闘争、青学大編も3回目となる。
今回は、1969年6月の全学バリケード・スト以降の青学大の様子を当時の新聞記事から見てみよう。(写真は毎日新聞から転載)

【要請なく機動隊入る】毎日新聞1969.6.26(引用)
『全共闘(反日共系)が全学バリケード・ストにはいっている東京・渋谷の青山学院大(村上俊亮学長)で、25日午後1時すぎから同大記念館でバリケード・ストに反対する体育会主催の全学集会が開かれた。
これを阻止しようとする全共闘の150人が同1時25分、ヘルメット、鉄パイプで“武装”して同館入口をイスなどで封鎖、同館西側で集会を開いた。
このため、双方の衝突を警戒して学外で待機していた警視庁機動隊200人が同2時15分、学内にはいり、集会中の全共闘学生を包囲、着色液をかけて学生61人を凶器準備集合罪現行犯で逮捕した。
学内にいた千数百人の一般学生は「帰れ」のシュプレヒコールを浴びせ、投石した。
さらに機動隊立入りに反対して学内をデモ行進し、抗議集会を開いた。
大学側は、この日の朝から学内のウエスレー・ホールで緊急学部長会議を開き、衝突の危険が迫った場合、機動隊を導入することも検討していたが、機動隊立入りのときは両派とも大学側に「挑発行為はしない」と約束して集会中で緊迫した状態ではなかったという。
福島杉夫交渉委員長(経営学部教授)は「警察から“学内に入る”と連絡があったため、“もう少し待ってくれ”と伝えに行こうとしたら、入ってきた。要請なしに立入られ、信頼が裏切られた」と語っていた。
このため、大学側は同夕、緊急学部長会議を開き、警察に抗議する態度を表明した。
一方、吉田喜三郎渋谷署長は「事態が切迫していると判断し、はいった。3分前に学部長会議の席に連絡したが、拒否されなかった。もし拒否されてもはいるつもりだった。」
と語っている。
全共闘は20日から無期限ストにはいり、25日に大木院長、理事会との団交を要求したが大木院長が24日夕「団交拒否」を回答したため、25日朝までに青山学院本部、大学本部のある8号館などおもな建物を封鎖した。』

【学長、全学部長が辞任 “話合い路線”実らず】毎日新聞1969.7.5(引用)
『全学封鎖が続く青山学院大で、村上俊亮学長をはじめ恒田文次法学、早川保昌理工、佐竹明文学、土田三千雄経営、柴田敬経済(代理)の全学部長が辞表を提出、4日開かれた理事会で承認された。
辞任の直接のきっかけは、6月25日に機動隊が要請もしないのに学内にはいり、全共闘学生61人を逮捕したことに責任を感じたためとみられる。
村上執行部はことし3月、大木金次郎学長(現院長)からバトンタッチしたあと、全共闘を力で制圧することを避け、学内に大学問題研究委員会を発足させたり、学生と執行部とのパイプ役になる交渉委員会を設けるなど“話し合い路線”で解決に努力してきた。
しかし、大木院長に反発する全共闘の戦術エスカレートと警察力の介入後、全共闘、スト反対の体育会系など左、右双方の学生から突き上げられて退陣に追い込まれた。(後略)』

【青学大の機動隊導入 バリケードを撤去】毎日新聞1969.8.21(引用)
『警視庁は反日共系学生が6月からバリケードで全学封鎖していた東京渋谷の青山学院大学(大平善梧学長)から21日早朝、機動隊の出動要請があり、同朝午前6時半、機動隊員200人を動員、2ヶ月ぶりにバリケードを解除した。
大学法施行以来、都内で機動隊を導入した大学は中大に続いて青山学院が2校目。』

【警備員詰所に放火 検問に反発の学生】毎日新聞1969.10.28(引用)
『27日午後1時半ごろ、東京渋谷の青山学院大(大平善梧学長)正門検問所で、登校した非常勤講師の鈴木武樹明大助教授が、身分証明書の提示をめぐって警備員と口論を始めた。これを見た学生4,50人が警備員を取り囲み、同3時すぎ8号館に押しかけ、2階学長室隣の総務課ドアをけ破って、中にいた大平学長を軟禁状態にして「通行証を撤廃しろ」「大衆団交を開け」などと迫った。
また、興奮した数人の学生が正門わきにある掲示板をこわして燃やし、警備員詰所に火をつけ、木造プレハブ3.3平方メートルが焼けた。
このため、大学側の要請で機動隊約250人が出動、学生に退去命令を出した。8号館にいた学生は大木学長を力ずくで外へ連れ出し、「学長の口から機動隊を帰すようにいえ」と詰め寄ったが機動隊が大木学長を救出、午後5時ごろ構内にいた学生約三千人を校外に押し出した。(中略)
同校では学生に通行証を発行して、10月1日から約3ヶ月ぶりに授業を再開した。しかし学生たちは、通行証の発行や学内掲示物が1ヶ所の掲示板に規制されるなど、大学側の強い態度に反発していた。』

鈴木武樹明大助教授、こんなところで活躍していたんですね。
(つづく)