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連載No85の続きです。
1969年4月14日、明治大学の新学期の始まりの日は、4.12本校学生会館への機動隊乱入、不当逮捕に抗議する異例の全学ストとなった。

東京・杉並区の明大和泉校舎では「全学ストライキ突入」の立看板が並び、新入生は初日から「休講」という事態に直面してキャンパスをウロウロ。私もウロウロしていた新入生の1人だった。
全学ストとはいっても構内に緊張感は感じられず、多くのサークルが出店を出して、しきりに新入生を勧誘している。天気も良く春らしい陽気なので、いたってのんびりした雰囲気だった。
正門付近で行なわれた抗議集会には社学同の赤ヘルを中心に300人近い学生が集まっていたが、私も集会を取り囲む学生の人垣の後ろで、集会の様子を見ていた。
午後、駿河台の本校で「大衆団交」が行われるということで、帰宅する道を選ばず、団交に参加することにした。
この体験が、その後の学生生活を決定づけた。

団交の様子を報じた新聞記事を見てみよう。(写真は朝日新聞から転載)
【“抗議休校だけではダメ”ホコ先、大学側に】朝日新聞 1969.4.15(引用)
『「警官隊の乱入を弾がいする」「不当逮捕に抗議、全学ストを」。
騒ぎの続く東京・神田の学生街でこれまで平静を保っていた明治大学も14日、大学側が異例の臨時休校に踏切り、各種の立看板がたち、学長との「大衆団交」まで始まった。
12日夕、日大全共闘のデモ規制に当った機動隊が学生の逃げ込んだ同大学の新旧両学館に独自の判断で立入り、サークル活動中などの明治大学学生まで多数逮捕したことがきっかけ。
大学側は新学年初日の4日14日を「全学部臨時休講」として抗議の姿勢を示したが、おさまらない学生たちは以前からくすぶっていた学生部廃止などの要求を持出し、15日にも学長との団交を開くなど“飛ばっちりスト”にはいりかねない勢いだ。

明大学生部学生課が14日夜までに調べたところによると、12日夕逮捕された同大学生のほとんどは学館内でサークル活動をしたり、喫茶店で話込んでいる最中だった。
新館地下で練習中の演劇同好会「現世代」の13人(男子7人、女子6人)、旧学館5階で新入部員歓迎会の準備をしていた2部山岳部員2人、新館ロビーにいた女子学生3人など。
また、2部の法律研究会、音楽研、雄弁部などの部室でも、それぞれ部員数人が逮捕されたという。
「現世代」の練習場では、一度機動隊員がのぞいたが、練習中とわかり、引揚げた。
だが、約30分後の12日午後5時40分すぎ、別の数人の機動隊員が「ここにもいた」となだれ込み、学生を連行した、という。
この13人は同夜釈放されたが、「全員の証言が同じだったので、誤りとわかったのでしょう。1人、2人なら、どうなったか」と学生課は驚くばかり。

同学館は周辺の日大、中大を追われた各セクトや日大全共闘が寝泊りしており、12日も多くの日大生が学館内に逃げ込んだため、巻添え逮捕が起ったらしい。(中略)
同大学では、事件後警視庁と神田署に抗議する一方、逮捕学生の即時釈放を要求、職員が実情調査に当っているが「調べ中だといって警察ではなかなか教えてくれないので」と、事実をつかむのに苦労している。

14日午後、同大学記念講堂で開かれた学生集会には約千五百人の学生が集り、中川富弥学長も参加、大学当局の抗議方針を説明した。
だが、学生たちは「警察が公衆便所にでもはいるように何のこだわりもなく大学構内に立入るようでは、自治もなにもない。」と怒り、逆に大学側の追及をはじめ、学生部の廃止、寮、学館の学生管理を要求、「全学封鎖」の声まで出始めている。(後略)』

明大記念館で行なわれた14.15日の「大衆団交」には、明大新聞によると延べ5,000人もの学生が参加した。
学生側は学館乱入・不当逮捕問題が全学的なものであるのに何故学生と教職員一体の抗議集会が開けないのかと迫ったが、平和的に文書・口頭で権力に抗議するという大学側と、権力には受身でなく積極的に行動し、大学側も学生と共に闘えとする学生側の意見は平行線でかみあわず、結論は出なかった。
また、学生部廃止問題や、67年の学費値上げ反対闘争時の諸問題も取上げられたが、意見は対立したまま「団交」は終わった。

学生会中執は4月25日、「4.28沖縄デー」に向けて駿河台記念館に約2千人の学生を集めて「臨時学生大会」を開き、出席代議員の過半数の賛成を得て、26日から3日間の全学ストに入った。
全学ストが可決された後、明大前通りを約500名がデモを行い、記念館正門にバリケードが築かれた。
4.28ストに入った大学は、東大、九大、北海道大、法政、同志社など全国37大学。
4.28当日は、明大、東京医科歯科大に集結した社学同、中核派、日大全共闘、ML派などが御茶の水駅を中心に市街戦を繰り広げ、“カルチェラタン”が再現された。
(つづく)